第26話 ドキドキと恥ずかしいくらいに鳴り響く胸の鼓動と、痛いくらい熱くなっていく頬を持て余しながらコンラッドを見つめれば、彼の冷たくて大きな手が頬を撫でつけてくれた。 コロンなどはつけていないはずなのに、彼独特の香りが漂って…頭の中心がくらりととろける。 このまま、コンラッドという存在の中に溶け込んでしまいそうだ。 「…」 ガクン…っ! コンラッドが何か言いかけた時、突如として機体がぐらついた。 「わひゃっ!?」 「……っ!!」 咄嗟にコンラッドが胸の中に庇ってくれたのだが、流石に隻腕では支えきれない。膝立ちになっていたせいもあってか、均衡を崩して倒れてしまう。 ベッドの上で倒れたわけだから…当然、有利は押し倒されているような形になった。 そのままガタガタと機体は揺れ続けたが、暫くすると再び静かになった。おそらく、一時的にエアポケットに入ってしまったのだろう。 「ユーリ…俺の好きな人を、知りたい?」 「ふへ…っ!?」 唐突に囁かれた言葉は耳孔に直接吹き込まれたものだから、産毛が逆立つほど耳朶が熱くなってしまう。 「俺は…」 言いかけたその時、扉が開かれてクルーが飛び込んできた。 おそらく怪我がなかったかどうか確かめようとしてくれたのだと思うが…甘い大気が漂う室内環境を察すると、発し掛けた言葉をグっと飲み込み…慌てて《失礼しました!》と退室していった。 「………………」 意を決していたのだろうコンラッドは、気勢を挫かれてがくりと脱力している。 これってこれって…どういう事だろう? 『もしかして…』 …と、期待感がわき出してくるのだが、コンラッドの方は余程ばつが悪かったらしく、顔を右手で撫でると身を起こして有利から離れていこうとする。 それが寂しくて…有利は力一杯コンラッドを抱き寄せると、衝動的に眞魔国語で叫んでいた。 「コンラッドが…好き、だよ…っ!」 喘ぐように、つっかえながら叫ぶ言葉はあたりにも幼稚で、頭に描いていたどんな告白よりも格好悪かった。 だけど…それでも、もう体面とか何とか考えている余裕はなくて、思いを込めて…ただ伝えたいと思った。 すると…もやもやとしていた胸の中が一気に晴れ渡り、瞳の奥のもどかしいような濁りがサァ…っと澄み渡っていくのを感じる。 その時、何処かで《パリン…ッ》と何かが砕けるような音が聞こえたのだが、それが何なのかは分からなかった。ただ、有利を見つめるコンラッドの眼差しが、は…っと鮮烈な色合いに輝いたのだけは分かった。 「好き…コンラッドが、誰よりも好きだよ…」 喉がからからに渇いて、ひりつくような痛みが咽頭を掠める。 それ以上に苦しいのは胸の中で、胸骨の裏側がせり上がるような感覚があった。 「……先に、言われてしまったな」 「え?」 「俺も…好きだよ、ユーリ…。君を…愛している」 はにかむように微笑みながら、コンラッドはこつんと額を合わせてくる。 言葉が完全に有利へと浸透するまで何秒か掛かり、実感へと変化するには更に多くの時間を要した。 「参ったな…もっと素敵に伝えたかったんだけどね」 「お…俺も俺もっ!」 こくこくと勢いで頷いていたら、その頬にコンラッドの右手が沿わされて…唇を寄せられた。 『わ…わ……っ!』 薄くて形の良い唇は触れると少しひんやりしていて、触れ合う粘膜の感触に頭蓋内が爆発しそうになった。 キスを、してる。 大好きな人と…唇を合わせている。 肌の一部が触れ合ったというだけでこんなにも感情が高ぶるなんて、初めて知った。 す…っと名残惜しげに唇が離れていくと、コンラッドは《愛おしくて堪らない》という感情を迸らせて有利を抱きしめた。有利もまたコンラッドの腰に手を回し、彼の存在全てを感じ取りたいとでも言うように身を擦り寄せていった。 「コンラッドは…いつから、俺のこと…好きだった?」 