第39話



      

 重厚なカーテンを開いて天を見上げたウルヴァルト卿エオルザークは、ちらほらと降りかかってくる白い切片に気づいた。曇天の中にはらはらと散る白は、どこか心細げに見えた。
 寒いと思ったら…今年初めての雪がこの王都にも降り始めたらしい。
 中央でこうなら、きっと北方に位置するヴォルテール領ではかなりの積雪が見られることだろう。

『エリオルにも教えてやろう…』

 ヴォルテール領の屋敷で療養している弟を思い出したときだけ、久しぶりに楽しい気分になった。弟は幼い頃から色んな事を我慢しすぎるたちで、あまり感情を表に出す方ではないのだが雪だけはよほど好きらしく、特に初雪の頃には楽しそうに空を見上げている。

 家庭教師に雪の結晶を見せられてから、全ての雪粒の中に様々な形の結晶を思い浮かべるのが楽しいのだという。

 エリオルは左目の視力と眼瞼を失い、大きな傷跡が眼窩周囲に残ってしまったが、本人はそれほど気にしていないようだ。

 ただ…一点、心の問題だけが気がかりだった。

 衝撃的な事件に巻き込まれたことで世を儚んでいるからではない。
 むしろ…あのような目にあってもなお、強く、清くあり続ける心こそが心配なのだ。

『この命は、あの時失われている筈のものでした。こうして長らえた以上、命を賭けて恩義をお返ししたいと思います』

 その気持ちは同根の性格を持つエオルザークにも、痛いほど分かる。
 分かるが故に心配でもあった。

『以前に比べれば、コンラート閣下を取り巻く状況は《全てが敵》というわけではない。だが…そうであればこそ、公然と味方であることを主張することには危険を伴うだろう』

 《地の果て》を双黒と共に封じたウェラー卿コンラートの行方はようとして知れない。その間に十貴族を中心とした面々は幾度も論議を重ねたが、解決の糸口が掴めるどころか日増しに混迷と対立の度を深めているようにさえ思える。

 それに…もう一つ心配なことがある。

 エリオルが言う《恩義》が、どうもコンラートや双黒だけに向いているわけではないようなのだ。流石に明確な言葉として聞いたわけではないのだが…どうもエリオルは、自分が唯一人孤立した状況下で庇ってくれた《人間》にも恩義を感じているようなのだ。

 こちらはより深刻と言えるだろう。

 よりにもよって、その対象は小シマロン自治区カロリアの領主…正確には、領主の妻であって相続の権利を持たないフリン・ギルビットなのだ。まだしも一介の市井の民であれば、秘密裏に礼品等を送ってやることも出来ようが、フリンが相手ではそうも行かない。

 小シマロンがカロリアに対して新たな罰や指示を出した形跡はないが、相続権を持たない領主を据えている事に対しては遅かれ早かれ指摘が入るはずである。人間であり、所属する国家にあっても正当な領主として認められていないフリンを支援することは、眞魔国と小シマロンという二つの国家に対して喧嘩を売るようなものだ。

『何か、良い方法はないだろうか?』

 エオルザーク個人としては、エリオルの意志を尊重してやりたい。何しろ、エオルザーク自身カロリアの惨状を目の当たりにした者として、あの土地を捨て置くことには忸怩たるものを感じていたのだ。
 
 自治区とは名ばかりの植民地で、若くして夫を亡くした女が我が子のように愛する若者達を戦地から取り戻そうと、なりふり構わず策を尽くしていたのだと聞けば同情も沸くし、エリオルを誘拐した上に、恐るべき実験に用いようとした小シマロンには強い怒りも持っている。

 …だが、同情だけで全てが解決できるわけではない。

『…どうにも、私には荷が重すぎる…』

 ふぅ…と吐き出した息もえらく重たくて、エオルザークはくるくると肩関節を回してみた。首筋も肩も酷く強張っており、疲れの度が強いことを自覚させられる。騎馬での行軍であれば一週間やそこらでは早々疲れないのに、精神的な負担となればここまで消耗するものか。

