第33話






 有利の視界の中に、信じがたい情景が飛び込んできた。

 何もないはずのブルーシート上空が不気味な形に引き裂かれ、そこから女の子が必死に封じようとしていたドロドロと同系色の何かが、ゾロリ…と垂れてきた。

『どこかで見たことある…』

 何だったろうか?
 思い出したくもないような不吉な何かを、有利は既に何処かで見たことがある。

 しかし、明確に思い出す暇(いとま)を与えることなく、垂れてきた何かは《ピクン…っ》と餌に気付いた深海魚のように震えると、ぎょろりと目玉に似た突起をこちらに向けた。
 それも、人間の目玉ではなく…ミラーボールのように多くの面を持つそれは、蠅の複眼めいていた。

 途端に、そいつは形状を変えた。
 スライムのように実体の不明瞭だったものから、もっと鋭角で…昆虫を思わせる形を取ったかと思うと、激しく羽ばたいてこちらに向かってきたのだ。その姿はまるで、百足(ムカデ)が無数の羽を得たかのような形状であった。


『見つけたぞ…っ!』

 
 呪詛めいた声音は、洞穴の中を吹き抜けていく風にも似ているが、それよりももっとおぞましい…臓腑を凍てつかせるような響きを持っていた。

 しかもそれは、《あちら》の世界の語句だったのだ…!


 シャアァァ……っ!!

 
 どろりと垂れていた時からは想像も付かないような速度でそいつが動くに至って、漸く有利はどこでそれを目にしたのか思い出した。

『こいつ…あの、《禁忌の箱》ってやつに似てる!?』

 喉まで出かかっていた忘れ物を思い出すと、大抵はスッキリする。
 だが、この場合はそんなスッキリ感に浸っている場合ではない。

『来る…っ!』  

 恐ろしさから反射的に目が閉じそうになるが、生来の負けん気で《ぐっ》と臍下丹田に力を込めて踏みとどまる。
 慌てて変な動きをするのが一番拙いのだ。

 だって、有利には…絶対的な守護神がいるのだからっ!


 ギィィン…っ!


 鮮やかに宙を舞う刀身が銀色の光を弾き、下から斜め斬りに怪物の頭部を裂いた。
 魔族の鍛えし剣を振るうは、眞魔国の英雄…ウェラー卿コンラートだ。

「コンラッド…っ!」
「他の人たちと一緒に、隠れていて!」
「う…うんっ!」

 コンラートが上手く日本刀から引き剥がしてくれたおかげで、有利は身体の自由を取り戻していた。
 まだ少し痺れたような感覚はあるが、逃げ出せないほどではない。

「渋谷君…あ、あれ…一体なに!?」
「高梨さん、説明は後でね!とにかく…大丈夫、コンラッドがいるからね!」

 確信を込めて高梨を宥めると、気丈な少女は頷いて見せた。



*  *  * 




『渋谷君が、落ち着いてる…』

 わりと《あわてん坊気質》の彼がここまで動揺することなく落ち着いているのだ。コンラートに対する信頼は絶対的なものがあるのだろう。

『だったら…このまま、騒がずにいよう』

 今、何が起こっているのかを情報がないところで考えてみたってしょうがない。それよりも、誰か一人でもヒステリックに騒いだりすれば、取り返しのつかない事態になるような気がする。

 高梨は努めてゆっくりと呼吸すると、恐怖に叫びだしてしまいそうなメイク担当者の手を握った。
 《大丈夫》…高梨自身、そうと分かっているわけではないのだが…ゆっくりとそう囁きかけると、女性は肩の力を抜いた。

『頼むわ、コンラートさん』

 高梨はポケットに仕込んでいたカメラの事を思い出すと、コンラートに向かって構えた。ファインダー越しに視点を定めると、気持ちが不思議と落ち着いてくる。

 日本刀を構えたコンラートは、撮影の為の殺陣とは全く質を異にする気配を湛えてそこにいた。無駄に周囲へと放散される気などない。全てを一点に引き絞るような集中は、純粋に戦闘の為の《気》を感じさせた。

