虹越え3−7−2







『そうだ…ヨザックは?』

 眞魔国お庭番にして、フォンヴォルテール卿グウェンダルの直属の部下グリエ・ヨザック…彼とコンラートとは幼馴染であり、激戦を背中を預ける近しさで生き抜いてきた親友だと聞いている。実際、彼と居るときのコンラートは常の4割り増し程度口が悪いが、その分とてもリラックスしているように感じた。

 コンラートは他の者に比べれば有利に懐を見せている方だとしても、その内容は極めて選択的なものだと思う。多分…彼は、彼が見せたいと思う綺麗な面だけを有利に見せようとしているのではないだろうか。自分の中の汚いものや下世話なものは極力見せないようにしている気がする。

 しかし、ヨザックに対してはそういった作為を一切必要としない間柄なのか、砕けた話しぶりできつい言い回しも平気でする。

 ヨザックにしても同様で、仕事上の話をするときには殊更丁寧な口調を用いることもあるが、そんなときでも瞳の中には何処か悪戯っぽい色を含んでいるし、言っている内容に遠慮はない。

『俺にも結構キツかったもんな…』

 出会った最初の頃には彼の中に《王》というものに対しての先入観もあり、有利を端っから《お人形》と見なして軽視していた向きはあったが、気心が知れて…こちらの勘違いでなければ、ある程度認めて貰うようになってからの率直な物言いは、時としてとても新鮮に感じた。

 ヨザックはコンラートよりも有利に生の感覚を体験させようとする。

 それが残酷であったり不条理に見えたとしても、現実そこにあるそのままの姿を見せ、そして有利がどう考えるかを観察するのだった。

『そうだ!ヨザックに聞いてみようっ!』

 思い立ったが吉日と、多めに作った珈琲をマグカップに注いでいく。

「どーぞ、コンラッド。ブラックで良かったよね?」
「ああ…ありがとうユーリ……」

 にっこり笑顔で差し出された珈琲に礼の言葉で返したものの、コンラートの視線は物言いたげにトレイの上に向けられる。そこには、まだ2杯の珈琲が載せられており、砂糖壺とミルクピッチャーも載せられていて、しかも有利はそのままどこかへ行こうとしているように見える。

「その珈琲は…ヨザにですか?」
「うん」
「2杯も?……」
「俺も一緒に飲もうと思って」
「…………………………俺は?」
「え?」

 捨てられた大犬(子犬とは言い難いところがミソだ)の様な風情で打ちひしがれるコンラートに、一瞬絶句してしまう。

『あれ?…あれ?さ、寂しいのかな?』

「え…えと、じゃあ…ヨザック呼んできて此処でみんなで飲む?でも…あの……俺、その後で良いんだけど、ヨザックと二人きりで話したいことがあるんだけど……」

 慌てて再提案してみるが、馬鹿正直に《内緒話をしますよ》と言わんばかりの発言をしてしまったために、コンラートの機嫌は地べたを這いずるほどに急落してしまう。

「ヨザと二人きりで…?俺は……お邪魔ですか?鬱陶しいですか?重いですか?」
「ええと…」 

 そんなに重ねて発言されると…確かに重圧感を感じなくもないが………。
 有利は嫌な汗を背筋に感じながら懸命に言い訳を考えるが、根が正直すぎるのか喋るたびに襤褸が出てしまう。

「あのね?コンラッドが邪魔だなんて全然思ってないよ!ただ、俺…いま悩み事があるんだけど、それってちょっとヨザックじゃないと話し難いっつーか…コンラッドには聞かれたくないっつーか………」
「俺には話せない話をヨザと二人きりでするんですか………」

 痛切に歪められた瞳に、思わず懸案事項を放り出して絆されそうになるのを今一歩のところで踏みとどまる。

「え…えっとね?凄っげぇ恰好悪い話なのっ!俺って今こんな身体だろ?だから女心の先輩であるヨザック…つか、グリ江ちゃんに師事を仰ぎたいわけよっ!コンラッドは女心とか女体の神秘とか分かんないだろ?」