「エオルザーク閣下、どうぞお入り下さい」
「うむ…」

 背後で扉が開いて年老いた侍女が促してくると、エオルザークは卓の上に載せていた木の箱を両手に抱えた。

 重いと言えば…こちらも極めて重い。
 重量的な意味ではない。精神的に…酷く気が滅入るのだ。

 この木の箱に収められているのは、ウェラー卿コンラートの左腕である。

 《地の果て》を封じたその場所に残されていた腕は、当初表面が完全に炭化しているかに見えた。身につけていた衣服が燃えていたのだから当然だ。
 しかし…せめて多少なりと見目を整えようと濡れた布巾で拭ってみると、ぼろぼろと表面の黒ずみが落ちて元の素肌が現れたのだ。更に、断端を洗うと折れた骨幹の白い骨質や、脂肪を含んだ黄色骨髄…神経の断端までが生々しく現れた。特に不気味だったのは、ぽかりと開いた血管に血液が満ちているにもかかわらず…一滴も零れなかったことだ。
 
 エオルザークはぎょっとしながら、その怪現象が如何なる意味を持つのか考えた。

 これは、肉体的特徴から見てコンラートの腕であることは確かである。それが、《地の果て》に反応を示すのは何故だろう?エリオルやゲーゲンヒューバーが反応を示した以上、鍵となる血筋はヴォルテール家で間違いないというのに…。

 酷く嫌な予感がした。

 とてもそのまま腕を放置しておくことなど出来ず(元々、最悪の場合は遺品となるであろう腕を、グウェンダルのもとに持って帰るとは決めていたのだが)、すぐに冷たい水袋を詰めた木箱に収めると、厳重に封をしてエオルザークの管理下に置き、眞魔国に戻ってきた。

 この腕の怪現象については、実はまだ摂政にも十貴族の面々にも報告はしていない。例外的に伝えたのはグウェンダルの代行をしているフォンヴォルテール卿アイオスのみだが、彼も《あまり広い範囲に伝えぬ方がよいだろう》と同意してくれた。

 彼らが推測しているのは、この腕が《地の果て》とは異なる箱…おそらくは、《風の終わり》の鍵なのではないかということだった。

 《禁忌の箱》に関する伝承は、眞魔国内では極秘とされている上、紙が開発される以前のことだから詳細な情報は何も残されていない。ただ、辛うじて語り部達が伝えるところによると、鍵の中でも《風の終わり》のそれは少々特別な仕様を持っていたらしい。自由に吹き渡る風は形を留めぬものだから、他の箱に対しても何らかの影響を与えるというのだ。

『…ということは、あの恐るべき実験は…下手をすればもっと悲惨な状況を生み出したかもしれないのか』

 エリオルとコンラートという、《地の果て》にとっては不完全ながら、それぞれに反応を示す鍵が揃っていたのだから、場合によってはもっと激しく箱は開いていたのかも知れない。一時はエリオルごとコンラートは《地の果て》に捕らえられていたのだから…。

『だとすれば、この鍵はなんとしても疎かには出来ぬ。しかるべき処理をして、破壊し尽くしてしまわねばならないだろう…』

 とはいえ、その方法がエオルザークには分からなかった。だから眞魔国に持ち帰り、眞王廟に伺いを立てたのだ。
 ところがどうしたものか、眞王廟は全く対応してくれない。事が事だけに詳細を伝聞することも出来ないので、とにかくウルリーケに直接会わせてくれと交渉しているのだが、全く応じられないのだ。

 こんな事は初めてだ。 
 眞王廟は男子禁制とはいえど、正式な手続きを取れば巫女に会うことは可能だ。忙しい時期であったとしても、いつ頃面談できるかくらいはすぐに判明するはずである。

 それが、今回に限って何故駄目なのか。

『あの噂…恐ろしいことだが、やはり信憑性があるのだろうか?』

 信じたくないことだが、現在まことしやかに囁かれている噂によれば、眞王廟の巫女達は完全に眞王陛下のお言葉を受理することが出来なくなった上、何やら妖しげな光に包まれて眞王廟から一歩も出てこないというのだ。食事だけなら願掛けのための断食ともとれるが、厠に行く者までが一人もいないとなれば…これは異常としか言いようがない。

