虹越え4−3−2 春休みが終わりを告げようとするその直前のことであった。朝方、歯磨きをしながらテレビのニュースを見ていた有利は、ぽろりと歯ブラシを取り落としてしまった。 「嘘…青嵐学園……倒壊?」 「青嵐学園というと、猊下のおられる学校ですよね?」 「うん…それに、会澤もだよ!?」 ニュースによると、今朝未明…数カ所に仕掛けられた爆発物によって校舎は爆発炎上したのだそうで、余程爆発物の威力が強かったのか、校舎の基礎自体に罅が入るという大きな被害が出たのだそうだ。犯行を行ったのはこの年に卒業した理工系の学生であった。受験に悉く失敗したことと、ここ近年精神のバランスを逸していたことがマズイ具合にミックスされて、今回の犯行に及んだのだという。 夜間に残業をしていた5人の教員が重軽傷を負ったが死傷者はなく、生徒にも被害はないと聞いてほっと胸を撫で下ろす。 「うわ…でも、こんだけ凄い勢いで校舎壊れちゃって、授業とか出来んのかな?」 おそらく突貫工事でプレハブを造るのかも知れないが、それにしたって全校生徒を収容できる施設を作るにはある程度の日数が必要だろう。 心配になって村田と会澤に電話をしてみたが、その辺りの連絡は学校側からまだ入っていないらしい。まぁ、今朝方未明に発生した事件なのだからそれも仕方のないことだろう。 この事件によって被害を受けた人物は数多く存在し、思い出の残る校舎を失った卒業生や生徒達は深く沈み込み、新学期からの生徒・授業の扱いをどうするかで教員達は発狂せんばかりの激務に追われることとなった。 おそらく、この事件に深く感謝することとなった人物はたった一人きりであったろう。 その一人が誰なのか…コンラートは数日後に知ることとなる。 * * * 冷え込みが長い間去らず、しかも雨も降らなかったことから、今年の桜は十分な艶やかさを留めたまま新入生を迎えることとなった。 有利の通う高校でもその点は同様で、日本人の好むこの樹木の花弁はひらひらと舞っては制服や頭髪に降りかかっていく。 「ユーリ…また一枚、髪についていますよ」 取ってやろうと伸ばした指が、髪に触れたところで少々躊躇う。 「んー…どうしたのコンラッド?」 無邪気な瞳に見上げられて、コンラートは苦笑した。 「いえ、漆黒の御髪に絡む桜の花弁がとても綺麗で…まるで貴方を彩る髪飾りのようだな…と思ったら、取るのが勿体なくなってしまいました」 「キッザーっ!でもあんたが言うと似合うのが腹立つな。俺が言ったら絶対笑われるのに」「俺のは恰好つけではなくて、本心からの思いですから」 「はいはい」 軽くいなしながらも、有利は横目にコンラートの様子を伺う。 少し早く学校に来すぎてしまったからと、教室にも入らず校門でコンラートとお喋りをしているのは、春霞を纏う青空と…桜に映えるコンラートの立ち姿を愛でていたいからだとは…口にはしにくい。 コンラートは西洋系の顔立ちをしているのだが、その凛とした居住まいと清廉な顔立ちとが古武士の風格の漂わせているものだから、意外と桜が似合うのだと…彼と過ごす始めての春を迎えてしみじみ感じている。 『あ…アレが噂の超イケメン警備員の人?』 『むはー…ありゃ、既にイケメンとかそういうカテゴリーじゃないでしょ?超絶美形過ぎ…』 『凄い…瞳とか超綺麗……ねぇ、見てよ!笑うとキラキラーって銀色の光が瞳に差すのよ?それに、微風が吹いたらサラサラー…ってダークブラウンの髪が靡くのよぅ!マジで王子様だよーっっ!』 きゃわきゃわと言い交わしながら遠巻きに見ているのは新入生やその保護者で、彼らにとってその美麗さは思わず息をするのを忘れるくらいな勢いであるらしく、ぽかんと口を開けたまま閉めることを忘れている者もいる。 その横を、少々誇らしげに在校生達が抜けていくのは、 『あたし達はもうこの日常に慣れているのよ?』 