虹越え4−1−1

プロローグ









 いいかい?渋谷。
 君に、これだけは守って欲しいことがある。

 飯は旨く作れ、俺より先に寝るな…

 ああ、そう言う話じゃないね。

 あ、渋谷。そんな《お前本当は幾つ?》と思ってはみたものの、いい加減飽きたからスルーしようなんて扱いは止めてくれないかな?ちゃんと本題に戻すから。

 ねえ、渋谷…僕はね、本当に心配しているんだよ?
 だから…本当にこれだけは守ってくれ。


 決して、こちらの世界で治癒の力を使ったりしないでくれ…。


T.デキナイ約束



「ってさー…また村田のヤツに念押しされちゃったよ」

「それは…まぁ、そうでしょうね。あなたには釘を刺しておかないと、何時だって自分のことはそっちのけで人助けをしようとされるから」

 夕食の席でぼやいたのだが、相談した相手が悪かった。苦笑を浮かべたコンラートは、返って宥めるような言葉をかけてきたのだった。

 有利はジャガイモとワカメのみそ汁を啜りながら眉根を寄せる。別にみそ汁がまずかったわけではない。自分の不利を悟ったのだ。

「あなただって、何故猊下がそのように仰ったか分からないわけではないでしょう?」

「うん…」

 有利にも、それは分かっている。

 2月に火の力を手に入れたことで、有利は今では四大要素の内3つを手に入れたことになる。訓練で力のコントロールも安定してきた3月10日現在、保持する魔力自体は眞魔国にいたときよりのも増大していると言っていい。治癒の力を使ったからといって、余程一度に数人を対象にしたでない限り、そう身体にダメージが起こることはないだろう。だが、こちらの世界で治癒の力を使ってはならない理由は、眞魔国にいたときとは些か趣を異にするのだ。


 こちらの世界に於いては、治癒の力はあまりにも《神秘的》すぎるのである。


 眞魔国では魔力であれ、法力であれ、種族を問わず誰かしら治癒の力を持つ者が居る。だからこそ、この力の限界も知っていれば、どれだけ治癒者が消耗するかも知っている。

 だが、それを知られていないこの世界で一度でも誰かに対して治癒を行えば、まるで万能の力であるかのように扱われる恐れがあるのだ。

 権力者が暗殺されかけたときの保険にと、有利の身を手に入れようとするかも知れない。

 逆に、敵対国に奪われないようにと監禁されるかも知れない。

 そんな陰謀からコンラートが身を挺して庇ったとしても、懇願してくる相手が泣き叫ぶ一般市民だったとしたら、有利自身がその願いを叶えたいと強く願ってしまうだろう。

『瀕死のわが子を救って下さい!』
『やっと探し出した生き別れの母が重体なんです。せめて一言でも言葉を交わしたい…』

 一人一人の願いは切ないくらいに真摯で、それほど有利の負担になるものでなかったとしても、それが毎日数十件、数百件と重なっていけば…有利はスザナ・ジュリアと同じ道を辿ることになるだろう。

「あなたの優しさを知るからこそ、猊下は耳に痛い言葉を敢えて口にされるのでしょう?」
「……うん」

 コンラートの言葉よりも…この話を始めた途端彼が箸を置いてしまい、それ以降は箸に触れる気配もないことに重いものを感じて有利はしょげ返った。 

 いま、コンラートの脳裏には打ち消すことの出来ないリアルさで、有利を失う場面が浮かんでいるに違いない。彼は、既に一度その絶対的な喪失感を味わったことがあるのだから。

 痛切に眇められた琥珀色の瞳に、胸が締め付けられるような感覚を味わう有利だった。

「ゴメンな…食欲、無くなったよな?」
「いいえ…大丈夫ですよ。それより…」
 
 にっこりと微笑むコンラートの目の奥に…何やら不穏な迫力を感じて、有利は無意識に身を反らした。

「それより…俺は、何故そのような話を猊下がされたのか…そのきっかけの方が気になりますね。あの方は理由無しに動かれる方ではありませんから」

 ぎくりと…目に見えて肩を震わす有利に、コンラートの眉がぴくりと跳ねる。

 先程まで哀切に満ちていた瞳がそのラインを通り越し、怒気を含んだ色彩に変化していく。

「まさか…誰かに治癒を行ったんですか?」
「えー…うー…あー…………な、何で分かっちゃうのかな、あんたらって…村田もまるで見てきたみたいに言い当てるしさ」

 たまたま草野球チームの練習中に、掠るような内容の話をしただけなのに…村田もぴくりと眉間に皺を寄せ、眼鏡を光らせて問いただしてきたのだった。

「…話していただけますよね?」

 《話せないなんて事ありませんよね?》との言葉を背後に感じさせるこの物言いと重圧感を与えられて…有利に抗する術など無かった。



*  *  *




 有利の目の前で、その少年…と呼ぶには長身に過ぎるブレザーの制服を身につけた高校生らしき男は、カーブを猛スピードで曲がってきた車に跳ねられた。

 一瞬有利の注意が向くのが早ければ、風か水の要素を使って事前に事故を止められたはずなのに、間に合わなかった。

 ぐたりと力を失ったブレザー君からは見る間に暗赤色の液体が溢れ出し、彼の持ち物らしい大きなスポーツバックの中から転がり出た野球のボールが、電柱にぶつかって男の元へと転がっていって…そして、泥と血を纏ってぴたりと止まった。