『綺麗…なんて、綺麗なのかしら?』

 全てが完璧に融合したコンラートの構え、気迫の全てに魅了されて、高梨はカメラに集中した。



*  *  * 


 

 対峙は続いている。

 怪物の頭部を切り落としたはずなのに、キリ…キリ…っと体幹を捻っていくと繰り出し式のペンのように頭部が伸び出してくる。
 
 有利は他の連中に《逃げろ》と叫ぼうかとも思ったが、コンラートはその指示を出していないことに気付いて、ぱふりと口元を覆った。そうだ…きっと、これが異常事態であることを認識してしまったらパニックが起きる。
 狭いスタジオ内で逃げまどう人々は互いにぶつかり合って、思わぬ惨事を引き起こすかも知れないし、確実にコンラートの邪魔になる。

 それくらいなら…息を呑んで、そのまま同じ場所で固まっていてくれた方が良いだろう。 
  
 真鍋も同じ事を考えているようだ。慌てふためくことなく、穏やかな物腰で指示を出している。

「嘉瀬君、手が止まっているよ?」
「え…あ、は…はいっ!」

 そのちいさな一言だけで、スタッフ達はこれが何か《サプライズ的な演出》の一つだと思ったらしい。すぐに仕事人の顔に戻ってカメラを構え、コンラートと怪物の一挙手一投足も見逃すまいと集中する。

 じり…っ

 間合いを計り、摺り足でコンラートが動いたかと思うと…高速で踏み込んだ。



*  *  * 




 意識が、覚えのある感覚を載せて一点に集中していく。
 けれどそれは近視眼的になったことを意味はせず、このような時にはどんな方向からの攻撃にも瞬時に反応できる。
 今、コンラートの身体感覚は意識以上に敏感になっており、長年培った戦闘能力が思考の枠を越えて敵に反応せしめるのだ。

『俺は…戦える』

 久しぶりの確信だった。
 
 腕を失ったことで、我知らずコンラートは自分に対する自信を失っていたらしい。それでも充足していたかのように感じていたのは、きっと小さく纏まろうとしていたせいに違いない。

 利き腕一本のみで握った剣はしっくりと掌に馴染み、残された身体の全てがその動作をフォローしている。

 視覚ではない何かの感覚…肌合いから伝わる変化によって、考える前に身体が動いていた。

「は…っ!」

 シャアァアア…っっ!!

 咆吼を上げて襲いかかる怪物は《ギィン…っ》と刀に牙を弾かれると、今度はコンラートを取り巻こうとして長い胴をしならせる。

『こう…動くか…っ!』

 脳裏に閃くように、怪物の次なる動きが推測される。
 コンラートは剣を高く掲げると、巻き付いてきた胴が締め上げるその一瞬の隙をついて跳躍し、一刀のもとに幾重にも巻かれた胴と新たな頭部とを寸断していった。

 ギシャ…っ!
 ギァア…っ!!

 断末魔の呻きをあげた怪物はのたうち…恨みがましげにごろりと転がった頭部がコンラートを睨み付けた。
 しかしその口は本体と分離されたにも関わらずガクガクと動き、呪詛めいた言葉を吐き続ける。

『腕がない…腕がない』
『何故だ何故だ…』
『鍵はどうしたぁあ…っ!』

「なに…?」

 動揺させる手管なのかどうかは分からない。
 だが、あちらの世界の言葉を紡ぐぎしぎしとした声音は、構うことなく呻き続けていた。それも、高い音や低い音、テンポの速い音や遅いものが入り乱れてスタジオ内に響くから、聞き苦しいことこの上ない。まるで断末魔をあげる蝉のようだ。

『嫌だ嫌だ』
『このままでは持って行かれる…』
『土のみが、鍵も箱も同じ場所に集うておるのに…』

 その言葉に、コンラートは激しい衝撃を受けた。

『土の鍵と箱が…同じ場所に揃っているだと?』

 土…それが差し示す箱と言えば《地の果て》…それは、コンラート達が地球にやってくる要因となった、あの《禁忌の箱》ではないか。

『そうだ…あの時、《禁忌の箱》の力を直撃される形で疲弊しきっていた小シマロンの軍が、離れた場所に展開していて無事だった眞魔国軍に適うはずがない。《地の果て》は眞魔国に運ばれたのではないか!?』

