第2話





『な…んだ……これ……っ!』

 錐揉み状態でくるくる振り回されたかと思うと、急にストンと方向を変えて落下したり、身体が撓るような流れに翻弄されたり…まるでジェットコースターにでも乗せられているかのような動きに、有利は危うく嘔吐するところだった。

『も…駄目……限界…っ!』

 《うぷ…》っと喉奥に酸っぱいような味が滲むのを感じながら、迫り上がってくるものの存在に耐えていると…急に中空へと身体が放り出された。
 
 ポスン…っ!

 硬いものに叩きつけられなかったのがせめてもの幸いだった。
 丈の長い枯れ草溜りに落ちたせいか、身体はぽぅんぽんっと弾んでふかふかとした苔の上に落ち着いた。
 漸く感じとれたしっかりとした地盤を、有利は擦り着くようにして実感する。

「ああ〜…大地って良いなぁ…」

 しっかりと草を掴んで身体を大地に張り付けるが、まだ嘔吐感と回転性の目眩は治らない。きっと、内耳の中のリンパ液がグルグルと回り続けているのだろう。

 全身にびっしりとかいた汗を、渡る風が冷やしていくのを心地よいと感じていたのだが…伏せていた瞼を開いて辺りを見回し、違和感に気付いた頃には涼しいのを通り越して寒いと感じ始めていた。

「あ…れ……何で?」

 ぶるっと身体を震わせながらシャツを掴むと、流されていた時の感触の割には濡れておらず、そのせいで寒いのだとは思われない。
 程なくして気付いた時には、外気自体が酷く寒いのだと知れた。

 異変は気温だけではなかった。有利の周囲に張り巡らされた壁…茨とも樹木とも知れない植物はそのまま上方に移行して天蓋を形成し、辺りを薄暗くしている。テレビか何かで見た兎の住処を、そのまま大きくしたような構造だ。

 全く見覚えのない場所だったし、そんな風に側方と天上方向を塞がれているのだとすれば、有利は一体どこから《放り出された》というのだろうか?

「ここ…どこ……?」

 きょろきょろと辺りを見回してみても、人っ子一人いない。
 茨のようなものに囲まれているから視界が悪いせいもあるが、それだけではなく…人の気配が全くなかった。
 
 チィ…
 チチィ……?

 心細さと動揺で呆然としていたら、すたた…っと何か駆け寄ってくるものがあった。

 仔猫…いや、栗鼠?
 大きな耳と尻尾、榛色の大きな瞳が印象的な獣が駆け寄ってきて、盛んに《チィ…チィ!》と鳴いている。尻尾はふっさりと膨らんで狐のようだが、顔立ちは仔猫のように丸っこい。金褐色の毛皮が随分綺麗だが、一見して種族が分からなかった。

「チ…チィ?」

 意味も分からずに、何となく同じような鳴き声を上げて応えれば、嬉しそうにすり寄ってくる。

 暖かい。

 それだけで、何だか…泣きそうになった。
 心細くてしょうがなかったせいか、この小さな掌大の獣にさえ縋りそうになってしまう。

「…おいで?」

 噛まれることを恐れて怖々手を差し出すと、仔猫のような獣はちょこんと載ってくれた。
 随分と人慣れしているものだ。

「誰かに…飼われてるのかな?」

 そうだ。そうに違いない。
 きっと、何か想像を絶する現象が起きてとんでもないところに飛ばされてしまったのだとしても、きっとどこかに人はいるはずだ。探し出して、状況を説明しよう。
 ここでへたり込んで泣いたりしているよりずっと良い。

「…よしっ!」

 大きな声を上げると仔猫のような獣はちょっと驚いたようだったが、逃げることなく掌に乗り続けていた。

「なあ、ご主人様の所に案内してくれるかい?」

 地面に置いてみたが、そう上手くはいかないようだ。
 えらく有利に懐いてしまった獣は慕わしげに足元へと擦り寄るばかりで、道案内役を買って出ることはなかった。それどころか、茂みの中に隠れていた仲間達までもがチィチィと鳴きながら寄り集まってきた。

「……なんでこんなに人懐っこいんだ?」

 こんな群れで生活している獣が、特定の人物に飼われているということがあるのだろうか?何やら先程の推測が怪しくなってくる。
 でも、役に立ってくれないからと言って無碍には出来なかった。

「チィ…?」

 チ…っ!…と、自分が呼ばれたことを理解しているらしい獣は、可愛らしい声を上げて有利のズボンを駆け上がってくる。小さな爪が《カカカ…っ!》っと肌を掻くが、痛いというほどではない。
 獣は肩に乗ると、満足そうに頬へと鼻面をすり寄せてきた。

「うーん…可愛い、けどさぁ…」

 こうなるともう降ろすことは出来なくて、苦笑を浮かべながら喉元を掻いてやる。猫のようにゴロゴロ言ったりはしなかったが、嬉しそうに喉を反らしていた。

 けれど、不意に獣達の気配が変わった。

 チィ…っ!

