第24話 白亜の病院を一歩出ると、雄大なアルプスを背に、眼前には陽光さざめくボーデン湖を眺めることが出来る。 さぁ…っと吹き抜けてくる爽やかな風に、村田は心地よさそうに目を細めた。 日本の8月に比べると気温そのものが低いので、余計に清涼感を覚えるのかも知れない。 ボーデン湖は丁度スイス・ドイツ・オーストリアの国境にあり、コンスタンツ湖と呼ばれることもある。大戦後はドイツが奇跡的な経済復興を果たすと、工業地帯から流れ出す燐分が急激に増加して富栄養化が進み破壊的な状態に陥ったというが、今現在の澄んだ水面からその損傷を伺うことは出来ない。 湖畔を囲むスイス・ドイツ・オーストリアが40年にわたって大規模な浄化活動を行った成果であろう。 ただ、村田としてはそこがかつて《他の誰か》として生きていた頃の記憶と重複してしまい、見詰めている内にどうも複雑な気分になってきた。 『あれは、僕じゃない』 あの時どんな思いで生きていたのか、悩み苦しんだりのかをどれほど明瞭に覚えているのだとしても、やはり彼は村田健にとっては《他人》なのだ。 そう《納得している》と言うよりは、《納得しよう》と努力しながら村田は首を振った。 『そういう根暗な思考展開は一時お預けだ。今日は祝福すべき日だものね』 そう、今日は言祝(ことほ)ぐべき日…有利の退院日なのだ。 勿論、有利は誰よりも晴れ晴れとした表情を浮かべて、治りきっていない足でぴょんぴょん跳ねている。 有利の下肢の傷やコンラートの左腕断端の縫合についてはまだ抜糸の必要があったが、ホテルと病院はさほど離れていないので通院で間に合うだろうとの判断が下された。 「やっ…たぁあああ……っ!退院、退院っ!」 思わず、身体の奥底から湧き上がるような喜びに歓声をあげて、有利は晴れ上がった空に向かって背伸びをした。 やはり病院という施設を一歩出ると、もうそれだけで不思議な開放感に包まれるのだろう。そんな有利を見るのは村田も嬉しいが、調子に乗りすぎるのではないかと少し心配したりもする。 「もうすっかり元気そうだね。その分なら残りの課題もちゃっちゃと終わりそうだ」 「いやいや…それは一時、忘れさせてよ…。約束だぜ?村田…退院した今日一日は、好きなことして良いんだろ?」 「はいはい、そうだったね。だけど、まずはホテルに行って、遊んだあと疲れて帰ってきてもすぐ眠れるようにしてからだよ?」 「はーい」 人差し指を立てて村田がそう言うと、有利はよい子のお返事をした。 そんな様子に、美子はくすくすと笑い声を漏らすのだった。 「うふふ〜。健ちゃんって本当にゆーちゃんを大事にしてくれてて有り難いわぁ」 「美子さんの元へなら、いつでも嫁ぐ覚悟はあるんですけどねぇ」 「不吉なこと言うな弟のお友達!」 勝利はそう言ってぽこんと村田の頭を叩くが、その勢いは心なしか優しい。 『うーん…勝利さんにまで見込み薄と思われているのか…』 正直、ちょっと切ない。 以前は目の敵にされて《うちのゆーちゃんに馴れ馴れしくするな!》と釘を刺されたものだが、今現在その警戒対象となっているのはウェラー卿コンラートなのだ。 今も、荷物を持つふりをしてちゃっかりコンラートと弟の間に身体を挟み込ませている。 「ゆーちゃん、ホテルは楽しいぞぅ…。それとも、すぐに観光に行くか?ザンクト・ガレンの大聖堂は世界遺産にも登録されているし、シャフハウゼンにある城塞もなかなか見応えがあるぞ?なんなら、お兄ちゃんが手取り足取り腰取り歴史的な背景を語ってやらんこともないぞ」 普通の兄は、腰は取らない。 「歴史的背景はいらない。それよか、俺…キャッチボールしたいんだよ。なぁ…勝利、俺の野球道具持ってきてくれたんだろ?ホテルにあるの?ボール投げたり打ったり出来るとこある?」 「おーまーえーはーなぁぁ〜〜……」 勝利はがっくりと肩を落とすと、自分とまるで興味の方向性が違う弟に嘆息した。 「まあまあ、しょーちゃん。折角の退院日なんだからゆーちゃんの好きにさせてあげましょ?まずは好きなだけキャッチボール出来たら、色んな所も回ってみましょうね。コンラートさんも、素敵な景色が一杯だからきっと楽しんでくれるわよ?」 「あ…そ、そーか!」 自分の楽しみばかり追求しそうだった有利も、コンラートの名を挙げられるところりと気分が変わってしまう。こういう所はわんこのように可愛らしいが、村田としてはやはり少々切ないところだ。 少し眼差しを眇めていたら、派手なオレンジ髪の男がへらりとした笑顔を浮かべて声を掛けてきた。 「猊下、俺も色々見て回りたいんですけど…。