 人間の地にあるよりは保管性が高いとはいえ、逆に言えば、正しい鍵を持つ魔族が無自覚に触れてしまう可能性も出てくる。
 
 誤った鍵ですらあれほどの危機をもたらしたというのに、真の鍵によって開かれれば、一体どのような事態が生じるのだろうか?
 正しい鍵によって再び正確に封印し直せる可能性もないではないが…草創期の眞魔国に見られたような強力な魔力の持ち主でなければ、暴走させてしまう可能性の方が遙かに高い。

 強い魔力持ち…と思い浮かべ、更にはウルヴァルト卿エリオスが開放を促せるほどに《近い鍵》であった事に気付くと、そこで思い浮かぶ人物にコンラートは慄然とした。


『兄上…っ!』


 土の要素を司る彼は…鍵に最も適合した人物なのではないだろうか?
 少なくとも、そうであると目され、狙われる危険性が最も高いだろうことは間違いない。
 
 コンラートの脳裏に、箱の鍵として使われた為に左目を無惨に潰されたエリオルの姿が蘇り、次いでその姿がグウェンダルのそれに置き換えられる。

『兄上…兄上……っ!!』

 悲鳴をすんでの所で堪えるが…喉は引き連れたように強張り、顔色が真っ青になっていくのが分かった。

『おお…おお…っ!呪われろ土よ…っ!』
『我は諦めぬ…。こうなれば、眞王の桎梏をなんとしても逃れ、我が生み出し世界を疾風の住処に戻そう』
『風よ…風よ、我が眷属よ…っ!』
『眞王の桎梏を抜けたその時は…覚えておれ!』


『我が一部であるその魂…必ずや貰い受けるぞ…っ!!』

 
 ギォオオ……っ!!


 裂け目の中にのたうっていた怪物の付け根部分が引き戻されていくと、じわ…っと傷口が急速に治癒するようにして裂け目は消え…気が付けば、何事もなかったかのように消えてしまった。

 怪物の断片が当たってひっくり返ったライトはそのままだったが、断片自体は段々と輪郭が朧気になったかと思うと、そのまま消失していった。

 人々が呆然として何もない空間を凝視していたとき、不意に朗らかな笑い声が響いた。
 
「あっはは…。いやぁ…お騒がせしてしまったね。友人に頼んでハプニング映像も撮ろうと思ったんだけど…やり過ぎちゃったな。スタジオが荒れてしまったね」

 《あはは、ゴメンゴメン》と屈託のない笑い声を上げて真鍋が片づけを始めると、スタジオ中から《は〜…》という溜息が漏れた。真鍋の言うことを何処まで信じているのか分からないが、ともかくも異様な衝撃が去ったことを知ったのだ。

「真鍋さん〜…意地が悪すぎますよ!言っといてくれたら良かったのに!」
「それじゃサプライズにならないでしょ?」

 結局その場は真鍋が纏めて、コンラートと有利には控え室で着替えるようにと促した。
 この人物…ボブの知人だけあって、徒者ではない。



*  *  *

 


「えと…高梨さん、吃驚したねぇ」
「ええ、あの怪物とあなた達が意思疎通していたのにも驚いたわ」
「……ええぇ〜と。そうだっけ?」

 着替え終わって、解散という時間になってから有利が高梨に話しかけてきたので、《どこまで話してくれるのかしら》と思いながら、気づきを口にしてみた。
 だが…なかなかにこれは話しにくい内容であるらしく、有利は口をもごもごさせている。

「別に良いわ、話し難ければ…言わなくても良い。私の願いを叶えてくれたんだから、それ以外のことは大目に見るわ」
「高梨さん…」

 実際、良い写真が撮れた。
 高価な機材を使っているプロの写真に比べれば照準が甘いものかも知れないが、それでも高梨自身が《美しい》と感じてシャッターを切った映像だ。
 きっと、宝物になる。

