第34話





『眞魔国の事で、話がしたい』

 有利からそんな電話が掛かってきたとき、村田は自分の血がサァ…っと足の方に下がっていくのを感じた。

 日中に…何か、奇妙な衝撃を感じた。
 あれは間違いなく、極めて近い場所で法力が展開された証だ。

 《禁忌の箱》による眞王の封印が不完全な状況である事は知っていても、《まだ保つさ》と高を括っていたのだが、それは…どうやら甘かったらしい。

『いや、本当は分かっていたのかも知れないけど…』

 それでも、限界ギリギリまで有利に《幸せ》でいて欲しかった。
 自分の傍で、恋人なんてものになって欲しいなんて贅沢は言わない。誰の物になっても良いから、何処にいても良いからと…唯ひたすら彼の幸福を願っていたのに。

『限界なのか?』

 そうだとすれば、村田は本気で考えなくてはならない。
 この状況を打開し、有利を最大限に幸せにする方法を。

「眉間に皺寄せちゃって…。ユーリの電話、お辛い内容だったんで?」
「…余計な事言わないでよ」

 海外出張の多い両親よりも、ここしばらくはこの男の顔ばかり頻繁に見ている気がする。グリエ・ヨザックは鮮やかなショッキングピンクのエプロンまで持ち込んで、甲斐甲斐しく村田の食事を作っていた。

 そんな事しろなんて頼んだ覚えはないのだが、食事に関しては結構無精な村田は油断すると店屋物ばかりになるからと、必ず一人の夜は夕食を作ってくれるのだ。そしてそのまま一緒に食事を採る。
 
『街でそのまま食べちゃえば良いのに。誘いかけてくる女には困ってないだろ?』

 村田にそんな憎まれ口を叩かれても、《佳い男でもいれば考えますけどね、猊下以上に可愛らしい方はなかなかおりませんや》等とけろっとした顔をして返す。
 そしてきちんと食器を洗った後は、街を彷徨ってから自分のマンションに帰るらしい。

 ボブに貰った金だけではすぐ底を突くはずなのに、彼は妙に金回りも良いようだ。一体街で何をしているのだろうか?

「…渋谷が、眞魔国の事で相談があるんだってさ。君も来る?」
「ええ、是非ご一緒したいですね」
「今すぐだけど良いかな?街には…出なくて良いの?」
「なに、大丈夫ですよ。行かなきゃ行かないでどうってこともありませんからね」

 そういうと、身軽なヨザックはすぐに《出立できますよ》という顔をする。
 
『故郷の名を出しても動じないなんてさ…』

 この男はどういう心情でいるのだろう?
 初めの頃は《俺だけでも眞魔国に戻してください》と言っていたが、最近ではそういう事を一切口にしなくなった。
 彼独自の方法で環境に馴染み、生活の術を得ているようでもあった。

 だが…彼も、眞魔国の危機的状況を知らされれば別の判断をするのではないだろうか?

 《俺を故郷に帰してください》…また、そんな事を言い出すだろうか?

『帰る…この男が?』

 そう思った途端に、胸の奥の柔らかい部分を《ぎゅうっ》…と、荒っぽく握り込まれたような感触があった。
 気付かなかった。
 彼は…いつの間に村田の心の奥まで入り込んでいたのだろうか?

 彼を失うのではないかと想った途端に、呼吸が止まってしまうほどに。

『…苦しい』

 有利は聞いてくれるだろうか。
 村田が、こんなに辛い気持ちでいるのだということを。



*  *  *

 


 渋谷家にはコンラートとヨザック、村田の他に、魔族の一員である事が知れた真鍋も訪問していた。
 真鍋は例の日本刀も運び込んでいる。重厚な装飾を施された大型の長刀は、今はアットホームな渋谷家のローテーブルに載せられていた。

「これを触った途端に、紅白巫女装束の女の子が見えたんだ」
「なんだ、奇遇だなゆーちゃん。俺もよくそういう風に自由な空想の翼を広げるよ?昨日の夜も、メイド服を着たゆーちゃんが《お兄ちゃん、だいすき…★》と舌っ足らずな甘えた声で…」
「妄想と一緒にすんな」

 緊張感に耐えられないらしい兄のボケに、一々付き合って等いられない。
 有利はさらっと受け流すと、村田に問いかけた。

「その子…ウルリーケっていう巫女さんなんじゃないかな?コンラートに聞いてみたら、他の外見的な特徴からそうじゃないかなって言われたんだけど」
「確認はしたいけど…ここでまた怪物が現れたりするのは困るね」
「そうそう。そういう荒事はローンの残ってる民家じゃなくて、少々のアクションではびくともしない大型の公園辺りでして欲しいね」
「いやいや親父、今頃の公園は世知辛いんだよ?硬球でキャッチボールしただけで怒られるんだから!」
「ハイハイ、話戻そうね」