 無礼を覚悟で突入すべきかどうか、エオルザークは考え倦(あぐ)ねていた。

 カッカッカッ…

 靴音を響かせて石造りの廊下を渡っていくと、見覚えのある扉が見えた。
 あそこに、エオルザークがこの状況下で唯一頼みとする男がいるのだ。

 フォンヴォルテール卿グウェンダル。
 こうなったら、なんとしても彼を俗世に連れ戻さねばならない。

 実のところ、もうグウェンダルが北の塔に軟禁される理由はないのだ。
 《もう》…というか、そもそもグウェンダルにここに入れとは誰も命じていない。コンラートを幽閉することが決まっていたところに、グウェンダルが《勝手に》入ったようなものなのだ。

 その上、先日の十貴族会議の席で摂政シュトッフェル自身が《いい加減連れ出せ》と告げたこともある。実際問題として、煮詰まりきったこの状況を打開する英才として、グウェンダルに頼りたいというのが本音だろう。

 ところが、グウェンダル自身は《エオルザークの報告を聞いてから考える》と発言して自主的には出てこない。
 当初はエオルザークがグウェンダルと二人きりの状態で対面することを渋っていたシュトッフェルも、業を煮やして許可を出してきた。
 《どうあってもグウェンダルを連れ出せ》という厳命付きで…だ。

 はぁ…と、本日幾度目になるか分からない溜息を漏らして、エオルザークは扉を叩いた。

「入れ」
「は…っ!」

 威儀を正して室内にはいると、グウェンダルはここ最近身につけていた部屋着ではなく、既にヴォルテール軍の制服に着替えていた。襟章は未だにエオルザークが最高指揮官のそれを身につけているが、そんな物無くとも唯そこに立っているだけで、彼は《命じる者》の威迫を備えている。

 エオルザークは久方ぶりに対面したグウェンダルの、彼らしい様子に…そんな場合ではないと知りつつも嬉しさを隠せず、何時にも増して端然とした敬礼をする。

「お元気そうで、何よりです」
「卿もな。危険を伴う遠征、ご苦労だった。弟君の傷も、具合は良くなってきたろうか?」
「命は長らえておりますし、精神は侵されておりません」
「ふ…そうだな。それが何より重要なことだ」

 暖かな交歓をいつまでも続けていられたら楽しいのだろうが、そうも行かない。エオルザークは腰を落ち着けると、耳に痛い報告もせざるを得なかった。
 エオルザークが耳目で確認してきたことを一通り説明すると、いよいよ持参してきたものを見せねばならなくなった。

 カタリ…。

 木箱が開けられると、身につけていたのだろう衣服の袖は完全に炭化しているのに、皮膚は生々しく残された腕が出てくる。つい先刻千切られたばかりに見える腕が、もうとっくに腐敗しているはずの時間を過ごしているなどと誰が思うだろうか?

「これが…コンラート閣下の左腕です」
「…そうか」

 グウェンダルは暫くの間…黙して左腕を見つめていた。
 無表情なその面から、千切り取られた弟の腕に対してどのような感情を持っているのかは伺えない。

「…エオルザーク。この腕のことはアイオス以外には語っていないのだな?」
「はい、閣下」
「基本的には懸命な判断ではあったが、フォンクライスト卿ギュンターには相談すべきだったな」
「は…。閣下の盟友であられるからですか?」
「それもある。だが、それ以上に…ギュンターは古文献に通じた考古学者の側面があるからな」
「なるほど…それでは、早速詳細をお伝えしてきます!」
「私も同行しよう」
「…っ!閣下、それでは…」
「ああ…。そろそろ、潮時だろう。私もこの塔から出るつもりだ。我が伯父殿もそう命じておられることだしな…」

 笑みが皮肉げなのは、伯父であるシュトッフェルの無能と下劣さを何より嫌っていることと、ここを出る以上はルッテンベルク軍に何らかの措置を下さねばならないからだろう。

 そう…。そもそも、グウェンダルが強く求められてもここから出なかったのは、ひとえにコンラートの帰還を信じ、彼が戻ってくるまでの間ルッテンベルク軍を解体させず、ウェラー領を維持させるための手段であったのだ。

 それが、コンラートが約束を違えて双黒を守護していたこと、また、コンラート自身が失踪したことで方針転換を余儀なくされている。

 しかし、そういえばその事実は既にエオルザークが鳩文書でも伝えていたことだ。それが何故、この時期まで決断を遅らせることになったのだろうか?

