第36話 ボブは迅速に動いてくれた。 《とにかく腕については早く》というコンラートの要望を飲み、腕の良い魔族の医師団を集めると、自ら通信部隊と共に《ローバルトの左腕》を抱えて、10月初頭にはプライベートジェットで日本入りしたのである。 「久しぶりだね、ウェラー卿」 「お忙しい中、どうもありがとうございます」 空港に迎えに来たコンラートは、滑らかな発音の英語で語りかけた。ボブが英語を基本言語としているからだろう。 「おお…随分英語も上達しているね。日本に来たのだから、てっきり日本語学習だけをしているのかと思ったよ?」 「平行して覚えているんです。折角ですから、ドイツ語も。何処で役に立つか分かりませんから」 「…ほう」 ボブは目を細めてコンラートを見やった。 今回の経緯を村田からメールで教えられた時には、さぞかし板挟みになって悩んでいるものと思っていたのだが…こんなにも前向きな姿勢でいるとは思わなかった。 怯えて、全てを後回しにする性格では無いとは思っていたが、その分待たされる時間を憂うて焦っているのではないかと思ったのだ。 しかし、コンラートは極めて平静な面持ちで自らの置かれた立場を受容していた。 待たされている時間の一瞬一瞬を無駄にすることなく、有効に利用していたようだ。 「それでは、君は眞魔国で全てを終わらせたら、また地球に戻ってくるつもりなんだね?」 「はい。必ず帰って《は》来ます」 「ふ…む?」 少々微妙な言い回しは、コンラートの言語能力のせいなのか、はたまた意図しての事なのか判じかねて、ボブは小首を傾げてしまう。 「帰る…か。君にとっての故郷は、今や地球だということかね?」 「地球《も》…ということです」 「ふむ」 それで得心行った。 生真面目で融通が利かなかったコンラートという男は、恋人の影響を受けて随分と柔軟な思考を持つに至ったらしい。 「地球も眞魔国も、共に君の故郷だということかな?」 「はい。ですから、より必要とされる場所で俺なりにやっていこうと思うんです」 この男が、これほど朗らかに未来を語るようになるとは思わなかった。 極めて優れた資質を持ちながら、重すぎる責務を背負わされて、常に背水の陣を敷くような戦いを展開してきたウェラー卿コンラートという男には、歴史的な英雄が往々としてそうであるように、どこか不幸の影がつきまとっていた。 どんなに栄達しても、信じ難いところから足払いを食らわされて絶望の淵に叩き込まれる…。失礼ながら、そういう宿業の男だと思っていたのだ。 それがどうだろう?この陽性の気は…。 『きっと、ユーリ君の力なのだろうな…』 有利は一見、個体としてとても弱い生き物に見えるが、どうしてどうして…彼にはとてつもなく大きな力が備わっている。 『ユーリ君は人の奥底に潜む善根を引き出し、極めてポジティブな見地から人の有り様を肯定する力を持っている』 そうであるからこそコンラートの持つ不幸の影を払拭し、不安の中で一人押し潰されそうになっていた村田をも救ったのだ。 世界を変える力とは、こういうものを言うのだろうか? 自らが大きな力を持たなくとも、時代を変え得る人材を悉く目覚めさせるのだから、効率が良い事この上ない。 その支えもあって、コンラートは目覚めたのだろう。 『今なら、これを渡しても大丈夫だろうな?』 ボブは一人頷くと、木製の綺麗な箱をコンラートに手渡した。かなりの年代物らしく、飴色の寄せ木細工はしっとりとした味わいを呈している。 「これは…?」 「君の祖父が残した日記だ」 「…頂けるのですか?」 「ああ、君こそが持つに相応しい物であるにも関わらず、存在自体を秘していた事を謝罪せねばならないくらいだよ。君がこの世界にやってきた折…猊下と今後の方針について語り合ったときには、君に鍵を移植する事になるなんて思わなかったからね」 「ありがたく、頂きます。今の俺なら、平静に受け止められる気がしますし」 「きっとそうだよ」 ボブは満足そうに頷くと、他のメンバーと共にホテルに向かった。 * * * マンションに戻ったコンラートはゆっくりと、一ページ一ページを噛みしめるように開いていった。木箱の中に収められた日記はかなり古びていて、ページを捲るのが色んな意味で怖々になってしまう。 そこに書かれていた事は…やはり胸を抉るような、辛い内容も含んでいた。凄惨な虐殺を行ったベラール一族への憎しみは火を噴くようであり、斬り殺された妻子への哀しみと愛情は臓腑を灼かれるようであった(この時、妻に抱えられたダンヒーリーの様子に、ローバルトは我が子も命を失ったのだと思ったらしい)。 そして、痛切だったのは故郷への思慕の念であった。 地球に流れ着いたローバルトは運良く地球の魔族に遭遇する事が出来、保護されたものの、当時の彼らには眞王と連絡を取り合う等という考えも能力もなかった。当時の眞王廟も、地球の魔族と連絡を取り合う事は無かったらしい。 一命を取り留め、鍵を奪われるという最悪の事態だけは免れたものの、彼にとっての《異世界》に、当初ローバルトの居場所は無いと感じていたらしい。 慄然とするような孤独、悔しさ、哀しみ…そんなものが綯い交ぜになったローバルトは、数年間を絶望的な心理状態で過ごしたようだ。 ところが…それが、少しずつ変わっていく。 いや、変えられていくのだ。 一人の少女によって。 活発で無鉄砲で男勝り…そんな、人間の少女であったらしい。 彼女は部屋に籠もりがちなローバルトを強引に屋外へと連れだし、優れた剣の腕を半ば強制的に使わせて冒険を繰り広げた。 この頃から、ローバルトの文章形態が変わってくる。 最初の内は少女に対する苛立ちや不平も目立つのだが、それが次第に呆れに変わり、笑いに変わり…そして、恋に変わった時…ローバルトの中で何かが変わった。 『私は、この地で生きていこう』 たとえ生涯故郷の地を踏めないのだとしても、ローバルトは生きている。 生きているなら、幸せになるように生きた方が良いに決まってる。 それは…少女が体当たりで教えてくれた言葉だった。 丁度コンラートが、有利に教えられたように…。 連綿と綴られる愛の言葉に、コンラートは軽く赤面しながら思った。 『どうやら俺の家系は、こういう闊達で幸せ志向の人に弱いんだな…』 …と。 * * * 「コンラッド…手術台、硬くない?腕の麻酔もちゃんと効いてきた?途中で切れたりしたら、我慢せずに痛いって言うんだよ?」 「ううん、平気だよ…ユーリ。気にしてくれてありがとう」 「いやぁ…そんな」 いちゃこらいちゃこら… そんな甘い擬音で説明したくなるのは、勿論有利とコンラートの掛け合いである。 桃色のハートマークがふぁんふぁんと飛び交っている様子も幻視できる。 「ちょっと渋谷…。手術室で甘いオーラ振りまくの止めてくれる?執刀医の先生方が困ってるじゃん」 「あ、ゴメンゴメン…。つい心配で」 清潔な手術室の中に、滅菌済みの白衣や手袋、マスクに帽子といった出で立ちで集っているのは有利、村田、ヨザック、ボブ、そして勿論手術団に通信部隊の面々である。コンラートは既に俎の鯉よろしく、手術台に載せられている。 その周囲に展開する面子の内、通信部隊の面持ちは特に厳しい。既に《鏡の水底》を奪われている彼らは、この腕だけは決して渡さぬという気概で集中している。 完全に癒合してしまえばコンラートが命を賭けて護るだろうが…部分麻酔とはいえ、手術に臨むこの時が一番危ないのだ。 通信部隊は有利や村田とも同調しながら魔力の壁を築いている。 「では、先生…お願いします」 ボブが頑丈なアタッシュケースを開いてみせると、そこには…確かに、左腕があった。しかも、よく見ると断端は極めて新鮮な状態に保たれているのに、血液は表面張力か何かが働いているかのように、一滴たりとも血管から流れ出ないのである。 正直…見ていてちょっと気持ち悪い。 「うわ…」 「本当に、ぴっちぴちですねぇ…」 ヨザックも感心したように断端を眺めている。 