第4話







「そろそろ双黒がこの世界にやってくるのかねぇ?」
「双黒かぁ…想像もつかねぇな。目も髪も真っ黒なんだろ?ぽっかりと闇みたいに眼窩が開いてるのかな?」
「あわわ、くわばらくわばら…」
「想像させるんじゃねぇよ!眠れなくなるじゃねぇか」

 まるでお化けの話でもするみたいに、酒場の男達は背筋を震わせる。
 尤も、怖いのは怖いのだがまだ実感が湧かないし、傍に仲間達が居る心強さもあって、気がつくと男達は楽しそうにはしゃいだ声を出していた。
 
「なあ、そんな恐ろしい噂がある時に国境なんか渡るもんじゃねぇよ。良かったら、双黒が捕まるまで俺の所にいないか?」
「あらぁ…それって、口説き文句ってことで良いかしら?」

 女が艶っぽくしなを作るものだから、恰幅の良いビルは小鼻を膨らませて興奮した。

「そ…そうさ!なあ、あんた俺の嫁にならないか?俺は頑張って働いて、あんたに綺麗なべべをいつだって着せてやるし、あんたはこの酒場でずっと歌ってくれりゃあ良い」

 《農作業を手伝うことはないのだ》と含みを持たせて歌姫の手を握ろうとするが、楽器を奏でるのに適した大きな手は、するりとビルの手からすり抜けてしまう。

「ふふ…梢で歌う鳥を籠に入れようなんて、無粋じゃないこと?」
「だ…駄目か?」
「そうねぇ…じゃあ、あたしと賭をしましょ?」

 歌姫はビルの気をそそるように紅い唇の縁に指を添えると、徒(あだ)っぽく笑って見せた。

「腕相撲をしてあたしに勝ったら、お嫁にでも姓奴隷にでもして頂戴」

 ヒョーウっ!

 殆ど《合意》としか取れないような台詞に、男達の歓声が上がる。
 当然、婿希望のビルは《ぐわ…》っと瞳を見開いた。 

「あ…ああ、ああ…っ!いいともっ!その賭、乗った!」
「あらぁ…そんなに簡単に乗って良いの?あたしが勝ったら、あんたが懐にしまってる合切袋の中身を全部頂くわよ?」
「構わんさ、どうせ結婚してくれたらあんたに全部貢ぐ金だっ!」
「うふふー。嬉しい言葉ね、あんた…良い子だわぁ」

 歌姫はにっこり微笑むと、ドレスを着替えることもなく無造作に酒卓へと肘をかける。確かに女としては例を見ぬほど逞しい腕だが、ビルはこの地方では有名な膂力の持ち主だ。男が三人がかりで抜けなかった切り株を、一人で引き抜いたという伝説も持つ。

「よーし…行くぞぉ…っ!」
「いつでも良いわよ?」

 バチン…と色っぽく片目を瞑れば、蝶の羽ばたきのように睫が揺れる。

 ドォン…っ!

 勝負は呆気なくついた。
 およそ、酒場の男達の誰もが想像しなかった形で…。

 勢いよく酒卓に手の甲を押しつけられたのはビルの方で、歌姫は余裕のある微笑みを見せながらがっしりと押さえ込んでいる。

「な…な……」
「うふふぅ…本当にあんたってば良い子。あたしが恥をかかないように、わざと負けてくれたのね?」

 まだ衝撃から抜けきらぬビルを開放すると、歌姫は《ちゅっ》と高い音を立てて頬に口吻を与えた。

「な〜んだ、ビル…この姉ちゃんに本気じゃなかったのか?」
「意外性は良かったが…お前、それじゃあ儲けは出ねぇぞ?」

 陽気な歌姫の言葉に、硬直しかけた酒場の雰囲気がまた盛り上がる。
 ビルは唯一人呆然としたままだったが…それでも、言葉を違えることなく懐から合切袋を出すと、惜しむことなく歌姫に捧げた。

「約束通り、全部あんたにやるよ。だが…頼む、約束してくれ。また…いつでも良いから…俺は、待っているから。この酒場に唄を伝えに来てくれ」

 ビルの目は本気だった。
 実直そうなちいさな目に真剣な色を讃えて、一心に歌姫を見詰めている。

「ふふ…本当に良い子だわ、あんた。でも…唄を生業とする流しの女なんかに惚れると、苦労するわよ」
「構わない。二度目の機会をくれるなら、俺はあんたに惚れて貰えるような男になっている」

 ヒューイっ!

