第17話 「何が…起きているのだ…っ!?」 ウルヴァルト卿エオルザーク率いるヴォルテール軍は、輸出品を携えた商隊を中心にして一応は《警護部隊》の体裁を整えていたのだが、エリオルが小シマロン軍に連れられて向かったとされる領域にはいると、最早何を取り繕うこともなく一直線に荒野を突き進んでいた。 その最中…突然轟いた地鳴りに怯える馬を落ち着けさせていると、更に赤黒い瘴気が立ち上ってきた。それはよりにもよって、彼らが進もうとしている方角であった。 「なんという…凄まじい法力だ……」 今回は大陸に赴くとあって魔力の強い兵をはずしたり、あるいは法力を無効化できる兵を率いてきたのだが、それでも圧倒的な力の放出に脳が締め付けられ、嘔吐や目眩で動けなくなる者が続出した。 「なんということだ…連中は、まさか《禁忌の箱》を開けたというのか?」 開放実験をするつもりらしいと聞いて、エオルザークは《まさか》と思ったものだが…小シマロンの連中はこちらの予想を上回る大馬鹿者の集団であったらしい。 大方、法術師達によって《禁忌の箱》を操れるつもりで居たのだろうが…この様子では全く効果はなかったらしい。 「くそ…くそぉおお…っ!馬鹿どもめっ!!」 エオルザークが悪態をつく内にも、溢れ出してくる力は凄まじい勢いで大地を引き裂いていく。 ゴォォオ……っ! 大地が引き裂かれ、大きなクレバスにヴォルテール軍は二分されてしまう。 このままでは、大陸だけでなく眞魔国にまで影響は波及していきそうだ。 「エリオル…お前は、箱を操ることは叶わなかったか…っ!」 おそらく、エリオルは正しい鍵ではなかったのだ。 だが、ヴォルテール家が眞王に仕えて《禁忌の箱》を封じたのは確かだから、その血脈を受け継ぐエリオルの左目は、不完全な形で箱を開放してしまったのだろう。 およそ考えられる限り、最悪の状況だ。 エオルザークは覚悟を決めると側近だけを帯同させて箱に向かい、残りの部隊は岩盤が比較的頑丈と思われる領域で副官の指揮に従って待機することを命じた。 一定時間内にエオルザークが戻らない場合は、眞魔国に戻る事も厳命した。 『俺が行けば、あるいは…っ!』 可能性は無いわけではないが…望み薄だと自覚もしている。 それでも、エオルザークはこのまま何もせず、弟を見捨てることは出来なかった。 * * * 「大人しく…眠っておれ…っ!」 『嫌だ嫌だ嫌だ…っ!』 激しく抵抗する《地の果て》を押さえると、水蛇の一頭が灼熱地獄からコンラートを救い出した。しかし、生身の身体にとって至近距離から《地の果て》の力を受けることはあまりにも過剰な負荷であったらしい。おそらく、地割れから噴き出た熱風で広範囲の火傷を負ったのだろう…意識が遠のき、息が浅く早いものになっている。 「無茶をしお…」 どくん…っ! 体腔内で鼓動が跳ねる。 『いかん…っ!』 この肉体の所有者が激しく動揺している。 痛ましいコンラートの姿に半狂乱になっているらしい。 『コンラッド…コンラッドぉお…っ!』 『落ち着け、ユーリ。今は俺に任せておくのだ』 『だって…だって……』 『信じてくれ。俺は…お前を、お前達を傷つける者ではない』 『…っ』 誰かとこんな風に語り合ったことがないので、どういう言い回しをすれば良いのかは分からなかった。 だが…どうしても分かって欲しいのだ。 決して、自分にはユーリを傷つけるつもりなどないのだと。 ユーリにとって大切なものは、自分にとっても大切なのだと。 『あんたは…一体誰なんだ?』 『俺にも分からぬ。気づいた時には…ずっとユーリの中で、ユーリと共に世界をみていた』 ユーリの問いかけに、少々困ってしまう。 《誰》と問われても、彼にも自分が何者なのか分かってはいないのだ。 唯言えることは…地球にいた時よりも、この世界に馴染み深い存在であるのだということ。この世界のことを地球のことよりもよく知っているらしいこと。 後は、気が付いた時にはとにもかくにもユーリが愛おしくてならなかったということだけだ。 『俺は名を持たぬ者だ。