 ぶつけた車はそのまま逃走してしまい(何とかナンバーを確認すると、通報しておいたが)、横たわるブレザー君に急いで駆け寄り確認したが、その時点で意識はなく、脈と呼吸も徐々に弱くなりつつあった。携帯で呼んだ救急車もまだ到着する気配がない。


 だから…有利は力を使ってしまったのだった。


『治れ…治るんだよ。元気になって、また野球するんだろ?だから、こんなところで諦めちゃ駄目だ!』

 呼びかけに応えてブレザー君の細胞達は盛んに細胞分裂を始め、造血組織はその機能を高め、流血中の血球や凝固系は勢い良く己の業務に精勤した。ブレザー君自体の体力や精神力も高い部類であったのだろう。見る間に容態が快方に向かうと、ブレザー君はうっすらと瞼を開けようとしていた。

『君…は?』

 低く掠れる声にはっと我に返った有利は、握りしめていた手を離し、注意深くブレザー君の頭を自分の膝からアスファルトの上に移動させると、近寄ってくる救急車のサイレンから逃れるように猛然とダッシュした。 



*  *  *




「……………膝枕を、見ず知らずの男にしてやったのですか?」
「え?突っ込むトコそこなの!?」

 びきっ…と、音がしそうな勢いで怒張するコンラートの浅側頭動脈と発言に、有利はがばっと伏せていた面を上げる。

「……失礼しました。問題は、その男にあなたの力を悟られたかどうかということですね?」
「そうそう、そっち…。多分、完全に治したわけじゃないし、そいつ事故のショックで朦朧としてたしさ…気づかれたわけじゃないと思うんだけど…」
「…そういえばユーリ…先々週、俺が高熱を出して寝込んでしまったとき、制服がとんでもなくペンキで汚れたとか言って、新しい制服を買って帰ったことがありましたね…あの時、ですか?」

 どうやらコンラートには免疫のない細菌による発熱だったのか、2.3日かなりの高熱が続いた。有利は治癒の力を使うと言い張ったのだが、負担を掛けさせたくないばかりに断った結果がこれなのだとしたら、大人しく治して貰えば良かった…。

「う…うん。ゴメンな…言ったら心配するかと思って、言えなかったんだ…」
「で、ヨザックにも口止めですか?」
「うぐっ!」

 コンラートは発熱で動けない我が身を呪いつつも、腕だけは信じて幼馴染に護衛を頼んだのだが…。どうやら、裏切られたようだ。

「コンラッド…ヨザックを叱ったりしないでくれよ?俺…止められたんだけど、無理言ってやっちゃったんだ…」
「あなたがそう仰るのなら、仕方ありませんね」

 そう言って綺麗に笑ったコンラートだったが、それから結局…食事には箸をつけなかった。



*  *  *




 お昼の混雑を越え、食缶や調理道具の片づけを終えたヨザックは3時頃には勤務時間が終わる。調理の腕以上に、その膂力と気安く仕事を受けてくれる人柄の良さで、ヨザックは食堂のおばちゃん方のちょっとしたアイドルになっていた。今日も率先して食堂の裏にゴミを運んで整理していると、背後に接近した微かな気配に反応した。

 振り返っている暇はない。

 瞬時にそう判断すると、咄嗟にリストバンドに仕込んでいた暗器を構えて、空気を薙ぐ俊速の一撃を逸らした。

 ひやりと…背筋を冷たいものが走る。
 その太刀筋に、誰が相手なのかを悟ったのだ。

 側転気味に素早く下段蹴りをしつつ方向転換すれば、来襲者はその動きを予測していたかの如く軽やかなステップを踏み、とと…っと爪先の跳ねるような動きでヨザックの懐に飛び込んできた。


 す…ぃ……っ!


