第21話 有利がもう一度目覚めると、すっかり身体の怠さは回復していた。 …が、目覚めるなりどっと押し寄せてきた親族友人が一気に捲し立ててくるものだから、すぐにはちゃんと反応できなかった。 「ゆーちゃん、大丈夫か?」 「あぁん、ゆーちゃんったら心配掛けてっ!」 「いやいや美子さん、渋谷は行きたくて行ったわけではないんですよ?」 「ユーリ君、どこか痛いところはないかね?」 わらわらと喋る一同には悪いのだが…どうしても有利の瞳は、ベッドに横たわる美しい青年に視線を奪われてしまうのだった。 有利が目覚めるまでは彼も眠っていたようなのだが、見舞客達が一斉に喋りだしたせいもあってか、瞼を開いてこちらを見守っている。 彼が上体を起こせばやはり失われた左腕が目に入って、ぐ…っと涙が込みあげてくるのだった。 「ゴメンね…コンラッド、俺のせいで…こんな酷い怪我させて……」 「渋谷、君が気に病む事じゃないよ。ほら…そんなに泣くと、ウェラー卿も心配でじっとしていられなくなるよ?」 《ウェラー卿》というのが誰なのか分からなかったのだが、素早くコンラッドがベッドから降りて有利の涙を指先で拭おうとしたので、やっと彼のことを指しているのだと分かった。 「え…?コンラッドって…偽名なの?」 「正確にはウェラー卿コンラート…眞魔国という異世界の国で第二王子をやってる人だよ」 「えーっ!お、王子様なのっ!?」 有利が驚くと、《王子様》というノーブルな響きに《永遠の乙女》渋谷美子の瞳が煌めき渡る。両手を胸の前で組むと、ぶぶぶんぶんと頭をふるって狂おしく絶叫した。 「んまぁあ〜〜っ!王子様っ!!なんて素敵な響きかしらぁ〜っ!んもぅ、ゆーちゃんたら隅に置けないわねぇ。ママには彼女いない歴15年なんて言ってたけど、16年目にして素敵な王子様を射止めたのかしら?」 「お袋っ!とんでもない腐女子妄想口走るなよぉっ!」 勝利はそう窘めるものの、有利の頭部を抱き寄せてやさしく髪を撫でつけている姿を見ると…勝馬などは《あながち間違ってないんじゃあ…》という不安に駆られる。 「コンラッド、腕…痛くない?……う…ぁあ、馬鹿なこと聞いてゴメンね?痛くないわけないよね?」 すりすりとコンラッドの胸板に頬をすり寄せれば、また《だいじょーぶ》と繰り返し、更に《ごめんなさい、ない》と囁きかける。左腕のことは気にするなということだろうか? 「えがお、みたい」 「うん…」 右手で頬を撫でてそう囁くから、有利は精一杯の笑顔を見せて涙を拭いた。 それは…どの角度からどう見ても出来上がりきっているカップルであるのだが…有利の方にそういう意識はない。 意識していたら逆に、家族の前でこんなにいちゃいちゃとは出来なかったかも知れない。 「ゆ…ゆーちゃん?あのな…そ、その外人さんとどういう関係なんだ?」 「うん、凄ぇお世話になった人なんだ。勝利っ!コンラッドに失礼なことしないでよ?」 「そ…そうか、うん…」 勝利が口角を引きつらせながら問いかけてくる意味がよく分からず、《こいつは時々妙なこと言うもんな》と判じて、大きな釘を刺しておく。 「コンラッド、座る。きず、いたい」 「だいじょーぶ」 「…あんた、何でもかんでも大丈夫とか言ってたら、いつかバタンていっちゃうから!座ってっ!お願いっ!」 コンラッドを誘導してベッドに座らせると、彼は苦笑して美子を見やった。多分、口にしたのは向こうの言葉で《よく似ていますね》という意味だと思う。 「うっふふ〜。そうでしょうぉお?私によく似た、可愛くって自慢の息子なの。大事にしてね?男同士だと何かと難しいこともあるかと思うけど…大丈夫よ?私、愛があれば性別の問題なんてぽーんと飛び越えられるから。どんな問題が起こっても、どーんと任せてね?」 流石はボディランゲージで世界を渡る女…まるで会話が成立しているかのように自然な返答だ。 