第35話





「祖父の…左腕ですって…!?」

 村田の発言をすぐには飲み込めず、コンラートは困惑したように眉根を寄せた。

「一体どういう事なのですか?」
「ウルリーケが伝えようとした《ローバルトの腕》とは、君の祖父…ウェラー王家最後の王、ローバルトのものだ。彼は、《禁忌の箱》のひとつ《風の終わり》の正しい鍵である左腕の持ち主だった。ローバルトはベラール一族が引き起こした《アルティマートの虐殺》に於いて左腕を斬り落とされたが、それが鍵として用いられる事を回避するために右腕で掴み、城の後背に位置した崖から深い谷底に身を投げたのさ」
「それが、何故現在の状況に関係があるというのですか?」
「僕がこんな事情を知っている事をおかしいとは思わないかい?《アルティマートの虐殺》なんてのは、シマロンの中でも極秘事項だったんだろう?君の父親が生き残ったことさえ、シマロンでは長く秘密にされてきたはずだ。その人を旗印に、旧王家の連中が一か八かの反抗に出ないとも限らないからね。だけど…《こちらの世界》では、そんな規制は関係ないのさ」

 皮肉げに村田が微笑む意味に、コンラートも気付いた。

「まさか…」
「そのまさかさ。ローバルトは地球に辿り着いた。おそらくは、眞王の力によってね。一家惨殺の危機から救ってくれないところがまぁ眞王らしいんだけどさ…。多分、《配下に滅ぼされるような無能者などどうでも良いが、鍵が厄介な連中に渡るのは困る》っていう、極めて冷徹なスタンスだったんだろうね。…で、まあ…とにもかくにも鍵である左腕は彼と共に地球にやってきた」
「俺の…祖父が?」

 驚くコンラートの横で、有利もきょとんと小首を傾げた。

「え〜?それをどうすんの?」
「ウェラー卿に、移植する」
「そんなこと出来んの!?」
「出来るよ。ウェラー卿は直系の子孫だからね、腕の方から積極的に融和してくる筈だ」

 ローバルトの話は、コンラートも父から聞いた事がある。
 まだ幼い王子であったダンヒーリーの目の前で腕を落とされたローバルトは、崖に面したバルコニーから飛び降りたのだが、滝に繋がっているその崖からは結局死体は上がらなかったらしい。
 ベラール一族が鍵として目をつけた上でローバルトを襲ったのであれば、さぞかし執拗な捜索が行われたろうが…地球に辿り着いていたのであれば見つからないはずだ。

『…という事は、俺の家系は三代続けて故郷を追われ、異境の地に辿り着いたという事なのか…』

 その事を、以前のコンラートならば《運命の皮肉》と感じた事だろう。だが、今は必ずしもそうとは思わなかった。
 ある意味では、ウェラー家の男達は三代続けて死すべき運命を、新天地に赴く事で救われてきたともいえる。大国の欲望に飲み込まれ、呪われた箱の鍵として使われる事を回避しながら、命を繋いできた家系なのだとすれば…寧ろ、その強運を誇っても良いくらいなのではないだろうか?

 ふと、あちらの世界に引きずり込まれた事をどう考えているのか、有利に尋ねたときの事を思い出した。

『うーん…そりゃあさ?怖かったり心細かったりとかはあったけど…。でも、途中からこう思うようにしたんだ。《俺だって、ここで精一杯やってたら、何かの役に立つ事だってあるんじゃないかな?》…ってさ。何かね?そう考えた方が、自分がしてる事は無駄じゃないんだって思えて…力が沸いてくる気しない?』

 確かに、そうだ。

 全てが徒労に終わり、最悪の結末が来る事を常に憂えて一歩も前に進めないよりも、《自分のしている事には絶対に意味がある》と信じて進みたいではないか。

『ならば、俺は祖父の腕を自らに据えたい』

 そう決意するコンラートの横で、有利が実に嫌そうな顔をして叫んだ。
 
「えーっっ!?ちょっと待って村田!お爺ちゃんの時代に斬り落とされてんだろ?完全に干涸らびて、ミイラ状態なんじゃないの?そんな年代物のタクアンみたいなものコンラッドに接続するのはやめてっ!元気な方の身体から水分奪われそうだよっ!!」

 確かに…コンラートの脳裏にも、博物館で見た干物のような死体が思い浮かぶ。
 万が一動くのだとしても、かなり縁起の悪い姿になりそうだ。

 いや…それで《風の終わり》を再封印できるのなら安いものだろうか?