 村田はウルリーケと思しき巫女が口にしていた断片的な言葉、そして怪物の残した言葉も合わせて耳に入れると、暫くの間沈黙していた。
 長考に入っている…というよりは、言い出しにくい何かが喉に引っかかっているようにも感じられる。

 だから、有利は静かに囁いた。

「あのな…村田。お前が知ってる事…他にもあったら教えてくれる?」
「…僕が、故意に何かを隠しているとでも?」

 村田が傷ついたみたいに眉根を寄せるから、有利は慌ててぷるぷると首を振る。

「そういう意味じゃないよ。村田が凄く俺のこと心配してくれてるの知ってる。だからこそ…言いにくい事があるんじゃないかって思うんだ。確かに、俺なんてお前に比べたら頭回らないし、折角教えて貰ってもおろおろするだけなのかも知れない…。だけど、知りたいんだ、村田」

 知って、本当に良い方法が思い浮かぶのかどうかは分からない。
 だが…知らない間に何かが動いていって、取り返しのつかない事になるのは怖かった。

 しかもそれが、コンラートの大切な兄に関する事となれば…後悔してもし切れない。

「お願いだよ、村田…教えて?ウルリーケは何を俺たちに伝えようとしたんだろう?」
「覚悟があるかい?渋谷」
「え…?」
「たとえば…僕が今から言う事が、ウェラー卿に君たち家族への誓いを破らせるような内容だったらどうする?聞けば、眞魔国に帰らずにはいられない…そんな内容だったら?」
 
 村田には珍しい、荒々しく…苦痛に満ちた声だった。
 怒っていると言うより、追いつめられて泣きそうになっている子どものようでもあった。

「ちょ…弟のお友達、ナニ不吉なことを口にしてんだ?」

 勝利が激高するその横で、コンラートも堪えきれずに表情を厳しいものにしていた。
 けれど、有利は揺るがなかった。

 ずっと、こんな日が来るのではないかと…心の何処かで思っていたのかも知れない。

「それでも構わない」
「…簡単に言うな渋谷!」
「簡単に言ってる事じゃない。本当は…ずっと、考えてたんだ。コンラッドはこのまま…本当に地球にいて良いのかなって…。コンラートにとって大事な人たちは、本当にコンラートが居なくても大丈夫なのかなって…!」
「人の事だ、渋谷」
「そうだけど…!」
「それで、ウェラー卿が居なければ困る人たちがいるとして、君はどうするつもりなんだ?」

 その問いかけを、有利もまた何度も繰り返していた。
 その度に打ち消し、《今のままで良いんだ》と繰り返してきたけれど…今は、きっぱりと言い切る事が出来た。


「ついて行く。眞魔国に」


 居合わせた全員が、暫くのあいだ絶句していた。

「…馬鹿…っ!」

 呼吸を失っていた面々の中で、最初に息を吹き返したのは村田だった(真鍋は事情が今ひとつ飲み込めなくて黙っていただけのような気はするが)。

 開口一番そう叫ぶと、武闘派ではないくせに…テーブルに膝をぶつけながら有利に飛びかかってきた。

「馬鹿…この馬鹿っ!そう言うと思ったから黙ってたのにっ!!」
「ひゃゅうぅうむ…っ!?」
「ちょ…村田君、や…止めなさいって!」

 勝馬が止めようとするが、肘鉄が直撃して顎をしたたかに打ち付けてしまう。
 怒りのあまり惑乱に近い状態になった村田を止めたのは…ヨザックだった。デパートで駄々を捏ねる子どもを抱きかかえるお父さんみたいに、苦笑混じりの表情で背後から羽交い締めにしている。

「は〜い、そこまでですよ猊下」
「余計な事をするな!」
「あなたらしくないですよ、猊下…。こーゆーコトって、引き際が肝心じゃないですか?」
「僕らしく…か」

 《は…っ!》と村田は自嘲するように嗤う。
 目元には窶れたような影が落ち、今にも泣き出しそうに表情が歪んでいる。

「本当にね…僕らしくない。普段の僕だったら、なに喰わぬ顔で最後まで黙っていたさ…!」
「そうできなかったのは、猊下が本当の意味でユーリをお好きだからでしょう?」
「………分かったような口をきくもんだよねぇ…」
「分かりたいってずっと思ってますからね」