 酒場の男達はやんやの喝采を送ってビルを鼓舞させた。

「大したもんだビル」
「なぁなぁ、姉ちゃん。頼むよ…こいつ、こういう真面目な奴なんだ。今すぐじゃなくてもさ、放浪の旅に飽きたり寂しくなった時にはこの村を訪ねてくれよ」
「そうとも、歌姫としてちやほやされるのも良いが、女の幸せは母親になることだって言うぜ?」
「ひととし取ってお肌の曲がり角になったらよ、どうかこの村の名を思い出してくんな」
「そうね…飛ぶことに疲れて梢に止まりたくなったら、いつか訪ねて来ようかしら?」

 綺麗に微笑むと、歌姫は敏捷な動きで楽器としこたませしめた金を荷袋に入れ、酒場の戸口に向かった。

「頼むよ、本当に…いつか帰ってきてくれ!」
「あんたが佳い男になっていたらね」

 振り返りざま片目を瞑ると、歌姫は扉の向こうに姿を消した。
 ビルの良さをもう一言伝えようと気を利かせた友人が、扉を開いた時…そこに、もう歌姫の姿はなかった。

 《まるで本物の鳥のような去り際だった》と、当分の間その歌姫の話は村に伝えられることになる。 



*   *   *




「ふぃ〜…意外と良い金になったな」

 素早く街路脇に姿を消した歌姫は、簪(かんざし)を抜いて柑橘色の髪をぶるりと振り、勢いよく鮮やかな色彩のドレスを脱ぐと、対照的に地味な旅装に着替えた。土色の長衣は腰の部分で二重にベルトを掛け、膝丈の下履きをはき、軽快そうな足元にはブーツを穿いてきっちりと紐で縛る。
 その上からフードのついた薄手のマントをばさりと羽織ると、マントの色は日中と夜間の土壌を足して割ったような色合いなので、自然と背景にとけ込んでしまう。

 腰のベルトには揺れ防止の小紐を掛けた合切袋を繋いで、その中に濡れた藁と小銭を入れた。こうしておくと少々動いても音がしないのだ。
 それは隠密行動を生業とする者達が、当然のこととして身につけている心得の一つであった。

 そう、歌姫とは世を忍ぶ仮の姿…この吟遊詩人の名はグリエ・ヨザックと言い、フォンヴォルテール卿グウェンダルの配下として諜報活動に努める、歴とした男である。

 任務のためには身体を使うことも厭わないが、ビルのように実直な男を不毛な嗜好に引きずり込むことは無意味だし、個人的には実に気持ちの良い性格の彼には、この地方で似合いの娘でも見つけて幸せに暮らして欲しいと思っている。

『ま…旅の謳い鳥のことなんて、どうせすぐに忘れるだろうけどな』

 気を回しすぎたことに薄く苦笑する。
 《そんなことより》…と、ヨザックは思考を巡らせた。

 かつてはルッテンベルク師団に所属していたヨザックは混血魔族でもあり、コンラートにとっても古くからの友人である。

 正直、酒場で流れていた噂話には懐かしさと共に胸を拉(ひし)ぐものも感じていた。
 彼にとって大切な者達は今、彼らの忠誠心や本来持つ能力とは無関係なところで窮地に立たされているのだ。

『畜生…コンラッドの野郎、何処でどうしてやがるかな?』

 彼のことをよく知るヨザックは、馴染んだ大陸発音で友の名を呼んだ。
 シマロンの辺境地にあった混血村でコンラートの父ダンヒーリーに拾われたヨザックは、殆どの行動様式や嗜好を躊躇いなく魔族のそれに変えていたが、コンラートの呼び名だけはなかなか馴染んだ癖が抜けないのだ。

 ヨザックはグウェンダルの命令でコンラートの動向を見張ることになっていたのだが、彼があまりにも鮮やかな手法で国境越えを果たしてしまったために追跡できなかったのである。
 その後の足跡についても手がかりを殆ど残していないせいで、捜索は難航している。

