虹越え3−8−1






「渋谷君!頼むっ!」

 有利は心底困ったような渋面を作るのだが、平伏せんばかりにして懇請してくる青年を無下に扱うことも出来ず、途方に暮れて嘆息した…。



 時は2月の第2金曜日。翌日にバレンタインデーを控えている…ということは、自動的に《13日の金曜日》になってしまうこの日、有利の高校では《総合的な学習の時間》の一環として就業体験なるものが行われ、有利の班はテレビ局ADのお仕事体験コースに参加していた。ローカル局とはいえ一応は芸能に関わる場所ということで他のコースに当たった生徒達からは随分と羨まれたものだが、現実はかなり世知辛いものであった。

 芸能人には一人も会えず、もちろん番組の収録現場などには入れて貰えず、ひたすら機材を運ぶADさんの姿を見守る半日であった。結局、1日中いられては邪魔だという理由で昼過ぎにはテレビ局から出されてしまった。仕出し弁当を広げる間もなく、殆どの生徒が袋に下げたまま帰路に就くこととなった。

「あーあ…期待はずれだよなぁ…」

 引率の松本先生に解散宣言を出されて三々五々帰路につく生徒達の口からは、明らかに落胆した声が漏れ出ていた。

「まぁ…テレビ局も裏方の仕事ってのは大変なんだってコトが分かったってコトで…」

 松本先生の声にも覇気がないものだから、慰めにもなりゃしない。

「なぁ、お前もつまんなかったろ?」
「え?なにが?」

 黒瀬に肩をつつかれるが、辺りを見回していた有利は何を問われたのか分からずきょとんとしていた。

「なに?何か探してんの?でも駄目だろー…こっちの通路は芸能人は使わないって言ってたぜ」
「いや、ここに勤めてる知り合いがいるんだよ。野球チームのメンバーの人。ちょこっと連絡事項があるんだけどなー…会えないかなぁ。携帯に番号入れてなかったんだよなぁ…」
「渋谷君っ!」

 どうしようか…と、他の生徒達が去った後も通路の出口近くで足取りをもたつかせていたら、呼び寄せられたかのように探していた人物が姿を現した。

「春日野さん、会えて良かったぁ…」

 笑顔で伝達事項を伝えようとした有利だったが、必死の形相の春日野は有利の手を掴むと矢継ぎ早に捲し立ててきた。

「渋谷君、頼むっ!仕事手伝って貰えないかな?今日収録する番組の出演者が急に出られなくなったんだけど、今いるスタッフじゃその穴埋めが出来そうにないんだっ!今日の予定表見てたら渋谷君の学校の見学対応ってのが書いてあったからもしかして…と思ったんだけど、見つかって良かった!な、頼む!助けてくれっ!!」
「え…えぇっ!?で、でも俺…芸とかないですよ?」
「台詞とかはないんだ、衣装を着てゲストの人に物を運んだりボードを持ったりするだけだからっ!な、頼む!この通り!」

 この局のADである春日野幸久はダンディ・ライオンズでサードをつとめる男で、彼の頼みとあっては有利も無下に断ることが出来ない。彼は時折、プロ野球選手がゲストで出る番組の収録に立ちあわせてくれたり、大好きな選手のサインバットをくれたりと、何かと有利のツボをついた親切を与えてくれていたのだ。しかも、それによって見返りを求めるような性格でもないので、マークの厳しいコンラートや村田健にも容認されている人物である。

「後で何でも奢るから…奮発して新しいミットとかバットとかでも買っちゃうから…勿論、バイト代も弾むから!お願いっ!」

 ミット…バット……ちょっと魅惑的なその響きにふらりと心が揺れたのを見逃さず、春日野は勢い良く有利を引っ張っていった。



*  *  *




「あら?その子が例のメイドちゃん?あらぁ…本当に可愛いわねっ!肌も綺麗だし、メイク映えするわよぉ!」

 《メイドちゃん》…《メイク》……

 楽屋のような場所につくと、意味深な笑みを浮かべた短髪の女性に不穏な単語を連発されて、有利の口角はひくりと歪んだ。

「か…春日野さん……手伝いってまさか………」
「うぅ…悪いんだけど……この衣装着て、番組出てくれないかな?」

 ハンガーに掛かった衣装一式がぴらりと眼前で閃くと、有利は回れ右をして全速力で駆け出そうとする。…が、その動きは予測されていたのか、俊敏かつ堅固な守備が自慢のサード春日野幸久は扉の前に立ちふさがると、見事なブロックを見せた。

