第14話





『ヨザック、どこに行っちゃったのかな?』

 二人きりで取り残されると、コンラッドは有利を促して街を歩いた。
 食堂でのバイトは夕食時にやるだろうから、それまではきっと時間があるのだろう。

 ヨザックの行方と蝶は気になったものの、コンラッドが足早に館から離れていくものだから追いかけないわけにはいかなかった。

『コンラッドってば、脚長いよなぁ…』

 ゆったりと歩いているように見えるのだが、有利が同じ歩速で進もうとするとすぐに離されてしまう。でも、ちょこたかと追いかけていたら時折振り向いて、歩速を緩めてくれるのだ。
 冷たい振りを装おうとしても、優しさが滲み出てしまう人なのだろう。

 駆け足でコンラッドを追いかけて行くと、ふと地面に転がるものに目がいった。

 汚れているが、布か革のような何かを固めたもので丁度野球のボールのような大きさをしている。泥の乾き方から見て、誰かが遊んで忘れていったものだろう。胸元に収めていたチィも興味を引かれたのか、とと…っと駆け出して鼻先で突いていた。

 有利は拾い上げてばしばしと叩き、泥を落とすと、ぽぅん…っと宙に舞わせてみた。

『あ〜…キャッチボールしたいなぁ…』

 そんな場合ではないのかも知れないけれど、うずうずと身体が疼くのは止められない。
 思えば、コンラッドに導かれて馬に乗ってこの港まで来たけれど、その間全く余裕が無くて《遊ぶ》なんて意識はなかった。
 けれど、こうして急に暇が出来るとどうにも身体が《動きたい》と欲求してくる。

 試しに壁に向かってボールを投げつけてみると、結構勢いよく弾んでくる。これなら弾力性は十分だろう。

「コンラッド、ボールとって!」

 ぽぅん…と放物線を描いてコンラッドにボールを投げると最初はきょとんとしていたようだが、有利が《こっちに投げて》とゼスチャーをすれば意味が分かったらしく腕を振る。

 だが…勢いが良すぎて、コンラッドのボールは直線を描いて地面にぶつかり跳ねてしまう。これにはコンラッドの方も驚いたらしく、目を見開いてばつの悪そうな顔をした。
 基本的に勘が良くて器用そうだから、こんなふうに《失敗》したことがないのかも知れない。

「大丈夫大丈夫、すぐ上手になるから!ね…力を込めずに、こうして…腕をぶぅん…って振り抜くんだよ?」

 ボールの持ち方や投げ方を教えてあげると、コンラッドは意外なほど熱心に指導を聞いてくれた。先ほどの失敗が余程悔しかったらしい。

『えへへ…コンラッドってば、結構負けず嫌いなんだな?』

 くすくす笑っていたら、ますますコンラッドの顔が《今に見てろよ》という顔をする。
 少し距離を取ってからコンラッドがボールを投げると、今度は綺麗な放物線を描いてぽぅん…と飛んでくる。有利の胸元に吸い込まれるような…滑らかな曲線だった。
  
「凄い凄い!そうだよコンラッド!」

 嬉しくなってまた投げると、今度も綺麗にボールが返される。
 久しぶりのキャッチボールに有利の心はふくふくと温かくなってくる。

『キャッチボールはね、心から心に向かって投げるんだよ』

 昔、親父がそんな台詞を口にしていたときには《臭いこと言うなぁ》と照れくさかったものだが、何故か今は強く同じ事を感じる。
 ぽぅんと宙に描かれる放物線は、《受け止めて》という想いと、《あなたを受け止めたい》という双方向性の思いで出来ている…。そんな風に感じるのだ。

『親父…お袋…勝利……。元気にやってるのかな?』

 行きかう球の軌跡を追っていたら、懐かしい顔が幾つも浮かんできた。
 親父は週末には良くキャッチボールに付き合ってくれたし、お袋とも何回かはやった。勝利などは結構文句を言うくせに、一番良く相手をしてくれたと思う。夕暮れに染まる空の下、ボールが茂みに入って見えなくなったときに粘り強く捜してくれたのも勝利だった。