ご一緒して頂けますか?」 「グリエ・ヨザック…君、観光名所とか気になる方?」 「職業柄、土地に関する情報は可能な限り得たいってのもありますし…ま、個人的に旅は好きですからね。折角なら色々知っていそうなお方の説明を請いたいです」 「ふぅん…」 決して無礼なわけではないのだが…ヨザックという男は油断しているとすぐ懐に入ろうとしてくる。今も親しげに村田の肩を抱く仕草や細かな目線の送り方が優しさに満ちていて、思わず有利への切なさを忘れかけたくらいだ。 『どういうつもりなんだろうな』 村田が有利のことで落ち込んでいたり迷っていたりする時に限って、彼は声を掛けてくるような気がする。それは…一体どういう心理によるものなのだろうか? よく分からないが、悪意ではないと思う。 「良いよ。渋谷のことはもうそんなに心配ないだろうし…」 「やった!ありがとうございますっ!」 「ちょ…っ!」 特大の棍棒のような腕で抱きついてきたのには流石に驚いた。《調子に乗るな》と言うように振り払うと、《すみません》とは言ったものの、大して悪びれた様子はない。 「いやぁ…感情表現が豊かなもんで。すみませんね」 「…そうかい」 《図々しいな》…とは思いつつも、そんな彼を嫌だとは思わないのが不思議だった。 * * * 有利は結局、ホテルで身の回りの生活用品などを確認すると、コンラッドや家族と連れだって観光地巡りをすることになった。 向かった先は東スイス地方の中心都市、ザンクト・ガレン。勝利が言っていたように8世紀に建てられた同名の修道院が観光の目玉で、現在の建物は18世紀に建造されたものであって中世修道院の面影はないが、バロック建築の傑作といわれる大聖堂は見る者を圧倒する。 「凄…」 歴史的背景だのなんだのを勝利が横で説明しているが、有利は視覚から入ってくる情報だけで既に圧倒されていた。 日本でも修学旅行で大寺院などは見て回ったが、同じ年輪を重ねた建築物でも、木造と石膏・大理石とでは受ける感覚がまるで違う。育まれた気候や人々の感性も異なるからだろうか。 まだしも教会部分については、テレビなどで見た印象があったので《なるほど凄い》と思ったくらいだったのだが、驚いたのは修道院に併設された図書館だった。何しろ、三階建て民家分はありそうな吹き抜けの高い天井一杯にフレスコ画が描かれ、壁には美しい飴色の木材で出来た本棚があって、それが天井まで繋がっている。とても天井近くまでは届かないから、壁の中程には体育館の舞台装置を置いておくところみたいに壁付けの廊下があるのだが、これがまた優美な彫刻入りの手摺りがついていてとても美しい。 また、御伽の国のような旧市街も見物(みもの)だった。中世の窓や看板が残り、深い色合いの茜色をした屋根に黒っぽい木で窓枠が掛かっているかと思えば、隣の建物は少し趣の違う外壁に、くるくると蔦のように巻いた金属製のバルコニーがある。 村田が言うには、この辺りは織物産業で栄えた街で、ボーデン湖に近いため運送ルートにも恵まれていたので、17世紀から19世紀にかけては貿易商が集まり街は大変な賑わいを見せていたのだそうだ。 旧市街に残る建物群は、その時代にこ商人たちが住んでいた家がそのまま残されている場合が多いのだが、これは、お金のある商人たちがどんどん家を建て替えたために、隣り合わせになったお屋敷でも建築様式が異なるらしい。 その辺の説明は、悪いが勝利よりも村田の説明の方が面白い。流石はリアルタイムで生きていた人の記憶を持っているだけのことはある。 「ほら、バルコニーに沢山彫刻をしてあるだろう?あれはね、《俺は世界中を回って、こういう物を見てきたんだぜ》っていう自慢を含んでいるんだよ?」 「へぇ〜…」 確かに、バルコニーには随分とエキゾチックなデザインで世界各地の動物や植物、人々の彫刻が施されている。さらに詳しく見ると、舌を出した人物の彫刻にも気づいた。 「あのベロ出ししてる彫刻は何?」 「あれはね、《私はみんなよりも豊かだよ》ってアピールらしいよ」 「うっわ…スイス人って意外と自己顕示欲強い?」 「ま、鳩時計とハイ○だけでやって行ってる訳じゃないしね。そりゃあ《確乎たる意志》ってものがなきゃ、永世中立国何てやってらんないよ」 「永世中立国って平和の象徴ってイメージだったけど…そういえば、平和で居続けるって意外と大変だよな…」 日本は大戦後、公式には直接交戦をしていないことになっているが、それでも《国際平和の為》という理由で国連決議が出れば派兵をしているし、大戦以前ともなれば、それこそ血みどろの戦争をしていたのだ。 