平行世界のユーリ×3 (1)








 盛夏を迎えた眞魔国は、日中はじりじりと照りつける太陽に責め立てられるものの、夕闇に空が閉ざされる頃にはふぅっと息をつける。

 血盟城も基本構築が石造りであるせいか、ベットに入る時分には肌掛けがないと寒いくらいだ。

 今宵も愛娘のために絵本を読んであげる約束をしていた魔王陛下であったが、差し出された本に軽く眩暈を覚えてしまった…。

「ユーリ!この絵本読んで!」
「う、うん…」

 油絵の具をキャンパスに叩きつけたような毒々しい表紙を、グレタが嬉しそうに掲げてみせる。

 酷く恐ろしいようにも、どこか魅力的な様にも見えるその絵本の作者は、間違いなく毒女アニシナであろう。

 本は二冊あったが、そのどちらもが様相の異なる…恐怖感の漂う色彩に彩られている。

『なんちゅーか…話といい装丁といい…いつも独特だよな……』

 有利とて《毒女シリーズ》の愛読者ではあるのだが、予備知識なしに娘に読み聞かせをするとなると話は別だ。

 布団の中に縮こまり、怯えきってページを捲るのとは訳が違う。

 父の沽券を守るためにも、毅然として読み上げなくてはならないのだから…。

『い、いくぞぉ……っ!』

 有利は、軽く口角を引きつらせながら絵本を手に取った。

 一冊の表紙にはどろりとした描線でうさぎ耳を生やした子どもが描かれており、もう一冊には直線的な描線で、小さな角を生やした子どもが描かれている。

 悪魔的な絵画というものというのは、どこか奇妙に惹きつけられる要素を持っているものだ。

それらの表紙もまた、うっかり見つめてしまうと目を反らすことの出来ないような、奇怪な魅力に溢れていた。

「ね、ね!ユーリ!この表紙を見て何か気づかない?」
「随分とおどろおどろしい…」
「もー!そういう事じゃないってばっ!ほら…この男の子達、誰かさんに似てない?」
「え…?」

 言われて良く良く見れば、確かに似ている。

「これ…なんとなく俺に似てるような…」
「でしょ?あのね、アニシナに《ぱられるわーるど》っていう世界のことを聞いたときに、そういう世界のことを見たり聞いたり出来るの?って聞いたら、この本を作ってくれたんだよ?凄いんだよむー、アニシナ!本をね、書くんじゃなくて煮詰めて作っちゃったんだから!」

 危うく、ぎょっとして絵本を取り落とすところだった。

 《毒女シリーズ》は内容は恐ろしいが、ああ見えてそれ以外の害を及ぼすことはない。ごくごく一般的な活版印刷によって製本されているからだ。

 幾らアニシナとはいえど、不特定多数の読者にまで実験の余波を及ぼすつもりはないと見える。

 だが…有利が手にしているこの二冊に関して言えば、まさにアニシナのハンドメイド…恐ろしいパワーを感じると思ったのは、どうやら気のせいではなかったようだ。

 一体どこの世界に、本をぐつぐつ煮込んで作り出す者が居るのだろうか?(今まさにこの国に生息しているようだが…)

 いや、問題は製法だけの問題ではない。

 この本には《パラレルワールド》で別の人生を過ごしている有利自身の事が描かれているらしい。

 魔王としての重責を担うこともなく、おそらくは、何人かの大切な人に出会うこともなく…一体どんな暮らしをしているのだろう?

「グレタもまだ中身を読んでないの!他の世界でのユーリがどんな暮らしをしてるのか見たかったんだけど、ユーリに内緒で読んだら盗撮みたいでしょ?」
「グレタ…せめて覗き見くらいの表現でお願いします」
「そぅお?」

 きょと…と可愛らしく小首を傾げてみせる少女は、ここ近年毒女の影響を受けすぎて、語彙が妙な方向性をもって豊富になりすぎている。

「でも…本当にこの中に、別の世界での俺のことが書かれてるのかな?そんなに一冊の厚みはないと思うんだけど…」
「アニシナが言ってたよ。この本はパラレルワールドで暮らしてるユーリのことを、ほんの一部分取り出して文字にしたものなんだって」
「全部が全部載ってる訳じゃないってことか…」

 おそるおそる一冊の表紙を捲れば、不気味なマーブル模様の遊び紙を経て本文にはいる。

 恐ろしげな背景のわりに、絵にはどこか愛嬌があり、ぽよぽよと動き回るちいさな黒うさぎが、有利によく似た言動を振りまきながら登場した。

『あ…コンラッドもちゃんと居るんだ…っ!』

 なんだかえらく嬉しい。

 ちいさな黒うさぎはわけあって大きな茶うさぎのコンラートと暮らしているらしく、名付け親だったり、過去に大きな戦争を経ているという点ではこちらの世界によく似ているようだ。

『へへ…うさぎのコンラッドかぁ…』

 挿絵に描かれたコンラートはちゃんと茶色くて長い耳をつけており、眞魔国の軍服と良く似た衣装を着こんでいた。どこにいっても彼が軍人であることに変わりはないのだろうか?