『もう良いよ、遅いから帰ろう?お袋に怒られるよ?』

 有利がそう言っても、背を向けてボールを探し続けながら勝利はぶっきらぼうに言ったのだ。

『もう少し、捜そう。大事なもんだろ?』

 誕生日に貰ったそのボールを毎日磨いていたのを、勝利は知っていたらしい。
 喧嘩ばかりしていたけど…時々言ってることが意味不明だけど…(最近は特に、有利に向かって「セーラー服を着ろ」とか「猫耳を付けてみないか」と不審な発言も相次いでいたのだが…)でも、ほんとは大好きな兄ちゃんなのだ。
 《もうちょっと普通の嗜好だったら良かったのに》と思ったこともあるが…うん、いや…まあ、とにかく、好きは好きなのだ。

『村田もどうしてるかなぁ…』

 彼もなんだかんだ言いながらキャッチボールに付き合ってくれたっけと思い出す。
 《僕の運動神経の悪さは知ってるだろうにさ!》なんてぶつぶつ言いながらも、両手を合わせておねだりしたらちゃんと付き合ってくれた。
 そして、数日間に渡って筋肉痛に呻きながら《だから言ったのにぃ〜っ!》とぼやいていたものだ。

 そういえばこの世界に引き込まれるときにも、最後に村田と言葉を交わした。彼は…初めて見るみたいに必死な様子で斜面を滑り降り、有利を助けようとしてくれたのだが…そのままずぽんと消えてしまった友達のことがトラウマになったりしてないだろうか?

『みんな、心配してるよな?』

 鼻の奥がつぅん…と熱くなって眦が少し潤んでしまうと、視界が滲んでしまう。それに気付いたのだろうか…コンラッドは投球動作を一時止めると、気遣わしげに歩み寄って声を掛けてくれた。

「ユーリ、だいじょーぶ?」

 驚いたことに、それは日本語だった。
 勿論、発音は少し怪しいガイジンさん喋りだけど…それだけに、コンラッドが時折有利の口にする言葉を覚えていて、使ってくれたのだと思うと…凄く凄く、胸が熱くなる。

『やさしいなぁ…うん、やっぱ…すっげぇやさしいよなっ!コンラッドって!』

 つくづく、この人と会えて良かったと思う。
 怪物から救ってくれたとか、食べさせてくれるとかいったことも勿論あるのだけれど、それ以上に…この人の傍で声を聞いたり、さり気ない優しさを感じることが出来なければ、有利は孤独に心を蝕まれていたと思う。

『この人、大好きだぁ〜っ!』

 先程までの寂しさが嘘のように軽くなって、切なさを残しながらも《俺はまだやってける》という心地になる。

 何とかしてこの人に恩返しをしたい。
 楽しい気持ちになって欲しい。

 そう思ったら自然に表情が明るくなって、また距離を取って《投げて》とゼスチャーで示す。
 するとコンラッドは安堵したように表情を和らげて、慣れてきた動作で綺麗な放物線を描いた。

 ぱふん…と、有利も気持ちよくキャッチできた。
 コンラッドのあったかい気持ちを、まるまんま受け止めたような気分で頬がにこにこしてしまう。

「行っくよぉ〜っ!」

 しかし、元気いっぱいに投げたはいいが…浮き立つ気持ちが強すぎたのだろうか?今度は有利の投げたボールがコンラッドの頭を越えてしまう。

「ああ…ゴメンっ!」

 慌ててボールを追いかけると、コンラッドが…笑った。

「あ…っははっ!!」

 声を上げて、楽しそうに…。

「わ…」

 朗らかな声はキャッチボール以上に有利の心をときめかせる。薄く微笑んだだけでも綺麗だと思ったけれど、こんな風に屈託無く笑うコンラッドには可愛いとさえ感じてしまう。
 何だか頬が熱くなって…有利は敢えてコンラッドから視線を逸らすと、急いでボールを追った。