ちいさく《あーそうそう、斬った瞬間とかだけなら、確かにこんな風に血が止まってる事あるよね》なんて囁いているのが何とも不吉だ。さぞかし、人の横断面を目にしてきたのだろう。 村田はじぃ…っと左腕を観察すると、肌の質感などもコンラートによく似ているのに気付いた。ローバルトは腕を斬り落とされた当時、結構若かったのだろうか? 「斬り落とされた時、よいよいのお爺ちゃんとかじゃなくて良かったよね。その場合は流石に若返り加工とか出来ないから」 「村田…コンラッドのうちの人の悲劇に対してそのコメントはどうよ」 コンラートの方は苦笑しただけで、特に気にした風もない。 『うーん…前は色んな事でおろおろして可愛かったのにな…』 村田としては、このところコンラートの肝が据わってきたのがちょっと面白くない。生真面目な彼をからかうのは結構な楽しみだったのだ。 「では、始めます」 早速メスが出てくるかと思ったのだが、まずは手術台に左腕を置いて位置関係を確かめるところから始まった。 その時…信じがたい現象が起こった。 「……っ!?」 みんな、息を呑んで見入ってしまった。 なんと言う事だろう…ローバルトの左腕はコンラートの腕断端に添えられた途端…《ぱく》と擬音化したくなるような質感で、引っ付いてしまったのである。 「うわわわわわ…っ!?」 「うご…動いたよコンラッドっ!お爺ちゃんの腕が動いたーっ!」 「お爺ちゃんが立ったーっ!」 「いや、立ってはないだろ村田」 「お爺ちゃんの意気地なしっ!」 「話遠くなってるし!」 双黒コンビが不毛な漫談を繰り広げている間にも癒合は進み…執刀医が恐る恐る触ったときには、すっかり継ぎ目も分からないような状態になっていた。 「な…な、何という…っ!」 「これが…鍵の、力なのか?」 驚きを隠せない一同の中で、コンラートだけが平静だった。 自分の身体の一部となった祖父の肉体をそっと右手で触ると、ぴく…っと左腕が動く。そのまま意識を集中させていけば…バラララ…っと親指から小指にかけてが滑らかに順序よく織り込まれ、今度は小指から親指へと開かれていく。 「…動く」 「麻酔効いてなかったのかなっ!?危ないところだったねコンラッド!」 「いやいや…ユーリ。麻酔は、多分直前までは効いていたんだと思うよ?そうでなかったら、肉体同士が自発的に繋がる感触も味わえたのかな…ちょっと残念」 「いや、そんなの味合わなくて良いだろ!?」 「そう?」 コンラートは笑いながら自力で手術台から降りると、傍らに置かれていた真鍋の日本刀を手にした。 万が一侵入者がいたときのために置かれていたというのもあるが、真鍋はこの剣自体をコンラートに進呈してくれたのである。 銃刀法違反で捕まると拙いので持ち運びには細心の注意が必要だが…鍵とコンラートが一体化した以上、自衛の為には四六時中持っていた方がよい。 「これで…万全の体勢で戦えます」 チン…と鯉口を切りながら不敵に微笑むコンラートは、村田の目から見ても癪なくらいに佳い男だった。 * * * 「さーて、これで足並みは揃ってきましたねえ…」 「そうだな。後は…無事に眞魔国に戻れるかどうかだ」 コンラートの左腕はMRIなどの画像診断の結果では完璧に癒合している事が分かったが、念のため拒絶反応が出ないかどうか確かめるという名目で一泊だけ入院することになった。 医師団としては、極めて珍しい手術を実施する事で緊張やら期待やらしていたのに、結局自分たちの腕前を見せる機会は無いまま手術(?)が終わってしまったので、何らかの措置をしておかなくては気が済まないのだろう。 ひょっとして、何か起こる事を期待していたら怖いが。 そんなわけでベッドには転がされているものの、別に何処も悪くない元気な入院患者は、有利やヨザック、村田を相手に今後の話を詰めていった。 「なあ、村田…俺は本当に、休学措置とかとらなくて良いのかな?草野球チームは、《成績が危ないから》っていう理由で、社会人メンバーの人にキャプテンを代わって貰おうとは思うんだけど…」 「取りあえず風邪とか、無難な事言っておいた方が良いよ。