「ありがとう、渋谷君。私…満足だわ」
「う、うん…」

 有利はもじもじと何か考えるようにしていたが、結局、何かを切り出すことはなかった。けれど、言い出せないことに何か忸怩たるものを感じているようだったから…高梨は一言だけ付け加えた。

 信頼は得ようと思って得られるものではない。
 信頼して貰おうと思ったら、まずは自分が下駄を預けなくてはならいだろう。

「ねぇ…これだけは聞いておいてくれる?」
「なに?」
「私から、渋谷君が言いにくいことを聞きたがったりはしないわ。でも、覚えておいて…あなたが話したくなったら、私は先入観無しで聞く。それでなにか解決になる訳じゃなくても、話したくなったら話して頂戴」
「…っ!…う、うんっ!」

 有利はこくこくと頷くと、元気に別れの挨拶をして立ち去った。
 勿論、コンラートと共に。



*  *  * 




 帰路の間中…コンラートは黙り込んでいた。
 見るからに顔色は悪く、激しい動揺に吐き気すら覚えているようだ。

 戦闘の激しさによるものでないことは明白だった。

『あいつ…土の箱と鍵が、一緒にあるって言ってた』

 それが何を意味するのか、有利なりに考えてみると…出て来たのは、コンラートにとって大切な仲間が鍵として狙われ、危険な目に遭う可能性だった。
 きっと今すぐにでも故郷に戻り、仲間を救いたいと願っているに違いない。

『コンラッドは《地球に骨を埋める》って、ついこないだ約束してくれた。それは生半可な決意じゃあなかったと思う』

 だがそれは、前提条件が違っていたからではないのか。

 元々、コンラートは故郷を追放されたことを恨んで、戻りたくないなどと思った訳ではない。
 戻りたくて…大切な人が大勢いたのに、戻ることで余計に彼らを危険な目に遭わせることになるのだと村田に説得されたから、地球で生きていくことを決めたのだ。
 戻らなくても、コンラートさえ二度と姿を見せなければ、大切な兄も幽閉を解かれるだろうと信じて…。

 その前提条件が今、どうやら崩れようとしている。

『一番危ないかも知れない人って、お兄さんなんじゃないかな?』

 コンラートを救うために全てを擲って、庇ってくれた人。
 有利の首を落とし、缶に詰めて持ち帰れと命じた人でもあるが…。コンラートにとっては、一番大切な人であるに違いない。

 それに、怪物の衝撃で忘れていたが、あの女の子の事も気になる。

 《帰れ》《限界》《ウェラー卿》…《ローバルトの腕》。

 帰ってこいとは、コンラートに何をさせるつもりで言っているのだろう?
 そして、限界とは一体何が限界だというのか。
 ローバルトというのは、人名なのか?
 …一体誰の?

 ちらりと横目でコンラートを伺うと、右腕は眉の辺りを押さえ、左腕は…ひらりと袖が風に踊っている。無くした腕と、《ローバルトの腕》…何か、関連があるのだろうか?

「コンラッド…」
「ん…なに?」

 自分の事でいっぱいいっぱいだろうに…有利が不安げに囁きかけると、コンラートは優しげに微笑んで右手を有利の頭に載せてくれる。
 添えられた掌の感触が、今は切なかった。

「あのさ…村田と連絡を取ろうか?」
「そうですね…」

 村田は本当に、確信を込めて《眞魔国はこのまま放っておいても大丈夫》と言ったのだろうか?
 何か隠している事はないのだろうか…。

『あいつ…俺のこと凄く心配してくれてたもんな』

 彼は有利の事を本当に案じてくれている。
 とてもとても…おそらく、彼の魂が故郷としていた国家よりも強く、有利を想ってくれている。
 そうであるからこそ不安なのだ。

『あいつ、わざと何か隠してるのかも知れない』

 問いつめる事は、有利にとっても恐ろしい事ではあった。
 それは間違いなく、有利にとって辛い情報になる筈だからだ。

『だけど村田、俺は…コンラッドが辛いのが、一番辛いんだ…』

 伸ばされた手を掴み返して、二人は歩いていく。
 朧気に感じる言いしれない不安を、共に抱えながら。  

 
 
 

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