「おっ…とと…っ」

 坂道の途中でボールの投げ合いなどするものではないと改めて思った。ボールはコロコロと転がり、弾み…結構な距離を移動してしまったのである。

 そしてやっと両手を被せるようにしてボールを捕まえると、ふと大地に刻まれた模様に目がいった。

「あれ…?」

 街中の道に敷かれた石畳は随分と古いものだから、至る所で石が剥げたりしていて今まで気づかなかったのだが…この模様には見覚えがあった。

『どこでだろ…』

 きょとんと小首を傾げていたら、上げた腕が胸元に触れて…そこにぶら下げているものに気づいた。

「あ…ひょっとして、これか?」

 胸元からするりと抜き出してみたのは、コンラッドに貰った蒼い石だ。
 ふわりと浮かび上がる模様は、やはり石畳に刻まれているのと同じものであった。

「コンラッド、これ…」

 胸元の石を掲げてコンラッドに聞こうとするが、その上げた手を取ったのはコンラッドではなかった。
 服装からして、先ほどの館を護っていた衛兵らしいのだが…どうしたものか、えらく興奮視した顔で有利を見ている。
 いや…見ているものは、蒼い石の方か?

 ともかくえらい剣幕である。



*  *  * 




「儒子(こぞう)、この石をどこで手に入れた?」

 無造作にユーリの手首を掴んだ衛兵が問いただすが、ユーリに伝わる訳もない。狼狽えておろおろしている様子が何とも可哀想で、コンラートは腹の煮え立つような怒りを感じたが、敢えて穏やかな表情を装って話しかけた。

 今、ここで領主館の関係者と事を交えるわけにはいかないのだ。

 チィが有利の身体を伝って駆け上がり、男の指を噛んだときには《よくやった》と褒めてやりたい気分だった。

「うちの子がどうかしましたか?」
「こいつはお前の子か?…にしては、お前…随分と若いな」
「従兄弟なんですよ。そんなことより随分な剣幕ですけど、うちの子に何か落ち度でも?」

 口調はともかくとして、眼差しにはどうしてもきつい色が掠めてしまう。特に、衛兵が容赦なく握ったために色を変えつつある手首には、咎めるような一瞥を向けてしまった。チィに噛まれて小さく苦鳴は上げたものの、まだ執念深く握っているのはどういうわけだろう?

「あ…こ、これはすまない…。悪気はないんだ。ただ…この子が持っている石に、ウィンコットの紋章が刻まれていたのでな」

 男の手から逃れたユーリは、素早くコンラートの背後に隠れた。
 小動物のように愛らしい所作に、危うく《可愛い…》とやに下がってしまうところだ(何とか食い止めた)。

「そうですか?古物商で扱っていた商品なんですが…この子が気に入っていたので買い求めたものに、そんな謂われがあったとはね」

 今度は本心から素直に《可愛い》という感情を垂れ流しにして、ユーリの頭髪を撫でつける。《高価な石を与えたくなるくらい、俺はこの子が可愛い》…そう思わせたい訳だから、演技の必要などなかった。

「古物商で買っただと?それも…子どもの玩具としてか?ふ…む。高価だったか?」
「一見そう見えるでしょう?でも、せいぜい一週間分の食費くらいなものですよ。まあ、それでも俺としては奮発しましたけど」
「そうか」

 衛兵は何とか納得してくれたらしい。
 ウィンコットの紋章に似せた贋作だと思ったのだろう。

「ウィンコットといえば、数千年前にはこのカロリアを治めていたと言いますね」
「あ…ああ、そうなんだ。昔は善政を敷いてたってことだが、次第に暴虐ぶりを発揮するようになって追放されたって話だ」
「…ほぅ?」

 ぴくりと眉が跳ね上がるが、努めてそれ以上は表情を変えないようにする。今は怒りを表して衛兵の疑惑を買うような真似は出来ないし、この男が何故ウィンコットの紋章に強い興味を抱いたのか確認したい。

