虹越え4−1−2







「すみません、入校してもよろしいでしょうか?」

 終業式を間近に控えた3月16日。6限目が終わってから数十分程度が経過した頃合いに、校門の前に現れた少年が門を警護するコンラートに話しかけてきた。

 ブレザーを身につけた少年は、制服を着ているから《少年》と表現しなくてはならないのだが、既に大人びた顔立ちとがっしりとした体格をしており、こんがりと日に焼けた精悍な顔立ちをコンラートに向けて物怖じする風もない。

『ブレザー…か。それにしてもこのブレザー…ひょっとして、猊下のお召し物と同じなのでは?』

 この人物が例の《事故》の被害者なのだとすれば、有利が治癒の力を使ったことに村田が気付いたというのも、ひょっとすると既に知っていて鎌を掛けたのかも知れない。

「どのような御用件ですか?」

 有利を指名してきた彼の用件を十分に弁えていながら、コンラートは敢えて丁寧な口振りで問いただした。

「実は…俺は先日事故に遭ったんですが、その時に助けてくれたのだがこの学校の生徒の渋谷有利君だったようなんです。昔、一度会っただけなので自信がなかったので、友人に確認して貰っている間に時間が掛かってしまいましたが、今日はお礼のために参りました」
「そうですか…お礼、ね」

 見たところ、有利の異質な力に気付いて不気味に感じていたり、逆に取り縋ろうとしている様な輩には見えない。だが、なにか妙な予感を覚えてコンラートは問いかけた。 

「昔会ったというのは、どのような状況だったのですか?」

 響きの良い声でさらりと問われて口を開きかけたものの、少年はコンラートの爽やかそうな表情の奥にあるものを察知したかのように小首を傾げた。

「何故、あなたにそのような説明をしなくてはならないんでしょうか?」
「ああ…これは失礼。俺は、君が探しているユーリの名付け親にあたるコンラート・ウェラーという者です。名付け親とは言いつつ、中学までの彼の暮らしについては良く知らないもので、差し出がましいとは思いつつも昔の彼の事を聞かせて貰いたくなったんですよ」

「名付け親?失礼ですが、コンラートさんはお幾つなんですか?」
「39歳です」

 何だか暫く前にも同じ様なことがあったな…とか思いつつ、微妙な年齢設定を披露する。

「…お若く見えますけど」

 訝しげに眉を顰める少年は、どうやら勘の鋭い達らしい。

「若作りなんですよ。それより、ユーリの事を聞かせてくれませんか?」
「はぁ…」

 その時、タイミングが良いんだか悪いんだか、声を掛けてきた者がいた。

「コンラッド、どうしたの?」
「ユーリ!」
「渋谷有利…君?」

 ブレザー姿の少年に、有利はぎょっとしたように立ち竦んだ。

「君だよね?俺が車に跳ねられたときに助けてくれたのは…」
「え…えぇと……助けたっつっても、急いでたから救急車来たらさっさと放っていっちゃったし!大したことしてないよ!!」

 有利は分かり易過ぎるほどに取り乱し、胸の前で音がしそうな程激しく手を左右に振った。目も不審なほど泳いでいる…。何しろ、目の前でコンラートが注視しているものだから、下手な糸口を掴ませてはならじと必死だ。

「そんなことないよ。医者や警察の人にも言われたんだけど、普通あれだけの勢いで車に跳ねられて、あの量の出血をしてたら即死しててもおかしくないって」

 少年は身を乗り出すと、その焦げ茶色の真摯な瞳を一心に有利に向けた。

「…俺、君が手を握って声を掛けてくれている間…感じていたんだ。意識が真っ暗な世界に引きずり込まれていくような感覚の中で、君の声が暖かく…強く響いて、身体に力が戻ってきた…俺が今生きていられるのは君のお陰なんだと思う」
「た…たまたまだよっ!つか、俺は声掛けただけで、実際に治療してくれた人はこの学校で調理員やってるヨザックって人なんだ。お礼ならその人に言いなよっ!」
「……俺、急に押し掛けて迷惑だったかな?」