「お漬け物にも虚(うつ)け者にもなってないから安心して。斬り落とされた左腕は強い魔力を持つ存在だ。斬り落とされた瞬間にも血は出なかったというし、今現在もぴちぴち艶々のお肌を保ってる。ウェラー卿本体よりも戦乱を味わってない分、キズモノになってないくらいだ」
「コンラッドを慰み者にされた小娘みたいに言うな!」
「《あーれー》って言いながら帯をクルクルされるの、結構似合いそうじゃない?」

 何気なく表現が酷いのは、やはり大賢者の嫌がらせなのだろうか?

「俺がやるのはいいけど、人にはやられたくない!」
「多分、ウェラー卿と君ならやられるのは君の方だけどね…」

 出来れば、そうしたい。
 …が、今はそんな愉快なプレイ相談をしている場合ではない。個人的な嗜好や人生どころか、世界規模での危機に関する話だったはずだ。…多分。

「あの…話が逸れているようなのですが……戻して頂いてよろしいでしょうか?」

 人が折角親子三代に渡る怒濤の歴史を振り返っているというのに、その歴史を《お茶の間劇場》にしないで欲しい。
 せめてN○Kドキュメンタリー風の盛り上がりは欲しいところだ。
 ナレーションは是非、銀河○丈でお願いしたい。

 しかし、大賢者様はあくまで《茶化してなんぼ》という姿勢を崩す気はないようだ。

「あー、ゴメンゴメン。何か吹っ切れたら肩の力が抜けちゃったみたい。これからはこの調子で、気楽に物事を考えていこうかなー。渋谷みたいに」
「なにそれ、俺が超絶暢気者みたいじゃん!」
「自覚がないのが一番怖いよねぇ〜。のんちゃん雲に乗って何処までも飛んで行きそうな気質のくせに…」
「すみません…本題に戻って貰って宜しいですか?」

 軽く半泣き状態のコンラートが止めると、漸く村田は本題に戻ってくれた。

「とにかく、左腕は辛うじてボブが保管している。《鏡の水底》が監視カメラの前から忽然と消えたとき、咄嗟にボブが通信部隊の中から精鋭を引き抜き、腕の監視に回したお陰かも知れない」
「こちらの魔族にはそんな余力があったのですか?」
「無くても、ひり出さなくちゃならなかったのさ。4000年も護ってきた箱を奪われたんだよ?種族のアイデンテイティとも言える物体を失った以上、せめて鍵くらい護らなきゃ、地球の魔族だって面目立たないよ。それで、ボブは元々少ない魔力持ちから更に人数を割くことになった。だけど、君に接続してしまえば彼らは警護に就かなくて済む。その分、多少は安定して向こうとの通信も出来るはずだ。こっちの魔族が鍛えた日本刀も、高性能の受信装置みたいに働いたみたいだしね」
「ただ…この刀については注意も必要です」

 注意を呼びかけてきたのは事務所長の真鍋だ。
 渋谷家に呼ばれて、これまでボブからメールで聞いていた以上の事を教えられた真鍋は、自分のもたらした日本刀の意味を、誰よりも懸念しているのかも知れない。

「分かっているさ。魔力を持つ者が触れると通信も出来る分、箱から溢れた法力もまた、こちらの居場所に気付いてしまうんだろう?だけど、本当に渋谷達が大博打をやろうってんなら危ない橋を幾つも渡らなきゃいけない。特に、あちらの世界に複数で行くつもりなら、何としても《彼》を起こさなきゃならないだろうからね」
「上様ですね?」