 ウィンコット家は眞王に従って創主と戦った、功績燦たる家系である。創主が封じられた後はこのカロリア一帯を治めるようになったが、数百年が経過する内に家臣の反乱に遭い、眞魔国へと逃れて十貴族に配せられたのだという。

 国を追われた経緯に、ウェラー家と極めて近しい関連を感じてしまう。

『俺も…あのような託宣さえなければ、同じように十貴族…いや、十一貴族として国の要衝を預かる身となっていたのだが…な』

 今では追われる身であり、自分自身、創主を蘇らせるという双黒を保護してしまっている。忸怩たるものを感じるが、それでも…もう、ユーリを殺すことは考えられなかった。

「なああんた…その石は何処で手に入れたんだ?カロリアにある古物商なのか?」
「いいえ。ペパーベンの古物商…というか露店売りで買ったので、今も店を構えているかどうかは怪しいですね」
「う…む。そうか…。あれでもウィンコットゆかりの地で見つかったんであれば、遠縁でもウィンコットの血を引く者がいるかと思ったんだが…」
「おや?ウィンコットの血縁者が何故必要なんですか?今更《カロリアの地を治めてくれ》なんてお願いするって訳でもないでしょうに…」
「いやいや…そりゃあ、ちょっと言えないのさ」

 問題があるところまで話したと思っているのか、男の顔に微かな緊張が走った。コンラートは唯の旅人を装っているのだが、その彼に対してもここまで警戒するというのはどういう事情だろうか?

 ふ…っと脳裏を掠めたものがある。

『まさか…《ウィンコットの毒》を操る者を探しているのか?』

 ウィンコット家は薬学の大家を多く排出している家系であり、自然と毒物にも造詣が深い。特に数千年の昔に作り出したとされる《ウィンコットの毒》は、その毒に侵された者を意のままに操れるという能力を持っている。ただし、操作者はウィンコットの血を引く者に限られている。

 そこまで思い至ると、急激に思考が展開を始める。

『そうだ…大シマロンや小シマロンは盛んに、《禁忌の箱》を探していると聞くが、同時に鍵と思われる人物を捕獲しようとしているはずだ』

 《禁忌の箱》の鍵となった家系といえば、ウェラー家、ウィンコット家、ヴォルテール家、ビーレフェルト家…大勢の血縁者の中から目星をつけて浚ってくるだけでも大苦労だが、それで鍵となる人物が箱を操って自分達の手を噛むようなことがあれば堪ったものではない。人質を取るなどして言うことを聞かせたとしても、土壇場で鍵がどういう判断を下すかは分からないのである。

 その点、《ウィンコットの毒》との二重の縛りがあれば多少は安心感があるのだろう。

『だとすれば、少なくともこの連中は《ウィンコットの毒》自体は手に入れているのではないだろうか?おそらく…この土地を治めるギルビット家に伝わっていたと考えるのが自然だろう』

 兵役や課税の緩和、あるいは報酬を求めて宗主国である小シマロンと取引しようとしているのではないだろうか?
 《ウィンコットの毒》だけでは何の意味もないが、ウィンコット家の血縁者と抱き合わせならさぞかし高価な商品となるだろう。

『デル・キアスン…彼らは、大丈夫なのか…!?』

 さぁ…っと血の気が引く思いがした。大樹海に展開しているのは、よりにもよってウィンコット軍ではないか!現在近接して布陣している大・小シマロン軍がその気になれば、全面的な戦闘など行わずとも、密かにウィンコット兵の二、三人誘拐することは容易いだろう。

『この男や…命令を出しているであろう領主は、大陸にやってきた眞魔国軍がウィンコット家の兵であることをまだ知らないらしいが…。知った上であれば即座に《ウィンコットの毒》を売るだろう』