「もしかすると…初めて君を見た瞬間に、恋に落ちていたのかも知れないね…」 「俺も…そうかも。でもね?気が付いたのはあっちの世界から地球に連れ戻される時、コンラッドと引き離されそうになった時だよ?あんたと…どうしても離れたくなかったんだ…っ!」 「俺は、ヨザックが君を殺そうとした時かも知れない」 「そっかぁ…」 追いつめられたその時に、二人は恋心を自覚していたのか。 「好きだよぉ……」 《好き》という言葉が体中から溢れ出して来るみたいだ。 ふつふつ…ふくふく…暖かくて、胸がじゅうん…っとするような感触に包まれながら、有利は不器用な仕草でコンラッドに唇を寄せていく。 もっともっと…コンラッドを知りたい。 深く、触れ合いたい。 けれど、コンラッドは名残惜しげではあったのだが、ゆっくりと身を起こしていき…唇もまた離れて、濡れた粘膜が空気に晒されて冷えてしまう。 その唇をやさしく指先でなぞりながら、コンラッドは甘く囁いた。 「これ以上のことを、しても良い?」 「してしてっ!むっちゃして欲しいっ!!」 「うん、だけどここでは流石に拙いよね?」 「う〜…そ、そっか…やっぱ、駄目…?」 上目づかいに様子を伺うと、コンラッドは困り果てたように掌で顔を覆ってしまう。 「ユーリ…頼むからそんなに可愛い顔でおねだりしないでくれるかな?それでなくても可愛いのに…参ったな。恋心が通じたと思った途端、君の魅力が倍増したみたいにきらきらして見える…。眩しすぎて、理性を蕩かされてしまいそうだ…」 狂おしげに囁く言葉が、殺人的に色っぽい男に言われたくない。 ただ、初めて知る恋の熱気に煽られて前後の見境が無くなっている有利とは違い、コンラッドの方は状況をよく考えているようだ。確かに…友達と一緒に乗っている機体で、それも、ボブの会社が経営しているプライベートジェットの中で、何かイタしてしまうというのはかなり恥ずかしい。 「…つか、あのさ…コンラッド。恋人同士って…これ以上だとどんな事するのかな?コンラッドは男同士のエッチって知ってる?」 「…一応ね」 何となく濁しつつの返答が気になる。コンラッドは百歳以上の年齢と聞くから、そりゃあ色々と経験豊富だろうし、女体を知らないと言うことはないと思ったのだが…もしかして、男体の方も熟知していたりするのだろうか? 「う…うぅ〜…俺の優位期間って短かったなあ…。やっぱ、コンラッドの方が何でもかんでも知ってるんだもんっ!」 「そんな事ないさ。まだまだユーリに教えて貰わなくちゃいけないことがたくさんあるよ?」 そうは言いつつも、先ほどからテンパリ過ぎて日本語しか使っていない有利に対して、コンラッドは滑らかな日本語で会話してくれているのだ。僅か一ヶ月足らずでこんなに吸収してしまっている人相手では、色々と分が悪い。 「そっかなぁ〜?」 疑わしげな有利を宥めるように、鼻の頭にキスをされた。こんな所まで子ども扱いされているようで、ちょっと悔しかった。 * * * 『…あれ?』 リビングルームに戻ってきたコンラートと有利は、手を繋いでいなかった。 それだけではなく、少しよそよそしい態度を取り合っていて、そこはかとなく視線も逸らし気味だ。 しかし、それが仲違いしたわけではなく…寧ろ、もたもたと足踏みしていたこの二人が何か大きな壁を越えてしまったらしいことは村田の目に丸わかりであった。 わざと逸らされている眼差しがたまに交差した時、灼けてしまうほどに熱い感情が滲むのだから分からないはずがない。 瑞々しい有利の美貌には磨きが掛かり、村田の心を引き裂く為に研ぎ澄まされたかのようだ。 この愛らしくて堪らない人が…今、明確にコンラートの《もの》になったのだ。 そう直感した。 「渋谷…ウェラー卿と、ヤっちゃったの?」 「…はぁっ!?」 