第16話



 

 胸が、ざわつく。

 有利は以前もコンラッドに置いて行かれたことがあった。
 だが…いま有利を突き上げている不安はあの時とは比較にならないものであり、それは時間を追うごとに刻々と大きさと重さを増していく。

 その要因は、コンラッド達の向かった方角に起因しているようだった。

『何か、あっち…変じゃないか?』

 何がどう《変》であるかを言い表すには、有利には語彙が少なすぎたが…少なくとも、凄まじく不吉な気配が漂っていることだけは確かだった。
 
 ざわざわざわ…
 ぞわぞわぞわ……

 何かが躙り寄ってくるような気配がある。
 浸食するように…侵していくように…健やかなる物の合間にめりめりと食い込んでいくようなその気配に、有利は強い吐き気と目眩を感じた。

 だが…有利はふらつきながらも立ち上がると、精一杯の力をふるって走り始めた。
 
 転んだせいで膝や掌からは血がにじみ、疾駆していったコンラッド達はもう後ろ姿も見えなくなっている。
 それでも、行かずにはいられなかった。

『コンラッド…グリ江ちゃん……っ!』

 あちらに行ってはいけない。
 とんでもなく不吉な事が、有利にとって大切な者達に降りかかりそうな予感がするのだ。

『動け、俺の脚…っ!』

 もっと早く走れるはずだ。だって、それだけの訓練を有利は続けてきたのだから。
 野球の為に、諦めることなく続けてきた努力はきっと友人を救う力にもなるはずだ。

 有利は全身の筋肉に強く命じた。
 今こそ、その力の全てを発揮する時だと。



*  *  * 




 コンラートは弓矢による後方支援をヨザックに頼むと、単騎で崖を駆け下りた。
 小シマロン兵は槍も所持していたが、予測していなかった位置から騎馬による攻撃を受けたことで組織だった抵抗が出来ずにいる。そうなるように、コンラートは敵陣の配置をよく観察してから攻撃を仕掛けたのだ。

 だが、首尾良くエリオルを小脇に抱えて逃走…とは行かせない敵がいた。

「久方ぶりだな、コンラートっ!」
「アーダルベルト…貴様っ!」

 横合いからノーカンティーの首に斬りかかられ、危ういところで手綱を操って避けたものの、崩れた体勢を戻すことは叶わなかった。しかし、そのまま横転するような無様な真似はせず、身を捻って地面に降りると、すぐに指示を出してノーカンティーをこの場から脱出させる。
 駆け抜けることが出来ないのであれば、大きな馬体は標的になりやすく、固執するのは返って危険だ。

 こうなれば、この場の最高責任者らしいマキシーンを拘束して盾に取るほか無い。

「何故小シマロンなどに味方するっ!アーダルベルト…これがジュリアの望んだ道だとでも言うつもりか!?」
「……ジュリアの名を口にするなっ!」

 好敵手を得たと言いたげに高揚していた面が、一気にどす黒く変色する。
 この男は未だにジュリアを思い続け、迷い道を彷徨い続けているのだろうか?

 あるいは…自分を戦場で殺してくれる者を探しているのかも知れない。
 自殺することは命を汚すことであり、そうなれば未来永劫ジュリアにまみえることは出来ないからだ。

「十貴族たるお前が《禁忌の箱》を開くことで何が起こるか知らないわけでもあるまいっ!このままでは…眞魔国も滅ぶんだぞ!?」
「《滅びをもたらす》なんて呪いを受けて、これまでの功績を足蹴にされたくせに…まだ眞魔国なんて国に未練があるのかよっ!」
「俺を追放した者が眞魔国の全てではないからだ。あそこには…まだ護りたい者がいる」
「……くそ…っ!」

 アーダルベルトの顔に浮かんだのは、呆れだったのか、あるいは…嫉妬だったのか。
 それを確かめる時間はなかった。

 
 ドォオオン……っ!


「……っ!?」

 異様な地鳴りを受けて反射的に向けた視線の先に、《地の果て》があった。
 先ほどまですぐ近くにいたはずのエリオルの姿がなく、唯の木製の箱にしか見えなかった《地の果て》からはどす黒い瘴気が沸き上がり、見る間に割れていく大地からは明滅する赤と黒の光が放たれていた。

 その色彩が意味するものを理解した途端、周囲の人々は恐怖のどよめきを上げた。赤も黒も激しい熱を持つ…溶岩の色だったのである。しかも溶岩を含んだ裂隙はめりめりとその領域を拡大させていき、囂々と轟く地鳴りと共に激しい揺れが起こるたび、恐るべき速度でその頒図を広げていった。

「ば…馬鹿な…っ!この窪地は火口というわけではあるまい!?」
「大地が…狂っているのだ……っ!」


 うわぁああ……っ!!
  