 鳴き声が幾らか低音に変わったかと思うと、獣達は全身の毛を逆立ててある方向に向かって警戒を示した。

「な…何々?」

 わたわたと慌てて獣達が見ている方向に視線を送るが、すぐには異変に気付かなかった。そこにあるのは単なる影にしか見えなかったからだ。
 だが…その影が《ぞろ…》っと動き始めると、有利も異常に気付かざるを得ない。

「な……っ!」

 ぞろ…
 ずろろ……

 ゆっくりと蠢く《それ》は、やはり影だった。
 だが…恐ろしく忌まわしい気配を持つ影は、影のままで実体を持ち始めたのだ。

 ず…ぞぞ…
 ぞろ……っ…

 ゲル状のアメーバにも似た影は怠そうに動いていたが、有利が身じろぎながら声を上げると、ぴくりと反応を示し…突然、明確な方向性を持って動き始めた。
 
 ずろろろ……っ!

「う…わぁぁ…っ!」

 それがなんなのか確認しているような暇はなかった。
 本能的な嫌悪感が激しく有利を追い立て、《とにかく逃げなければ》という衝動のままに全速力で逃げ出した。

 だが…影は速かった。
 見る間に距離を詰めて有利に迫ってくる。
 
 チィィィィイイ……っ!

「…っ!」

 逃げながら視界の端に映ったものに有利は激しく動揺した。
 先程から有利に懐いていた獣が、影に向かって飛びかかっていったのだ。
 影に噛み付くことは出来るようだから実体のあるもので、多少狼狽えているようだから感覚のある生物なのだと分かるが、それはあんな小さな獣がどうこうできるようなものではなさそうだ。

 チィ…っ!

 ちいさな獣達は飛びかかっては弾き飛ばされ、また飛びつくのを繰り返している。影は焦れたように《ぶるる…》っと震えたかと思うと、にょろりと伸ばした触手のようなもので獣達を掴んだ。

 みしみしと獣達の骨格が拉がれ、断末魔の悲鳴が上がる。
 その中には…一際有利に懐いていた、丸顔の獣の姿もあった。

「チィ…っ!」
 
 勝手につけた名前を呼びながら石を掴んで駆け出すが、チィと呼ばれた獣は既にぐったりし始めている。死んではいないようだが、骨格が砕かれる寸前なのだろう。

「こいつ…離せ!」

 石を掴んで叩き込むが、ぶよんとした肌を傷つけることは適わず、触手に絡みつかれてしまう。皮膚がざわつくような感触に必死で藻掻くが、びくともしない。

「や…やだ…や……っ!」
 
 ず…ぞ……っ
 ぞぞぞぞぞ……っ!

 影の下面からぞろりと赤紫の部分が迫り上がってくる。
 足元の高さから、腰…目線…とうとう、頭頂部の高さにまで達した巨大な裂け目…。
 それがこの生物の口のようなものだと悟った時…有利は絶叫の形に口を強張らせたまま硬直するしかなかった。

『喰われる…っ!』

 絶望感に精神ごと飲み込まれそうになったその時、閉じかけた瞳を開けさせたものは…最後の意地と希望だった。

『目を逸らしたまま…死んだりするもんか……っ!』

 もしかしたら、なにか突破口が開けるかも知れない。

 補食するその瞬間に自分の触手ごと喰ってしまわないように、一瞬でも拘束を解くかも知れない。その瞬間を自ら目を瞑ることで逃さぬよう、有利は持ちうる限りの自制心を発揮して影を睨み付けた。

 だが…影は有利の身の丈ほども巨大な口を開いて、覆い被さるようにして一気に飲み込もうとしてくる。

『だ…め……なのか…っ?』

 ぶるぶると震えながら心を折られそうになったその時…

 …突然、影は正中線上に縦の切断面を見せて、真っ二つに分かれた。

 最初、何が起こったのか理解することは出来なかった。
 ひょっとして口が更に分かれて、もっと大きな口でもって有利を食べようとしているのかと思ったのだ。

 だが…二つに分かれた切片は自律的な活動を再開することなく、《ずぅうん…っ》と重い音を立てて、それぞれ側方に倒れてしまった。同時に、触手も力を失って本体と共に頽れ、赤紫色の夥しい液がどくどくと大地に広がっていく。

 その時初めて、有利は影の向こうに人がいるのに気付いた。
 その人が構えていた棒を無造作に払うと、赤紫の汁がびしゃあ…っと大地に散る。

『剣…?』

 そう、棒のようなものは汁気(おそらくは、影の体液のようなものだろう)を払ったことで本来の金属性光沢を幾らか取り戻し、それが長く真っ直ぐな剣と思しきものなのだと気付かされた。
 いつの間にか近づいていたこの人が、影を倒してくれたのだろうか?