という自慢を含んでいるようにも見える。 キーンコーン…… カーンコーン………… あまり捻りのない(捻ってもしょうがないが)予鈴の音が響くと、有利や新入生達も渋々と中庭に向かう。ここで今年のクラス掲示を確認して、それぞれの教室に入って一通りの説明を受けてから講堂で入学式が執り行われるのだ。 在校生は殆どが既に掲示を確認済みで、うずうずとして待ち受けていた黒瀬と篠原に、有利は熱烈な歓迎を受けた。 「渋谷!俺達今年も同じクラスだぜ!7組だってさ!担任は相変わらず松もっちゃんだし」 黒瀬謙吾は今日この日までそのこと…有利と同じクラスに配置されることだけを胸に祈り続け、寝不足が続いたせいか目の下にクマを飼っている。 「渋谷ーっ!今年もよろしくね?」 篠原も満面に笑みを浮かべて、勢い良く抱きついてきた。 「篠原!渋谷が困ってんだろ?お前、そんな勢い付けて抱きついてんじゃねぇよっ!腰椎が滑るじゃねぇか!」 「ふーんだ。あんたじゃあるまいし、渋谷はそんなに骨脆くないわよーだ!ね、渋谷。こんな美少女に抱きつかれるんだから、別に良いデショ?」 「はいはい、好きにしてクダサイ」 「好きにされちゃうのか渋谷!?」 「好きにしちゃおっかなー…」 脱力気味の有利とは対照的に、友人達は春から元気だ…。 「そういえば、青嵐の村田健も同じクラスになってたぜ」 思い出したように報じられた黒瀬の発言に、有利はきょとりと目を見開く。 黒瀬は何回かダンディ・ライオンズの試合を応援に来てくれたから、村田のことを知っているのは別段おかしくない。だが、今彼は《同じクラス》と言わなかったろうか? 「………は?なんで村田が……」 「やだ渋谷、連絡網回ってきてなかったの?2日前に学校から通知があったわよ?」 「そうそう、青嵐は校舎の損傷が酷すぎて授業にならないから、近隣の学校で教育課程が近いところに生徒を分配して、プレハブが建つまで凌ぐみたいだぜ?」 「…聞いてない。…あ、そうか…親父とお袋は海外研修とかで1ヶ月いないとか言ってたっけ…」 この学校では基本的に緊急連絡網は保護者の携帯かPCアドレスに一括メール出来るようになっている(そういったものをもっていない保護者宅へは別に電話網が作られている)のだが、当然、有利は現在の保護者を《コンラート・ウェラー》とすることなど出来ず、住居も渋谷家にいるものとして扱われている。 学校との連絡は今まで美子がしてくれていたのだが、旅立ちの騒動で上手くこちらに連絡が入れられなかったか、彼女のことだから携帯を忘れるかしたのかも知れない。 納得した有利とは対照的に、黒瀬は訝しげな表情をみせる。 「…?親父さんとお袋さんが何日か前からいないのに、何で気付かないんだよ」 「だって渋谷、今コンラートさんと暮らしてるもん。ラブラブ同棲ライフだもんね!」 「…………………ええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」 「黒瀬っ!叫ぶなよっっ!!」 顔色を白黒させて絶叫するのを有利が必死で押さえに掛かる。こんな時でなければ、有利にこんなに密着されて嬉しいはずなのだが…。 「なんで…何でコンラートさんと暮らしてんの!?幾ら名付け親とはいっても、本当の親よりも大事なのかよ!お父さんとお母さんは草葉の陰で泣いているぞ!?」 「勝手に人んちの親を殺すなっ!それに、実の親だってちゃんと大事に思ってますっ!」 「そーよ、黒瀬。渋谷のは親を大事にしてないわけじゃなくて、お嫁に行ったからなのよ?コンラートさんは入り婿でも顧慮しないような気もするけど、新婚の頃って家族が一緒だとお互い照れくさいじゃない?」 「篠原ーーーっっ!!」 「はぁぁぁぁぁっっ!?嫁ーーーっっ!?」 