 抱き合わせでない分、多少は値段が落ちるかも知れないが、《血縁者はそちらで捕獲して下さい》と言っても、この状況下であればそう角は立つまい。

 コンラートはごく自然な表情で《役に立てなくて申し訳ない》と会釈してから男と別れたが、その視線から離れると眉根に深い皺を寄せた。
 早く…ヨザックに帰ってきて貰わなくてはならない。
 あの男なら眞魔国本国と秘密裏に連絡を取り合うための鳩に宛てがあるはずだ。

『一刻も早く、ウィンコット軍は眞魔国に引き揚げさせなくてはならない。毒の使い手として浚われる前に…っ!』

 ヨザックが帰ってくるまでの間、コンラートはじりつくような感情を持て余していた。



*   *   *




 結局、ヨザックが戻ってきたのは夜半を少し過ぎてからだった。
 コンラートとユーリは夕飯時に入った食堂での仕事を慌ただしく終え、その日の給金と余り飯を貰った所でヨザックを迎えた。

 肌寒さを暖めた海鮮汁で中和させながら、宿の一室で報告を聞いたのだが…ヨザックが口にした報告は、更に慄然とするようなものであった。

「えらいことですよ…隊長。あの館に…ウルヴァルト卿エリオルが捕らわれてます」
「な…に?」

 その名の意味するところに慄然とする。
 エリオルはフォンヴォルテール家の血筋を受け継ぐ魔力の高い少年だ。それを捕らえてきたのは何故か?おそらく、《地の果て》が発見された為に違いない。

 ヨザックが館で得てきた情報も、その仮説を裏付けていた。

 館を訪れたのはフォングランツ卿アーダルベルトと小シマロンの使者ナイジェル・ワイズ・マキシーンという男だった。マキシーンはおもむろにカロリア領主に組み付くと、その仮面を剥ぎ取って正体を明らかにした。
 大体の察しはつけて来たのだろう…仮面の下にあったのはギルビット領主ではなく女性…妻のフリンであった。

 3年前に事故で夫を亡くしたフリンには、そうせねばならない事情があった。小シマロンの国法では、妻は領主の座を継げない。しかもフリンは夫との間に子種を残すことが出来なかった。以前の独立時のカロリア国法では死後の養子縁組も可能だったのだが、小シマロン法ではそれも不可能。…となれば、カロリアは自治区としてのささやかな独立性も奪われてしまう。

 そうなれば、夫と共に進めていた徴兵者の呼び戻しも不可能になる。
 
 そこでフリンはいつか限界を迎えることを知っていながら、一日でも長くカロリアの権利を守る為に、文字通り仮面生活を続けてきたらしい。
   
 ここまで聞くとフリンは良妻・名領主の鑑であるかのように思えるが、彼女はそれ以上にしたたかな女だった。
 宗主国たる小シマロンには内密に、大シマロンと取引をしていたのだ。
 《国際港であるカロリアには港湾管理のために働き手が必要である》という名目で小シマロンに圧力を掛けさせ、徴兵された若者を取り戻す…そのための交換条件は《禁忌の箱》の鍵を操るための《ウィンコットの毒》を渡すことであった。
 フリンは更にウィンコット筋の魔族を入手すべく画策したようだが、これは不備に終わったので仕方なく毒だけを渡した。
 この行為が小シマロンの王サラレギーの知るところとなった。

 そして今回訪れた王の名代マキシーンは、フリンの不義を責めつつもひとつの提案をしたのだった。

 それが、カロリアでの《禁忌の箱》開放実験であった。

「実験だと…っ!?」
「そうです。その為に…あいつらはウルヴァルト卿エリオルを浚ったんですよ。小シマロンがスヴェレラから入手した、《地の果て》を開くためにね」

 エリオルはグウェンダルが可愛がっている少年だ。幼いながらも利発で、ヴォルテールの民らしく混血に対する無意味な差別意識にも乏しい。無口な子なのであまり会話をした覚えはないが、一度だけ握手を求められたことがある。