 謙遜と言うには激しすぎる有利の反応に、少年は凛々しい眉毛を切なげに顰めたものだから…有利はついつい絆されてしまった。

「そ…そんなことないよっ!俺なんて大したことしてないのにわざわざこうやってお礼言いに来てくれて、凄く嬉しいよ?あんた…律儀ないい人だね!」

 にこぉ…っ!と蕾が綻ぶような笑みを見せられると少年の頬は淡く上気し、コンラートの眉はぴくりと跳ねた。

「それに…よく俺だって分かったね?あの時あんた朦朧としてたし、俺と面識なかったのにさ」
「いや、面識はあるよ?中学の時に試合したじゃないか」
「…え?」

 少年の予想外の発言に有利はぽかんと口を開けた。

「試合…え?野球…の?」
「そうだよ。あ、そうだ。俺、名前もまだ名乗ってなかったよね?俺は会澤宏明、青嵐学園でセカンドやってるんだ」
「…っ!青嵐の会澤!?」

 それなら有利も名前を知っている。チームの総合力の問題で甲子園にこそ出ていないものの、その俊敏な守備とバットコントロールの良さでプロのスカウトにも目を付けられているという、地域の有名人である。

 なお、青嵐学園は文武両道で知られる高校であり、学力面では全国模試トップの成績を維持している村田健も地域にその人有りと知られた人物である。

「そっか…青嵐…でも、やっぱり良く覚えてたよな。だって俺…あの時試合にも出てなかったろ?」
「ああ、名前は確かに覚えてはなかったんだ。ただ、あの試合の後、監督に食ってかかってるところ見たから…君の全体の印象は印象に残ってたんだよ」

 有利の肩がびくりと震え、眉根が寄せられる。

「監督殴ってクビになったちびっ子キャッチャーって…噂になったんだ?」

 今でも鮮明に覚えている…相手のチームも残っているグランドで、監督の吐いた暴言…。


『お前なんかに野球やる資格はない。とっとと辞めちまえっ!』


 気が付いたら、殴りかかっていた。
 その後、その行為が周りでどんな風に扱われていたか聞いたことがある。

『試合に一度も出たことないちっちゃいキャッチャーが、粋がって監督殴って辞めさせられたらしいぜ』

 …粋がったわけじゃない。

 だが後年コンラートに述懐したように、それが純粋な行為だったのかと問われれば自分でも自信がない。
 一度も試合に出られない状況で、格好良くチームを去るタイミングを伺ってはいなかったか?
 あの行為は本当にチームのためだったのか?

 実際、ああして辞めた後…チームの仲間は責めない代わりに褒めてもくれなかった。
 ただ、戦力にもならないチームメイトが勝手に辞めていった…。
 そう捉えられていただけなのだと思う。

「今更こんな事いうと調子の良い奴だと思われるかも知れないけど、俺はあの時…君の味方をしたかったんだ」
「…え?」

 予想外の発言に、何を言い出すのかと有利はどんぐり眼をぱちくりと開いていた。そのあどけない表情に会澤は柔らかく微笑み、コンラートはひくりと口の端を釣り上げた。

「俺のチームの監督も大概態度の悪い人でさ、選手が傷つくようなこと平気で言う奴だったんだ。でも…俺は監督に気に入られるように胡麻擦るようなことはなかったけど、だからといって態度を改めてくれなんて言うようなタイプでもなくて…監督に嫌われてる選手が理不尽な扱いを受けてても、それを黙認してた。そしたら、俺自身が何かの拍子に監督に嫌われたみたいでさ、その理不尽な扱いってやつを受けたんだけど…チームの奴ら、誰も助けてくれなかったんだ」