 コンラートが素早く相槌を打つ。
 誰よりも心強い味方ではあるが、同時に、最も不確定要素が大きいのも事実だ。

「そうだ。深く眠っているのか…こちらの呼びかけが弱すぎたのかは分からないが、彼はスイスでは目覚めなかった。でも、僕は彼を起こさないことには勝機はないと思っている。それに…僕は、渋谷の身体を眞王の好きになんかさせたくないからね」
「物凄く語弊のある言い方が大変気になりますが、もしや…猊下は、ユーリが眞王陛下の器にならずとも、《禁忌の箱》を封印できるとお考えですか?」
「可能性はあると思う。僕が上様の力を感じていたのは、ほんの短い間だったけど…流石に眞王が長年掛けて仕組んだ魂の熟成品だけあって、凄まじい魔力の持ち主だった。おそらく…彼は、最盛期の眞王をすら上回る、歴史上最強の魔族だよ?」
「なんと…」

 確かに、そんな可能性があるのならば賭けてみずにはおられない。
 
「上様…俺も、会いたいな…。まだ、ちゃんとお礼も言ってないもん」
「さて、そうなると段取りの問題だけど…。日本刀による通信を先にするか、ウェラー卿の移植手術を先にするか…。ちょっと悩ましいところだね」

 スタジオに現れた怪物は《風の終わり》の一部であったはずだ。地球にまでやって来られるほどの力を得ている敵を相手にするとなれば、戦う為には両腕があった方が良い。しかし、コンラートが万が一敗北した場合は、鍵ごと奪われてしまう事になる。

『いや…今更、そんな心配をしてどうする』

 それこそ堂々巡りをしている間に、世界の終焉を迎える日を指折り数える事になってしまう。

 いつかじわじわとやってくる確実な滅びよりも、一か八かの成功に賭けて対決を試みたい…それは、先程有利が見せた決意とも共鳴していた。

「猊下、どうか…俺の移植手術を極力迅速に実施して頂けますか?俺は、なんとしても鍵を…祖父の腕を、護りきって見せます」
「分かった。ボブに連絡をつけてみよう」

 そこまでが決まったところでその夜の会合はお開きとなった。
   


*  *  *


 
 
 有利はその夜、家族に頼み込んでコンラートを渋谷家に泊めて貰った。最初はコンラートのマンションに泊めて貰うつもりだったのだが…何時になるかはまだ分からないものの、再び旅立つ事になる身の上で、家族から離れて過ごすのも申し訳なかったのだ。

「ねぇ…コンラッド、起きてる?」

 有利が薄暗がりの中から囁きかけると、布団の上で丸まっていたチィがふる…っと大きな耳を揺らしたが、有利が優しく撫でつけると再び顎を腕の上に載せて丸まった。

「うん、目が冴えてしまって…眠れない」
「今夜は眠れないかも知れないね…」

 有利はごろ…っと寝返りを打つとベッドの縁に寄って、床上の布団に横たわるコンラートへと指先を伸ばした。意図を察したコンラートが横寝になって右腕を伸ばすと、互いの指先が緩やかに絡む。
 普段は体温が低いコンラートも、布団にくるまっていたせいか指先が温かい。

 骨組みががっしりしていて無数の傷があるのだが、それでいて無骨さを感じさせない優美な手だ。

「コンラッドは、お爺ちゃんについては聞いた事あるの?」

 そういえば、彼の家庭環境についてはあまり踏み込んだ事を聞いた事がない。眞魔国での家族構成や兄弟との思い出は少し教えて貰った事があるが、父のダンヒーリーについては、人間であった事や既に亡くなっている事くらいしか知らなかった。

「実を言うと…あまり、ないんだ。祖父が腕を落とされたとき、父はまだほんの幼児だったそうだ。家族も親族も全て殺され、父は左腕に焼き印を押されて幽閉された。地獄のような日々だったと聞いている…。10歳の時、祖父の部下…任務のために城を離れていた隠密が命がけで救い出してはくれたが、既にシマロンに於けるベラール一族の支配は絶対的なものになっていた。自らの家族も惨殺されていた隠密は、ベラールに対して深い憎しみを持ってはいたが、父には復讐を勧めなかった。事あるごとに、《命長らえる事をまずはお考え下さい》…と、諭し続けていたそうだよ。父は結局、命の恩人との約束は守った事になる。82歳の長寿を得て、老衰で亡くなったからね」
「大往生かぁ…。最高だよね」
「ええ…本当に」