「お袋、頼むから落ち着いて?無茶なことコンラッドに言わないでっ!」 「あらあら、ゆーちゃんたら恥ずかしがり屋さんなんだからぁ…」 ぷぅ…っと美子が唇を尖らせるが、そういう問題ではない。 「べ…別に、俺が恥ずかしいからとかじゃないのっ!とにかく、コンラッドが困るから…変なこと言うなよっ!」 「んもぅ…しょうがないわねぇ」 美子は肩を竦めて、一応は引き下がった。そして有利のベッドの脇にちょこんと座ると、華奢な骨格の手でさすさすと有利の頭を撫でつけてくれた。 「ゆーちゃんは、そういう子だもんね…。だけど、迷惑とかそういうの…あんまり気にしすぎない方が良い時もあるのよ?」 「お袋…」 そんな風にゆったりとしたテンションで話されると、無碍に出来なくなる。 視界を掠めた手首が吃驚するくらい細かったことにも驚いて、拗ね続けることが出来なかったのだ。 もともとは少しぽっちゃりしていた筈の美子はよく見るとえらく痩せていて、興奮したせいか発汗によって落ちた化粧の下には隈も垣間見える。 見回せば、勝馬や勝利も同様だった。 「親父、お袋、勝利…なんか、やつれた?」 口にしてみてから、《馬鹿なことを言った》と自覚した。 この世界でどの程度の時間が経過しているのかは分からないが、きっと…有利が居ない間、物凄く心配させてしまったのだろう。普段は脳天気な両親ですら、顔立ちが変わってしまうくらいに…。 「心配掛けて、ゴメンなさい…」 しょぼんと俯いて謝ると、ぽすっと勝馬の手が頭に乗せられ、勝利も斜(はす)に構えてはいたがぽんぽんと有利の肩を叩いた。 「まあ…何だ。そう気に病むな。お友達の眼鏡君から聞いたが、もともとお前が望んで行ったわけじゃないんだろ?」 「……う、ん…」 ちょっと一拍、間があいてしまった。 行った経緯はそうなのだが…実はこちらに戻るに際して、こっそり家族よりもコンラッドを選んでしまったのだ。 このタイミングでは口が裂けても言えないが…。 「そうだ、眼鏡君。そろそろ詳しい事情を聞かせろよ。《有利君が帰ってきたら、纏めて話します》って言ってたろ?結局、お前は一体何者で、有利はなんだって妙な世界に連れて行かれたんだ?」 「分かりました、お兄さん」 「お前に兄呼ばわりされる筋合いはない!」 「じゃあゆーちゃんのお兄さん」 「ゆーちゃん呼称は渋谷家の専売特許だ!」 「特定商標ですか?困ったことを言い出すお兄さんですね」 漫談のような遣り取りに焦れて、有利が拳を突き上げる。 「そんな呼び方とかどうでもいいからさ、早く事情を教えてよ!」 「……うん」 どうしてだか、村田の表情は一瞬…強張った。 先ほどの勝利との遣り取りも、もしかすると時間稼ぎだったのかもしれない…そんな風に感じられた。 『なんでだろ?なんか…言いにくいことがあるのかな?』 村田は静かに話し始めた。 彼にしては何故か…妙に平坦な声で。 * * * 村田の語った話はヨザックやボブと話したことと大筋では一緒だったが、幾つか相違も見られる。 一つには、ヨザックの助言通り有利の魂を最後に所持していたのがスザナ・ジュリアであることは伏せた。何かの拍子にコンラートに知られるとややこしそうだったからだ。 もう一つは…敢えて、有利が眞魔国を救う可能性があることを伏していたのである。これは日本語を使って有利達に語ったときだけでなく、眞魔国語を使ってコンラートに説明したときにも同様であったからヨザックは微妙な表情を浮かべていたのだが…敢えて訂正する素振りは見せなかった。 ただ、コンラートの状況を説明するために、有利が滅びをもたらす存在として疑われていたことは説明しないわけにはいかなかった。 「俺のせいで…コンラッドは、国を追われたの?」 案の定有利の顔が蒼白になるから、見ている村田の方が胸苦しさを感じてしまった。 「君のせいじゃない。