第1話
ふぁん…っ!と鼻先を掠めていく蝶が、見る間に羽根を翻して真っ青な空に吸い込まれていく。
普段なら《綺麗だな》くらいは思ったかも知れないが、この時の有利にはそんな思考的余裕はなかった。
何しろ7月の河川敷グランドはぎらぎらとした太陽に照らされており、チームメイト達が地上に描き出した影も焼き尽くされそうな勢いなのだ。野球に関わることなら何でも好きな有利だったが、まだ本格的な暑さに身体が馴染んでいないせいか余計に堪えるような気がする。もっと汗をかくのが日常化してくれば、随分楽になる筈なのだが…。
どうやら風も止まったらしく、汗が気化しにくくなって余計に暑い。
「休憩入れようかー!各自、十分に水分取って!」
《おおーっ!》と上がった歓声は、午後に入ってから一番の大きさだった。
社会人が殆どの草野球チームゆえ、やはり久方ぶりの一日練習は堪えているらしい。
「お疲れ、渋谷」
キャッチャーマスクを外して《はふ…》っと息をついていると、友人の村田健が濡れタオルとスポーツドリンクを寄越してくれる。
別に頼んだわけでもないのに、気がついたらなし崩しにマネージャーのようなことをしてくれる彼は、実に気のつく男だった。
「うわっ、冷やっこーい!」
濡れタオルは痛みを感じない程度にキン…っと冷やされており、クーラーボックスに保冷剤と共に保管されていたのだと知れる。スポーツドリンクも市販品そのままだと糖度が高すぎるため、濃度を調整した上でクエン酸をプラスするなど細かい配慮が行き届いている。
「気持ち良い?渋谷」
「うん。いつもありがとうな」
有利に向かって満足そうに頷くと、村田は他のメンバーにも声を掛けていった。
「気持ち悪いとか、そういう症状が少しでもある人はすぐ言ってくださいねー。保冷剤ありますよ」
クーラーボックスの中にたっぷりと詰められた保冷剤は、一つ一つがちゃんとガーゼにくるまれていて凍傷を防ぐ工夫もされている。熱射病の所見が少しでも見られると、村田はこれを首筋や脇の下に入れさせて、涼しい場所で休ませるのだ。そうすると体幹に戻る大きな血管が冷やされるので、急速に体温低下を促すことが出来る。
村田は草野球のマネージャーもどきをやり始めてから、色々と勉強してくれたらしい。
先日は《救急救命措置なら大抵のことが出来るよ》と自信満々に言っていたくらいだ。
「本当に気が利くねぇ、健ちゃんは」
「嫁に欲しいくらいだ」
チームメイトの社会人達が《わっ》と盛り上がる。
妻帯者も多いのだが、ここまで気を使ってくれる妻はなかなか居ないようで、半ば本気で感心したような眼差しを送っていた。
「でも本当、村田って甲斐甲斐しいよな」
「まーね。何せ、君は恩人なわけだし」
「逃がすのが精一杯だったけどね?」
有利の笑顔はほろ苦い。
村田が言っている《恩》というのは、今年の春に不良グループに絡まれていた村田に助け船を出した時のことだ。
この助け船は泥船だったようで、村田は何とか逃がしたものの、有利はきっちり捕まって殴られたり蹴られたりした上、女子便所に顔を突っ込まれて気絶してしまった。死亡理由になっていたら物凄く切ないところだった。
その時は一人で逃げたように見えた村田だったが、ちゃんと警察を連れて帰ってきてくれた。
中学時代にはクラスメイトだったにもかかわらず殆ど会話らしきものを交わした記憶がないのだが、どういうわけかこの一件で篤く感謝の念を抱いててくれたらしい村田は、マネージャー業務だけでなく学校の勉強までこまめに見てくれるようになった。
平凡な公立高校に通う有利と違い、村田の方は有名な私立進学校に通っている上、模試の成績では全国でも1、2を争っているらしいから、有利の方が恩義に感じるべきなのだと思う。
『でもまあ、友達だもんな。恩義がどうこうとかあんまり言わない方が良いか』
《感謝してる》ということはこまめに言うようにしているが、《悪いな》はあまり言うべきではないだろう。村田も恩義だけでここまでしてくれるわけではないだろうし。
適度に冷やされたスポーツドリンクを飲み下せば、細胞の隅々にまで栄養と元気が行き渡るような感覚がある。
「あー…気持ち良い」
「うん、風も出てきたみたいだ」
他のチームメイト達も久しぶりに大量に汗をかいたところに涼やかな風を受けて、心地よさそうに目を細めている。誰の表情にも満足げな笑みが浮かび、暑い日差しの中でもこうやって野球をしている事を楽しんでいる様子が伺えた。
『草野球チーム…立ち上げて良かったなぁ…』
有利はしみじみと思い返す。
昔から野球は大好きで、小・中学校は学校の部活動に明け暮れていた。
だが…3年の時に当時の野球部監督と揉めて殴りつけてしまったことで処分を受けた有利は、一時は家庭でのトレーニングすら止めていた。
けれど、淡々と過ぎ去っていく高校生活はやっぱり何か物足りなくて…でも、規律正しい野球部の中で、言われるままに練習をするのは性に合わなくて、こうして草野球チームを立ち上げてみた。
普段は誰かを巻き込んで企画を立ち上げるなんてやったことがなかったのだが、チラシを配ったり、地域の情報紙に募集広告を出させて貰ったり、口コミで広めて貰ったりしている間に、気がつけばチームは練習試合を組めるくらいの規模に成長していた。
昔は高校野球や実業団でならしていたという強者も何人かいて、意外と強豪チームなのだ。
「よぉし、もういっちょやろうか!」
《おうっ!》と気持ちの良いかけ声が掛かる。
充実した休日は、見る間に過ぎていった。
* * *
ひら…
『あ、また蝶…』
7月最初の週末は期末試験直後の開放感に浸りつつ野球三昧に過ごした有利だったが、月曜日になればもう一息学校に行かねばならない。白い半袖開襟シャツと黒いズボンを身につけ自転車で登校していたのだが、週末の練習中とは異なり、今日はひらひらと飛ぶ蝶に視線が向いた。
目を惹くのは、その蝶がえらく大きなことと…黄土色の天鵞絨のような地肌が光沢をもち、後翅外縁に並ぶ蒼い斑紋が鮮やかに揺れているせいだった。よく見ると、陽光を受けてきらきらと輝いているから、黄土色と言うよりは金色なのかも知れない。
『珍しいな…こんな街中にあんな大きな蝶が飛んでるなんて』
何となく気になって見ていたら、蝶は誘うように河川敷へと飛んでいく。
「あ…」
ふと見やると、河川敷の片隅に何か置き去られているものがあった。黄土色の袋のように見えるが…もしかして、昨日の練習中に誰か置き忘れたのだろうか?
