第28話 埼玉の市街地を、風変わりな二人連れが歩いていく。 一方は、これは分かりやすく変わった…色んな意味で平均的な日本人とは異なる外見をしている。 均整の取れた体躯と美麗な容貌が、まるで《王子様》と呼びたるなるくらいに麗しいのに、白皙の肌には幾箇所も傷痕があり、痛ましいことに左腕さえも失われている…のだろう。涼しげなサマースーツの袖が、左腕の部分だけ肩口からひらりと風に舞っている。 それでいて、人々の視線を気にした風もなく自然体で歩く様からは、彼が自己肯定感に基づく清涼な気風を持つことが感じられる。 年齢から言えば社会人になってすぐという様子なのに、不思議と落ち着いた物腰で、優美な歩様であるのも印象深い。 一方、連れだって歩いているしなやかな体つきの少年は、服装はごく一般的な学生服である。白い開襟シャツにストレートの黒いズボン。逆に今時珍しいくらいクラシックな印象のある学ランだ。 ただ…それ故に、その容貌の愛らしさは際だっていた。 つぶらな瞳はきらきらと朝日を受けて輝き、期待感に満ちてわくわくと弾むような印象がある。 すべらかな頬は速い足取りのせいか淡く紅潮しており、思わず指でぷくんと押したくなるような質感だ。押したいと言えば、下唇が少し《ふくっ》とした形良い唇や、ちょこんと飛び出したちいさな鼻もそうだ。 しかも少年からは、そのように整った容貌を持つ者独特の傲慢さが感じられない。寧ろ、自分の容姿には何一つ拘りを持っていないかのように思える。 それで行くと連れ合いの青年も《俺は俺》という雰囲気だから、まことにお似合いとも言える。 * * * 少年は弾むような足取りで信号を渡ると、連れ合いの青年を見上げて瞳を輝かせた。 「うっわ…久しぶりの学校だよぉ〜っ!」 「緊張してる?」 「コンラッドも、今日が初めての仕事だよね?」 9月1日水曜日…この日は、いよいよ2学期の始業式である。 日本に帰国してから草野球チームの面々とは何度か顔を合わせていたのだが、学校にはまだ顔を出していない。 職員室には顔を出しておいた方が良いかな…とは思っていたのだが、なんやかやと手続き等をこなしている内にこの日を迎えてしまったので、学校というものに近寄るのもこれが初めてになる。 学生服を着るのも久しぶりだ。 異世界に旅立った時に着ていた服は怪物の体液で汚れ、コンラートに燃やされてしまったので余計に感慨深い。制服を燃やされたあの時…自分の住む世界と決別させられたような衝撃を受けたが、その一方で、コンラートとの交歓を通してあの世界で生きていこうという腹も据わってきた。 それが今、再び有利を包んでいる。 家に置いてあった洗い替えとは別に、もう一着買って貰った新品の制服は、自ずと有利の背筋を正させるものであった。何気なく接していた…あって当たり前だと思っていたものを、もう一度新たな視点で見つめ直している気がする。 そういった気負いで緊張していたのだろうか?その日は結構早くに目覚め、昨日からマンションに引っ越したコンラートが余裕を持って7時に迎えに来た時にはすっかり支度が調っていた。 こんなに準備万端の朝を迎えるなんて、今までは野球の試合くらいだったのに…。 コンラートの方も今日が初出勤であり、勝馬の部下として勤務することになる。ただ、こちらは勤務とはいってもいきなり銀行業務に直接携わることは難しいから、オフィスでの自学自習も含めて、日本での生活に慣れていく手筈だ。 特に今日は、職場での挨拶回りに終始することになるだろう。 「良かったね。懐かしい友人達に、会えるんだね…」 「コンラッド…」 瞳を細めて微笑むコンラートだったが、その眼差しが向く先は有利を越えて…どこか遠くを見るようだった。 噛みしめるように呟かれる言葉もまた、思い入れ深いに違いない。 彼は、大きな責任を抱えていた人だ。 救いたい者…守りたい者が、国家規模で存在した人だったのだ。 その中には、きっと掛け替えのない友人達もいたことだろう。 