全ては、アルザス・フェスタリアという巫女が早まった託宣をしたところから始まっているんだよ。でも、君はその託宣を見事覆して《地の果て》からあの世界を救った…。だから、きっとウェラー卿の株も眞魔国では上がっているはずさ。あの国の軍隊も一部始終を見守っていたからね」 「うぅ〜…そうだと良いなぁ…っ!」 有利は身を捩りながら改めてコンラートを見つめると、熱く瞳を潤ませて《ほぅ…》っと息をついた。 「じゃあさ…コンラッドは、最初はお兄さんとの約束を守るために俺を殺しに来たんだろ?」 「うん…首を落として、保存液の詰まった缶に入れて持って帰れって言われていたらしいね」 有利はぶるるっと背筋を震わせる。きっと、彼もコンラートの所持品の中にその缶を見ているのだろう。 「でもさ、どうしてコンラッドは俺を殺さずに…助けてくれたんだろう?」 「それは…彼に聞いてみないと分からないね」 もじもじと頬を染めて上目づかいに聞いてくる有利が可愛くて、そして…村田は困ってしまう。 初恋の人が明らかにコンラートを愛している素振りに傷ついているのもあるが、一本気な彼がこれ以上コンラートを愛せば、彼と共に異世界へと旅立ちそうな気がしたからだ。 『渋谷が傷ついたりしない方法で…引き留めることは出来ないのかな?』 村田の頭脳は、さっきからその事ばかりを考えている。 「ウェラー卿、君はどうして渋谷を救ったんだい?」 「それは…」 面と向かって聞かれたコンラートは、一瞬…えらく仏頂面になってしまう。 不機嫌なわけではなく…照れ隠しなのだろう。 間違ってもペコちゃんみたいな顔をしてピースなんかしながら、《可愛かったからデース★》などとお茶目に言える性格ではないのだ。 万が一そんな性格だったとしても、兄の手前…流石に言うを憚(はばか)ることだろう。 「…託宣を信じ切ることが出来なかったので、殺すことは早計に思われたのです。生きて眞魔国に連れ帰り、改めてその存在理由を確認した方がよいと判じたのですが…それは我ながら正しい選択だったようで、心底安堵しております」 さらりと語られた言葉は間違いではないのだろうが、ちゃっかり《動機》の部分が端折られている。 「…て、事らしいよ?」 村田が通訳してそのまま伝えると、有利は更に瞳を潤ませ、頬を紅潮させて礼を言った。 「そっかぁ…っ!コンラッドは俺がそんな悪い奴じゃないって、一目で見抜いてくれたんだね!?ありがとう…ありがとうね、コンラッド…っ!」 「ユーリ…」 これは通訳されずとも伝わったらしい。 コンラートはベッドを降りて駆け寄ってきた有利を抱き寄せると、やさしい仕草で髪や背中を撫でつけた。 《愛しているよ…》《こんなに愛おしい君を殺したり出来ると思うかい?》《世界が滅びようとも…俺は君だけは護りたいと願ったのさ…》そんな脳髄がとろけそうなモノローグの存在を感じるが、この連中は互いに愛し合っていることを知らない。 村田的には何とも背中が痒くなるような光景である。 「グリエ・ヨザックも当初は君の存在がウェラー卿にとって不利に働くと思い、君の殺害を計画していたらしいが…結局出来なかったんだってさ。ウェラー卿に説得されたのもあるけど、君に情が移りすぎたんだろうね」 「そうなんだ…あの時のアレは、そういうことだったんだね?」 有利はこくこくと頷くと、ヨザックの両手を掴んでしっかりと握りしめた。 「ありがとう…グリ江ちゃん。コンラッドを心配する気持ちと、俺を殺せないことで…板挟みになったのに、俺を殺さないでくれて本当にありがとう!」 また村田が通訳すると、ヨザックは困ったように頭を掻いた。 「はは…なんともね。《殺さないでくれてありがとう》…か。おかしな気分だ」 当時の逡巡と苦しさを思い出しているのか、ヨザックの口調は少し皮肉げだ。 けれど…その眼差しはやわらかく、しみじみと彼も思っているのだと知れた。 