「こっちはどうかな?」
「どーかなー?」

 ついつい読み聞かせを忘れて、二冊面の本を手に取ってみる。グレタの方もわくわくしながら絵本の中身を気にしているせいで、続けて読み上げなくても文句は出なかった。

「へぇ…こっちはコンラッドが人間で、俺が子鬼なのか」

 コンラートはどうやら、地球で暮らすサラリーマンらしい。国籍はドイツなのだが、仕事の都合で日本の企業に勤めているようだ。

 ごくごく普通の日常を過ごしていたコンラートの元に、節分の日に雷雲から子鬼の有利が落っこちてきて…という筋立てらしい。

『えへへ…こっちでもコンラッドは俺と一緒なんだな』

 こちらは名付け親ではないようだが、力が弱っているとちいさな子鬼の姿になり、力が漲ると今の有利と同じくらいの大きさになる子鬼を、コンラートは舐め転がすように可愛がっているようだ。

 なんだか、パラレル世界の話と分かっていても、自分がそうされているみたいにくすぐったいような心地がする。

『実際…コンラッドってば俺のコトこっちの世界でもべったべたに甘やかしてくれるもんな…』

 にやつきかけて…ふと有利の頬に苦いものが過ぎる。

 有利の中にある、深刻な疑問がまた鎌首を擡げてしまったからだ。

   

 《こんなに甘いのは全て、罪滅ぼしなのではないか》



 大シマロンから帰還したコンラートは当初、有利に合わせる顔がないと言って、何度も有利から離れようとした。

 眞王の命令だったのだから仕方がないではないかと…俺に悪いと思うのなら、お願いだから傍にいてくれと泣いて縋って駄々を捏ねたとき…諦めたように、コンラートは傍にいることを約束してくれた。

 それからはまるで何事もなかったみたいに、腕を失うことになったあの事件や、出奔なんて無かったみたいに、当たり前のようにコンラートが傍にいてくれる。

 それを嬉しいと思いながら、同時に…罪悪感が有利の胸を掠めるのだった。

 コンラートは名付け親で親友で、なにものにも代え難い大切な人だ。

 コンラートも有利のことを名付け子として大切に想っていてくれるだろう。



 だが…忘れてはいけない。

 自分たちは、決して恋人同士ではないのだ。



 あくまで可愛がる者と可愛がられる者の関係。

 もっと深く、種の存続という抗い難い力を持った《女》という存在に奪われるか、あるいは、性を同じにしつつも、肉欲を含めた意味で深く繋がりたいと思わせる相手に出会ったとき、コンラートはどうするだろうか?

『あいつは…もう、俺に約束してしまった』



 もう二度と離れない。

 ずっとあなたの傍にいる。



 とても美しい愛の言葉のようで、実は酷く拘束力を持った呪詛のようでもある。

 有利以外にその言葉を捧げたくても、コンラートにそれは赦されないからだ。

 本当に彼の幸せを思うなら、自由にしてあげた方が良いのかも知れない。

『でも…でも、いまはまだ居ないはずだもん。だから…他に好きな人ができるまでは、俺の傍にいてくれたって…』



『《他に好きな人》ができたとき、お前はコンラッドを諦められるのか?』

 

 残酷な第三者視点で、誰かが囁きかける。

 頭に血が上りやすい自分を振り返るために、意識的に設定した冷静な視点からの言葉だ。

『俺は…』

 奥歯を噛みしめて、絵本に視線を戻す。  

 今読んでいる範囲では、これらは両方とも、ほのぼのとした疑似親子の物語だ。

 血は繋がらないながらも、深い縁に結ばれた二人が、過去の傷を克服したり、二人が共に居続ける上での障壁を乗り越えながら過ごしていく話。

 心温まる物語にグレタは大喜びだが、有利には少し皮肉な内容でもあった。

『パラレルでも俺とコンラッドの関係って、一緒なんだな…』

 大事に大事に包み込まれているけれど、結局は《子ども》扱いされている有利…ユーリ。
 それを寂しいと感じる自分は、とても欲深なのかも知れない。

 そんな自分が嫌になって…少し乱暴に二冊の絵本を、ページを開いたまま重ねたときのことだった。
 重なり合った二冊の間で、二人の有利が触れあったかと思うと、突然…絵本が目映い光を放ちはじめた。  



 かぁ…っ!