誰にも名付けられず、誰にも個別に呼ばれたことはない。だから…何者かと問われても名を答えることは出来ぬ。だが…少なくともユーリ、お前の守護者であることは確かなのだ。今は…それで十分ではないか?』 『名を…持たない……』 ユーリはその事をどう思ったのか、ぽつりと呟いた。 『上様…ってイメージだけどな』 『上様…?』 『うん、暴れん坊将軍って感じ。罪を憎んで人を憎まず的な、格好良いお殿様…』 『ふむ…良い名だ!』 こくりと頷くと、名付けられたばかりの上様はにっこりと微笑んで腕にコンラートを抱き留めた。 『力を注げ…ユーリ。この男は、まだ救えるはずだ。そして、あの《地の果て》の中にいる少年もな』 『子どもが入ってるの!?』 『そうだ。おそらくヴォルテール筋の少年だろう。正しい鍵ではなかったがなまじ血筋が近かった故に箱を中途半端に開いてしまったのだ。救い出さねば、この地は滅びる。そうなったら…お前は泣くだろう?』 『うん…うんっ!嫌だよっ!コンラッドやグリ江ちゃん…それに、親切にしてくれた村の人たちが住んでるんだもんっ!』 『ならば、俺と力を寄り添わせよ。我らならば…止められる…っ!』 『う…うんっ!』 上様の中に別種の力が溶け込んでいく。 やはり感じていた通り、ユーリには強い治癒能力が備わっているのだ。上様を構成する特に強い因子がそう囁いている。 《この子は、世界を癒す子よ》…と。 ぽぅ… ぽぅう…… 淡い燐光を放ってふわふわとした熱がコンラートを取り巻いていく。 無惨に赤く爛れていた皮膚が健康的な艶を取り戻し、呼吸が自然な速度に戻っていく。 長い睫がふるる…っと震えてからゆっくり開かれると、印象的な琥珀色の瞳が意志の力を示してこちらを見た。 「ユー…リ……?」 「ユーリも俺の中にいるが…俺たちは同一のものではない。だが、苦しゅうない…俺のことは上様と呼ぶがよい」 「上…様?」 怪訝そうなコンラートに対して、上様はどこか誇らしげに胸を張っている。 「良い名であろう?ユーリがつけてくれたのだ。さて、お前の火傷はもう良かろう。俺たちはあの暴虐な《地の果て》めをコテンパンのギッタンバッタンのずいずいずっころばしにしてやるからな、そこで待っておれ」 「わ…っ…」 コンラートをシャボン玉のような水膜で包み込んで、ふわふわと漂わせて岩盤が固そうな領域に飛ばしたのだが、飛んでいる最中に不満たらたらの様子で身を乗り出してきた。 「無茶をしないでくれ…っ!」 「この上なく無茶をしたお前に言われたくはないが…心しよう。俺もお前と同様、ユーリを失いたくはない」 「……っ!」 コンラートは上様の物言いに瞳を見開くと、その意味を咀嚼しながら地上に降りた。 『さて、手早く片づけてくれよう…っ!』 そうしなければ、被害が更に拡大していく事は確かだった。 * * * 『ユーリの中には…一体何が封入されているんだ?』 悪しきものとは思えないが、不思議なものであることは間違いない。 《多重人格》という概念は精神医学の発達した眞魔国では知られたものだが、それでも異世界育ちの筈のユーリが眞魔国語を操るのは奇妙だ。 しかも、彼は明確に口にしたではないか…《地の果て》の名を。 『ユーリの中には…眞魔国の存在が封じられているのか?』 しかも、それは絶大な魔力を持つ存在であるらしい。 「ユーリ…上様…っ!」 コンラートは崖を駆け下ると折角脱出した窪地に戻ろうとしたが、その横を一緒になって降りていくる者がいる。 「ヨザ…っ!?」 「はぁ〜い。グリ江ちゃんよぉ〜」 片手を振りながら笑ってみせるヨザックは、妙に明るい表情をしている。 「この世の地獄を前にして…随分と余裕だな?」 「あっはは…っ!馬鹿なこと言うなよ。地獄ならもう最悪のヤツをあんたにお見舞いされてるじゃねぇか。あれ以上酷いことなんてあるもんか」 「…………」 それは信頼していたコンラートが、よりにもよって滅びをもたらす双黒に惚れてしまった事を指しているのか。 「だがよぅ…今度のはちょいと違うぜ?俺は何だかわくわくしてんのさ…っ!