黒瀬の目が血走り、大きな両の掌が食い込まんばかりに有利の肩をぐわしと掴み、《嫁》の《め》のところが人類が発するとは思えないほどの高調音となって轟き渡ると、周囲の人々が物珍しそうに視線を送ってくる。 とんでもないこの状況に有利が困惑していると、丁度良いタイミングで話題を転換させてくれる素材が近づいてきた。 「あれ…青嵐の子らじゃない?」 「あ、本当だ!いらっしゃいませーっ!ゆっくりしてってねっっ!!」 見覚えのあるブレザー姿の生徒達が、何処か居心地悪そうに中庭に入ってくると(青嵐の敷地内かどこかで一通りの説明を受けてから、教員に引率されてきたらしい)、生徒会の役員達が手回しよく《歓迎》と書かれた横断幕を持って出迎えていた。 その一行の内の一人が有利の姿を目に留めると、大はしゃぎのシベリアンハスキー並の勢いで突進してきた。 「有利!同じクラスだねっ!!」 「会澤!うちの学校だったん…」 言い終わる間もあればこそ、会澤は感極まったように有利の細い肢体を抱きしめた。 「良かった!校舎が壊されて一体どうなることかと思ったけど…君と学校生活が送れるならちょっと感謝してしまいそうだ」 「大袈裟だなぁ、会澤…でも、凹んでたのが浮上してきたんなら良かったよ。俺も心配してたんだー」 「うん、メール有り難うな。俺も君の学校に行くことになるって事は、今日初めて聞いて…本当に驚いたんだよ」 そう言うと、会澤は万感の思いを込めて、じぃ…とその、日本人としては色素が薄目の瞳で有利を見つめた。 「本当に…この学校に来れて良かった……」 『ナンですかこのヒト……』 異常にこの状況に歓喜している人物の存在にかなりの面子が引いていたが、中でも最大の引き率を記録していたのは誰あろう黒瀬謙吾である。 『有利って…呼び捨て………』 『進学校の青嵐から、うちの平々凡々で鄙びた学校なんかに飛ばされてきたってのに……大歓喜…………』 それらの項目が指し示す結論はただ一つ。 《こいつ…渋谷に惚れていやがる!》 名付け親のコンラート・ウェラーと同棲(?)しているらしいということだけでもショックだったというのに、渋谷有利には更に崇拝者が存在するらしい…。 『渋谷…お前魔性の男なのか!?』 渋谷有利は…男の気を引いておいて掌で転がし、一喜一憂する姿を愛でて嘲笑う魔性の男なのだろうか? しかし、目の前の二人の会話を聞いていると、どうもそういうものでもないような気がする。 「そーだな。会澤んちってこの学校から結構近かったもんな。青嵐行くよりも30分は寝坊できるんだから良かったよなぁ!」 「………いや、そういう点でそこまで喜んでいるわけでは……」 「そーいえば、うちの学校の学食は旨いって話もしてたもんな。俺の知り合いが調理師やってるから、言えば並盛りの値段で大盛りにしてくれるカモよ?」 「いや…俺、そこまで大食いじゃないんで……」 歓迎しているのは間違いないのだが、会澤の喜び様への理解はどこかずれたものであった。 『この男……空回り君なのか?』 一人で盛り上がって一人で勘違いして一人で落ち込む……何だか他人事に思えなくて、黒瀬は嘆息してしまう。 客観的に自分の姿を確認するというのは、思いのほか恥ずかしいものだ。 「やぁ渋谷。どうやら僕も君のクラスでやってくことになりそうだね。まあ、選択カリキュラムが違うから、授業が全部一緒って事も無いだろうけど」 笑顔の眼鏡君は何時も通りのスタンスで、まるで何年もこの学校にいたかのように寛ろいでいる。まあ、彼は中学からの友人なのだから今更妙なテンションではしゃぐこともあるまい…と、黒瀬は鷹揚に構えていたのだが…。 「村田ー。授業で当てられたときはフォローよろしくね」 「報酬次第かな?」 「んー…俺いまバイトしてないからな、B定食まででお願いします…」 「それよか、巫女服着て写真撮らせてよ。