「きゃぁぁっ!」

 一際激しい光に、有利が驚き叫ぶグレタを抱え込んでベットの上に伏せていると、勢いよく扉を開けてコンラートが駆け込んできた。

「どうしました!?これは…っ!」

 片腕一本で有利とグレタをひょいっと自分の背後に回し込むと、コンラートは油断無く目を眇めて光の源を伺った。

「これは…本、ですか?」
「アニシナさんに借りた本を重ねた途端に、変な反応を起こしちゃったんだよ!」
「アニシナの本ですって?」

 《それはまたたちの悪いものを…》そう言いかけたコンラートの目の前で、光は突然に収束した。

 きゅ…っと収束した光が、ぽぅんっと四散した途端…ベットの上にはちいさな人影が放り出された。

「え…?」
「こ…これは……」
「ユーリっ!」

 なんということだろう…。

 驚くべき事に、ベットの上に放り出された二人の子どもは、有利に酷似した容貌を持つうさぎ耳の少年と、角を生やした少年だったのである。

 おそらく、身長からいって小学生くらいだろうか?偶然なのだろうが、二人とも同じような青いパジャマに身を包んでいる。

 丁度線対称になるようにベットの上に転がった二人は、気を失っているらしく身じろぎ一つしなかった…。

 

*  *  *




 ありうべからざる事が起こった。



 アニシナが関与していることが知れると、形容詞が《また妙な》に変わったりはするのだが…ともかく、大変なことが起こったと聞いて、翌朝の魔王居室には大勢の魔族が詰めかけた。



「こ…これは……っ!」

 ぶはぅ…っ!

 二人の愛らしい少年の姿を目にいれた途端、美貌の王佐は今日も元気に鮮血を吹き上げて横転してしまった。

 鼻中隔キーゼルバッハ部位から出ているだけとは思われないようなこの出血量は、いつもながら見物である。

 後で掃除しなくてはならない侍女達にとっては迷惑この上ない代物ではあったのだけれど…。

「ギュンター、良い策を講じる前に死骸と化すのはやめてください…」

 冷静なときには《眞魔国の英知》と呼ばれる彼だが、血を吹き上げているときには《路傍に遺棄された死体》扱いである。

 ギーゼラは嘆息しながらも、娘として…医療班としての責務を全うするためか、意識を失ったギュンターを運んでいった。

 ただ、その扱いは極めてぞんざいで、襟首を掴んでいるためにギュンターの気道は半ば閉塞し、顔色が青黒くなっている。

『こんなに可愛らしいユーリ陛下の映し身を愛でる機会を、自分から失うのみならず人まで巻き込むとは…』

 怒り筋を浮かべたギーゼラが、そんな風に呟きながら退室していったのも気にかかるところだ。

 このあと、ギュンターは無事でいられるのだろうか?