「頼むっ!この通りっっ!あと1時間で収録なのに、予定してた子が大熱を出しちゃったんだ。《迷惑掛けるわけには行かないから絶対出ます》って言い張るんだけど、41度越えちゃってね、救急車呼んだんだよ…。な、君なら出来るっ!文化祭のメイド姿はそりゃ素晴らしかったんだからっ!」

 拝み倒す春日野の傍にふわふわした白い衣装の少女が駆け寄ってくると、一緒になって両手を合わせ、お願いポーズをとりだした。

「君が手伝ってくれる子?ね、あたしからもお願いっ!一緒にユニット組んでる子が急に熱だしちゃったんだけど、どうしても今日のお仕事ちゃんとやりたいのっ!」

 有利と同じくらいの年頃と思しき少女は襟刳りの広いタイトなミニドレスを纏い、すらりとした首元にはサテンの艶々とした白いリボンを結び、背中には小さな白い翼をしょっている。どうやら天使をイメージした衣装らしい。腿の半分までのミニスカートから覗くガーターベルトと白い編タイツが少々色っぽいが、少女自身は全体的に清楚な印象があるため、淫猥になるのを防いでいる。

 ふわりとした質感を呈する金褐色の巻き毛はどうやらウィッグのようだが、ハーフっぽい顔立ちとも相まってなかなか可愛らしい。

『そ…そんな目で見ないでぇ……っ!』

 逃走しようとする脚がどうしても鈍ってしまう。

 垂れ気味の大きな瞳を潤ませてじいっ…と見つめられると、これが結構な破壊力で有利の決意を鈍らせてくれるのだ。

「でも…俺、それでなくても文化祭で女装して変な噂たってんのに……テレビにまで映ったら決定打になっちゃうよ春日野さん…」
「それなら大丈夫。あたしの腕を信じなさいな!長髪のウィッグとメイクで印象変えるから、家族だってそうとは分かんなくなるわよ?」

 短髪のメイクさんが自信ありげに言い放つと、天使っぽい少女もこくこくと頷いて同意する。

「白滝さんのメイクは凄いのよ!?あたしだって変身させて貰ったもんっ!ほら、こっちのあたしと一緒とは思えないでしょ?」

 少女が鞄の中から出してきた学生証は有利の高校の近場にある女子校のもので、《羽村千夏》という名前が記載されている。その脇に張り込まれた写真は活発そうな黒髪の少女のもので、印象的な垂れ目以外は確かに今の姿と結びつく因子がない。

「う……」
「ささ、まずは試しにメイクしてみない?その上でテレビ見た人にばれそうだってんならあたしらも無理は言わないからさ」
「わ…かりました……」

 ここまで頼み込まれれば、もう頷くしかなかった。

 大体、頑強な信念をもって面倒事から逃れられるほど人情に薄い性格なら、魔王業など絶対引き受けていなかったことだろう……。



*  *  *




「凄…っ!渋谷君ってメイク映えするねぇ……」

 感嘆の吐息を漏らされても、微妙な笑みを返すしかない。

 羽村の方は余程感心しているのか、有利の反応などお構いなしにうっとりと見惚れている。メイクの白滝も自分の《作品》に自分で驚いているかのように目を見開いているし、春日野に至ってはぽかんと口を開いて頬を染めている。

 それほど、《小悪魔風》メイクを施し、羽村とデザインが相似した漆黒のタイトドレスに身を包む有利は凶悪なまでに愛らしかった。

 渋谷有利と悟らせぬ為の大きな因子として、背中まであるさらさら黒髪ウィッグを装着し、幾重にも丁寧にマスカラを施した睫毛は吸い込まれそうな黒瞳を蝶のように縁取り、眦に掃かれた紫のアイシャドウは仄かな煌めきを纏って目力を強めている。目尻にやや釣り気味に見えるよう差されたアイラインのせいもあってか、普段の有利の印象とはかなり違って見える。ただ、強調気味のアイメイクとは対照的に、頬と唇に載せられた紅はピンク掛かった可憐な色彩だから、毒気と愛らしさ…悪魔的な艶と天使のような清廉さが絶妙のバランスを醸し出している。