 自嘲するように会澤は肩を竦める。

「当然っちゃ当然だよな。俺だって他の奴がターゲットになってるときに何もしてやらなかったんだから、しょうがないよなぁって諦めてたら…あの日、君を見たんだ」

 眩しいものを見るように、会澤の瞳が眇められる。

「自分が言われたわけじゃないのに、懸命に監督に言い返してる姿見て…何か凄く感動したんだ。なんか…俺が庇って貰ってるような気がしてさ」
「か、感動なんて…」

 真っ赤に頬を染めてしどろもどろになっている有利に、会澤は《愛おしい》と表現できるほどの眼差しを送った。

「したよ…凄く、感動した。走っていって、一緒になって言ってやりたかった。《俺達はあんたの持ち物じゃない》《気に入らないからって理不尽な扱いすんのはやめてくれ》…そう言いたかったのに、恥ずかしくて出来なかった。ずっと…心のどこかで引っかかってたんだ。今回のことで君に言えて…本当に良かった。…て、あれ?渋谷君…?」
「ごめ…っ」

 ぽろぽろと涙を零す有利に、会澤は狼狽えながらもハンカチを取り出したのだが…一瞬早くコンラートのハンカチが…というか、ハンカチを持った手が優しく有利の頬を拭った。

『なんだ…?この名付け親って人………』

 流暢な日本語を操る超絶美形の外国人は、不思議なほど似合う警備員服姿で丁寧に渋谷有利の頬に水色のハンカチを押し当てている。その仕草は《愛おしくて堪らない》という言葉を体現しているようで…有利の方もそれを照れながらも受け容れていて…何故だか会澤の胸をちくりと刺した。

「ご、ゴメンな?泣いたりして…でも、あん時の事って俺の中では結構引っかかってて…俺自身はやったことを間違ってるとは思わなかったけど…でも、あれは本当にチームのことを思ってやったことだったのかな?って…単なる我が儘だったんじゃないかって…なのに、あんたが…感動したとか言ってくれたから…何か、凄ぇ…嬉しい……」

 涙で黒瞳を潤ませ、水膜の浮かぶその眼差しを眇めて微笑むものだから…会澤の胸はやたらと激しく動悸を刻むことになる。

「怪我の介抱したことでお礼してくれるってんなら、十分以上にしてもらったよ。ありがとう…会澤さん」
「会澤さんなんて…俺、同級生だよ?」
「…嘘!?」
「…俺、老けて見えるかなぁ?」

 屈託なく笑えば釣り気味の目尻に良い感じの笑い皺が出来て、少し年相応に見える。

「良かったら、会澤か宏明って呼び捨てにしてくれよ。その代わり、俺も有利って呼んで良い?」
「駄目です」

 にっこりと微笑みながら大人げない事を言う大人に、会澤はぎょっとしたように目を見開いた。しかし有利の方はいっかな気にしていないようで、にこにこ笑いながら会話を続ける。

「もー、コンラッド。初対面の人にそんな冗談言ったら真に受けられちゃうだろ?ね、俺は会澤って呼んで良い?《青嵐の会澤》って俺の中では定着してるから。俺のことは有利でも渋谷でもどっちでも良いよ」
「うん、じゃあ有利で…」

 言った途端にコンラートの視線の圧力を感じて、うっと息を呑む。

 《名付け親》だけに名前には思い入れがあるのかな…と、これ以上気にしない方向で進めることにして言葉を続けた。鋭いんだか鈍いんだかよく分からない少年である。

「折角こうして再会できたわけだし、俺達…これから友達付き合いさせて貰えないかな?」
「勿論!じゃあさ、時間ある時で良いから小頭川河川敷の練習場で一緒に野球やんない?俺、いま草野球チーム作って週末中心に活動してんだ。あ、携帯持ってる?メル番交換しない?」
「うん、持ってる持ってる!」

 何やらきゃわきゃわと携帯でやり取りする二人を、コンラートは妙に寂しそうに見つめていた。






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