「やれやれ…」

 ため息をつきながら奇妙な義親子を見送った有利は、まだ目を覚まさない仔うさぎの耳を不思議そうに撫でつけた。

 天鵞絨のような手触りは吃驚するくらい心地良く、無意識に続けて撫で撫でしてしまう。 

「ん〜んんー……」

 いやいやをするようにむずがる様子はやたらと愛らしく、自分の小さい頃に似た姿だというのに、《可愛い》と思ってしまうから不思議だ。

 もう一方の子どもの頭に生えた黄色い角も、つるつるしていて指先で撫でると気持ちいい。

 だが、こちらはびくん…っと肩を竦めて《ゃんっ!》と呟く声が殺人的に可愛すぎたため、グウェンダルが顔を覆ってしまったのでこれ以上触るのはやめておいた。

 冷徹な美丈夫として知られるフォンヴォルテール卿を、これ以上追いつめるのは得策ではないだろう。

 顔が溶け崩れた美形というのは、端から見ると結構怖いものだ。

『へぇ…可愛いもんだなぁ…』

 こういう姿を見ていると、幼い頃から有利を猫っ可愛がりしてきた兄や母の気持ちがちょっとだけ分かる。

まぁ、彼らの…特に兄の場合は少々異常だが…。

「それにしても…本当に可愛らしいな。僕とユーリとの間に子どもが生まれたらこんな風なのかな?」

 ヴォルフラムも、普段は釣り気味の眦をとろりと垂らして、ベットの上に横たわる二人の有利を愛おしげに撫でた。

「馬鹿かお前。誰が生むんだよ?そもそも、お前と俺は婚約破棄してんじゃん」
「む…そ、それは…っ!」

 相変わらず婚約者然として発言してくるヴォルフラムだったが、有利のつっこみは容赦ない。

 近年男前度を上げているヴォルフラムは大切な親友だが、どうしたって恋人などにはなれない。

 だから彼がわけあって婚約破棄してきたときに、そのまま受理したのだ。

「だから僕は何度も求愛をだなーっ!」 
「もうこの国の習慣も知ってるんだから、絶対受けないよ!」
「このぉ〜っ!」

 声を荒げていたせいだろうか?ちいさな呻きをあげて、煩そうにしていた二人が目を擦りながら身を起こしてきた。

 そして…ぱちりと瞳を開くと、そこには当代魔王有利陛下とそっくりの、つぶらな黒瞳が輝いていたのである。

「あ…れ?」

 きょとんと小首を傾げる二人は、しきりと辺りを見回して戸惑いの度を深めていった。

「ここ…どこ?」
「吃驚した?ごめんね…俺のせいで、別の世界からこの眞魔国に引っ張り込まれちゃったんだよ」
「えぇ…?…あ!」

 ベットの脇に跪き、申し訳なさそうに眉を垂れさせた有利を見ると、二人は目をまん丸にして驚きの声をあげた。

「アニシナの本の俺だ!」
「え…?君らの世界にもアニシナさんっているの!?」



『三人のアニシナ…』
『なんて恐ろしい……っ!』



 集結したのが彼女たちでなかったことを、詰めかけた魔族達は心の底から喜んだ。

 一人でも大変だというのに…集まられた日にはどんな地獄絵図が展開されるのかと、恐怖に身が縮んでしまう。

「うん、俺…アニシナに貰った絵本をコンラッドと一緒に読んでたんだ。そしたら、急に絵本が光り出して…」

 黒い耳を生やした有利がそこまで言いかけて、うる…と瞳を潤ませてしまった。

「どうしよう…コンラッド、心配してるよな?俺が絵本に引きずり込まれるとき…凄い声で叫んでた……」
「それは…そうでしょうね」

 心配そうに覗き込んできたコンラートに、うさ有利はぱちくりと瞳を見開いた。

「こ…コンラッド!?」
「ええ、こちらの世界のコンラッドです。どうぞよろしくお願いします、ユーリ」
「わぁあ…っ!声もコンラッドだぁ…!」

 角を生やした有利も団栗お目々を見開いてコンラートを見つめた。

「どうぞよろしく、ユーリ」
「うん、よろしくね!」

 はにかむように微笑む二人は、気がつくとぺとりとコンラートの軍服にしがみついていた。

「むー…しかし、三人ともユーリではややこしいじゃないか。よし、お前はうさユ、お前はオニユだ」
「え…?」

 ヴォルフラムが提示したぞんざいな呼称はどちらの有利にとっても不本意なものであったらしく、あからさまに目元が翳ってしまう。

「あのさ、こういうのはどうかな?うさぎのユーリと、子鬼のユーリ。んで、俺がヒトのユーリ」

 眞魔国の魔王たる有利が、ヴォルフラムを傷つけないように多少遠回しにではあったが、別の呼び方を提唱した。

「長くなるじゃないか!」
「でも、それでなくても心細いのに、馴染みのないあだ名で呼ばれるのって嫌じゃないかな?…どう?」
「うん」

 こっくりとうさぎの有利が頷くと、子鬼の有利もこくこくと頷いて同意した。

「ちゃんと、ユーリって呼ばれたいな」
「うん、君らもちゃんと《ユーリ》だもんな!」

 ふわぁ…とヒトの有利が蕾が綻ぶような艶やかさを見せて、やわらかく微笑んでみせると、安心したようにうさぎの有利と子鬼の有利がにぱりと微笑む。

 春のお花畑のようなその情景に、見守る魔族達は一様に顔の下半分を掌で隠すのだった。

「なるほど、興味深い事象ですね!」

 この時になって、漸く事態の発生原因であるアニシナが姿を現した。

 どうやら、また奇妙な実験に没頭していたらしく、血走った目を取り巻く眼瞼には小さな湿布薬のようなものが貼付されている。

 作業服についた返り血が、誰のものなのかが気がかりなところだ…。

「アニシナさん、この二人…アニシナさんの作った絵本から飛び出してきたんだけど、元の世界に帰せるのかな?」
「それは帰せますとも。ですが、流石の私もこのような事情が起こることまでは予測しておりませんでした。ですから、暫し時間を頂きたいですね!その間に色々と調査もしたいですし!」
「ま…待て!アニシナ…!この仔うさぎたんと子鬼たんに怪しい実験をするつもりではないだろうな?」