 あまり優秀すぎるのも考え物だ。

『くそ…こんなことなら恥を忍んで事前に連絡を入れときゃあ良かったかな』

 国外に出てしまう前なら、まだヨザックにも様々な連絡方法があったのだ。
 コンラートの能力を甘く見ていたわけではないが、正直苦戦している。

 こうして歌姫に身をやつして酒場を回っているのも、軍資金集めのためというよりは情報収集を目的としているくらいだ。
 だが、今のところめぼしい情報は得られていない。

 あまりに単調な操作が続いているせいか、普段は豪放なヨザックも少々気が弱くなっている。  

『もしかして、世界中の占い師の連中が言ってることは全部ガセなんじゃないだろうな?』

 それは殆どの民にとっては最も気楽になれる想像であったろうが、事態の当事者に連なる者にとっては慄然とするような疑惑であった。

 グウェンダルがコンラートを国外に脱出させ、我が身を虜囚としたのは弟に対する信頼もあったろうが、その選択はそもそも、《異世界から双黒がやって来る》ことを大前提としている。
 もしもこの前提が覆され、待てど暮らせど双黒がやって来なければ…グウェンダルは永遠の虜囚となり、コンラートは彷徨い人となるしかない。

 かといって、双黒を偽造しておいてその後本物がやってきた場合、またややこしいことになる。
 最初に偽造した手前、その双黒を追跡しにくくなるし、これを捕らえても説得力が無くなるのだ。

『双黒が現れない限り、俺たちはにっちもさっちも行かないってわけだ』

 早く現れて欲しいが、現れたら現れたで確実に仕留めなくてはならない。
 万が一人間世界の王に浚われるようなことがあれば、事態は更に恐ろしい方向へと進むこともあるのだ。

 人間世界ではコンラートが双黒を操って、人間のために《禁忌の箱》を使うなどと言った噂が流れているようだが、これは無知ゆえの妄想に過ぎない。
 これはコンラートに対する信頼だけで言っているわけではなく、そもそも、荒ぶる原始神たる創主の力など、人間や魔力もない混血が操れるようなものではないのだ。いや…少々魔力を持っていたとしても怪しいものだ。

『それが出来るんなら、眞王陛下がとっくにやっておられるさ』

 ふぅ…と、知らず深い溜息が出た。
 
『眞王陛下が以前のように眞魔国を見守ってくれりゃあ、こんなことも無かったのかな…』

 無い物ねだりなど本来はしない男なのだが、ついつい愚痴りたくもなる。
 
 かつて眞魔国では代々の魔王陛下は眞王陛下が決定していた。
 現在の魔王ツェツィーリエまでは確かにその方法で決められていたし、その他の国事に関わる重要事項も必ず眞王廟におわします眞王陛下にお伺いを立てて決めていた。

 ところが、ある時期からひとつの噂が眞魔国に蔓延(はびこ)り始めたのだ。

 曰く、《眞王陛下は既に眞王廟にはおられず、全ての決定は言賜巫女ウルリーケの独断によって決められている》というものであった。

『これも、最初は噂だったんだよな…』

 何しろ噂の大元が信仰対象に近い眞王陛下の存在に関わることだけに、そのまま市井の間を流れる程度であれば、さほど大問題にはならずに収束したかも知れない。
 だが、ここで噂の発信源が問題になった。

 強くその噂を主張したのが、当時眞王廟の巫女であったアルザス・フェスタリア…そう、後年コンラートを告発することになる少女だったのである。

 元々、フェスタリアは巫女になる以前から強い予見力で名を知られた少女だった。《これは言賜巫女ウルリーケを越える人材になるのではないか》と専らの評判であったが、この事件をきっかけに両者の間には深い溝が生じることになる。

 ウルリーケは原則として、《巫女は予見したことを、断定された未来として口に出すことは出来ない。我々の役割はあくまで助言に留まるものである》という基本方針を貫いており、国内外の国政に関わる事柄についても未来に起こることを国の中枢に明示することはなかった。

 だが、フェスタリアはこの態度に苛立ちを覚えた。

『起こりうる災厄を食い止めるために、予見の力を持つ者が託宣を下すのは当然のこと。ウルリーケ様はご自分の予見力に自信がないから明言されないだけだわ』

 そう公言して憚らず、有力な貴族に求められるままにフェスタリアは予見を授け、全て百発百中の確率で当て続けた。

 こうなれば当然、ウルリーケの方が分が悪くなってくる。
 あくまでも頑なに予見を自粛し、《眞王陛下の勅令》という劇的なお触れも出さない眞王廟とは、一体何のための存在なのかと騒ぎ立てる者が出てきた。