中近東などでは、未だに多くの血が流され続けている国も多い。そういった世情の国に囲まれていれば、たとえ一国が《うちは中立で行きたい》と言っても通らない事の方が多いだろう。 「スイスって、世界大戦の時にも参戦しなかったんだよな?よくそんな事できたよなぁ…」 「勿論、簡単なことではなかったさ」 《なかっただろうね》ではなく、《なかった》と断言してしまう当たりがネイティブ(?)らしい発言だ。 村田は遠い目をして、スイスの歴史について説明してくれた。 * * * スイスという国は永世中立国であることと、多くの国際機関本部が存在する事で有名である。だが、その一方で中立を維持するための国防は歴史的に強固であり、重武装によって中立を護ってきた国でもある。 何しろ男子の殆どは予備役、あるいは民間防衛隊に所属しているのだから、国民の国防への意識は極めて高い。 また、軍事基地が高い密度で存在する上、岩山をくりぬいて建設されるなど高度に要塞化されており、主要な一般道路には戦車侵入防止の為の装置や、小屋に擬装したトーチカが常設してある。 ただ、この重武装をもってスイスを《意外と好戦的な国》と見るのは早計であろう。 スイスの国防の基礎は《敵国にとって仮に侵略が不可能でないとしても、侵略のメリットよりも損害の方が大きくなるようにすること》であり、大国に囲まれながら自主独立を維持するためには不可避の国策であろうと思われる。 この国策を堅守した例としては、第二次世界大戦に於いて、最高司令官を務めたアンリ・ギザンの戦略構想が挙げられるだろう。 1939年8月、ナチス・ドイツとポーランドの関係が急速に悪化して戦争が避けられない情勢となると、スイスは武装中立と非常事態を宣言、政府と議会の代表からなる委員会に全権が委任された。委員会は少数派のフランス系住民出身ではあるが、実績と信頼のあるギザンを軍の最高司令官に選出して、臨戦態勢を整えた。 ギザンは万が一にドイツ軍あるいは連合国軍がスイスに侵攻してきた場合には山間部を走る国境の交通網を全面的に破壊した上、平野部を放棄してアルプス山脈に要塞を築いて徹底抗戦する計画を立案した。最高43万人の兵員が動員されてスイス国内は《ハリネズミ》と評されるほどの一大防衛体制が取られた。 だが、翌年に入ると連邦政府指導者のモッタが急死し、続いてイタリアがナチス・ドイツ側に参戦し、フランスが降伏したため、スイスの国境は全てドイツ側陣営と接する事になった。しかも、多数派であるドイツ系住民の中にはドイツ側への参戦を求める声が高まり、中立政策は動揺を来たした。 そこでギザンは主だった軍幹部を建国伝説ゆかりの地であるリュトリに集め、《リュトリ演説》と呼ばれる宣言を行った。その内容とは、《スイスの自由と独立を守ってきた先人の精神を引き継いで、あくまでも国を守ってゆく》という誓いであった。 ギザンの演説はスイス国民に広く伝わり、以後ドイツ側への参加を公然と唱えるものは少なくなった。 戦中、ドイツ側と通じた勢力による不協和音はあったもののギザンの徹底的な防衛戦略と国民からの支持を背景に、彼の“武装中立”路線の根本は揺らぐ事はなかった。また、ドイツ側も同盟国イタリアとの連絡ルート確保のためにたびたびスイス占領計画を立案したものの、ギザンの戦略を打ち破るだけの戦略を見出す事は出来ずに実際の発動までには至らなかった。 やがてドイツが降伏した後の1945年、ギザンはその職務を終え、静かに引退生活に入ったという。 * * * 「…っとまあ、近代でもこんな闘いが繰り広げられていたんだよ。そうでもなきゃ、九州よりちょっと大きい程度の小国が、ヨーロッパ列強に囲まれて中立を保つことなんて出来なかったろうね」 「へぇええ…そうなんだーっ!」 有利は勿論、興味をそそられて眞魔国語での説明を求めていたコンラートやヨザックも随分と感心しているようだ。 「置かれた地理を最大限に活用した戦略も見事ですが、圧倒的に多いドイツ系国民の中で、少数派であるフランス系の民がそれほど強いリーダーシップを発揮できたことに驚嘆しますね。しかも、それほどの実績を残しながら権力の座に執着せず、終戦と同時に退役するその潔さにも感動を禁じ得ません」 「そうだね。軍人としては珍しく、尊敬に値する人物だと思うよ」 コンラートは暫くのあいだ物思いに耽っていたようだが、少し歩いたところで村田に声を掛けてきた。 「もしよろしければ、言語指導の合間に先ほどのようなお話をして頂けませんか?」 「地球に於ける優秀な指導者の話が聞きたいわけ?」 