 血相を変えたグウェンダルが駆け寄ると、アニシナの人差し指一本で鬱陶しそうに追いやられる。

「なんです、大のオトナがみっともない…。私の崇高な研究に、難癖をつけるつもりですか?」
「多少何らかの利益が期待できるとしても、お前の研究には犠牲が多すぎるのだ!」

 常日頃、卵一つ割るために全身の関節痛を生じるような工程を経ることを強制されているグウェンダルからしてみれば、こんなあどけない子どもたちが実験の餌食になることなど考えたくもないのだろう。

「待って、グウェン…」
「お前達…」

 うさぎの有利と子鬼の有利はグウェンダルの軍服の裾をちょいちょいと引っ張り、上目遣いに呼びかけた。

 ちいさく愛らしいその姿に、グウェンダルはとうとう…目尻が下がっていくことを止めることが出来なくなった。

「ど、どうしたんでちゅか〜?」
「あのね?俺の世界のアニシナは大発明家なの」
「俺の所でもそうなの」
「だから、こっちの世界のアニシナも、きっと俺達に酷い事なんてしないと思うの」
「ね?」

 きゅと…っと同時に小首を傾げてアニシナを見やれば、さしもの悪魔もにやりと頬を緩ませた。

「ふふん…良い心がけですね。ええ、そうですとも。この超弩級天才フォンカーベルニコフ卿アニシナの名にかけて、あなたたちに決して酷いことなどするものですか。無事に元の世界へと帰り着かせて見せます!」

「わぁ、凄いねアニシナ!」
「お願いね、アニシナ!」
「さあ、それでは研究のために協力しなさいグウェンダル」

 ガッ…っと襟首を鷲掴みにされたグウェンダルが、《この二人に害が及ばぬなら…》と諦めかけたとき、件(くだん)の二人ががっしりとグウェンダルの軍服を掴んだ。

「ま…待って!アニシナ…!」
「えぇと…俺、グウェンとご飯食べたいな!」
「俺は、本を読んで貰いたいな!」
「だから、とっても申し訳ないんだけど、グウェンは実験のお手伝いはできないと思うの!」

 どうやら…二人の世界でもアニシナとグウェンダルの関係はこちらと相似したものであるらしい。

 必死で止め立てする二人の瞳には、ここで手を離したらグウェンダルがどんな悲惨な目に遭うかが映し出されているようだ。

 蒼白になった頬と、脂汗の滲む額が全てを物語っている。

「アニシナ…二人もこう言っていることだし、君の能力を考えれば、グウェンがいなくても実験は可能だろう?」

 普段は笑ってスルーするコンラートも(←おい!)、可愛い二人の有利が止め立てする姿をそのまま放置するわけにもいかず、上手い転がし方でアニシナを誘導した。

「ふぅむ…そうですね!私も、いつもいつもグウェンダルにばかり崇高な研究の一端を担わせているわけにもいきませんね!たまにはこの底知れぬ叡智をより広範囲の男達に知らしめてやるのも一興でしょう!おや、ギュンターはどこにいきましたか?」

 《選択枝少な…っ!》…と、ヒトの有利が叫びかけて止める。

 ギュンターは血を出しすぎてグロッキー状態に陥っているだろうから、流石に実験対象にはならないだろうと踏んだのだ。

「お前達…私を庇ってくれたのか?」
「俺の世界でもグウェンにはお世話になってるから…」
「俺も、アニシナのことは好きだけど、グウェンはちょっと可哀想だから…」

 もじもじとはにかむ二人がとても可愛いのだが、二つのパラレル世界でも自分が実験動物扱いされているのだと知ると、グウェンダルの目元には軽く涙が滲んでしまう。

 力関係が逆転しているような世界は存在しないのだろうか?

「さあ、それでは帰るための方策はアニシナにお願いしましょう。折角お二人ともこの世界に来られたのですから、自分の世界との違いを楽しまれては如何ですか?」

 コンラートはまだまだ心細いであろう二人を元気づけるため、この事態の楽しげな側面を強調すると、やわらかな黒髪の感触を楽しみながら頭を撫でてやった。 



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