 少年は《ルッテンベルクの英雄》に対して、素朴な尊敬の眼差しを送ってくれた。

 あの子を、実験のために浚ったというのか…。

「その件に、本当にアーダルベルトが関わっているのか?」
「間違いありません。黙然とはしてましたが…マキシーンって奴を止めたりはしてませんでしたからね」
「そこまで腐ったか…アーダルベルト」
「皮肉なことですねぇ…。堂々たる十貴族のぼんぼんが、ああも公然と魔族を裏切るとはね…」

 混血として必要以上の忠心を求められたコンラートやヨザックは、それこそ血で血を洗うほど凄惨な戦いの中で仲間達の権利を護ろうとした。
 それすらも唯の噂によって足蹴にされた今、アーダルベルトの行為を眼にしては言いしれない怒りが込みあげ来る。

 眞魔国を出奔するに際して、アーダルベルトがシュトッフェル達に投げかけた怒りの声には賛同も覚えた。
 だが…いま彼がやろうとしていることは微塵の正義も道義も無い。
 紛れもない犯罪ではないか。

「おそらく、ウィンコットの血縁者を浚うってんなら流石にいい顔はしなかったんでしょうが、あの子の血筋に仇敵の移り香を感じちゃったんですかねぇ…」
「グリーセラ卿ゲーゲンヒューバーとエリオルは血筋が近い…唯それだけの理由で決断したというのか…!」

 ダン…っとコンラートの拳が地を叩くと、荒々しさにユーリがびくりと震える。
 先ほどから顔色を変えて二人が語り合っているのが不安でしょうがないのだろう。意味が分からないからじっと聞いているだけだが、手を伸ばすとさすさすと背中をさすってきた。

 落ち着いて欲しいのか、あるいは怒り感じていることに同情しているのかは分からない。ただ…ちいさな手が背中に触れると、少し気持ちが和らぐのを感じた。

「そうだな…まずは落ち着かなくてはならないな」
「どうします?隊長」
「救出する」

 言うのは容易いが、実行は困難を極めるだろう。
 秘密裏の実験とはいえ、小シマロンは軍単位で動いている筈だがこちらの戦力はコンラートとヨザックの二人だけだ。ユーリは火災に際しては強い魔力を見せたものの、その間の記憶があるのかどうかは不明だし、何しろ意思疎通が難しいので、タイミングを計って行動するのはまず無理だろう。
 ウィンコット軍に知らせたとしても、まだ大樹海近辺にいるだろうあの軍がここまで迅速に移動できるとは思えず、また、ウィンコットの毒の件も心配だ。

『さあて…どう動く?』

 考え込むコンラートにヨザックが問いかけてくる。
 当然…ユーリのことだ。

「こいつをどうするよ、隊長」
「………連れて行く」

 それは悩ましい選択ではあった。
 出来れば信頼できる者に預けて別行動する事が望ましいのだが、そんな者は居るはずもない。先ほど衛兵にウィンコットの紋章が入った魔石を見られていることもあり、カロリアに一人で置いていくことは危険に思えた。

 それはヨザックにも理解できるだろうが、やはり良い顔はしない。

「何だか…嫌な予感がしやがる。こいつは《禁忌の箱》に引っ張られてこういうことになってる訳じゃねぇだろうな?」
「…さあ、な…」

 何よりも恐れている《禁忌の箱》に、自ら近寄らねばならないとは何とも皮肉なことであるが…致し方ない。
 
「二手に分かれて追跡しよう」
「ユーリはどっちが連れて行く?」

 分かっていて聞くのかと唇を尖らせると、ヨザックは苦笑して肩を竦めた。

「…あんたと一緒だな。分かってるよ」
「……だったら聞くな」
「ささやかな意地悪だよ」

 その表情には、様々な感情が溶け込んでいるようだった。
 コンラートがどうしてもユーリを手放しがたく思っていることを確認すると共に、やはり幾ばくかヨザックを警戒していることを認識しているのだろうか。


『…すまない』

 このような事態に巻き込んでしまったことを詫びつつも、コンラートはやはりヨザックを頼りにするしかないのだった。




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