   
 もはや、捕虜も小シマロン兵の区別もなかった。
 本能的な恐怖に晒された人々は我先にこの窪地を逃げ出そうと上り坂に殺到し、慌てて横転した者の上に別の者が乗り上げ、それを押しのけて逃げようとする者の軍靴に踏みつぶされていく。

「恐れるな…っ!法術師共…何をしておるかっ!今こそ貴様らの働きどころだろうが!?これだけの頭数で《禁忌の箱》を押さえられぬとあっては物笑いの種だぞ!!」

 マキシーンは口泡を飛ばして法術師達を叱咤したが、彼らの顔色がどんどんどす黒くなり、失神したり、絶叫をあげて逃げ出したり…あるいは、目の焦点が合わなくなった者がふらふらと《禁忌の箱》に歩み寄って割裂の中に飲み込まれてしまうと、マキシーン自身も実験の失敗を悟らぬ訳にはいかなかった。

「人間の手に…おえる物ではなかったのよ……っ!」 
「う…うるさいっ!」

 罵倒するフリンを強く突き飛ばすと、マキシーンは窪地からの脱出口に向かって突進していった。そして、それなりに小シマロン兵をとりまとめると捕虜達を突き飛ばしながら脱出を試みる。

 しかし…《地の果て》に小シマロン兵を取り逃がすような寛容性はなかった。

 グラァ…!
 ゴラァアアアア……っっ!!

 ひときわ激しい揺れが襲ったかと思うと、文字通り大地は引き裂かれたのである。
 ばっくりと割れた割裂は地の底まで通じているかと思われるほどに深く、幅広く…がらがらと岩や砂利が崩れて、人間達と共に落ちていく。

「これが…《禁忌の箱》のもたらす地獄…」

 さしものアーダルベルトも顔色を変えると、いったん剣を鞘に戻して踵を返す。

「勝負はお預けだ。また…別の地でまみえよう…っ!」
「ここで生き残れたら…な」

 皮肉な笑みを漏らすコンラートは、アーダルベルトと同じ方向には進まなかった。
 それは他の誰とも違う…《地の果て》への道だったのである。

「あなた…《地の果て》を止められるの…っ!?」
「君は…フリン・ギルビット?カロリアの領主か」
「……その、妻よ」

 乱れた髪が煤けた顔や肩に掛かっているが、フリンの淡い緑色の瞳は逃げまどう人々の中にあって、比較的落ち着いて見えた。怯えていないわけではないのだろうが…それよりも、コンラートに興味があるらしい。

「あなた…まさか、ウェラー卿コンラートではないの?」
「そうだ。お初にお目に掛かる…奥方。君もご存じのようだが…《禁忌の箱》を双黒と共に開き、世界を滅ぼすとされた男だよ。幸いと言っていいのかどうか分からないが…その呪い成就する前に世界が滅びそうだけどね」

 グォ…っと激しい音を立てて足下の大地が裂け、フリンを飲み込もうとしたが…咄嗟にコンラートが抱きかかえて比較的しっかりとした大地に置くと、剣を振るって手首を拘束していた木枠をはずす。

「可能であれば、お逃げなさい」
「何故…?わ、私を助けてくれるの?私は…人間よ?」

 このような状況を引き起こした人間の全てを憎んでいるとでも思っているのだろうか?フリンは顔をきょとんと目を見開いている。そういう顔をすると厳しい面差しが幾らか和らいで…彼女の容貌を可愛らしく見せた。

「俺の知人を庇ってくれた。感謝している」
「…っ!」

 エリオルとのやり取りは、詳しくは分からないが遠目に大体の様子を確認している。周囲全てが敵という状況の中、唯一人親切を示してくれた女性にこれくらいの感謝は示して当然だろうと思うのだが、フリンの方はそうは思わなかったらしい。

「魔族とは…みんな、そうなの?あの子といい、あなたといい…私が知っている魔族ってものとは全く違うわ…」
「人間と一緒だよ」

 良いやつもいれば悪いやつもいる。
 一括りにすることなんて出来ない…。

 もっと時間があればゆっくりと語り合っても楽しかったろうが、もうそんな余裕はなかった。コンラートはフリンを抱きかかえると、声を掛けてから力一杯割裂の対岸に投げた。

「お逃げなさい、ギルビットの奥方…っ!」
「あ…あなたはどうするの…っ!?」

 転ぶようにして対岸に着地したフリンが銀色の髪を振り乱してコンラートに問うが、これは答えられるものでもない。

「俺に出来そうな事をしてみるだけだ。どうなるかは…俺にも分からない」

 苦笑して見せると、コンラートは秒単位で増えていく割裂を跳躍して避けながら《地の果て》に近づいていった。
 双黒と共に《禁忌の箱》を開くと言われたコンラートなら、何らかの影響を与えられるのかも知れない。今は…そう信じて行動するより他になかった。