 これを問題視したウルリーケはフェスタリアを謹慎処分にしたが、彼女はこれに反発して眞王廟を辞した。

 そして…この事こそが眞王廟の権威にとどめを刺すことになるのだ。

 もはや何の遠慮もなくなったフェスタリアは、胸を反らして《我こそが正義》と主張し、《眞王廟の巫女達は、国政に何ら益するところがない無為無能な集団である》とこき下ろした。
 直接眞王に対して侮蔑を与えたわけではなく、眞王廟に所属する巫女達を批判する形を取ったのだが、殆どの民がこれを、《眞王廟は崇拝に値しない存在である》と認識するようになった。

 それを証明するように、最初は《あのようなことを公言して、罰が当たりはしないか?》と言われていたフェスタリアは、何ら身を害されることもなく、悠々と暮らしていたのである。

『罰など当たるはずがないわ。だって、私が言っていることが最も正しいんですもの』

 堂々たるフェスタリアの言葉を信じるかどうかは聞き手の好み次第であったが、少なくとも…この生意気な少女を罰する力が、今の眞王陛下にないことだけは確かだった。 

 国政の主体は《眞王陛下》から《魔王と十貴族会議》へと比重を変え、重要な決定事項について眞王廟に報告こそされるものの、全て事後報告の形を取るようになり、眞王廟の権威は完全に失墜した。

『やれやれ…ウルリーケのお嬢ちゃんはこの事態をどう考えてるのかね?』

 眞王廟からの通達は全く為されていないのか、あるいは宰相辺りが握りつぶしているのかは不明だが、全く民の間には流れてこなくなった。
 おそらく《次代の魔王指名》についても、眞王廟からの通達は決定力を持たなくなるのではないだろうか。

『こういう時にゃ普通、魔王様が眞王陛下に代わって決定権を握るんだろうが、あの愛くるしい踊り人形陛下にはそんな芸当は不可能…そうなりゃ、どうしたって宰相シュトッフェル主導の元、十貴族会議で全てが決まるわけだ』

 眞魔国は一体、この先どういう方向に流れていくのだろう?
 他国のように世襲制になるのか?
 だとすれば、第一王位継承者はグウェンダルの筈だが、シュトッフェルは何としてもこれを阻止しようとするだろうし、コンラートを庇った彼は《高貴な囚人》として拘束される身だ。

 不条理な形で命を奪われる危険性もあるのではないか。
 こんな時こそ、傍で護って差し上げなくてはならないのではないか…。
 ヨザックの心は捩れ、首筋の毛がちりちりするような焦燥感を覚える。

 しかし…思考の淵に沈みかけた心を、理性がぐいっと引き上げた。
 
『いけねぇ…うだうだと考えすぎだ。思考の材料として頭の何処かに置いとくのは良いが、こいつを中心に据えると手も足も出なくなる』

 今はヨザックに出来ることを、着実にこなしていくしかない。
 何しろ、彼は友人の姿すら見つけ出せずにいるのだから…。

 まずはコンラートを探し出すしかない。
 ヨザックは腹を据えると、次の街を目指して脚を踏み出した。  



*   *   *




 幼馴染みの心配と苛立ちを知るよしもないウェラー卿コンラートは、丁度同じ頃…途方に暮れていた。

『何をしているんだ俺は…』

 コンラートは疾走しながら、心の中で呟いた。

 脇には華奢な体躯とはいえそれなりに生育した少年を抱え、後ろから迫ってくる生物《スクルゥー》をかわし続けている。
 スクルゥーは獲物の体温や動きを察知して襲い、丸飲みしてから数週間掛けて吸収していくという。獲物は生きたまま少しずつ身体を溶かされ栄養分にされるから、切断面から覗いた内臓の中でも、先に捕まっていたと思しき小型生物が皮膚や筋肉が半分解けた状態ながら息をしているのが分かった。