《殺さなくて、本当に良かった》…と。 「村田もありがとうな?危ないところでお前が声掛けてくれなかったら、俺…危うく呪いを成就させちゃうところだったよ」 「………怒ったりは、しないんだね…やっぱり」 「え?何に?」 有利はこのタイミングで何に対して怒りを覚えるべきかさっぱり見当が付かないらしく、きょとんと小首を傾げている。肩に乗ったキトラのチィが同じ格好をしているから、可愛さの相乗効果でくらくらきそうになる。 「僕にさ…」 「なんでお前に怒んなきゃいけないんだよ。そんな恩知らずなこと…つか、怒りどころが分かんねぇよ」 「僕は…一度は、眞王の言うままに君をあっちの世界に送ろうとしたんだよ?友達なのに…《大賢者なんだ》って事も話したこと無かった…」 「いきなり言ってたらそれこそドン引きだったって!」 あははと闊達に笑ってから、有利は改めて真っ直ぐに村田を見やった。 「苦しかったよね、村田…」 「渋谷?」 普段は子どもっぽい有利の顔に、大らかな器を感じさせる…ゆったりとした深みのある笑みが浮かんだ。 「秘密抱えて、相談相手もあんまりいなくて…辛かったの、お前の方じゃん。俺…礼をいうことはあっても、お前のこと恨む筋合いなんてこれっぽっちもないよ?」 「……っ!」 村田は不意打ちの一撃を食らうと、ずれてもいない眼鏡の蔓を上げて表情を誤魔化した。油断したら、泣いてしまいそうだったのだ。 「そういう奴だよね…君って」 「嫌?良い子ちゃんぶってるって思う?」 「ううん…好きだよ。渋谷。君のそういうとこが、とっても大好きだ。君はいつだってありのままで、自分のための計算なんかしてない。《ぶってる》んじゃなくて…君は、良い子なんだよ」 「いや、お前がそんな風に茶化しなしで褒めてくると軽く怖いよ」 「なにげに失礼だよね、君…」 ほんわかとした空気が流れるが、そこにぽんっと火種を投げ込んだのは勝利だった。 「で…大体の事情は分かったが、今後この連中はどうするんだ?」 勝利が指し示したのは勿論コンラートとヨザックである。異世界の住人である彼らは勢いで有利に付いてきてしまったものの、この世界で何をするという宛もない。それ以前に、彼らは元の世界に大きな課題を残したままなのだ。 村田は意識的に希望的な観測を述べたが、全てが理想的に展開しているとは限らない。特にコンラートはグウェンダルとの約束を破って双黒と共にいたことが知られているから、贖罪と事情説明の為にも眞魔国に戻る必要がある。残されたルッテンベルク師団の扱いも気になるだろう。 「それは…」 村田がちらりと有利を見やると、縋るような目つきで訴えてきた。 おそらく、彼らは元の世界に送還されるべきなのだと理解できていても、それを受け入れられない自分をどう整理して良いか分からないのだろう。 『困ったな…』 村田としては、二人がとっとと去ってくれた方がありがたいに決まっている。 傷心の寂しさに打ち拉がれる有利を上手に慰めて、もっと心の奥深くに入り込むことも可能だろう。 けれど、結局そんなことをしても傷を舐めてあげるだけで、有利からコンラート以上に愛されることはないのだとも知っている。 寂しさを完全に癒すこと自体、不可能だろう。 「…ウェラー卿。君はこれからどうしたい?」 「それは…」 コンラートもまた、有利と同じ心境なのだろう。 理屈では当然帰還すべきだと知っていながら、心がその決断を拒否してしまうのだ。 「明確なビジョンがないのであれば…僕の提案を聞いてくれるかな?」 「…はい」 「ウェラー卿、グリエ・ヨザック…今から僕が君達に提示する内容は決して強制ではない。君達が渋谷を救ってくれたことに、深く感謝するからこそ提示していると思ってくれ」 勿体つけたような前振りをしてから村田は語った。 「君達、日本で生活してみないかい?」 「ニホン…ですか?」 コンラートが怪訝そうに首を傾げる。 