 互いの指を絡めながら、二人は暫くの間…互いの思いに浸っていた。
 そして、ふと…コンラートが尋ねてきた。

「ねぇ…ユーリ。俺がずっと考えている事…聞いてくれる?」
「なに?」
「俺の父の…故郷への思いがどんなものだったか、俺は一度も真正面から問うた事はないんだ。だから、父の事を思い出すときには決まって同じ情景が思い浮かぶ。眞魔国とシマロンの国境地帯でね、見渡す限り荒涼とした枯れ草が広がっている土地だった。シマロンのある方向を…沈黙したまま見やる父を、俺もただ黙って見ている事しかできなかった」
「そう…」

 有利の脳裏にも、幼いコンラートと、よく似た面差しをちょっとワイルドにしたようなお父さんの姿が思い浮かぶ。もし生きていたら、有利も《お父さん》と呼ぶ事になったかも知れない人は、一体どんな人だったのだろう?

 有利が興味を覚えてダンヒーリーについて聞くと、コンラートも覚えている限りの逸話を紹介してくれた。
 女と酒と剣を愛した豪放磊落な男性…いつも人生を愉しんでいる様に見えた人が、故郷を見つめるときだけ沈思な態度を見せていた事が、コンラートには気になるらしい。

『そうだよね…。今のコンラッドにとっては、凄く重なるところも多いもんね』

 それがまた、祖父の代からよく似た経歴だったのだと聞けば感慨もひとしおだろう。

 有利は有利なりに考えてみた。
 ダンヒーリーという男性の人となり、そして、生まれ育ち…。
 推測する事しかできないが、もしも自分が彼だったら、《こうかな》…という姿が思い浮かぶ。

「あのさ…。これって、もしものことだけどね?俺がお父さんだったら、故郷はやっぱり懐かしい。忘れろとか言われても、やっぱりそれは俺の一部だし、絶対に切り離せないものだし、切り離す必要もないって思うもん」
「そうだね…。父も、やはり故郷をずっと忘れる事が出来なかったんだろうか?」
「そりゃあ忘れたりしないよ。でもね…俺、故郷って一つだけしか持てないって事はないと思うんだ」
「複数の故郷を持てると?」
「どこにでも、旅をしただけあるなんて思わないよ?でも、生まれ故郷と匹敵するくらい大事な土地って、やっぱり出来るんだよ。俺の場合は、あんたの国…眞魔国だ」
「ユーリ…」
「まだ見た事もない国だよ…でもね、あんたを育んでくれた、あんたにとって大事な国だと思ったら、やっぱ俺にとっては故郷って思えるんだ。あんたにとって、地球が…日本が、そうであって欲しいと思うようにね」

 有利の指はいつしか、しっかりとコンラートの指を掴み、手背に食い込む指先が思いの強さを感じさせた。

「お父さんにとっても、そうだったんじゃないかな?いつだって、どっちも大事で…どちらかを無くして良いなんてもんじゃなかった。それは、全然欲張りなんかじゃない…当たり前の感情だと思う」

 きっぱりと言い切る有利の言葉で、初めてコンラートは父の惑いを肯定する事が出来たような気がする。

 あの情景…父が、シマロンを見つめているときコンラートの脳裏をちらついていたのは、きっと《不安》であったのだろうと思う。

『父さんは、母さんや俺との暮らしよりも、本当はシマロンを深く愛しているんじゃないだろうか?』

 その疑いがあったからこそ、どこか苦い思いが胸に滲んできた。

 だが…違うのだ。きっと、違うのだ。

 父は妻も息子も、そしてやはり故郷も愛していたのだ。それぞれの度合いと方向性で。
 それは…決して誰に咎められるものではないのだ。

『これで良いのだ』

 …先日、CMに出ていた《バカ○ンのパパ》なる人物もそう言っていた。
 自己肯定感に満ちた、実に含蓄ある言葉だ。

「俺は思うんだよ、コンラッド…。《どっちが大事か》っていうのは、時として《どっちにとって、自分がより切実に必要か》ってことで選ばれるんじゃないかな?お父さんの場合は、きっとシマロンよりも奥さんやコンラッド、それに、ウェラー領の人たちの方が必要としてるって思ったんだよ」