 女体の神秘まではヨザックも無理だと思うが…。

「…そうですか。そういうことなら…仕方ないですね」

 納得したわけではないのだろうが、あまりに有利が必死で主張するものだから、コンラートは寂しそうな笑みを浮かべつつも有利を送り出してくれた。

「折角煎れて下さった珈琲が冷めてはいけませんし…持っていってやって下さい。悩み事も…解消できると良いですね」
「うん…うん!あの、俺…悩み事うち明けたら直ぐに戻ってくるからっ!待っててね?」
「ええ…待ってます」

 そう言ってそっとマグカップに唇付けるコンラートの表情が、どこか《忠犬》めいて見えたのが心苦しいのと可笑しいのとで…何だか微妙だった。



*  *  *




『ぼっちゃん…あんたは覚えているかなぁ?』

 縋り付いてきた腕が震えていたこと。
 包帯を越えて沁みてきたあの熱い涙…。
 水滴を纏い、震える長い睫毛…
 堪えきれずに漏れ出る嗚咽と啜り泣きが…

 狂おしいほどにこの胸を締め付けたことを、ヨザックは生涯忘れないと思う。

 

 不穏な動きを見せている貴族の調査という、こなれた筈の任務を遂行していたヨザックは、確固たる証拠を掴むことに成功したものの、その過程で脇腹を抉られる負傷を負った。しかも牙に毒を持つ獣に食い破られた腹からは腐臭が漂い、幾重にも巻いた包帯からも染み出す膿汁で悲惨な有様を呈していた。跡をつけられずにフォンヴォルテール領にはいれたのはいっそ奇跡と呼ぶほかない。

 グウェンダルはすぐさま有能な治癒者を呼んだが、ヨザック自身は自分というものに大方見切りを付けていた。

 だから微かな意識が残る内にと…懐に大切にしまっていたものをグウェンダルに差し出した。

 しかしグウェンダルは首を振り、差し出された黒曜石の粒を押し返したのだった。

『それはお前が《アレ》に委ねられたものだろう…心残りを俺に押しつけて楽になろうなどと甘えたことを考えるものではない…お前はまだまだこの国のために成すべきことがある筈だ』

 眉間の皺を一層深めて諭す男が、その時は恨めしかった。
 何故楽にしてくれないのか…。
 肉を腐らせ、神経に取り憑いて知覚を嬲る毒に侵されたこの身体で、国のために何を成せと?

 自分を高く評価してくれるグウェンダルに対して、常ではない精神状態では怒りと絶望しか感じることが出来なかった。

 その時…扉を叩き壊しそうな勢いで飛び込んできた黒い塊……。

『陛…下?』

 どろりと濁った目にさえ…その時視界に焼き付けられた映像はあまりに鮮明で…美しくて…瞬間、ヨザックは毒の苦しみを忘れた。



 双黒の美貌の王が、泣いていた。



 零れ落ちそうな大きな黒玉の瞳からは幾筋もの涙の跡が見られ、未だ眦に溜められた雫が陽光を受けてきらきらと輝いていた。その瞳がヨザックの無惨な姿を映すなり痛ましげに顰められ、旅装のまま息も整わず…足下もふらついている風なのに、全速力で駆け寄ると、チアノーゼを起こして薄青く強ばった手をとり…すべやかな頬を押しつけてきた。

 おそらく、白鳩便で届けられたグウェンダルの知らせを見るなり、駆け通しに駆けてきたのだろう。目の下の隈が疲労と焦燥とを物語っていた…が、その窶れた姿さえ王の鮮姿を霞ませることはない。

『死なないで…絶対……絶対死なないで……っ!』

 滴る涙と頬の熱さだけが、冷え切った皮膚に感じられる唯一の温もりのような気がした。

『どう…でしょう?すみません…陛下、どーもあまりお役に立てないまま、俺はどーにかなっちゃいそうです……』
『馬鹿言うなっ!』

 腹の底から噴き出すような激怒をのせて、眦を釣り上げた王が叫ぶ。

『役に立つとか立たないとか…そんなのどーだっていいよっ!俺はっ!ヨザックに生きてて欲しいのっ!』



 あんなにも純粋に。
 あんなにも真っ直ぐに…。
 俺は愛情を向けられたことがなかったから…



 柄にもなく戸惑ってしまって、余計なことを言った。

『坊ちゃんは本当にお優しい…けど、唯の一兵卒の負傷でそんなに泣いておいででは、折角の黒曜石の瞳が溶けて流れてしまいますよ?』
『自分のこと一兵卒とか言うなっ!その前にあんたは一人の魔族だろ!?そんでもって、俺の大事な友達だっ!その人のために泣いちゃ悪いかよっ!そのせいで目が溶けちゃうならしょうがないじゃんか!』