「《もっと早く決断してくれれば》…そう思っているのか?」
「失礼ながら」

 心の通じている者同士、言葉をぼかしても仕方がない。指摘されると、エオルザークは率直に疑問を口にした。

「ここから出ることは早々に決断していた。だが、私は暫く観察したかったのだ。あの連中がこの国の行方をどう考えているのか…な」

 《あの連中》とは、フォンクライスト卿ギュンター、フォンウィンコット卿オーディルを除く十貴族の面々だろうか? 

「エオルザーク、卿に最も積極的に《禁忌の箱》について聞いてきたのは誰だ?」
「はっ!それは…摂政殿であります」
「ふ…む。やはりな…。卿は決して、コンラートの左腕のことは摂政には話していないのだな?」
「自国の摂政にこのような大事を秘すことに、忸怩たるものを感じはしましたが…。確かにそうです」
「それで良い。まあ…知ったとしても、腕が《風の終わり》の鍵であればまだしも大事には至らないかも知れないがな…。あの箱は現在、大シマロンの所有するところになっていると聞く。幾ら我が伯父殿でもあれを大シマロンに引き渡そうという意図まではあるまい」

 それは引っかかりのある言い方だった。

「まさか…閣下は摂政殿が《地の果て》を開くとお考えですか?」
「薄々と推測はしていた。だが…焦れた伯父殿が、《ルッテンベルク軍はもとより、ウェラー領にもお前が信頼に足ると思う者を長として据えるが良い》と言い出した時に、確信した。あの男は眞王陛下の威光が薄れたことを察知して、後ろ盾を得るために縋ってはならぬものに縋ろうとしている」
「そ…そんな…っ…」

 あまりといえばあまりに大胆な推測に、エオルザークは全身の血の気が下がっていくのを感じた。

 確かに現在のシュトッフェルの地位を裏付けているものは、妹であるツェツィーリエが《眞王の指名した魔王》であり、その魔王陛下が信任した摂政であるからに過ぎない。アルザス・フェスタリアの予見や、ここ最近の眞王廟を巡る不穏な噂が確定されたものになり、眞王陛下の威光が完全に消え去るようなことがあれば、彼の権力など薄羽蜻蛉のように儚いものになってしまうだろう。

 だからと言って…《地の果て》を開く等、カロリアの惨状を目の当たりにしたエオルザークに言わせれば、気狂沙汰としか思われない。

「…眞魔国が、地獄と化しますぞ!?しかも、カロリアの時よりもっと悲惨なことになる…。今、この国にはコンラート閣下も双黒の君もおられないのですから!」

 期せずして、エオルザークの語調には双黒に対する敬意の念が滲む。未だに双黒を《禁忌の箱》を開く悪魔と考える者は嫌悪の滲む語調で《双黒》と呼び捨てにするが、彼を救世主と見なす者は敬愛を込めて《双黒の君》と呼ぶのだ。

「馬鹿というのは、身に過ぎた力を自分が扱いきれると思うものだ」

 唾棄するような語調には、心底から溢れてくるような軽蔑の色があった。

「伯父殿は私に向かってこう言ったのだ。《叡智優れたるお前に、どうしても力を貸して貰いたいのだ。箱を検分して、意見を出しては貰えないか》とな」
「……っっ!!摂政殿は、グウェンダル閣下で実験をなさるおつもりなのですか!?」

 最初の一瞬にはあまりのことに呆気にとられ、次いで…沸き上がってきたのは何とも言えぬどろどろと灼熱した感情だった。
 愚かにも程があるだけでなく、それは肉親としてあまりに情のない発想ではないか?

「断固として、お断り下さいませ…っ!」
「いや、私は《地の果て》の検分には参加しようと思う」
「危険です…っ!摂政殿は政治に関しては無能もいいとこですが、己の保身に関する権謀術策にかけては、閣下よりも卓抜した能力をお持ちです。失礼ながら…閣下はこのようなやり口に掛けては真っ直ぐに過ぎるきらいがあります」
「……エオルザーク、卿に言われるとは心外だな」
「同根の性格を持てばこそ、分かることもあります!」

 グウェンダルはおそらく、シュトッフェルに乗せられた振りをして《地の果て》をより安全な場所に移すつもりでいるのだ。だが…あのシュトッフェルがその可能性を考えていないはずはない。