 にぎにぎと指を揉み込むようにして、有利は懸命に言葉を選び出す。
 有利はもともと饒舌な方ではないし、全てが仮定の話を人に押しつける方ではない。それでも敢えて強い語調で伝えようとしてくれるのは、コンラートの心がこの件に関してだけは、ちいさな子どものように自信が無い事を知っているからだ。

 《これで良いのだ》と…そう伝えるために、有利は根気強く語るのだ。

「でも、お父さんはもしもシマロンの人達が声を合わせてウェラー王家の復活を願えば、その時は何が何でも助けに行ったんじゃないかな?求められることを望んでいたわけではなくても、望まれれば命を賭けるだけの気概はあったんだと思う。だからこそ、シマロンの情勢を油断無く、ずっと観察し続けていたんだよ」
「そう…だろうか」
「そうさ。きっとそう…!そして今、あんたは呼ばれてる。あんたにとって大事な世界が、悲鳴を上げるようにしてあんたを必要としてるんだ。だったら、行くしかないよ!あんな不気味な《禁忌の箱》なんてものに、無茶苦茶にされちゃうなんて俺は嫌だ…!絶対、あんたの世界が酷いことにならないで済む方法はあるはずだよ!頑張ろう…コンラッド!!」

 有利の励ましの言葉が、僅かな逡巡によるブレを修正して、視界を明瞭なものに変えていく。
 その結果がどんなものになるのかは誰にも分からないのだとすれば、有利が見せてくれる視界をこそコンラートは信じたい。

「一緒に…行ってくれるんだね、ユーリ…」

『君が傍にいてくれるなら、俺はどんな戦いでも乗り越えよう…!』

 コンラートの精神が、強い支柱を得て凛然と立つ決意を固めると、有利は見惚れてしまうほど力強い笑みを浮かべて請け負った。

「そうさ!」

 それは夏の太陽のように開けっぴろげで、暖かな微笑みであった。

「アイしちゃってる俺が、あんたの愛する故郷に一緒に行くんだぜ?天国のお爺ちゃんやお父さんはきっとこう言うよ?《コンラッド、お前…上手くやりやがったな!》…てさ!」
「うん…実に言いそうだ」

 照れながらくすくすと笑い合う内に、いつの間にか有利の指は緩んでいき、暫くすると…すぅっと寝息を漏らすようになった。
 健やかな有利の寝顔を見つめながら、コンラートは静かに流れていく涙を感じていた。

 それは、静かな涙だった。
 流れている事に気付くのに時間が掛かるくらい、それはゆっくりと…清らかに流れていた。

『ユーリ…君がいてくれて、本当に良かった』

 大切な大切な宝物。
 掛け替えのない、よろこびをくれる人…。

 愛する人の手をしっかりと握ったまま、コンラートもまた眠りの中に落ちていった。



*  *  * 



 
 ざわわ…
 ざわわ……

 揺らめく穂や枯れ草の中に、父がいる。
 コンラートに背を向けたまま、見つめている先はシマロンだ。

 草原と同化したようなダークブラウンの髪が風を帯びて流れ、陽光を透かして明るく光る。見つめていると、父の大きな背中がゆっくりとこちらを振り返った。

 浮かべているのは、屈託のない笑顔だった。

『コンラート、帰ろうか』

 ああ、思い出した。
 父の笑顔は、語っていたではないか。

 《ツェリの所に戻ろう》
 《帰ろう。俺たちの家に…》

『父さん…!』

 ほっと安堵をして、コンラートは駆け寄っていった。
 父が、自分たちの元に《帰ってきた》事を感じながら。


 今…やっと分かった。


 愛する者のいる場所が、帰るべき場所なのだ。
 それは愛する者への愛の形や質が、異なりながら複数あって良いように…想う故郷もまた、複数存在しても良いものなのだ…。

 




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