 ぼろぼろと宝玉のような雫を滴らせながら、次第に声からは怒気が消え…啜り泣きにかわっていく。

『生きててよぅ……ヨザック……生きててよぅ…っ!』



 胸が、熱かった。



 抉られた腹よりも熱い何かが胸の奥で燃え立ち…四肢に力が蘇ってくるのが分かった。

 子供のようにしゃくり上げる主が愛おしくて…彼の涙を止めてあげたいのに…それでいて、自分のために零される涙そのものが愛おしくてならなかった。

『あなたのために…生きて良いですか?』

 口には出さなかった。
 だが、あの時確かに誓ったのだ。
 この小さな主を、生涯お護りしようと。



 こんこん……



 控えめなノックの音に覚醒を促されたことで、自分がうたた寝していたことに気付く。
 どうやら十分な睡眠と食事を採ったことで身体は完全に復調したらしく、もう布団への心残りもなかった。

「はいよ」

 扉を開けてやれば気配通り、小さく愛らしい少年(今は身体だけは少女か?)が、はにかむような笑顔を浮かべて、見慣れない液体をトレイに載せて佇んでいた。

「あ、起きてた?あのさ…珈琲飲む?」
「こーひー…ですか?ご相伴に預かってもよろしいですかね?」

 さり気なくトレイを引き取るその動作に、有利がくすりと笑う。

「…?なにか?」

 ヨザックが小首を傾げると、有利はなおもくすくすと軽やかな笑い声を上げている。

「ぇへへ…ごめん。何かさ、ヨザックってコンラッドのこと過保護って良く笑うケド、あんたも相当なもんだよ?こんなトレイみたいなもんまで無意識に俺から取り上げようとするんだもん!どんだけ重いってこともないのにさ」

 白い蕾がほわりと綻ぶようなその笑みに、ヨザックの瞳が細められる。

「ヤダわぁ…グリ江ってば忠義者だから、ついつい坊ちゃんの世話を焼いちゃうのよ」

 腰をくねらせて人差し指を顎にあてがいトレイをウェイトレス持ちすると、有利は如何にも楽しそうにけたけた笑う。そういう笑い方をすると、今度は日向のタンポポのような風情になる。

「やっぱグリ江ちゃんだぁ…全っ然、変わってないやっ!」
「そりゃあそうよぅ…グリ江の乙女心と坊ちゃんへの愛だけは永遠に変わらないんだから!」

 愛の戦士よろしくポーズを決めてみせれば、腹を捩らんばかりにして有利は笑い転げる。余程ツボに填ったらしい。

 にしゃりと笑うヨザックは、トレイをサイドテーブルに置くとしゃがみ込んで笑っている有利の傍らに寄り添った。

「本当にお懐かしいわぁ…坊ちゃん。でも、昨日はグリ江ったら疲れちゃってすぐに寝ちゃったデショ?だからしみじみと坊ちゃんに会えた喜びに浸れなくて寂しかったわっ!隊長ったら自分がラブラブモード楽しみたいからってグリ江を部屋に閉じこめちゃうんだもーん」
「ご…御免ねグリ江ちゃん!」
「あらぁ、坊ちゃんは謝らなくていいのよぉ?だって鍵が掛かってないと、安心してあんなコトやこんなコトできないもんね?グリ江は乙女の味方だから、その辺の機微はバッチリお見通しよ?隊長ったら凝り性だから、エッチは身も世もないくらい感じるまで徹底的に感じさせられちゃうんでしょ?」
「や…やっぱ凄いやグリ江ちゃん!」

 両手を胸の前で組み、瞳を輝かせながら感嘆の吐息を漏らす有利に心中で苦笑する。

『なんちゅーか…撫で転がしたいくらい可愛いなぁ、このお人は…』

「そうよ、グリ江は乙女の味方だって言ったでしょ?だから、彼氏には直接言えない悩み事も言っちゃって良いのよ?」

 ばつんっと音がしそうなウインクをかまして可愛い子ポーズをとる姿をコンラートが見たら、短刀の一本も投げて寄越したかもしれないが、有利の目には極めて輝かしく頼もしいものに映った。それは、見せつけられるように誇示される上腕二頭筋の為だけではないと思う。