前から頼んでるのに、何でやってくれないの?」 「やだよ!何で俺が巫女さんの服なんか着てポーズ決めなきゃなんないんだよ。しかも、お払いのあのバサバサした棒を口にくわえて女豹のポーズってどういう主旨なんだよ!?」 「思わずお払いされたくなっちゃわない?」 「ならねーよっ!」 わいわいと楽しげに歓談する渋谷達を後目に、黒瀬はなにやらぽつねんと所在なげに佇んでいた。 『俺って…渋谷のなんなんだろう………』 春休みの間、今日この日のことを考え無かった日はなかった…。 有利と同じクラスになれるだろうか? もしもクラスが離れてしまって、あまり頻繁に有利の教室に遊びに行ったら、変に思われるだろうか?教室の影から見守り続けるのも見つかると色々困るし…。 同じクラスになれたら有利は喜んでくれるだろうか? そんなことをつらつらと考えては日を過ごしていたのに、有利の方は別段大した感慨はなかったようだ。黒瀬のことよりも、青嵐からやってきた友人達と和気藹々やっている方が楽しいらしい…。 『はは…それでも良いじゃないか黒瀬謙吾!これで健全かつ真っ当な青春に立ち返ることが出来るんだぞ?元々俺はそうモテない方じゃないんだ。今年こそは可愛い彼女を見つけてラブラブ生活を送ればいいじゃないか』 担任教師が聞けば、《その前に受験勉強をしろ》と言いたくなるような発想でポジティブに物事を捉えようとするが、想像の中の彼女が有利の顔でセーラー服を着ていたりするものだから、余計に切ない気持ちになってしまう。 思わず泣きそうになって目元を押さえていたら、そぅ…と暖かい指が額に触れてきた。 「黒瀬…どうした?具合でも悪いんなら保健室行くか?」 印象的な漆黒の瞳を不安げに揺らして見上げてくる有利と…触れてくる指先の感触に、どうっと黒瀬の顔に血液が集中してしまう。 「あ…やっぱ少し熱があるよ黒瀬。式が始まったら動きがとりにくいからさ、保健室行こうよ。何なら一緒についてってやろうか?」 「…だ、大丈夫だよ!平気平気!」 一気に体調と機嫌を快復してはしゃぐ黒瀬に、今度は会澤が複雑そうな表情を浮かべた。 「村田…あの黒瀬って奴、有利の友達なのかな?」 「ああ、2年の時に同じクラスだった援団の黒瀬謙吾だよ。ダンディ・ライオンズの試合の時に応援に来てくれたりするし、渋谷とは仲良い方だと思うけど、それが何か?」 「いや…別に良いんだけどさ……なんか、有利に対する態度が…妙な感じがするな、と」 「妙?」 『君がそれを言うか…』 正直そう思うのだが、同じ狢同士で同族嫌悪ということかもしれない。 「どう妙なのかな?」 「い…いや、勝手に決めつけちゃ悪いし…」 何か口の中でもごもごと言っているが、明確な言葉にはならない。おそらく彼の心中でもまだ整理がついていないことなのだろう。 『渋谷ってば…君も罪作りな男だね?』 勿論、本人は意識してやっているわけではないのだろうが、今の彼は瑞々しい魅力に溢れて見る人を惹きつけずにはおられない状態にある。この二人以外にも、多かれ少なかれこの学校の生徒は有利を特別に感じているだろう。 『問題は、実力行使に出るやつがいなけりゃ良いがってことだよね…』 この二人は元々ストレートな性向であることと、有利に対する敬愛の思いが強いせいで、艶を感じることはあっても即欲情に結びつく…ということはないらしい。だが、それもどこで心の一線を突破してしまうかなど、誰が分かるだろうか? 『なにしろ、あの渋谷とヤりまくってるウェラー卿だってもともと女性にしか興味のない男だったらしいしな』 そういうことを考えれば、青嵐高校の爆破事件は村田にとっては僥倖であったといえるかも知れない。同じクラスであれば教室内での突発事項を防ぐこともある程度可能になるだろう。 それぞれの思惑を乗せて、有利の高校生活は3年目に入ろうとしていた。 |