『あれ…?俺って、学校にそこまでの友達っていたっけ?』 少し…ドキッとした。 異世界に居た時にも、そういえば家族や草野球チームのメンバーのことを思い出すことはあっても、クラスメイトや学校のことを思い出したことはあまり無いように思う。 同じ趣味を持つ生徒が少なかったこともあり、無難な日常会話を交わすことはあっても、そう深い話をしたことはない。 有利の所属する1年7組というのは、全体的に醒めた印象があったせいもあるかもしれない。個々では目立った才能を持つ生徒もいるのだが、それこそ個々に固まってしまって融和するということがなく、クラス全体で何かしていこうという気風が希薄だった。 『なんか…勿体ないかな』 《うちのクラスって、何か醒めてんだよなぁ〜…》体育会系の生徒が、何かの折りに漏らしているのも聞いたことがあるが、彼はしきりと纏め上手なリーダー的存在の名をあげ、《あいつがいてくれたら良いのにな》とか、《この学校って、2年でクラス替えあるよな?》なんて言っていた。早くも次年度のくじ運に掛けているらしい。 でも、何か縁あってこのクラスに所属することになったのだ。 何か…有利に出来ることはないだろうか? あれだけの事件を越えて帰ってきたこの世界なのだ、何とかして大切に育みたい。一日一日を、より価値あるものにしていきたい…。 『う〜ん…』 理想となる漠然としたイメージはあるのだが、いざ具体的な案を考えると足踏みしてしまう。 野球関係なら幾らでも音頭を取る有利も、クラスの中では完全に埋没しているタイプだから、そんな発心を急にしてもなかなかアイデアが出てくるものでもない。 「どうかしたの?」 「うーん…大したことじゃないんだけど…」 纏まらぬ思考のまま、つらつらと語ったのだけれど…コンラートは何度も頷き、相づちを打ったり質問をしたりして、丁寧に有利の話を聞いてくれた。 会話を交わせない時ですらコンラートと過ごす時間は有利にとって特別だったのだけれど、こうして話を聞いて貰うと彼の崇高な価値というものが更に強く感じられる。 彼は、とても大きな器を感じさせる人だ。 一方的に決めつけたり押しつけたりすることがないのに、自分の中には一本揺らがぬ芯を持っている。 きっと、誰もが思い悩んだり苦しんだりした時にコンラートを頼ったに違いない。そしてコンラートもまた、惜しむことなく対話を繰り返し、進むべき指針を与えていったに違いない。 《答えは、君自身の中にあるんだよ?》…それが、彼の基本指針だった。 答えを出すことを妨げているのは、大抵が答えが分からないためではなく、勇気がなくて必要な手だてを講じることを躊躇してしまうからだ。彼と話していると、しみじみとそれを感じる。 有利の場合は、《面倒くささ》と《照れ》であった。 自分の趣味の話が出来ないのに、わざわざ共通点のない相手に話しかけるのは何だか面倒臭いし、《そんなキャラではないのだから》と自分で自分に突っ込みを入れたくなる。 でも…誰もがそう思っていたら、集団なんてきっと纏まらない。 誰かに《そうしてくれたらいいのに》と願っても、誰もいないのであれば、その不在を嘆くよりもまず自分が動いてみたらどうだろう? 『ちょっと恥ずかしいけど…何か、話しかけたりしてみようかな?』 答えが、定まってきたような気がする。 そのタイミングを丁度狙ったみたいに、ぽんっと心地よく背中を叩かれた。 「行っておいで、ユーリ。相手の目を見て、名を呼んで…挨拶をしてごらん?そしたら、きっとユーリが望むものが見えてくる」 「うん…っ!」 元気よく頷くと、有利は校門に向かって駆け出した。 * * * 「面倒見が良いよねぇ…君って」 「猊下こそ」 有利を見送ってから勤務先に向かおうとすると、ブレザー姿の村田が電柱の影から現れた。 《話は全て聞かせて貰った!》とか言い出しそうだ。 