「フリン…頼みがある。もしも、双黒の少年を見かけたら…護ってやってくれ。今は銅色に髪と瞳を変えているが、際だって美しく…この世界の言葉を話せぬ子だ」
「……っ!」

 フリンがその言葉に何を感じたのかは分からない。
 だが、この場を去りかねて不安定な崖っぷちに留まることには見切りをつけたのか、立ち上がると他の連中同様逃げ道を求めて駆け出した。
 去り際に、小さく…《ありがとう》という言葉を残して。

 彼女が生きて逃れられるのか、ユーリと出会ったとして本当に庇護してくれるのかは分からない。それでも…無事を祈らずにはいられなかった。
 
『俺は、どうなるか分からないからな…』

 ヨザックを窪地の上に残してきたのも、今となっては良かったように思う。
 彼が生き残れば、おそらくユーリを護ってくれるだろう。

『ならば…振り返らず行くしかない…っ!』

 どぅ…っと吹き上げてくる熱風が顔の皮膚を浸食する。凄まじい高温の蒸気に、表皮は爛れかけているのかも知れない。
 それでも、これまでに鍛え上げた能力の限りを尽くして、コンラートは跳躍を繰り返して《地の果て》に近寄っていく。

 あの中に、ウルヴァルト卿エリオルがいるはずだ。
 せめて…あの子を開放してやりたい。

 一本気でグウェンダルによく似たあの少年を、世界の滅びの要因などにしたくはない。

「く……っ!」

 ごう…っと吹き付ける熱と光に目が灼かれ、ぐらぐらと煮え立つ大地が脚を取り込もうと赤い触手を伸ばしてくる。
 呪わしい地獄のただ中で…眇めた視線の先にある《地の果て》がズロ…っと蓋をずらしたかと思うと、赤黒い触手がぞろりと伸びてコンラートに向かってきた。
 すると、頭の中に語りかけるような…奇妙な《声》が響いてくる。

『違う…これは、違う。似ているが…鍵ではない』

 ズロリと触手に絡みつかれているのは、エリオルだ。
 無惨に顔の左半分が爛れており、左の眼裂からは血が滴っている。死んではいないようだが…意識は完全に失われているだろう。

「返せ…鍵ではないのなら……その子を、返せ」
『お前は…鍵か?』
「違う」
『いや…感じる……。何かを…感じる…お前は、鍵?鍵か…?鍵…ああああああぁぁぁ…俺を解放しろ…閉ざされているのはもう嫌だ…』


 開放を
 開放を…
 開放を……っ!


 苛立ちと怒りに満ちた怨嗟が渦巻き、どろどろと箱から溢れ出してくるものがコンラートを捕らえようと襲いかかる。
 熱風と地震による身体の動揺がコンラートの自由を奪い、触手はズルルと蜷局を巻いてその身を拘束するかに思われた。


 だが…その時、強い風と冷たい蒸気が吹き込んで、熱く爛れた大気を吹き飛ばしていった。


 ゴォオオオオオ……っっ!!


『なんだ…なんだぁああ……っ!?』

 《地の果て》は思わぬ攻撃に怒りを露わにすると、対抗するようにして地の割裂を深め、赤黒い溶岩を噴火させる勢いで風と水の主に向けていく。

『邪魔をするな…これは…俺のものだ…っ!』


「大地陥没天地断裂大気汚染…その上勝手な所有権を振りかざして、そこな男を所有せんとする悪逆非道なその振る舞い…もはや許し難し…っっ!」


 大音声は窪地いっぱいに殷々と反響し、凛とした中にもどこか珍妙なおかしみを醸し出す物言いに、逃げまどう人々は一瞬あっけにとられて頭上を見上げた。

 そこにいた者は…信じがたいことに、中空に浮いた少年であった。

「そ…」
「双黒……っ!?」

 人々がどよめくのも無理はない。

 その少年は水に濡れた漆黒の髪を靡かせ、ふんぞり返って指を《地の果て》へと突きつけているのだが、カッ…と見開かれた瞳もまた漆黒だったのである。
 生まれて初めて目にする双黒…それも、口がぱかりと開いてしまうほどの美貌の持ち主が、自分たちを地獄の直中に叩き込もうとしていた《地の果て》に喧嘩を売っているのである。

 そもそも人間世界では忌まれ、更にはここ近年の占いによって《禁忌の箱》を開く悪の元凶のように言われていた双黒を、果たして応援したものやらどうやら…。人々は判じかねてどよめいた。