「いい?俺も…実はグリ江ちゃんに聞いて欲しいことがあってきたんだっ!」
「はっはぁん…隊長のコトね?」
「う…うん。あのさ…コンラッドって…グリ江ちゃんと凄く仲良いよね?」
「……ぅーん……グリ江、その表現については素直に頷いてあげることが出来ないんだけど、少なくとも気心が知れてるのは確かよ?」
「じゃあさ…コンラッドって、グリ江ちゃんには自分の急所でも触らしてくれる?」
「急所?例えば?」

 具体的な箇所を問われるとは思っても見なかった有利は、言葉に詰まってもごもごと口ごもる。その様子にヨザックは《ふふん》とでも言いたげに悪戯っぽく瞳を細めた。

「やーだ、ぼっちゃんたら!結構アダルティックなことしてんのね?そーね…取り敢えず、グリ江はあいつのチンポなんて触ったことも舐めたこともなくってよ?」
「い…いや、そこじゃなくても…そう、この辺とかっ!」

 有利はシャツの第1釦を外すと、襟元をはだけて自分の首筋を露わにしてヨザックに示した。

「…そこ?」

 気取られぬようにこくりと喉を鳴らすと、ヨザックは長く節くれ立った指を首筋にそっと沿わした。素肌に触れる感触がくすぐったいのか、有利は軽く頚を竦めて猫のように震えたが、特に抵抗する様子はない。

『信頼してくれてんなぁ…』

 苦笑混じりにするりと側頚部をなぞれば、指の腹に触れる滑らかな肌がすべやかな感触を伝えてくる。ついついじっくりと味わいたくなるその場所を、釦を留めてやることで元に戻してやる。

「んー…頼めば触らせてはくれるでしょうけど、日常生活の中で無意識に晒すっていうのだけは…難しいでしょうね。あいつは常に隙を見せることの出来ない状況下で生きてきましたから」
「…え?でも、20年前の戦争が終わってからは、そんなに大規模な争いは起こってないって…」
「他国との争いはね。何時の世も…水面下の、厭らしい闘いは寧ろ宮廷内で行われるもんなんですよ」

 お調子者の仮面の下から、猛禽類の性質を覗かせる険しい光が蒼瞳を掠めていく。

 ヨザックの様子に、有利にも閃くものがあった。

『そういえば…ツェリ様も言ってたっけ……』

 コンラートは人間と魔族の混血というだけではなく、魔王の息子という難しい立場にいた。

『穢れた血は王の息子に相応しくない』

 そんな誹謗中傷も日常茶飯事で、極端な純血主義者に命を狙われたことも再三だという。 命を狙われる者が危険に曝される状況には幾つかあるが、その一つに寝所…ことに閨房での行為が含められるのではないだろうか。相手を油断させる絶好の機であると同時に、自分が寝首を掻かれる危険性も最も高い…。そんな状況下で自分の急所…頚動脈や陰部を相手に曝すなど…ましてや意識を手放すなど、コンラートにとっては危険きわまりない行為であったに違いない。

 相手に触るのが好きなのは、先天的な気質であると同時に…相手の知覚を掌握し、コントロールするためなのではないか。

 ある一線以上触れられるのを嫌うのは、後天的に学習された命を保全するための習慣なのではないか…。

「…無意識に、庇っちゃうんだ。致命傷になるかもしれない場所を……」
「坊ちゃんに対してもそうなんだとしたら、あいつをどう思います?」
「…え?」

 意味深な問いかけに視線を上げると、薄く眇められた蒼瞳が試すような色を含んで有利を見下ろしていた。

「設定したラインからは踏み込ませない男を…警戒を解かない男を、恋人として認められる?」

 問いかけの意味を理解はしても、暫く答えを返すことが出来なかった。
 図星を指されていたから…というわけではないと思う。

「答えは…あなたの中に必ずある。よく考えて…」

 囁く声に促されて、有利は懸命に思考を続けた。 

 どれほどの時間そうしていたのか…数分だったのか、あるいは数十分だったのか、後になって考えてみてもその辺ははっきりしない。ただ、その時間が経過した後、胸に残っていた結論はすっぽりと心に落ち着いていた。