 スクルゥーはそれほど頻繁に姿を見かける生物ではない。湿気の具合が丁度適した大型の樹海、それも《ミル》と呼ばれる低木がある樹海にのみ住んでおり、今コンラート達が居るのが、最大の生息地であるバマルサード王国と大シマロン国境のサマナ大樹海である。
 スクルゥーは個体ではそれほど強くはないが、個体行動を取る割に何らかの連帯意識があるらしく、一頭が殺されるとそれを察知して集団で襲いかかってくる。
 また、触手が厄介で殺さずにやり過ごすのも難しい。
 
 このため、各国の軍隊は《サマナ大樹海に双黒が現れる》という予見を受けて包囲網を敷いたものの、他国との牽制合戦やスクルゥーの始末に困って、新たな動きがあるのを待っている状態だ。いずれの国も、他国が先鋒を務めて双黒を得たところを奪取するつもりで居るのだろう。

 コンラートは以前この地域の農園警備として働いた時に、樹海を交通路として用いる際の注意事項(スクルゥーの嫌う薬草の汁を肌に塗りつけておくことなど)を得ていたから、軍隊の目を避けて樹海内の捜索が出来た。

 シュル…っ!

 また背後から触手が伸びてくると、少年が慣れない手つきながら、どうにか手にした短刀で触手を断ち切った。
 
 少年は真っ青な顔をしているが、懸命にコンラートの脚を引っ張らないようにと周囲に気を配り、短刀をふるい続けている。おかげで、身体には赤紫色の体液が飛び散って凄惨な有様だ。

 その姿を《可哀相》と感じる心を、コンラートはすぐさま封じた。

『こんな面倒な《荷物》など、生きて運んだところでしょうがない。早く殺して、首だけを缶に収めてしまえばいい』

 チャプ…

 荷袋の中の大きな缶が揺れて、水音が鳴る。缶の中には腐敗を防ぐ液体が密封されており、酷く重いと感じられた。
 これは、別れに際してグウェンダルに持たされたものだ。

 《双黒の首を落とし、眞魔国に持ち帰れ》…兄はそう厳命して、自ら虜囚の身となった。

 コンラートを救うために…。

『兄さん…待っててくれ…!必ず、すぐに首を落とすから…!』

 自分に言い聞かせるように頷くと、コンラートは極力少年を見ないようにした。
 愛らしい姿を目にすれば、決意が鈍りそうだったのだ。

 コンラートは眞魔国を脱出してからというもの、ひたすら双黒の少年を捜して世界中を放浪していた。
 流しの傭兵や護衛をこなして軍資金を稼ぎ、名のある占術師や情報屋が居ると聞けば慎重に接触した。彼らが有能であればあるほど少年の所在と同時にコンラートの存在も見抜いてしまうから、原則として距離を置いて仲介人を雇った。

 だが…探しても探しても、耳にするのは《間もなくやってくる》との情報だけで、一体何時、何処に現れるのか全く掴めなかった日々は、コンラートを苦悶させた。

 永遠に見つからずに彷徨い続け、その間に兄が謀略によって殺害される夢を何度見ただろう?
 《兄上…っ!》…寝起きざまの絶叫が、喉に張り付いて何時までも拭えない…。

 皮肉なことに、最も正確な情報源となったのはコンラートをこのような苦境に追い込んだ張本人、アルザス・フェスタリアであった。
 彼女が国内外に向けて発信する《禁忌の箱》や《鍵》に関する情報は精緻を極めていたから、コンラートは貴重な情報源として活用してはいたのだが、自分自身の居場所も広報されることは、一つ所に腰を据えられないことを意味していた。

 《匿ってあげるから、ずっとここにいて》と涙ながらに懇願する女(時には男)を振り切って、ぬくもり始めた居場所をすぐに飛び立たねばならなかった。彼らの誓いを疑うわけではないが、コンラートを守り抜く力を持つ者などいないのだ。

 コンラートを捕らえようとする者は、眞魔国の兵であれば幽閉か処刑を目的としていたし、野心家の人間国家ではあれば《禁忌の箱》を操る為に手に入れようと必死になっている。
 また、そこまでの熱意はなくとも、いずれかの国に売って金と信頼を得たいと願う小国は多かった。

 国家権力に踏み潰される悲哀を、自分に愛情を注いでくれた人たちにまで味合わせたくはなかった。

『この子が…俺の失脚と孤独を生み出した張本人なのか』

 姿を目にするまでは、《双黒》とは明確な憎悪の対象だった。
 何か悪しき意図を持ってこの世界に現れ、呪われた《禁忌の箱》を開こうとしているのだと信じていた。そんな者の片棒など、決して担ぐものかとフェスタリアの託宣を唾棄していた。

 なのに…

『……どうして、もっとこう…《悪そう》な姿をしていてくれなかったんだ?』

 《怪異であれ》とまでは言わないが、せめて妖しいほどに美しい女性とか男性の姿で誘惑したり、言葉巧みに協力を取り付けようとするのであれば鼻で嗤って殺せたのに…。
 どうしてこうも無力な少年の姿などしているのだろうか?