 黒いドレスは羽村のと同様襟刳りが広く、デコルテに掃かれたパール仕様のファンデーションがきめ細かい肌に艶をもたらし、黒いリボンが対照的な色彩でもってしなやかな首筋を強調する。背中には小さな黒い羽がちんまりと収まり、ファーで縁取られた裾から伸びる脚はガーターベルトでとめられた黒い編タイツに包まれており、ショート丈の艶だしブーツに足をおさめれば、神様も籠絡できそうな小悪魔ちゃんの出来上がりである。

 ちなみに、服を着込む際にパットのたくさん入ったアンダーを渡されたのだが、殆どのパットは抜いてしまった。

『コンラッド…見たら怒るかなぁ?』

 背後に何かを背負いつつ、凄絶な笑顔を浮かべて迫ってきそうな気がする…。

 しかし、ここまで来ては人助けと割り切ってしまう他ないだろう。約束通り、ちょっと見ただけでは渋谷有利だとは見抜かれそうにないし、声を出す機会もないそうだし。

 どんよりしつつも羽村に手を引かれてセット入りすると、エロ可愛い天使と悪魔にどよっと会場がざわめいた。

「おぉ〜君が春日野の言ってた子?すまなかったねぇ、無理言って。でも、やって貰えて助かったよ。やって貰うこと自体はそんなに無いんだけど、セットやタイトル画に組み込んじゃってから、天使だけじゃ収まりが悪くなるところだったんだよ」

 人の良さそうな顔立ちの中年男は、このテレビ局の《顔》として知られるアナウンサーの加藤で、この番組のMCをつとめる人物である。この番組…というのは、先程メイクがてら話して貰ったのだが、地方局としては結構力を入れた特別番組で、バレンタインデーの夜に放送予定の2時間枠バラエティーである。全国ネットでも顔を知られた男女半々のタレントが数多く呼ばれており、彼らがミニゲームやクイズ、トークに興じる様子がメインなのだが、その際にマスコット的な役割を果たすのが羽村と有利らしい。

 《天使と悪魔の采配》というコーナーでゲストがスイッチを押すと、天使か悪魔のボードが光る。すると二人がそれぞれ籠を運び、その中に仕込まれた道具でゲストがMCの出す《指令》に従う…という形式なのだそうだ。

「はぁ…あの……俺、こういうの全然やったことないし、返って迷惑掛けると思うんですけど…春日野さんにはお世話になってるんで、一生懸命やりますから変な事してたら教えて下さい」 
「ああ、勿論!スタッフもみんなでフォローしてくれるから、リラックスしてやってね」

 にっこり笑顔で有利を励ました加藤だったが、羽村に声を掛けられた有利が離れていくと、とってつけたような表情を張り付かせたまま春日野の肩を引き寄せた。

「春日野…あれ……本当に男の子か?無茶苦茶可愛いじゃないかっ!不安げな眼差しで見上げられたときには、危うく危険な道に踏み込むところだったぞっ!?」
「えぇ…何と言いましょうか…ちょっと前までは普通に元気で可愛い野球小僧君だったんですが、最近危険なくらい可愛くて…俺もちょっとヤバかったです」
「うーん…ああいう子がいるんだねぇ…」
「くれぐれもゲストに変なコナ掛けられないように気を付けて下さいね?」 
「そうだなぁ…今回かなり予算を奮発してゲスト呼んだのは良いけど、手の早い人達もいるしなぁ。手を出しといて男の子だって分かったら逆に文句言われそうだしな…気を付けておくよ」

 何しろ加藤も局の中では顔役とはいえ、全国区レベルのゲストに対しては下手に出ざるを得ない部分もあるので、その点不安な面があるが…タレント契約もしていない一般の男子高校生に無理を言って仕事を頼んだのだ。何かあったら大事だ。