 ヨザックの太い腕に抱き留められながら、村田は観念したように溜息をついた。

「…今から僕が言う事が、全ての真実だとは思わないでくれ。僕の予想は、事実というより僕自身の主観に過ぎない。この情報からどう判断するかは、君たちの能力次第だ」
「うん…。ありがとう、村田」
「礼を言うのは早いよ」

 村田は塞ぎ込んだ表情のままで語り始めた。
 
「ウルリーケが《限界》と告げているのは、おそらく眞王による創主の封印だよ」
「コンラッドを呼んでるのはどうして?」
「呼んでいるのはウェラー卿だけじゃないさ。確実に、君も呼んでいたはずだ《双黒》…この眞魔国語は、まだ教えていなかったね。君は《禁忌の箱》の中でも《水底の鏡》の鍵となる筈だ。更に、莫大な魔力の持ち主でもある。ウルリーケは絶対的な眞王の信奉者だから、なんとして君を器として使って眞王に力を発揮させ、綻びかけた封印を再び強固なものにするつもりなんだ。君は、それでも良いのかい?」
「器にされても、また元に戻してくれるのかな?」
「その保証は出来ない。幾ら眞王でも、今までそんな方法を使った事はないからね。君にどんな影響が出るかは分からない。眞王と君が融和したとしても、それはそれは凄まじい魔力の行使を強制されるわけだからね。最悪の事態も…考えておくべきだ」

 それは、《死》ということだろうか?
 コンラートの親友のスザナ・ジュリアがそうであったように、身の丈以上の魔力を駆使した結果、命を落とすという事なのか。

「君と、元々死んでいる眞王の完全崩壊…それに伴う、世界の決定的な崩壊。それが最悪の未来予想図だ」
「うっわ…物凄い後ろ向きだな」
「僕は全ての可能性を常に考えてるだけさ」

 村田は冷然と告げるが、確かにそうなのだとしても…少し有利には違和感がある。

「だけど、このまま放っておいても眞王に限界が来れば、近日中に、確実に禁忌の箱の封印は解けちゃうんだろう?なんか…あの怪物なんかも積極的に眞王にアタック掛けに行くみたいだったし。俺たちがえらい目にあった《地の果て》だって、眞魔国に戻されて鍵と接近したら何が起こる分からないんだろ?」
「その可能性もある」

 二つとも、確かに《最悪》の場合は世界の崩壊に繋がる。
 だが…二つには決定的な違いがあるのではないだろうか?

「封印を放っておけば、遅かれ早かれ崩壊は必ず来る。でも…再封印は、成功すればあと4000年くらい保つ可能性だってあるんだろ?」
「…君は、楽観的すぎる」
「でも俺は信じたい。俺がコンラッドの世界を救う力があるんなら…やってみたい」
「どうしても…やりたいのかい?」
「うん」

 こく…っと頷く有利を、コンラートが熱い眼差しで見つめていた。



*  *  * 




『俺がコンラッドの世界を救う力があるんなら…やってみたい』

 有利の決意が、コンラートの胸を打つ。
 
 地球での日常生活を再開して、あんなに喜んでいたというのに…。

『あのさ、俺って学校ではあんまり人と関わりとかもってなかったんだけどさ、コンラッドに励まして貰って、思い切って声掛けてから何か良い感じなんだ〜』

 にこにこと笑いながら、夕食の席で色んな話を聞かせてくれた。
 些細な出来事であっても、有利が楽しいと思ってくれたのならコンラートにとっても嬉しかった。

 家族との団欒、学友との平和で掛け替えのない生活…。

 そんな穏やかな暮らしを、コンラートの為に捨てようと言うのか?

「ユーリ…それは、いけない。君が一か八かの賭の犠牲になる事はないんだ…!」
「何言ってんだよコンラッド、俺…犠牲になる気なんてないよ?」
「え…?」
「俺はさ、あんたと一緒に幸せになるんだ。あんたが大好きな世界ごと、俺は絶対護っちゃうよ?」
「ユーリ…」

 とんでもなく大きな望みを、にっかりと笑いながら有利は宣言して見せた。

「その為に、俺はやりたいんだ。あんたが信じてくれたら…きっと、出来るよ?」
「ユーリ…君って子は……」
「ねぇ…信じて?コンラッド」

 微かに語尾を震わすのは、彼がコンラートに信じさせようと思っているほどには自信を持っていないからなのだろう。
 それでも彼は、貫こうとする。

 コンラートを、その故郷ごと愛してくれるから。

『ユーリ…俺は、君を愛して良かった…っ!』

 今こそ、そう確信する。

 初めて出会ったときには、彼は殺すべき対象だった。
 それが死なせる事を躊躇してしまう対象になり、護ってあげたい対象になり、愛おしい対象となり…今は、尊崇すべき対象となっている。