一生帰れない可能性もあるけど、帰れるとなれば数日間の誤差程度で帰る事も可能だからね」 「うーん…」 村田の主張によると、事前連絡をして休学措置を執るより、後回しにした方が良いという事だった。何故かというと、有利が言うように全てを丸く収めて帰る場合には、眞王廟の強力な巫女、ウルリーケの助力が得られる為らしい。 彼女を含めた眞王廟の巫女達が操作してくれれば、時空転移の精度は高くなるから、地球ではそれほど時間が経過していない時点に落として貰えるようだ。 そうなったときに休学願いを出していると、気まずいんじゃないかというのだ。 自分としては物凄い気負いを持って旅立とうとしているのに、クラスメイトには何も告げずに行くという事に少し拘りを持っていた有利だったが、ふと…村田の発想の根底にあるものが、とても変化している事に気付いて驚いた。 『あれ…?そういえば、村田ってば《すぐに帰れる》ってことを未来予想図の先頭に持ってきてる?』 最悪の事態を想定して、《それくらいなら…》と、滅びの日を先延ばしにしてきた村田が、帰れることを念頭に置いて行動している。 それに気付くと、急に嬉しくなってきた。 「えへへ…そうだよなぁ。うん、休学とかあんまり先に心配し過ぎないようにしよ!」 「ああ、君がすっかり学校の勉強を忘れていて、原級留置になる危険性の方がよっぽどリアルだと思うね」 「超現実的なんですけど…」 それに気付くと、急に切なくなってきた。 「猊下、あっちの世界に飛ぶとして、場所の特定ってのはこっちの連中だけじゃ難しいんですかね、やっぱり」 問いかけるヨザックの言語は日本語だ。 コンラートの器用さについ目が行くが、この人も随分と言葉の覚えは早い。聞くところによると、あちらの世界では国家間を吟遊詩人や飲み屋のお姉ちゃん(…)として駆け回りながら情報収集をしていたと聞くから、言葉に対する感覚が鋭いのかも知れない。 また、決して悲観的ではないのだが、行動を起こす前の準備については可能な限り正確に、念入りに行いたいらしい。 「ウルリーケが上手く反応してくれる事と、転移途中で上様が目覚めてくれる事を祈るほかないね」 ヨザック以上に正確な準備作業をしたくてしょうがない気質の村田だが、こちらは多少苦い表情で説明せざるを得ない。 「何処に落ちても、俺がお守りしますよ」 「そりゃまた心強いことだね」 村田はさらりと受け流すけれど、内心はヨザックのそういう言葉が嬉しくてしょうがないのは見ていれば分かる。ちょっぴりだけど、耳の端が紅くなるのだ。 『可愛いなぁ…』 そんな感慨を込めて友人を見やれば、ぎろりと睨んでくる。 「なに?」 「ん…んん?な…何でもないよ!」 有利は誤魔化すと、コンラートの指に自分のそれを絡めた。 右手と左手…両方の感覚が同じかどうか確かめたかったのだ。 「ふぅん…凄いねぇ。全く一緒に見えるや」 「余程似ていたんだろうね…。猊下の言われるとおり、戦闘による負傷が少ない以外は殆ど一緒だ」 「動きも滑らかだよね」 「ああ、細かいところは今後の鍛錬で確認していくけど、今のところとてもスムーズだよ」 有利の掌の上でピアニストのようにタタ…っと指を弾ませるから、くすぐったくて笑ってしまう。 「あはは…っ!くすぐったいよコンラッドっ!!」 「ここは?」 「あひゃ…ゃ…あははっ!」 調子に乗ったコンラートにこちょこちょと脇を擽られて悶えていると、村田がからかうような眼差しを送ってきた。 「ねぇ、ウェラー卿…君もちょっと複雑な気分だよね?」 「は…?何がでしょう」 「だってさ、君って結構嫉妬深いのに…渋谷を抱くときにお爺ちゃんの腕がどうしても渋谷に触れちゃうんだよ?」 「……っ!」 コンラートの頬がひくりと引きつっているのが分かるが、有利にはどうもピンと来ない。 「別に、そんなの気にならないよなぁ?」 「そ…う、だね……」 コンラートが、《利き腕じゃなくて良かった…》と言っているが、ちょっと気になる有利であった。 |