「む…そこな人間共。火災からの避難時には、《おはしもなくすな》を守るが良いぞ」
「お…おは?」

 思わず何人かが反応すると、双黒の少年は《そんなことも知らないのか》と言いたげに盛大な溜息をついた。

「今の若い者はこれだから困る」

 大抵の者が双黒よりは年嵩の筈だが、何となく突っ込みにくい。 
  
《お》は押さない、《は》は走らない、《し》は喋らない、《も》は戻らない、《な》は泣かない、《く》は靴をはきかえない、《す》はすばやく…《な》は…うむ、《な》……は……何だったが忘れたが、ともかく、避難時に負傷者を見捨てたり、相争って被害を拡大するなど愚の骨頂っ!ゆっくり整然と進むがよいっ!」

 忘れたのでは標語の意味がなさそうだが、ともかく要旨は伝わったようなので良いことにしよう。
 双黒に叱責された人々は先生に怒られた児童のように粛々と避難を開始し、暴虐に振る舞っていた小シマロン兵までもが横転した捕虜に肩を貸したりするなど、そこかしこで微笑ましい情景が繰り広げられている。

 双黒の怒りを恐れてのこととはいえ、何となく…感謝の輪が広がると暖かな空気が共有される。

「うむ、それで良し…。ならば避難に助力もしようぞ…」

 そう言うと、双黒の手が振りかざされ…払われた一閃で飛沫をあげて何頭もの水蛇が飛来し、割裂に落下したまま呻いていた負傷者を陸地に押し上げたり、川の流れのように押し流して溶岩の責め苦から逃れさせていく。

 あれほど窪地を覆っていたおぞましい瘴気が払われ、避難者達は口々に驚きの声を上げながら逃げていった。

 これに怒り狂ったのは当然《地の果て》である。

『水め…水め、水めぇえええ…っ!我が頒図を侵しおるかっ!下がるが良い…っ!』
「それはこちらの台詞である。地の…貴様は大人しくそこな箱の中で眠るが良い。貴様らの力はもはや地上に必要なく、人も魔族もその手を離れておる」
『嫌だ…嫌だ嫌だぁああ…っ!俺は大地を揺るがし、世界を混沌に戻すのだ…我こそが大地の覇者…何者の生存も許さぬ厳格な大地そのもの…っ!』
「うぬぬ…我が説得を聞かぬとはなんたるKYぞ…っ!ちなみに、この場合のKYとは決して《今年も、宜しくお願いします》の頭文字ではないぞっ!」

 説明されずとも、この世界の誰にもそんなネタ分かりはしないので突っ込みようがない。

 異世界トーク爆裂の双黒に、ネタ的には全員がついて行けない。だが…双黒が《地の果て》に向き直って水蛇による攻撃を仕掛けていくと、誰もが口には出さずとも…明確に双黒の応援を心の中で展開していた。

『ああ…危ない…っ!』
『そうだ、そこだ…いいぞ、双黒っ!』

 鋭い岩がボコボコと地中から伸びて双黒を貫こうとするが、ふわりと避けて岩の谷間から水蛇が飛んで《地の果て》に襲いかかると、《わぁぁ…っ!》と避難者の間から歓声が飛んだ。

「うむ…っ!」

 双黒が勿体ぶった素振りながらちょっぴり頬を緩ませて鷹揚に手を振ると、妙に可愛らしい仕草に、避難者の中には状況も忘れて見惚れる者が続出した。



*  *  * 




『あれが…双黒!?』

 フリンは呆気にとられて上空を見上げると、思わず呟いてしまう。

「コンラート…あの子を護れと言うの?」

 寧ろ、《護ってください》と言いたくなるような懐の大きさなのだが…。
 何を思って彼はあのようなことを言ったのだろう?

『それにしても…ウェラー卿コンラートといい、この双黒といい…。占い師達の予言とは懸け離れているわ』

 一体何故、世界中の占術師達はあのような託宣を下したのだろうか?
 そもそも占いとは、どのようにして為されるものなのだろうか?

『言葉が浮かぶの?それとも…状況が見えるのかしら…?』

 だとすれば…と、推測する。
 もしかして、占術師達が《見た》映像とは、まさにこの状況の事なのではないだろうか?

 開かれた《禁忌の箱》とウェラー卿コンラート、そして双黒…。
 この場面のみを何の説明もなく見た者なら、双黒が《禁忌の箱》を開いたと考えてもおかしくはないのではないだろうか?

『もしや…双黒とコンラートは呪われた滅びの使者ではなく、《禁忌の箱》と戦う救世主なのではないのかしら…?』

 コンラートと好意的な交流をしたからこその想像なのかも知れない。
 だが…今まさに双黒によって救われようとしているフリンには、そうとしか考えられなかった。  





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