「ユーリ…俺と一緒に、行ってくれるかい?」
「うん、やろう?コンラッド…っ!」

 そんな二人を、村田は諦観に満ちた眼差しで見つめていた。



*  *  *

 


『あーあ…やっぱり、決めちゃうんだね…渋谷』

 ずっと…こうなるような気がしていた。 
 有利の真っ直ぐな気性は、どんなに隠していてもいつしか真実を見つけてそこに辿り着いてしまうと、村田にも何処かで分かっていた。

『それでも僕は、その日を少しでも後に回したかった…』

 大賢者としての役割にも目を塞いで、世界の崩壊も、友人の旅立ちも…可能な限り引っ張って、ひとときの幸せに浸っていたかったのだ。
 
『でも、そのリミットが今日だったってことなんだね?』

 だとすれば、村田は最大限の形で有利に援護射撃をせねばならない。
 自分の運命にも、向き合うしかない。

「渋谷、僕も眞魔国に行く」

 口に出してみたら、急に楽になった。

 ずっと目を背けていた宿題を机に並べて《さあ、やろう!》と宣言したら、まだ一問も解いていないにもかかわらず、《終わり》が見えたみたいな気分になっているのだろう。

「村田…マジ?」
「このタイミングで嘘なんかついてどうすんのさ。何しろ僕は大賢者様だからね、君に足りない脳味噌部分を補ってあげなくちゃいけないだろう?」
「赤味噌なんだか白味噌なんだか…」
「蟹味噌くらいにしておいてよ」

 どうも緊張感を欠く友人に同レベルの返答を寄越すと、村田はコンラートの方に視線を向けた。

「君も決めたんだね、ウェラー卿」
「はい…あっ…」

 肯定しておいてから、はっとしたようにコンラートは青ざめた顔で渋谷家の面々に向き直る。何しろ…彼はほんの一ヶ月前に、《地球に骨を埋める》と言ったばかりだったのだ。

「も…申し訳ありません……っ!」
「いやー…本当にねー…見事な無視っぷりだよねー…お父さんはかなり脇役気分だよー……」

 平身低頭するコンラートに、勝馬はすっかり拗ねきった声を出す。

「なぁーにが、《愛する人の父に、謀る言葉は持ちません》だよなぁ〜?」

 勝利も同様に眉目を歪めて不満ぷんぷん状態だ。

「本当に申し訳ありません…。ですが、ユーリと添い遂げたいという思いだけは今も変わってはおりませんっ!」
「そーでしょーともよぉおお…っ!そーやってお嫁さんってのは、お婿さんの所にいっちまうのさあぁ…っ!」

 勝利のシャウトが渋谷家のお茶の間を切り裂くが、そんな男連中の背中をぽんぽんと叩いて美子が慰める。

「ほら、あなた達が信じてあげなくてどうするの?ゆーちゃんは死にに行く訳じゃないのよ?花婿一家の大ピンチを救い、地球に晴れ晴れと凱旋するために行くんだから!笑顔で見送ってあげなさいよ!」
「お袋…良いの?」
「ナニ言ってるのよゆーちゃん!私たちの目の前で誓ったでしょ?今度は破ったら承知しないからね?」

 有利を抱きしめる美子の腕は…小刻みに震えていた。
 彼女もまた、彼女が家族に信じさせたいと思うほどには…強くはないのかも知れない。

 それでも、思いを枉げない事にかけてはやはり、彼女は息子と同様の頑固さを持ち合わせているのだ。

「勝って帰ってきなさい、ゆーちゃん!ママはゆーちゃんの艶姿を目に収めるまでは、死んでも死にきれないんだからね…っ!」
「うん…うん、絶対…帰ってくるからね…っ!」
「うん…っ!その意気よっ!!」

 そんな美子の姿を見ては、勝馬も勝利も項垂れつつ認めるしかなかった。
 
「やれやれ…やっぱり母は強しってことだね」
「そうですね…」

 村田はバリバリと頭を掻くと、もう一度コンラートに向き直った。
 
「本題に戻すけど、君は決意をしたんだよね?ウェラー卿。何がどうなろうとも、あちらの世界に戻って渋谷と共に世界の救世主を目指すわけだ」
「恐縮ながら…」
「だったら、君はもう一つ決断しなくてはならない」

 村田の申し出は、その場にいた全員の度肝を抜くものであった。


「ウェラー卿、君は左腕を身に帯びなくてはならない。君の…祖父の腕をね」





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