平日の河川敷グランドは殆ど人通りがないので持ち去られたりする心配は少ないが、集中豪雨によって水嵩が増したりすると流されてしまう心配がある。
有利は自転車を停めると、青草の生えた斜面を滑り降りていった。
摩擦によって濃い緑の香りが漂い、草の汁と朝露と思しき水分が手やズボンについた。洗濯の時に叱られるかも知れないな…と少し心配したが、ユニフォームなどはその比でないくらいに汚しているので今更かなとも思う。
「あ…れ?」
奇妙なことに、上から見た時にはあったと思しき袋がない。確かにこの辺りにあったと思ったのだが…。
草いきれをがさごそをかき分けて周辺も探してみたのだが、やはりそれらしき袋はなかった。
その代わり、ひらら…っと鼻先を掠めるようにして蝶が飛んでいく。
二羽…三羽…いや、もっといる。
河川敷とはいえ、こんな街中で見るには異様に多い。
「…変なの」
急に蝶の姿を不吉なものに感じて眉根を寄せると、腕時計の時間にはっと我に返る。
「やば…っ!こんな時間っ!」
珍しく余裕を持って登校できていると思ったのに、思わぬ事に気を取られている間に時間が経過していた。
階段に向かって移動するのも面倒で、勢いをつけて斜面を駆け上ろうとしたのだが…不意に、背後から呼びかけてくるような《声》を感じた。
『来たれ、《鍵》を身に帯びし者よ』
正確には、声であるとは断定できなかった。
殷々と響くようなその声音は、鼓膜を震わせることなく意味だけが直接脳内に伝わってきたように感じたのだ。
まるで、夢の中の言葉を聞いているように。
「……っ?」
反射的に振り返った先に見えたのは…夥しい数の蝶だった。
蝶は金色の光彩を帯びて自ら輝きを放つと、有利めがけて飛来してくる。先程までのゆったりと遊泳とは明らかに違う動きだ。
「え…?」
思わず立ち竦んでしまったその足元に、突然何かの紋様のようなものが浮かび上がってきた。
驚愕のあまり何の模様なのかを判じることは出来なかったが、少なくとも《それ》が異様な力を持っていることだけは理解できた。
『引きずり込まれる…!?』
ここは河川敷だ。砂州で出来ている分、雨上がりなどの地盤の緩さは有利も知っている。だが…ずるりと吸い込まれるような動きなど、未だかつて体験したことがないものであった。
「わ…わ……っ!助け……っ…」
ずぶずぶと引き込まれていく脚は、あっという間に膝まで入り込んでしまう。その感触は最早砂や泥のそれではなく、低粘稠の水のように抵抗のないものに変わっていく。
「渋谷ーっっ!」
その時…斜面上の道路から叫ぶ者がいた。
真っ青な顔色をした、村田健だった。
彼もまた登校途中らしく、校章エンブレムの入った開襟シャツに学校指定の洒落たズボンを纏っていたけれど、その息は荒く、ここまで駆け通しに駆けてきたのではないかと伺われる。
それは、たまたま見知った自転車を目にして覗き込んだ…という風情ではなかったのだが、有利にはそんなことを気に掛けている余裕はなかった。土は今や、有利を腰まで引きずり込んでいるのだ。
「村田…村田……っ…助けて…っ!」
「今行く、待ってろっ!」
運動神経があまり良くない村田は、斜面を転ぶようにして降りてくる。柔らかい腕の皮膚を擦過していく草が傷つけていたが、そんな痛みなど気にならぬように、村田は一心に有利の元へと滑り降りてくれる。
友情を深く感じて涙が出そうになったが、残念ながらそのタイミングが拙かった。
村田が打ち身の痛みも振り捨てて駆け寄った時…一際強い力が有利を引き込み、《ジャバ…っ!》という水音を立てて有利の姿は地中に消えた。
* * *
「渋谷…しぶ……や……っ!」
跪いた村田が必死の形相で大地を掻くが、そこにあるのは乾いた砂ばかりで、華奢な体格とはいえ一人の少年が飲み込まれたような形跡は何処にもない。明らかに超常的な現象が、村田の目の前で起こったのだ。
「嫌だ…渋谷…っ!」
ダン…っと血が出るほどに拳を叩きつけると、村田は《ぎり…》っと奥歯を噛みしめて叫んだ。
「眞王…どこまで僕を翻弄する気だ…っ!」
その声に籠もる憎しみは、平均以上の生活を送る高校生が放つものとしては、異質なほどに深く…濃いものであった。
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