元々、あの託宣ってやつには胡散臭さを感じてたんだが…これで益々確信が深まった。例のアルザス・フェスタリアって奴にあんたを陥れるつもりがなかったんだとしても、間違いなくあいつは託宣を読み違えてるのさ。ユーリの奴は《禁忌の箱》を開くどころか、封じようとしてるじゃないか!」 「確かに、その通りだ…っ!」 ヨザックの期待感は、慎重なはずのコンラートの心をも高揚させていた。 ユーリは滅びをもたらすのではなく、滅びから世界を救う存在なのではないか…その発想の転換は、あるいは都合の良い妄想なのかも知れないが…可能性がないと突っぱねるにはあまりにも魅惑的な考えだった。 『ユーリ…俺は、君を愛しても良いのだろうか?』 わくわくと弾む想いが、今…そんな場合ではないはずなのに、コンラートの胸を高揚させていた。 * * * 「これは…っ!」 溢れ出てくるしょ瘴気が突然弱まったかと思うと、地獄の亡者のように相争っていた人々が整然と避難を始めた。 その要因となった少年に、ウルヴァルト卿エオルザークは目を見開いていた。 「双黒が…《地の果て》を押さえようとしているのか…っ!?」 双黒は《地の果て》から長身の青年を救い出すと、その治癒を始めた。 あれは…ウェラー卿コンラートではないか。 コンラートがヨザックと共に崖を駆け下るのを目にすると、エオルザークは我を忘れて馬から降り、全速力で走って彼らを追った。 「閣下…っ!?」 「お前達はここで待機…!俺はエリオルを探す…っ!」 だが、普段は命令に服従する部下達も今回ばかりは放っておけないらしく、馬から降りると徒競走のような勢いで一緒に駆け出してしまう。 「貴様ら…堂々と命令違反をするんじゃないっ!営倉送りにするぞ…っ!」 「ご自由にどうぞ…っ!弟君の事で理性を失われた上官を放っておける程、我らは冷血には出来ておりませぬっ!!」 「こ…この…っ!減らず口をききおって…っ!」 喚きながら長身の軍人達が駆けていく様子は、端から見ていると結構珍妙だ。 「あ…あれは…っ!」 「……エリオル…っ!?」 水蛇を伴った双黒はがしりと《地の果て》に組み付くと、硬く封じられたシャコ貝のような蓋をこじ開け、溢れ出てくる触手を振り払うと小柄な少年を引きずり出す。それは、無惨に顔の左半分が爛れてはいるが…確かにウルヴァルト卿エリオルであった。 「エリオル…エリオルーーっっ!!」 絶叫して突進しようとするエオルザークを、がしりと羽交い締めにして部下が止める。膂力に優れた彼を止めるためには二人がかりでもきつい。 「何故止めるのだ!」 「我らがどうにか出来ることではありません。せめて、地の動揺を抑えてあの双黒の少年に助力しましょう」 冷静な部下にそう諭されると、エオルザークも本来の判断力を取り戻した。 「…うむっ!」 跪き、大地に手を置くとあらん限りの力を注ぎ込む。 途端に額から脂汗が噴きだしてきたが、これは他の部下達も同様だ。 『これほどの力と…あの双黒は戦っているか?』 せめて…僅かなりと力になりたい。 世界を滅びから救おうとしている、あの双黒に…なんとしても力を貸したい。 * * * エリオルに治癒を施すことは困難だった。 コンラートよりも傷が深いということもあったが、何より《地の果て》の抵抗が凄まじかった。 本来の鍵ではないエリオルを拘束し続けることに大した意味はないのだろうが、上様に好きにさせたくない心理は甚だしく、また、封じられることには更に大きな抵抗を示した。 よって、上様はエリオルを抱えたままでの防戦を余儀なくされた。 「く…っ」 『憎い…おのれ……憎い、憎い憎いっ!』 憎悪の奔流が赤黒い熱風となって押し寄せてくるから、その攻撃からエリオルを護るのにも苦労してしまう。この少年は既に酷いショック状態に陥っている。これ以上の責め苦は死に直結するだろう。 「ええい…せからしかぁああ…っ!」 水蛇に指図して《地の果て》に噛みつかせるが、直接攻撃は流石にリスクも大きい。《ぎしゃあ…っ!》