 そんなスタッフの不安をよそに、番組収録の方は順調に進んでいった。ゲストタレントのトークに加藤は絶妙なタイミングで突っ込みを入れ、《天使と悪魔の采配》でも可憐な二人のマスコットが対照的なビジュアルで存在感を放ち、ファインダー越しの映像に各カメラの担当者からも小さな吐息が漏れていた。

『あの子ら凄ぇ可愛いなぁ……』
『俺、悪魔の子が超好みっ!』
『色っぽいのに、ちょっと不安そうな顔するときがあって、それがめちゃめちゃ保護欲そそるのっ!』

 有利が女の子だと信じて疑わないのだろう…スタッフが囁き交わす声に、春日野は生きた心地がしなかった。有利に万が一の事でもあったら、彼は妙に底知れぬ物を伺わせる自チームのマネージャーと、有利の《名付け親》である青年にどんな目に遭わされるか分かったものではないことを、今更ながらに思い出していたのである。

『こ…このまま無事に終わってくれ……』

 春日野は天に祈った。…が、天の方は浄土真宗の檀徒である彼の願いをサクッと無視してくれたようだ。有利は事も在ろう事に、収録の最中にタレントに絡まれてしまった。

「ねぇねぇ加藤ちゃん。この子お持ち帰りしても良い?」
「良いわけナイでしょ!」

 突っ込む加藤の笑顔が心なしか引きつっている。

 それもその筈、数々の異種格闘技大会で優勝を浚っている野生派タレントの城島健児が、指令の籠を運んできた有利を抱き竦めてしまったのだ。

 有利は何とか振りほどこうと藻掻くのだが、その様子がまた城島の嗜虐心をそそってしまったようで、にやにやと笑いながら有利をお姫様抱っこしてしまう。顔半分にドラゴンのタトゥーを入れた城島は、短く刈り込んだ金髪と精悍な顔立ち、引き締まった185pの長身の青年で、有利がどんなに藻掻いても、余裕の笑みを崩さない。

「ちょっ…や、止めて下さいっ!」

『俺、男なんですっ!』

 耳元で懸命に囁くが、実際の所…現在の身体は立派な女性体な訳だから、聞いて貰える筈がない。

『素敵な嘘つくねぇ…こんな良い尻した男がいるなら、構わないから犯っちゃいたいよ』

 そう言ってつるりと尻を撫で上げられて全身に鳥肌を立ててしまう。

「城島さんったら赤裸々スケベなんだから!いい加減にしないと通報しますよ?」

 冗談めかして加藤がハリセンで突っ込むと、城島はにやにやしながらやっと有利を地上に戻した。しかし、彼の《やる気》はまだまだ失せていないようだ。

「じゃあさ…此処にいる安良田の奴とファイトやって、ギブとれたらこの子のデート権貰うってのは?」
「いや、そういうのゲームの中に入ってないんで…」
「良いじゃねぇか加藤さん、俺とこいつのファイトだよ?」

『結構良い数字とれるんじゃない?』

 城島と一、二を争うファイターである安良田の言葉にぐっと息を呑む加藤だった。確かに、一格闘ファンの加藤としても、目の前でそんなシーンを見てみたいという気持ちはあるし、この番組のMCとして《美味しさ》を感じないわけはない。しかし…上目遣いに、じぃ…と自分を見つめる有利の不安そうな眼差しを感じると、あたふたと我に返った。

「いや…そう言うわけにはいきませんっ…」

 しかし、二人のファイターは加藤の一瞬の沈黙につけ込み、直ぐに組手の間合いに入ってしまう。

「ちょ…」

 しかし二人の拳が交わされようとしたその時、軽やかなステップで割り込んできた男がいた。  

 鮮やかなオレンジ髪のその男は、名だたるファイターの拳を事も無げに両手で受け止めると、何をどうやったのか…手首の一閃でくるりと二人の身体を宙に舞わせた。

「グ…」

 意外な人物の出現に、唯一の知り合いである有利までが息を呑んでぱくぱくと口を開閉してしまう。








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