「あ…りがとう……」

 まだ強張っている唇でようよう発した礼は何とも弱々しいもので、ちゃんと伝わったのかどうか分からない。それほどに小さな声しか出なかったのは、一つには先程の恐怖から抜けきらなかったためで、もう一つは…目に映った人が、とても綺麗な男性だったからだ。

 有利は別に男性を愛でる趣味はない。
 ただ、この男性は色んな意味で目を惹く人だったのだ。

 鞭のようにしなやかな長身は、体幹部が逆三角形をしており、広い肩幅の割に引き締まった腰は細いと表現できるほどだ。脚全体も長いが、特に膝から下はすらりと長く、それでいて実に俊敏そうに見える。

 白い肌に映えるダークブラウンの髪は明らかに白色人種のそれで、後ろ髪が幾分長めだ。無造作に乱されているように見えるが、この人には似合っているように思えた。
 我に返ってよく見ると、丈の長いコートと思われた衣服は軍服のように硬質な素材で、濃蒼色の地色にブラウンのベルトを締め、細身のズボンは裾をベルトと同色の膝丈ブーツに入れ込んでいる。

 一見して、どういう職種の人なのか分からない。埼玉の街中を歩いていたら、風変わりな衣装に身を包んだモデルさんが撮影のために闊歩しているとでも思ったことだろう。
 
 また、衣装にも増して目を惹くのは顔立ちが実に端正なことだ。
 派手ではないのだが、秀でた額から通った鼻筋、そして形良い唇から細めの顎へと流れていく曲線が何とも言えず美しい。何というか…実に凛々しい面差しなのだ。

 そして、なんと言っても瞳が印象的だった。
 切れ長の瞳は澄んだ琥珀色をしており、微かに銀色の光彩が散るという不思議な色合いをしている。氷のように凍てついてさえいなければもっと美しかろうに…と思うと、それだけが少々残念だ。

『あー…おいおい、命の恩人に対してナニ品定めしてんの俺!』

 思わず失礼なほどに見惚れていたのを自覚すると、有利はわたわたと礼の言葉を繰り返した。日本人の特性として、ぺこぺこと腰を曲げてのお辞儀もしてしまう。

「あの…あ、ありがとうございますっ!おかげで助かりましたっ!」

 若々しい造作は二十歳前後と見られるが、青年の浮かべた表情は随分とシニカルなものだった。
 若ぶりに見えるが、実は結構いっているのだろうか?
 そう思えるくらいにその眼差しは老成していた。
  
 今度はちゃんと礼の声も聞こえたはずなのだが、薄目の形良い唇が返事を寄越す事はなかった。
 聞こえるか聞こえないかの大きさで小さく溜息をつくと、向こうも有利を品定めするようにじっと見詰めてくる。

『う…』

 その眼差しから、男性の感情を読み取ることは困難だった。
 《嫌悪》ではないが《好意》というわけでもなく、軽々しく話しかけることを拒むような何かがあった。
 敢えて表現するならば、それは《困惑》であったかも知れない。

「………」

 お互いに固まってしまったまま、どのくらいの間そうしていただろう。
 男性は何故か赤紫色の液を纏わせている剣をしまうことはなく、微かにそれを持つ手に力が籠もったように見えた。

『どうするんだろう?』

 少しだけ考えたが、彼が行動に出る前にちいさな獣が動いた。

 チチ…チィ…っ!

 何匹かの獣は可哀相に命を失ったようだが、チィは何とか生きていたようだ。
 少しよろめきながらも勢いをつけて走り、また有利の肩に乗ってくる。

「チィ…!良かった……」

 ほっとしてすりすりと互いの鼻面を摺り合わせて微笑めば、チィも嬉しそうに鳴き声を上げる。すると、強張っていた肩からふわりと力が抜けた。

『ああ…俺、緊張してたんだなぁ…』

 それはそうだろう。

 いきなり見知らぬ場所に投げ出されたかと思ったらとんでもない化け物に喰われかけて、救い主とも上手くコミュニケーションがとれなかったのだから…。
 ふと思い出して救い主に目線を向けると…彼は、微かに微笑んでいた。

「……っ!」

 僅かに口角を上げただけなのに、途端に氷のように凍てついた表情がやわらかく解れる。まるで、頑なな白い蕾が春の陽気に誘われて開きかけているような…そんな印象があった。