《地球》というものが自分達の世界で言う《異世界》の別称であることは理解したものの、その中で更に国家を細分化されると基礎知識がないだけに困惑してしまうのだろう。 「ああ、説明が遅れたね。日本というのは僕や渋谷が生まれ育った国だよ」 村田もその事に気付いたのか、ざっくりと現代の地球に於ける国家情勢・規模などを説明し、その中での日本について話をした。 「ま、詳しいことは後で地図を見ながら説明してあげる。言語や文化についても理解して貰う必要があるしね。ちなみに、今いるのはスイス連邦、ドイツ風に言えばスイス誓約者同盟と呼ばれる国だよ」 スイス連邦はドイツ、フランス、イタリア、オーストリア、リヒテンシュタインに囲まれたヨーロッパ内陸部の国家であり、正式名称もドイツ語名、フランス語名、イタリア語名、ロマンシュ語名、ラテン語名の5つが存在する(単独使用の場合はラテン語の《Helvetia》を用いる)。 言語はラテン語を除く四カ国語が用いられているが、新聞やテレビ放送などには国民の6割程度が使用しているドイツ語が用いられている。同じ国家の住民であるにもかかわらず、地方によって用いる言語が異なり、方言も強いことから、会話が設立しない時には英語を用いることもある。 日本人の感覚からすると実に不思議なところだが…まあ、長野や沖縄の老人と標準語で会話するのが困難なのと似たようなものだろうか。 「どう?つまり、眞魔国には戻らずこの世界で生活しないかってお誘いだよ」 「…眞魔国に、帰る方法はないということですか?」 「帰りたいのかい?渋谷を連れて?それとも…置いて?」 村田の言葉に、コンラートは喉がつかえたように言葉を封じられてしまう。 最後の選択肢を選ぶことは、彼にとっても辛すぎる選択であるらしい。 また、有利を連れて眞魔国に渡ることは、彼を溺愛する大賢者が決して許さないことも知っているのだろう。 よって、コンラートとしては自分の立場を提示する他なかった。 「俺は大恩ある兄、フォンヴォルテール卿グウェンダルと、俺の指揮下にあったルッテンベルク軍に対する責任があります。少なくとも、兄の軟禁だけは何としても解かねばならないのです。ユーリを殺すことは俺には出来ませんから…兄を開放するためには、せめて俺だけでも戻って北の塔に生涯監禁される道を選ばねばなりません」 「うん、君の立場も分かるよ。では…こうしよう。僕や渋谷、地球の魔力持ち魔族が力を合わせて眞王廟に働きかけてみる。そもそも君達が《禁忌の箱》を開いてしまうと疑われたからこそ、君は監禁されるところだったんだから、双黒の大賢者の名において渋谷と君をこちらの世界に留めることが証明できれば、フォンヴォルテール卿を拘束する意味はないだろう?」 「確かにそうですが…眞王廟への連絡だけで、国政に関わる連中が信じるでしょうか?」 「ウルリーケの発言力は小さくなっているとは聞くが…この際、大賢者命令ってことで強く魔王や宰相に働きかけるよう指示しても良い。何だったら、事の発端である小娘にもガチンコ勝負を仕掛けてやろうじゃないか」 村田の声音と態度は十分に好戦的なものであった。 これはコンラートやグウェンダルに対する同情と言うよりは、彼女の発言によって有利の命が危機にさらされた事への恨みによるものであろう。 直接対決となれば…恐るべき舌鋒で叩き潰すつもりに違いない。 「ただ一点、こちらで暮らすことのデメリットとして、確実に寿命が短くなるのだけは覚悟して貰わなくちゃいけない。こっちの世界は要素の祝福が薄いから、僕が大賢者としてこの世界に来たときも、《平均的な人間よりはちょっと長生きかな?》って位しか生きなかったし、老化も同様だった。君が何時までも若く美しく生き続けたいってんなら地球はお勧めでないね」 「寿命だの美しさだのを欲したことは、唯の一度もありません」 お肌の曲がり角に来たときに同じ発言が出来るかどうかは不明だが、禿げ始めたときには絶対この言葉を悔いそうな気がする。