と悲鳴をあげて水蛇が数頭蒸発してしまい、地中から伸び出した鋭い岩に腹を串刺しにされてしまう。 「ぁう…っ!」 上様の身体もまた岩の攻撃を完全に避けることは出来なかった。 掠めていく岩からエリオルを庇った瞬間、右下腿前面の筋を裂かれて…激痛の衝撃によってか、意識の切り替えが起こってしまう。 『しま…っ!』 舌打ちをする暇もなく、上様はその意識をユーリの奥に戻してしまった。 そして…残された大地には、エリオルを抱えたままぽかんとしているユーリが取り残された。 * * * 「ええと…これは……どーなってんでしょうねーー……」 ひくりと口角を引きつらせながら、有利は立ち上がろうとして苦鳴をあげた。 右下腿から鮮血が噴きだして、走ることはおろか、歩くことも困難に思われたのだ。 有利は確か、コンラートとヨザックを追っていたはずである。 そして恐ろしい瘴気が吹き付けてきた時に、不安と恐怖で惑乱して、意識を飛ばして…そしてそして、今どうしてこのような所に、幼い少年を抱えてしゃがみ込んでいるのだろう? 「えと…」 頭を捻ると、少しずつ…うっすらと情景が思い出されていく。 そうだ全てを忘れているわけではない。《上様》と名付けた人格がこの身体を使って、コンラートを助けたのは覚えている。 この少年を助けたのも…。 だが、これからどうしたら良いのかはやっぱり考えても分からなかった。 ぞろぅ… ど…どろろろ…… 「う…っ」 溢れ出てくる熱風が、目前で逸れたのが分かった。おそらく有利の中にいる上様が、人格が交代してもなお有利を護ろうとしてくれているのだ。 「ううう〜…上様、不甲斐なくてごめんなさいっ!」 返事は無かったが、それでも想いに報いずにはいられなかった。ここまで上様がどれほど頑張ってくれたのか、うっすらと有利にも分かっている。だとすれば、せめてこの少年だけでも救い出したい。 『全然動けない訳じゃない…だったら、歩けっ!一歩でもこの箱から離れるんだ…っ!』 一歩、また一歩…その度に激痛が身を貫くが、くらくらと痛みに揺らぐ意識を支えて進んでいこうとする。 しかしその身体を拘束しようと、箱からずるりと触手が伸びてくる。 「ユーリ…っ!」 「コンラッド…グリ江ちゃんっ!!」 素晴らしい跳躍を見せて、巨大な割裂の向こうからやってきたコンラッドとヨザックが剣を振るうと、断ち切れはしなかったがそれでも触手が幾分怯む。 それが二人の剣に鋳込まれた魔石の守護によるものだとは、今の有利には分からない。 ヨザックが素早くエリオルの身体を受け取ってくれると、コンラートがふわりと有利を抱き上げてくれた。 囁かれる言葉は、表情と言い回しから察して《よく頑張ったな》という意味だと思う。頑張った成果があったのかどうかは分からないが…コンラッドに賞賛されることはとても嬉しい。 『ああ、でも…このままじゃ、みんな危ないよな?畜生…俺に上様みたいな力があったら…っ!』 意識の主導権切り替えは、意図すると逆に出来ないのだろうか?《この身体を使って》と幾ら懇願しても、上手く上様に交代することが出来ない。 そうこうするうちに割裂の幅が開大していき、もう跳躍しただけでは飛び越えられなくなってしまった。 そして…箱からはおぞましい熱気が押し寄せ、身を寄り添わせた有利たちの防壁はどんどん心許なくなっていく。 「コンラッド…」 「…ユーリ…っ!」 コンラッドが、熱を帯びた触手から有利を護ろうとするように全身でくるんでくれる。 けれど有利としては、コンラッドの身が熱に晒されるのは自分が灼かれるよりももっと恐ろしいのだ。 『嫌だ…コンラッド、コンラッドぉお…っ!』 うっすらと記憶の中にあるコンラッドの姿が蘇る。 全身を灼かれて肌の随所が赤黒く変色し、水膨れが痛々しく浮き上がっていた。あのような苦しみを、もう二度と味合わせたくない。 『力が欲しいよ…上様、俺は…コンラッドを…みんなを救いたいよ…っ!』 その時…防御壁の一部が裂けた。 隙間を縫うように滑り込んできた赤黒い触手が掴んだのは… …コンラッドの、左腕だった。 |