背筋がざわつくような感覚を味わいながら、思いっ切り直球で聞いてしまったのだが…どうやらそこまでは行ってないらしい。 「ちちちちちち…違うよっ!チューしただけっ!」 「そうか、キスはしたんだね?」 「あ゛ーっっっ!!」 思いっ切り自白してしまった有利は、首筋まで紅く染めて悶絶していた。 「はわわ…っ!む…村田……俺がホモになっても嫌いにならないでねっ!渋谷菌が感染るとかいって、棒で突かないでっ!」 「しないよ…そんなこと」 それでも、声はどこかつっけんどんな物になってしまい、有利がおろおろと頬を両手で包むのを横目で見ながらトイレに向かった。 有利の幸せを祈り、コンラートと結ばれても仕方がないと認識してはいたのに、やはり《とうとう奪われてしまった》という思いは情動に直接訴えかけてくるらしい。 「村田…どうしたの?」 「何でもないよ。ちょっと…酔っただけ」 「んじゃ、ついて行こうか?」 「ううん…平気」 「俺が行きますよ」 ヨザックは悠々と村田を抱き上げ、お姫様抱っこでトイレに向かった。 「ちょ…っ!」 「行きましょう…猊下」 危なげない足取りでヨザックが向かった先はトイレではなく…先ほど有利たちがいたベッドルームだった。そして、広々としたベッドに丁重な仕草で横たえる。 「…何のつもり?」 「気分が回復されるまで、横になっておられたら良いですよ。なーに…その内、平気になってきます」 「適当なこと言うな…大体、図々しいんだよ君は…っ!何でも分かっているような顔をして、僕が傷ついているのも本当は笑ってるんだろ?大賢者なんていっても、唯の経験不足な子どもだってね!」 ずっとずっと好きだった人が、分かっていたこととはいえ…決定的な形で人のものになったのだ。今のこの苦しみが、完全に消えて無くなる日が来るなんて思えなかった。八つ当たりだと分かっていても、ヨザックに酷い言葉をぶつけてしまう。 けれど、ヨザックはちいさな子どもにするみたいに優しく髪を撫でつけるのだった。 蒼い瞳は深い慈愛を湛えて注がれ、少し厚みのある男らしい唇はやわらかい笑みを浮かべ続けている。 「好きなだけ悪態をついてください。グリ江は打たれ強い乙女だから、何を言われても平気ですよ?」 「乙女って柄かよ…っ!」 「あらぁ…そういえば猊下にはお見せしてませんでしたよね?グリ江の素敵な乙女姿…。ねぇ、日本についたら絶対に見てくださいよ?」 「腹を抱えて笑ってやる!」 「ええ、あなたが笑ってくださるなら…グリ江は乙女冥利に尽きます」 何を言っても屈託なくヨザックが笑うから…村田は結局、髪を撫で続けることを許してしまった。 * * * 『可愛らしい、大賢者様…』 深い叡智を湛えながら、自分でも分かっているようにどこか《子ども》の部分を色濃く持つ村田健。ヨザックにとっては日に日に愛しくなってくるこの少年に、幸せになって欲しかった。 「俺には、何を言っても大丈夫です。猊下のお嫌な事はしませんし、いちいち傷ついたりはしません。ですけどね…これだけは信じてください。決して、俺はあなたを嗤ったりなんかしない…。一途で可愛らしいあなたを嗤う者がいたら、俺は必ずそいつに地獄を見せてやりますよ」 「…嘘ばっかり」 「嘘なんか、言いません…」 「信じられるもんか…」 すっかり拗ねまくっている村田に、それ以上自分を押しつけようとは思わなかった。 「それでは、信じて頂けるまでお側にいさせてくださいね」 「…………君は、故郷で上官と運命を共にしたいって言ってたじゃん…」 「あの時はあの時、今は今です」 「満ちては欠けていく月のように、不安定な誓いだな」 「月を信じることは出来ませんか?たとえ一時は欠けたかに見えても、真の姿は決して欠けることなく恒常に在り続けるというのに…」 「……そんなにロマンチックな台詞、君らしくないからよしなよ」 「ハイ。