が、まあ…今は黙っておこう。 「そう?じゃあ問題はないね。後はフォンヴォルテール卿を自由にして、君達が《禁忌の箱》を開くなんて疑いを解きさえすれば、ルッテンベルク師団のことはそんなに心配することもない。有能な副官なりなんなりが君の跡を継ぐさ。後継者の育成くらいしているだろう?」 「ええ、不当な圧力さえなければ…俺以上に師団を纏め上げる才を持った者はいます」 「そりゃ結構…じゃあ、そういう方向で進めちゃって良いかな?君は何年か…そうだね、覚えが良ければ数ヶ月の養成期間の後に、日本で銀行マンか企業マンとして働くようになる。勿論、異文化生活で色々と襤褸が出ちゃ拙いから、まずは魔族系の企業でね。切った張ったの武人家業を懐かしく思うこともあるだろうけど…慣れてしまえば平和な生活も良いもんだよ?」 「ですが…」 抗弁しようとしたコンラートだったが、効果的な言葉を紡ぐことは出来ずに瞑目してしまう。 彼の右腕は…残された左腕の断端を握っていた。 「今まで馴染んできた生活を捨てるのは辛いと思う。だけどね…僕は君に幸せになって欲しいんだよ。なにせ、渋谷の恩人だからね。ほら…言っちゃ悪いけど、その腕だろ?とてもじゃないけど、君みたいな身上の者が隻腕で生き抜くことは難しい。あっちの世界に着いた途端、眞魔国に帰り着くまでに死んじゃうんじゃない?いや…最悪の場合、自害することも出来ずにシマロン辺りに捕らえられて、渋谷をおびき出すための餌として使われるかも知れないよね。君が筆舌に尽くしがたい拷問を受けてる様子なんか目にしたら、渋谷は心を潰されてしまうよ」 《だから、そんなことになったら迷わず見捨てるよ?渋谷には伝えずに、見なかったことにするからね?》とは流石に言わなかったが、コンラートの方は言いたいことを察していることだろう。 「…………そう、でしょうね……」 「君が戻らないことは我が身を惜しんでのことではなく、寧ろ、眞魔国を護るために《禁忌の箱》に関係しているかも知れないその身を地球に留め置く必要があるんだって、僕からも丁寧に説明してあげるよ」 「………はい、ありがとうございます…」 コンラートが暗然として俯いてしまったのとは対照的に、ヨザックは特に感慨めいたものを顔に浮かべることはなかった。 ただ…何か意味ありげにこちらを見つめている。 『余計なことは言うなよ?』 そう言いたげに村田が視線を送ると、肩を竦めて苦笑した。 何を考えているのはよく分からないが、《余計なこと》は今のところ言わずにいてくれるようだ。 「少し、考えさせて下さい」 「そうだね。さっきも言ったけど、これは強制じゃない…。君が良いように選んでくれ」 そう、村田にとってはコンラートがどうなろうと大した感慨を受けるものではない。問題なのは…彼の選択によって有利がどうなるかなのだ。 『いっそ本当に渋谷と結ばれて、地球に残る覚悟を決めてしまえば良いんだ』 初恋の人が自分以外の男のものになることに対して、葛藤がないと言えば嘘になる。けれど、有利が不幸になるくらいなら…それは、遙かにマシな未来だった。 『渋谷…渋谷、僕は…君が笑っていられる未来があればそれで良い…』 あるいは、あちらの世界で眞王が《禁忌の箱》を封じきれなくなった影響が地球にまで及ぶかも知れない。だが、それでも百年やそこらは保つはずだ。 向こうの世界に送って、崩壊に直面するよりはずっと良い。 『賢明な選択を願うよ…ウェラー卿』 苦悩するコンラートに、意味が分からないながらも寄り添う有利を見やりながら、村田は静かに瞼を閉じた。 地球への召還術の際に、二人が告白し合っていたことを告げれば話は簡単なのだろうが、流石にこれ以上恋のキューピットを努めるのは…辛かった。 |