「でも、これ以上渋谷が人の注目を浴びるようなことを勧めないで欲しいな」 「度を超えた美しさが現れてしまったからですか?」 「なんだ、気付いてたの?」 「原因は分かりませんし、最初は彼と恋仲になれた喜びでそう感じているだけなのかと思いましたが…周囲の反応を見ていれば、自ずと分かります。猊下…ユーリは、何か封印のようなものが解かれてしまったのではないでしょうか?」 「そうなのかもしれない。渋谷はその美質を周囲に気取られぬように、何らかの術を掛けられていたとしか思えないんだよね」 「原因はお分かりですか?」 「察しを付けてはいるよ、《あの馬鹿》の関与をね」 侮蔑を含む言葉で吐き捨てる村田が、誰を指し示して《あの馬鹿》と言っているのかはすぐに分かる。だが、不敬極まりないその台詞にすぐ同意するには、コンラートは眞魔国人として長く生きすぎていた。 「あいつが元々狙っていただろう事から推察すれば、おそらくは渋谷を《本当の恋》なんてものに填り込ませないためだったんだろうさ。つくづく…あいつは徹底的に渋谷の都合なんか無視していたんだと思うね 以前、村田が推察した内容からすれば確かにそうなのかも知れない。 眞王は自分の器となる双黒を手に入れるに際して、《平凡》であることを望んだ。だが、どんなに気が小さくて平凡に見える人物でも、一世一代の恋となれば思わぬ力を発揮することがあるし、自分という存在にも執着するだろう。 そうであれば、眞王が故意に有利を恋愛感情から遠ざけるため、魅惑的な容姿に誰も積極的には惹かれないよう操作していたことは十分考えられる。 何故それが外れてしまったのかも、おそらくは説明がつく。 それこそ、眞王自身が恐れていたことが現実になったわけだ。 『ユーリはずっと、俺に恋していたと言ってくれた…多分、初めて会ったときからだろうと。おそらく、その時から少しずつ眞王陛下の仕掛けた封印は解けかけていたんだ。それが決定的なものにならなかったのは、やはり両思いではなかったからだ』 片思いだって十分に力を発揮することはあるが、何しろ有利にとってはこれが初恋だ。コンラートに受け入れられるまではどうしたって自分に自信が持てず、それが恋であることにすら確信を持てなかったろう。 それが、互いに愛し合っているのだと知ったとき…有利は眞王陛下の封印を自ら破壊したのではないだろうか? 「そうであればこそ、ユーリは自分自身を護れるようになる必要がある」 「あれ以上魅力的になって…かい?」 「身を挺して彼を護りたいという、真の味方を作るのです」 「…ふぅん」 コンラートの言葉に、少し村田は感銘を受けたようだ。 「俺がユーリの傍に24時間寄り添って、完全に庇いきることは出来ません」 「物理的に可能なら、実にやりたそうだけどね…」 「ええ…まぁ……」 まさにその通りだが、そこは敢えてスルーする。 「人と触れ合うことは、強く求められ過ぎて害される危険性もありますが、同時に…恋や愛といった概念を越えて、真の友を得ることにもなります。そういう奴が、結局一番強い…。利害に関係なく、最後まで護ってくれるのはそういう奴です」 「君…自分以外の奴に渋谷が《恋や愛》を抱く可能性は考えてないわけ?」 「考えたくはありませんが、万が一そんなことになったとしても…俺はユーリから離れません」 激しい痛みに胸を裂かれることになるとは思うが…それでも、コンラートはユーリという存在そのものを祝福したいのだ。 コンラートの中の乾いて空っぽだった部分に、すっぽりと収まったあの愛おしい存在を、生涯愛し続けていたい。 綺麗事かも知れないが、それでも…彼には綺麗な心で臨みたい。 「全く…痒くて堪らないよ。グリエ・ヨザックといい、君と良い…眞魔国人って、四千年掛けて随分とロマンチックに熟成しちゃったらしいね」 「ヨザもですか?そういえば…ヨザはどうしています?」 ヨザックは地球に来てからやたらと村田の家に出入りするようになっており、甲斐甲斐しく掃除をしたり料理を作ったりしているらしい。 