そーですねぇ」 苦笑してすんなり頷くと、村田はちょっとだけ笑った。 『あ、良い笑顔』 口にしたら引っ込めてしまうだろうから、敢えて直視しないようにして瞼を伏せたが、その表情は…ずっとヨザックの心に残り続けていた。 * * * 「ゆーちゃぁあ〜ん、元気だったーっ!?」 「渋谷ーっ!」 空港に降り立つと、渋谷家ご一同に加えて、なんと草野球チームの面々までが有利を迎えに来てくれた。 「わぁあっ!みんな…来てくれたのっ!?」 「当たり前だ!」 「全く…心配させやがってぇ〜っ!」 「誘拐されて、スイスで救出されたって聞いた時には腰が抜けるかと思ったぜ?」 草野球チームの面々には社会人が多いので、平日の日中ということもあって全員集合とは行かなかったが、それでも最古参のメンバーや学生は全員揃っていた。 みんなわしゃわしゃと有利の髪をかき回し、感極まったように瞳を潤ませたり、がっしりと抱き寄せて《無事で良かったなあ!》と叫ぶのだった。 ただ、その中の一人…少々癖のある神辺が、有利の顔を掴むとまじまじ見つめて妙なことを言い出した。 「渋谷…って、こんなに色っぽかったっけ?」 神辺はゲイであることを公然と明かしている堂々たる(?)男色家だが、有利に対してはこれまで《カワイイけどレーダーが反応しねぇ》と宣言していたのだ。 それが…一体どうしたことだろう? 「……はい?」 きょとんとした顔で有利が小首を傾げれば、《なに言ってんだ》と笑っていた連中までが目を見開いて見惚れてしまう。 「いや…だってさ、お前さん…可愛い顔してるのにがさつで色気がねぇとばっかり思ってたのに…どうしたんだ?大丈夫か?スイスで何かに目覚めちゃったのか!?」 「ち…ちょちょちょっ!テメェ…人んちの弟になんてコト言ってくれてんだよっ!」 有利の肩を掴んでがくがくと揺さぶる神辺に勝利が詰め寄るが、有利を奪い取るとこちらも脂汗を浮かべてしまう。 「……ゆーちゃん?ちょっとお兄ちゃんに話してみなさい。何か…スイスであったのか?」 「ナイナイ何もないからっ!」 ぶんぶんと首を振って情けない顔になっていると、横合いからコンラッドの腕が伸びてきた。 「失礼…ショーリ」 するりと右腕の中に有利を取り込むと、にっこりと人好きのする笑顔を浮かべて会釈をした。 「ユーリが可愛らしいのは元からです。別段、スイスで何かあったからというわけではありませんよ…。それに、年頃の少年というものは急に綺麗になることがありますからね」 普通それは女の子に対して言う言葉ではないだろうか…。 いや、それ以前に突っ込みどころ満載なのだが。 「コンラート…お前、日本語喋れるようになったのか!?」 「何だ何だ!この色っぽい美形は渋谷の知り合いか!?」 レーダーがぎゅんぎゅん作動しているらしい神辺が瞳を輝かせて寄ってくるが、これは反射的に有利が腕を伸ばして止めてしまう。 「だ…駄目駄目、神辺さんっ!コンラッドには絶対変な手出ししないでねっ!」 「ん〜…?渋谷…ひょっとしてこの人に開発されちゃったのか?」 「なっ!」 頬が染まってしまえば、口ではなんと否定しても《そうです》と明言しているも同じだ。 「なーっ!?ゆゆゆ…ゆーちゃぁあん…っ!やっぱりこの男とそんなことに〜っ!?もう清い身体じゃないのかゆーちゃん、もう処女じゃないのか!?」 「しょ…っ…て、な…ナニ言ってんだよ…馬鹿ぁあっ!!」 バシーンっと勝利の頬に鮮やかな紅葉の痕をつけると、有利は拳を突き上げて叫んだのだった。 「俺はまだ、キスしかしてないもんーっ!!」 コンラッドの仲裁も間に合わぬ勢いで宣言してしまった有利は、当分の間…仲間内で《渋谷はチュー以上に進んだんだろうか》とか、《渋谷は恋で磨かれたらしい》などと噂されるようになった…らしい。 |