 愚かではあっても、彼はこのような権力を左右する情報・物資については極めて慎重な取り扱いを行うのだ。

 暫くの間、エオルザークは言葉を尽くしてグウェンダルの説得を試みた。しかし…結局押し切られてしまったのは、《逃げていれば時間稼ぎは出来るかも知れないが、より怪しげな手管を使われる可能性がある》という発言が説得力を帯びていたからだ。

 宴席で薬を使われるか、夜陰に紛れて誘拐されるか…獅子身中の虫が、正面の敵よりもたちが悪いのはこういうところだろう。

「話は終わりだ、エオルザーク…。《地の果て》の検分にはお前も付き合って貰うことになる。…ご苦労だがな」
「《ついて来るな》と監禁されても、牢番を殴り倒してお供します」
「ふ…」

 久しぶりに口元に淡い微笑みを浮かべると、グウェンダルはエオルザークの労をねぎらってから帰らせた。
 その際、コンラートの腕を詰めた木箱はグウェンダルの管理下に引き渡された。

 退室したエオルザークは、わざと大きな足音を立てながら部屋を去った。
 きっと…グウェンダルは部下の耳に聞こえるところでは、感情をほとばしらせることが出来ないと思ったからだ。



*  *  * 




 一人残された部屋で、グウェンダルは静かに腕を眺めた。

 手にとって箱から取り出してみると、しなやかな筋肉の筋が滑らかに動いて、その先に弟が繋がっているのに、何かの魔法でも掛かっていて姿が見えなくなっているように感じた。

 だが…そうではないことを、氷のように冷たい温度が知らしめる。
 これは、生きている者の身体ではない。どんなに生々しく保存されているとしても、切り離された肉体に過ぎないのだ。

 ここに、ウェラー卿コンラートの魂はない。
 そのことが…胸を抉ぐられるように辛かった。

「馬鹿め…っ」

 手に向かってぽつりと呟く声は情けないくらいに震えていたが、エオルザークの軍靴の音はもう遙か遠くにあるから…きっと、聞こえたりはしないだろう。

 爆ぜる怒気に煽られたように、グウェンダルの語調は荒々しく乱れてしまう。

「馬鹿め…。何故、《禁忌の箱》などという物騒なものに近寄ったのだ?エリオルには気の毒だが、発動を始めた《地の果て》から救い出せる保証など何もなかったのだろう?双黒にしてもそうだ!聞けば、可愛らしい少年だったというではないか。どうせお前のことだ…可哀想に思って、同情してしまったのだろう?何故…お前はいつもそうなのだ…っ!」

 激しい語調が、不意に噎び泣くような声に変わってしまうのは、想像の中であっても…いや、そうであるからこそ、これ以上弟を責め立てたくなかったからだ。

「お前自身が少年だった頃には…誰も救ってはくれなかったというのに…っ…」

 父親が死んだ後、コンラートは《魔王の息子》という光輝と、《人間の汚れた血を引く子》という汚泥の中で辛酸を舐めてきた。
 守護すべき母親は息子の苦しみに気付きもせずに我が世の春を謳歌し、兄は不器用過ぎて暖かい声を掛けてやることすらままならず、多くの愛情を受けて育ったはずの弟は長じるに従ってコンラートを毛嫌いするようになった。ただ、父親が人間だと言うだけで…。

「お前は…もっと、世を恨んだり自分の保身のことだけ考えたって良かったのだ…」

 どうしても双黒を守護したいと願ってしまったのなら、せめてエリオルは見捨てるべきだった。決して誰にも言えないが、無惨に千切れた腕を目の前にすると…グウェンダルは切にそう思ってしまう。

「大切な物を、我が身を尽くして護ろうとし過ぎなのだ…お前は」

 その結果、コンラートが得た物とは何だったのだろう?

 血で血を洗うような過酷な戦いを乗り越えて得た《ルッテンベルクの獅子》の名声も、占術の力を持つ小娘の一言によって覆された。

 そして今また、腕と引き替えに封じた箱が眞魔国に運び込まれて、嫌悪する摂政の道具として使われようとしている。

「私は、決して許さん…。お前の功を、誇りを…汚辱にまみれさせようとするあの男を、決して許すものか…っ!」

 グウェンダルは、怒りに震えながら腕の断端を胸に抱き寄せた。

 もっと早く弟の本体をこうしてやれば、もっと伝わることもあったろうに…と、今更ながらに悔やみながら…。


 


 

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