「それも含めて、国家間の軋轢を直接的な武力戦闘に依らず、克服した事例についてお聞きしたい」 「ふーん…それって、単なる好奇心かい?」 「…そのようなものです」 コンラートは苦笑すると、曖昧な表情を浮かべた。だが、それでも依頼の姿勢は崩さない。 「俺のような者が…と、失笑されるお気持ちはよく分かります。ですが、どうか稀代の軍師と崇められた方の見識を伺いたいのです」 「それによって君は何を得たいんだい?眞魔国がシマロンと協調路線を取り、共に仲良く《禁忌の箱》を滅ぼすなんて、甘味料だらけの夢でも見ているのかな?」 有利が何かの折りに《コンラッドとこんなことを話したよ》と言っていた内容が脳裏を掠めると、その内容よりも何よりも、コンラートが有利と二人きりで親密な大気を共有していたということに無意味な嫉妬をしてしまう。 自分でも嫌になるくらい言葉尻が辛辣になるが、今日のコンラートは挫けなかった。 有利と語り合ったことで、夢が膨らんでしまったのだろうか? 「可能性があるとお考えですか?」 「…夢と言うより、愚者の妄想に近いね」 「それを妄想にしない方策を、猊下ならば思いつかれるのでは?」 「………僕を利用するつもりかい?」 「猊下が忌避される事を、この俺が強要できるとでもお思いか?」 「…君、ちょっと図々しくなってないかい?前はあんなにおろおろして可愛かったのにさ」 「それは失礼」 くすりと苦笑する表情は、晴れやか…とまでは行かないものの、以前のように自虐を多く含むものではなかった。 「あまり、深刻に考えないでください。俺はただ…知りたいだけなんです」 「コンラッド、知りたい。村田…おしえる、おねがい」 内容は単語単語でしか捉えられないものの、有利もコンラートの肩を持つように両手を合わせている。これではとても《嫌だ》等とは言えなかった。 「…しょうがいなぁ…」 《折れてあげた》という形を取って頷くと、有利とコンラートは各々にっこりと微笑み、次いで…互いに目線を送り合ってまた微笑んだ。 『ホントにね、しょうがないなぁ…』 竦めた肩をぽんっと叩いてきたのはヨザックだった。 「ま、その辺の話はまた後でしましょうや。猊下、他にもステキな観光地巡りして下さいよぅ」 「しょうがないなぁ…」 「あ、村田。この辺の美味しいもの教えて?俺、お腹空いてきた〜」 「…ほんと、しょうがないなぁ…」 同じ《しょうがない》の中に様々な色味を混ぜて、村田は好き勝手なことを言ってくれる一団を引き連れてザンクト・ガレンの街を練り歩くことになった。 * * * コンラートの依頼を渋々引き受けた村田ではあったが、翌日から始まった《講義》は予想外に楽しいものになった。コンラートは極めて優秀な弟子であり、村田が語った内容を自分の世界の歴史や現在の状況に当て填めて応用したり、時には師匠である村田を驚かせるほどの見識を見せた。 しかも、その会話の中で村田が眞魔国語を日本語・英語・ドイツ語等に翻訳すると、一回でほぼ正確に記憶してしまったのである。元々の能力も高いのだろうが、おそらく非常に集中して講義を受けているのだと思う。 そんなコンラートとの講義を愉しみつつも、以前からあったもやもやとした不安は次第に大きくなっていった。 『ウェラー卿、君は…多くを知ることで何を為そうと思っている?』 単に好奇心だとコンラートは言う。だが…彼の思考の中には常に故郷の世界があった。しかもその故郷とは単に眞魔国のみを指すものではなく、あちらの世界全体を視野に入れたもので、彼らを《禁忌の箱》の脅威から救うためには何が必要かという高邁な思念に満ちていた。 『隻腕の身で、君は石持て追うようにした連中を救おうってのかい?』 見返りを求めず、どうしてそこまで尽くしたいと渇望するのだろう? その衝動に極めてよく似たものを村田の《過去世》は持っていたけれど…それを村田が踏襲しようとは思わないし、コンラートにもそうさせたいとは思わなかった。 だから、村田はさり気なさを装って講義内容を出来るだけ悲観的な結論へと導き、コンラートの心を挫こうと試みた。 だが、その時にはしょげていたコンラートも、一晩…あるいは幾日か掛けて思考した結果を村田に報告する頃には、楽観的で、しかもある程度実現可能と思われるような打開策を口にするのだった。 その度に村田は更なる《厳しめ御題》を出し、その度にコンラートは負けじと打開策を生み出していく…。 このような行程を幾度も繰り返すたびに、結果的に村田はコンラートの能力を高めることになったのである。 |