「俺、平気じゃないと思う。でも、あいつのそういうところも含めて好きなんだと思うから…時間を掛けて俺に慣れて貰おうと思う」

 彼の《警戒》は長年培われた習慣…それも、身を守るために他人を疑わざるを得なかった状況が育んだ性質なのだ。

 言ってみれば、《免疫過剰》のようなものだ。自分を害する抗原に対して抗体を作る仕組み…《免疫》は、身を守るためになくてはならないものだが、それが自分を害するわけではない花粉や食品に対してまで過剰に働いたものが《アレルギー》なのだ…と、花粉症の勝利が言っていた。こういったアレルギー治療の一種に《減感作療法》というのがあるらしい。つまり、少しずつアレルゲン(アレルギーを引き起こす原因物質)に触れて慣らしていき、最終的にはその物質に対して生体の免疫系が慣れ、免疫寛容を起こすまで続ける方法なのだそうだ。かなり…気長な治療が必要となるらしい。

「夫婦だって恋人だってそうだよな…時間を掛けて馴染んでいくもんだよな」

 その答えが合っていたのかどうかは分からないか、見上げたヨザックの瞳は柔らかい色を湛えていた。

「俺はどんだけコンラッドが油断してても大丈夫なんだよって…無意識の状態でも認識できるくらいに…なれたらいいな」
「なれますよ…坊ちゃんはそういうお人だもの。なんせ、この俺を手懐けちゃう位ですからね」
「グリ江ちゃんを手懐ける?畏れ多いなそりゃ」
「あらぁ、本気にしてくれないの?グリ江ってば坊ちゃん一筋なのにっ!」

 しなを作れば有利はけらけらと楽しそうに笑った。そして、ひとしきり笑った後には清爽とした瞳でヨザックを見上げると、感謝の意を込めてこくりと一礼した。

「ありがとうね。グリ江ちゃんに話して良かった…俺、何かすっきりしたよ」
「いいえ、俺なんかで良かったら何時でも話し相手にして下さいよぉ」

 にっこり微笑むヨザックを置いて、有利が部屋を出ていく。

 残された男の笑顔は、扉が閉まると同時にその色彩を変化させた。

 その表情は…痛みを伴う安堵感とでも言えばいいのか…そんな複雑な色合いを帯びて男の面を彩っていた。

「ま…こういう形だよな。俺が坊ちゃんにしてあげられるのはさ…」

 ウェラー卿コンラートが渋谷有利の恋人としての地位を得る変わりに、失ったポジションに就くこと。

 それが、グリエ・ヨザックの願いだった。 

 そのポジションとは、《何でも話せて、しかも性的な欲望を自分に対して持たない男》。

「俺らしくないっちゃあないけどさ…。必要とされてるってのは間違いないし」

 有利の笑顔が見られるのなら《らしさ》などには構っていられない…幼馴染のことを笑えないほど黒髪の魔王に魅了された男は、自分自身に対して微苦笑を向けるのだった。



*  *  *




 居間に戻ってくると、コンラートは何時も通りの笑顔で迎えてくれた。

 しかしその瞳に過ぎるものに気付けるくらいには、彼に対して聡くなったと有利は思う。
 おそらく、ヨザックに何を相談しにいったのか…彼は自分で思っている以上に気にしているのだと思う。

「コンラッド…あのな?」
「なんです?ユーリ」

 毛足の長いラグの上に直接座り、向かい合う形でローテーブルの上に肘をつく。交わされる視線は暖かいが、何処か遠慮を含んでぎこちないようにも思われた。

「俺…あんたに触られるの好きだよ。とんでもないところ触られたり舐められたりして恥ずかしかったり、戸惑ったりはするけど…でも、好き」
「ユーリ?」
「だから…コンラッドも、ちょっとずつで良いから俺に慣れてね?」