 ヨザックの喉元に剣の切っ先が突きつけられ…その刃先よりも鋭利な眼差しが叩き込まれる。

 彼が本気なら、そのまま首を掻ききられていたかも知れない。

「何のおつもりで?隊長…」

 いつもの飄々とした口振りで喉を殊更逸らしてやるが、その動きにぴたりと合わせて刃先は頚動脈に添えられている。

「俺の精神安定のためにちょっと斬られろ」

 不条理なことを平気で言ってのける男の目がちょっと真剣味を帯びているものだから、つい反射的にぐびりと喉を鳴らしてしまった。

「この罪もない爽やか好青年を斬ろうっての?」

 食堂で勤めだした初日は目に眩しい薔薇模様の新妻エプロンで出勤したのだが…有利の論評があまりにも悪いので、ここのところごく普通の恰好をしているヨザックは確かに好青年に見えなくもない。ざっくりとしたオレンジ色のセーターとブルージーンズを着込んでおり、頭に巻いたセーターと同色のバンダナもよく似合っている(ちょっと見、ラーメン屋っぽくもあるが)。

「罪がないだと?どの口でそれを言うか、ヨザ…」
「………あら、バレっちゃた?」

『陛下ったら、本当に嘘付けないお人なんだから…』

 思わず溜息が漏れる。とばっちりは必ずヨザックに向かうと知っていたはずだのに…。

「何故ユーリに治癒の力を使わせた?あの方がこちらで力を使えばどんなことになるか、理解していたと思っていたが?」
「そりゃ、俺だって分かっちゃいたさ。だがね、あの方が本気で何かをしようと決意なさってるときに、止める事なんて誰に出来るってんだ?あんたなら止められたとでも?過保護な保護者サンよ」

 ぎら…コンラートの手の中でアニシナ製仕込み刀の刃先が揺らめき、初春の麗らかな陽光を弾いて反射させる。

「分かっている、これは八つ当たりだ。だから致命傷にならないようアニシナの剣にしているだろう?ま、いいからちょっと斬られておけ」

 凍気の力の籠もる妖刀を抜かないだけマシと思えと言うことか。斬られる方にとって見れば迷惑なことに変わりはない。

「いい加減にしてくれよ隊長。どーせ、八つ当たりついでに愚痴零そうってんだろ?そっちなら相手になるからさぁ、ソレしまってくれよ」

 ヨザックに促され、不承不承ながら剣をしまったコンラートは、何処か疲れたような表情で食堂の外壁に右肩を凭れかけた。

 ほぅ…と気怠げな…この男がやると妙に悩ましい仕草で吐息すると、コンラートは《阿呆ですかあなた》としか論評し得ない発言をした。

「…ヨザ、あの方はどうしてああ可愛らしいのだと思う?」

 ひくりとヨザックの片頬が引きつる。

「ええと…隊長。ソレは真面目に答えればいいの?」
「当たり前だ」

 目が据わっている元上司に、ヨザックはバリバリと頭を掻いた。

「…………まぁねぇ……可愛いよねぇ、あの方はさ。活発でお人好しで泣き虫で…可愛い過ぎて時々鎖で繋いで監禁しときたくなるけど、そうすると多分あの方の魅力ってのは半減しちゃうんだよね」

 斬られることが怖かったと言うより、すっかり性格の変わり果ててしまった元上司の姿に涙を誘われて、ヨザックは精一杯真面目に答えてみた。文章の一部が気にくわなかったようでぴくりと眉根が上がっていたような気がするが、本意は伝わっているのか行動には出なかった。

「そうだ…最も厄介な問題はそこなんだ…。あの方はどれほど自分に不利に働くと分かっていても、正しいと思う道を歩まずに入られない。それはとても尊ぶべき事だとは思うが…正直、お守りする身としては、辛い。媚薬の一件を受けて俺は警備員を辞めて、ボディガードとして自由に身辺を守らせて欲しいとも頼んだのだが…断られてしまったし」
「そりゃまあ、この学校で普通の学生として卒業したいってのがあの方のお望みだからな。あんたが四六時中傍にべったりしてたんじゃ、眞魔国みたいに《カルガモ》だの陰口を叩かれるだけじゃすまないからなぁ…」

 一般校の男子高校生に24時間張り付く超美形の外国人男性…何処からどう見ても不気味である。

「気苦労の耐えないトコは同情もするけどさ、あの方を好きになっちゃった以上しょうがないだろ?」
「……そんなことは分かっている」

 自分でも情けない話だが、素直に愚痴を零すのも躊躇われて、ついつい幼馴染に八つ当たりしてしまった。見抜かれているとおり、答えも自分の中では出ているのだ。

「あの方を自由に羽ばたかせて差し上げたい…あの方を何者からもお守りしたい…どちらも切実なんだがな…」
「二律背反って程でもないだろうけど…あの方の場合、その二件は結構相反する条件なんだよねぇ…」

 苦笑混じりに頬を撫でている友人は、呆れ顔ではあったが蒼瞳に暖かみのある色彩を乗せていた。何事にも斜に構え、世の中を達観していた友人だったのだが…随分と変わったものだと思う。

『それは…俺もか』

 コンラートの唇にも苦笑が閃いた。

 全く、彼の主というお人は何とも影響力の大きい方である。





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