村田の方も、何だかんだ言いながら彼を受け入れているのだろう。ヨザックの事をぼやく声はどこか照れくさそうでもある。 「あいつは暫く街をうろついて見るってさ。夕食時になると一度帰ってくるんだけど、夜になるとまた出て、深夜に帰ってくるんだ」 それだけ聞くと《素行が悪い》としか表現できないが、彼は一級のお庭番だ。一般の社会人が知らない闇の中から、その世界の姿を彼なりに汲み出すつもりでいるに違いない。 村田の方もそれは分かっているようで、そう心配した様子ではなかった。 「ただねぇ…あいつ、白粉(おしろい)の香りをぷんぷんさせて帰ってくるのだけは止めて欲しいんだよね」 「そうですか」 ちょっと口角が上がるのは、村田なりに嫉妬しているのかと思ったからだ。 だが…相手がヨザックだとちょっと事情が違うらしい。 「だってねぇ、あいつ化粧がケバすぎるんだよ。《新宿二丁目って良いところですね》とか言いながら、毎日化粧品の数が増えていくんだよね〜」 「………そうですか」 《夜の蝶》を自負する友人の《艶姿》を思い出して、コンラートはちょっとこめかみに指を押し当てた。 * * * 『うっ…暑うぃ……』 及川光枝が誰もいない1年7組の教室に入ると、室内にはむっと噎せ返るような独特の臭気と熱気が籠もっていた。夏休みの間、部室には大勢の生徒が出入りしていたのだろうが、教室には誰も入らなかったのだろか? 素早く動いて窓や扉を開くと匂いの方は少しマシになったが、風がないことと、急いで動いたことが災いしてか余計に暑くなってしまった。 大体暑いだけならともかく、どうしてこう日本の夏というのはじめじめとした湿気を帯びているのだろうか?一応は9月に入ったのだから、《朝方くらいは少し涼しくなりなさいよ》と誰かに怒ってやりたいくらいだ。 しかも学生服という代物がまた厄介だ。一応は白い薄地のシャツが通気性をアピールしているものの、無風状態ではそれも意味をなさない。薄い分、下着が透けて余計に困るくらいなものだ。 及川は細身の銀縁眼鏡を引き上げると、自宅の庭から持ってきた華を小瓶に生ける。 小瓶自体は及川がこの学校に来た時からあるものだが、長年本来の用途に使われていた形跡はなく、棚の片隅に追いやられていた。 『折角良い小瓶なのに、勿体ないわ』 青磁の小瓶には、花弁が小さくて茎がほっそりと長い華がよく似合う。 ただ…そのシルエットを眺めていると、少し及川のコンプレックスも刺激された。小瓶を支えるぽっちゃりとした指が疎ましい。視線を巡らせて、太い二の腕や脚を今更確認する気にもなれない。 『あーあ…この華みたいに、すらっとしてたらなぁ…』 そうしたら、もう少し周囲の視線を惹きつけることが出来たろうか? 入学した時からほぼ毎日華を生けているのだが、担任教師以外がその事に気づいたことはない。 凄く賞賛されたい等と思っているわけではないのだ。ただ…極めて地味で、人前に出ることが苦手な及川でも、時々は自分がしていることを認めて欲しいな…と思うこともあるというだけだ。 いや、もっと言えば…《存在を知っていて欲しい》というのに近いだろうか? 中学の頃のように、単に《地味だから》という理由で苛められることもない代わり、高校にはいるとみんなそれぞれ興味のある方向性に固まってしまうから、手芸好きで大人しい及川は自然とクラス内のグループから外れてしまった。 クラブの時間はそれなりに手芸部で過ごせるのだが、それでも…ホームルームクラスで何となく居場所がないというのは切ない。 そんなことを考えながらコトン…と窓側の棚に小瓶を載せていると、がらりと教室の扉が開いた。 「あ、及川さん」 「渋谷…君?」 吃驚した。 色々吃驚しすぎて、一体自分がどこに吃驚しているのかよく分からない。 「おはよう!」 屈託無く笑う表情のあまりの鮮やかさに…及川はくらりと脳貧血を起こしそうになった。 『渋谷君…って、こんなに綺麗だったっけ!?』 