 思わぬ恋人の言葉にコンラートは息を呑み、彼としては分かりやす過ぎるほどに《困惑》を表出してみせた。それほど意外な言葉だったに違いない。

「俺があなたに慣れる…?何を仰ってるんですか?」
「やっぱ自覚はないんだ…しょうがないよね、半分、本能みたいになってんだろうし…」
「ユーリ…?」

 困惑しきったコンラートは、寂しげに微笑する恋人の手を両手で包み込んだ。

「俺は…何かあなたの気に障るようなことをしたでしょうか?だからヨザに相談を?」
「うーん…したと言えばしたことになるのかな?確かに、そのせいでグリ江ちゃんに相談もしたんだけど…」
「俺は…何をしました?どうか教えて下さい…」
「コンラッド、一定のエリア以上俺が唇付けようとすると必ず止めるんだろ?それが最初どうしてだか分かんなくて…寂しかった」
「…それは……」
「首筋とか…さ」
「それは…ただ苦手なだけで、あなたに慣れてないとか拒絶しているとかそう言うわけでは……」
「苦手なのは、そこが急所だからだろ?不意打ちで噛みつかれたりしたら危ないもんね」
「…!ユーリ、俺は……っ!」
「違う?多分、コンラッドだってそういうふうに考えてそうしてる訳じゃないとは思うけど…単に他人に触られるのが嫌いな人だったら、もっと他の場所だって嫌がる筈だよ?コンラッドは、自分に主導権がある範囲では触られるのも好きだろ?」 

 胸に頬を擦りよせたり、手を背中に回して抱き寄せるのは好き…でも、手の中に何もないことが分かっていない状態なら、後者は許容しないはずだ。

「俺は…あなたを警戒しているわけではありませんっ!」

 誰よりも愛おしい…そして誰よりも信頼している人に、命を狙われるなどと考えたこともない。だが…有利の指摘はまざまざと自分の行動を裏付けしており、コンラート本人よりも正確にその行動原理を見抜いているかのようであった。

「当たり前だろ?そんなことまで疑われてたらこんな関係やってられるかよ。だから俺、慣れてねって言ったんだ。あんたのそういう行動は俺を警戒してるというより、もう習性になっちゃってるんだと思うからさ…だから、ゆっくりやっていこうね俺達……」

 そう言って静かに微笑む有利が、急に大人びて見えた。

 以前なら、コンラートに信頼されていないのかもしれないなどという疑いを抱けば、泣いて暴れて責めただろうに…今の彼はしなやかな麦の穂のように心の嵐に耐え、《待つ》と…そう言ってくれるのだった。



 胸が、熱い…。



 唯もうひたすらに可愛くて…ふかふかのクッションに乗せて冷たい風にも当てず、抱きしめて嘗め回したいと思っていた小さな恋人は、3桁近い年の差をものともせず…寄り添って共に生きていたいと思わせる、静謐な靱さを芯に持っていたのだった。



*  *  *




 コンラートの手配で、数日後に来日したロドリゲスがヨザックに日本語、英語を中心とした言語・常識ツールを擦り込み、身分証明書などを偽造すると、ヨザックはコンラートと有利の住居からほど近い…というよりも、同じマンション内の一室を借りて住まうこととなった。

「俺達の部屋に比べたら小ぶりな部屋だけど…家賃大丈夫?このマンションって結構するらしいよ?」

 心配する有利だったがその辺の算段はついているらしく、ヨザックとコンラートは小さく頷きを交わしていた。

「大丈夫ですよぅ坊ちゃん。こっちの魔王陛下の裁量で良い就職口も宛って貰ったし、敷金礼金なんかは隊長が払ってくれましたから」
「そうなんだ。そういえば、コンラッドはこっちに来るときにも金塊とか結構持ってきてたもんね」
「ええ…」

 やんわりと有利に微笑みつつ、ヨザックを威嚇するという器用な(?)動作を展開するコンラートに、ヨザックは苦笑を寄越す。

『分かってますってぇ…近場に住まわせて頂く代わりに、あんたの目が届かない所での陛下の警護は任せて下さいよ』
『それだけじゃない…有利に手を出せばどういう目に遭うか分かっているんだろうな?』
『はいはい…了承してますって、隊長……』

 声を出さずに目配せと口の動きで意志疎通を行う二人であった。

 なお、ヨザックが宛われた仕事先が有利の通う高校の調理師という職であることは、その日の昼食時に食堂で日替わり定食を受け渡される時点まで有利には知らされておらず、目と目が合った途端に奇声を発してしまったのだった。

 




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