『綺麗…』

 けれど、目を見開いて見惚れたのが拙かったのだろうか?
 彼はすぐに笑みを引っ込めてまた無表情に戻ってしまった。

『ああ、勿体ない!』

 がっかりしてしまうが、それでも一瞬とはいえ救い主の人間味ある表情に触れたことで、有利は本来の人懐っこさを取り戻すことが出来た。

 彼がずっと持ったままだった剣を懐から取り出した布で拭いた後、鞘にしまってくれたおかげもあって、緊張感がかなり解れたのだ。

「俺、渋谷有利っていいます!助けてくれてありがとうございます。んで、助けついでに教えて貰いたいんですけど…ここ、どこですかね?ああっ!俺、頭オカシイとかそういうんじゃないんですよ?いや、確かにあんまり成績は良くないけど、それでも平均的な高校には入ってますし、普通にコミュニケーションとかとれるし!あー…そんなことは置いといてですね、ここが何処で、どうやったら俺が住んでる町に戻れるか教えて貰えません?ああ…何でしたら民家があるところまで連れてって貰うだけでも助かります」

 一気にまくし立てるが、救い主の表情はますます困惑の度を増していた。マシンガントークの日本語にはついて行けないのだろうか?

 仕方なく、辿々しい英語も使って話しかけてみたのだが、やはり反応に乏しい。
 それならば…と、せめて名前だけでも伝えるべく身振り手振りで自分を指し示し、名前を連呼してみた。

「俺、有利です。ゆうり、ゆーり、ユーリ…!」

 自分を指さして何度も言ったおかげだろうか?男性は困惑しつつも名前を口にしてくれた。

「…ユーリ」
「そうそう!」

 男性の発した声音は驚くほどに滑らかな低音で、耳朶を震すその魅力的な響きに思わず満開の笑顔を浮かべてしまう。
 そんな声で名前を呼ばれたら、胸が変な風に弾んでしまうではないか(「呼べ」と要求しておいて言うことでもないが)。

 救い主はまた、微かに笑った気がした。

 けれど、やはりまたすぐに笑みを消すと、有利の腕をやや強引に掴んできた。
 《こちらに来い》と言っているようだ。

「え…えと、意味伝わったのかな?あの…民家に連れてってくれますか?ええと…あのー…」

 名前が分からないと呼びかけにくい。有利は上目遣いにじぃ…っと救い主を見詰めて、失礼に当たらない程度に指さすと、《名前教えて》と繰り返した。

「……コンラート」
「コンラァ…コンラッ……コンラッド?」

 何度か繰り返して呼びかけると、救い主はやはり根負けしたように頷いた。

「…コンラッド」

 最初に言った言葉と少々違うような気がしないでもないが、男性が頷いたのでよしとする。

「コンラッド、助けてくれてありがとう!」

 名前が分かったのが嬉しくて、また、その美しい声音が再び聞けたことが嬉しくて、有利はにこにこしながらコンラッドの右手を握った。
 ビク…っと震えたので《図々しかったかな?》とは思ったのだが、やはり腕を引っ張られて連れて行かれるというのはいい気がしないので、許して欲しいのだが…。

「手…繋いだらダメ?」

 精一杯想いを伝えるように上目遣いにおねだりすると、コンラッドは一際大きな溜息をついて左の掌で顔を覆った。
 そして、まだ逡巡するようではあったが、額に落ちかかる長めの髪を掻き上げると、その左手を差し出して《こちらにしろ》という手振りをする。そういえば剣を使っていたのは右手だったから、いざというときに備えて利き手はあけておきたいのかも知れない。

「こっちだったら良い?」

 きゅ…っと左手を握ると軽く握り返してくれたから、安堵してまた笑ってしまう。
 どうも彼が有利の存在を認めてくれるたびに、にこにこにと笑み崩れてしまうのが反射になっているらしい。

『おっかしいなあ…危ないとこを助けて貰ったせいかな?』

 そういえば以前、《吊り橋現象》というのを村田に教えて貰ったことがある。
 足元が不安定な吊り橋のような場所で目線が合った男女は恋に落ちやすいというアレだ。恐怖感による動悸等の諸症状を、脳が恋のときめきと勘違いしてしまうために起こるらしい。

『じゃあ、俺…今この人に恋してる気分なのかな?』

 そういえば、手を繋いでいるとナニやら甘酸っぱいような心地になってくる。

『いやいや、落ち着け俺!吊り橋現象、吊り橋現象…脳、勘違いすんなよ?これは恋じゃなくて恐怖のドキドキだぞ?』

 呪文のように《吊り橋現象》と唱えながら、有利はコンラッドについていった。

 コンラッドは何か一言呟いたようだったが、残念ながら意味はさっぱりわからなかった。
 ただ…もしも有利がその言葉を理解していたら、幾らコンラッドに恩義を感じているとはいえ…全速力で逃げ出したことだろう。


「この子を…いつ、殺すべきだろうか?」


 コンラッドは…そう呟いていたのだ。

 


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