《可愛いけど、ちょっと子どもっぽい》というのが、一学期間の渋谷有利に対する総評であった。地味な及川ですらそういう評価だったのだから、おそらく周囲の派手派手しい面子から見たら一層低評価であったはずだ。 そう、1年7組はどういうわけだかちょっと派手目で主張の強い生徒が揃っている。それでも、特に衝突することもなくここまでやってきたのは、互いに干渉しない主義でもあったからだ(その分、諍いもない代わりに纏まりもないクラスだったのだが…)。 しかし、今の有利はどうだろう? 『きっと…瀬名君より、ううん…高梨さんよりも綺麗だわ…』 1年生にしてバスケ部のエース候補の瀬名海斗の顔を浮かべかけて、すぐに系統をモデルを務める美少女高梨瑞穂に切り替えたことは、有利には秘密だ。有利の容貌から溢れる魅力は瑞々しく、見ているだけで心浮き立つものがあるが、その華やぎは青年というより乙女を思わせるものであった。 『まさか…夏休みの間に整形したとか?』 いや、一月期の間特に注目して見ていたわけではないが、造作が変わったという印象はない。どちらかというと纏っているオーラが変わっているように思えるのだから、整形でどうにかなるものではないだろう。 それに筋肉信奉家という噂だから、間違っても乙女方向に整形することはあるまい。 『何か精神的な事で、内側から変わったってこと?』 そう言えば…夏は青少年を劇的に変えることがあると聞く。 実のところ、及川だってその説に夏休み前までは期待を掛けていたのだ。 だが…何一つ変わらない自分に、《変わらないことの方が多いのよ…多分》と言い聞かせていたのだが、有利にはその劇的な何かがあったのだろうか? そういえば、有利は7月の上旬に《家庭の事情》とやらで欠席を続け、そのまま夏休みを迎えていた。クラスの中では一日だけ《不登校か?》などと噂になったが、それほど目立つタイプでもなかった有利のことは、次第に忘れられていった。 しかし、その間…有利には何か大きな出来事が起きていたのだろうか? 『良いなぁ…羨ましい』 男の子なのに容姿が可愛いだけでも羨ましいというのに、そんな美麗オーラまで獲得してしまうなんて、世の中とはなんて不条理に出来ているのだろう? 有利はふと及川の手元に目線を送った。 「あ…また華生けてくれてんだ。一学期からずっとしてくれてるよね?」 「知って…たの?」 また吃驚した。 今日は一体どうしたというのだろう。渋谷有利に驚かされっぱなしである。 「うん。あ…お礼ずっと言ってなかったよね。ありがと!」 「お礼なんて…」 苦笑しながら俯くが、《ありがと!》の響きがとても鮮明で…暖かくて、じんわりと心に染みて来た何かが、及川の中に込みあげてきた。 丁度《気づいて欲しいな…》と思っていたことを何気なく掬い上げ、賞賛してくれたことが予想以上に嬉しくて、下手をすると泣いてしまいそうだったのだ。 このタイミングで泣いたりしたら、きっと変に思われるだろう。 有利は少し迷いながら自分の席を見つけると、ほっと安堵したように木製の天板を撫でつけた。どうしてだか…とても、懐かしそうな…大切な宝物を見つけたような微笑みと共に。 「ねぇ…渋谷君、7月からずっと休んでたよね?何かあったの?」 「うん…ちょっと事情があってさ、気が付いたらスイスにいたんだよ」 「気が付いたらって…」 引き込まれるようにして、気が付いたら有利の向かいの席に腰を下ろしていた。 無意識のうちに、及川としては不思議なくらいの積極性が出ていた。それだけ興味を覚えたというのもあるが、それ以上に、有利が以前よりも親しみやすい雰囲気を醸し出していたからだろう。 《何か聞きたい、聞いて欲しい》…自然とそんな気持ちになった。 実際、話し始めると《スイスにいた》事情というのは少し要領を得なかったのだが、逆に及川がどんなことをしていたかを聞いてくれたものだから、何だか楽しくて会話に熱中していた。 |