 しかも、スクルゥーに襲われている所を見つけ出し、《丸飲みにされては証拠が残らなくなる!》と慌てて救ってしまったのが拙かった。
 少年はコンラートを信頼しきって、にこにこと嬉しそうに笑うと《絶対的な庇護者》に対する無防備な眼差しを送ってきたのである。

 膝で丸まる仔猫を絞め殺すくらい、心理的負担の大きな事態になってしまった。

『あるいは、双黒とは俺自身自覚していない弱点を突いてくるのかも知れない』

 男に迫られることはあっても、コンラート自身には男色の趣味はない。
 ただ、その分純粋に若い少年兵を労い、護ってやりたいという気持ちはあったし、弟を幼い時分に面倒見ていたせいか、手の掛かりそうな少年ほど可愛がりたくなる。

 その庇護欲を突くためにこのような姿をとっているのなら…予想以上に双黒とは油断のならない存在なのだろう。

『取り込まれてたまるか…!』

 そう思うのに、触手に小型の獣《キトラ》を奪われて必死で短刀をふるう少年を見ると、つい長剣を払って触手を断ち切ってしまう。

 そう、このキトラも問題だった。
 キトラは栗鼠と猫の中間のような姿を持つ小型生物で、スクルゥー以上に希少とされる生物だ。毛皮が美しいことから乱獲させたせいで数を減じてしまったとも言われているが、元々生息地も限られているらしい。

 キトラは原則として、警戒心が強く滅多に人には懐かない。
 だが、どうしたものか…この樹海のキトラ達は少年に強い好意を示し、天敵であるはずのスクルゥーに対して攻撃さえして見せたのだ。

『キトラはの、《自然界の遣い》とも言われておるのだよ』

 この地方の老人が、そう呟いていたのが脳の何処かに引っかかった。
 キトラは自分達の住む領域を侵す人間を嫌っているが、ごく稀に強い好意を示すことがある。それは、自分達に益する…つまりは、里山などの自然環境の手入れを行っている者を見分けているせいなのだと。

 だが、少年は先程この世界にやってきたばかりだ。何もない空間から突然少年の姿が《発生》する瞬間を、コンラートは確かに目にしたのだ。キトラが少年を敬う理由が分からない。

 世界を滅ぼす《禁忌の箱》を開くのだから、この少年のもたらす災厄は、人間だけでなく地上に住まう生物全てを襲うはずなのに…。

「チィ…っ!」

 触手から救い出したキトラを《チィ》と呼んでシャツの中にしまうと、少年はコンラートを見あげて何か言った。 
 先程から少年が何度も繰り返している言葉は、おそらく《ありがとう》を意味するものなのだと思う。緊迫した状況だというのに、一瞬にぱりと笑ってコンラートに謝意を示すのだ。

『これが…俺を取り込むための演技だというのか?』

 妖しさや愛らしさを自覚して、それを利用しながら生きる徒花(あだばな)達をコンラートは掃いて捨てるほど知っている。だが…その誰一人としてこんなにも健やかで純粋な…澄み切った笑顔を浮かべる者などいない。

 混じりっけのない好意。
 計算のない笑顔…。

 そんな開けっぴろげな感情を、憎むべき双黒が持っているはずがない。

『くそ…っ!』

 スクルゥーに追われながらでは、思考がまとまるはずもない。
 コンラートはそう自分に言い聞かせると、スクルゥーの群れに向き直って長剣を構えた。

 とにかくスクルゥーの数を減らして、各国の包囲網が手薄な場所から少年を連れて脱出して…それから落ち着いて考えよう。


 腹を据えると、コンラートは銀の光を弾く剣で襲いかかるスクルゥーを両断していった。





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