虹越え3−5−2 マンションに帰るとヨザックをコンラッドのベットに寝かせて傷の手当を行ったが、致命打になるようなものは見受けられなかった。屈強な彼が意識を失っているのは傷のためというよりも著しく体力だか精神力だかを消耗しているためらしかった。 何やら時々魘されるので、耳を澄まして声を聞いてみたところ…。 『も…もう駄目です』 『アニシナちゃん…勘弁して下さい……』 不吉な人名を含むその発言に、コンラートはうっすらと事情を察して流石に幼馴染に同情した。どうやら、赤い悪魔の実験に巻き込まれたらしい…。 見れば、腕にはコンラートが身につけていたのとよく似たデザインの銀細工の腕輪が填められ、そこには赤い魔石が光っていた。どうやら、彼も誰か強力な術者の魔石を身につけて此処までやってきたらしい。 「くわっ!?」 アヒル隊長も吃驚な声で覚醒したヨザックは、ベットのスプリングを軋ませんばかりに身を捩った。 「ヨザック!気が付いた?」 「…坊ちゃん?」 身を乗り出してくる有利の姿を目に留めるや、恐怖に引きつっていた顔がふわ…っと綻んだものだから、意想外に幼いようなその表情を目の当たりにしてきょとんと驚いてしまう。 大ぶりの精悍な顔立ちには何処か愛嬌があり、くっきりとした二重瞼が和やかに伏せられ、明るい柑橘色の睫毛から覗く印象的な蒼瞳が、深い感慨を込めて有利を見つめていた。 「いやぁ…俺は、本当に《チキュー》とやらに来れたんですね?」 『信じられねぇ…』 呟いたその言葉がこの場所に来れたからなのか、移送実験を執り行った人物に対しての感想が含まれているのかは判然とし難いところであった。 「…何やら大変な冒険をしてきたらしいな…」 苦笑して胸板に拳を軽く当ててくる友人の姿を認めると、ヨザックはまた安堵したように破顔した。 「あんたも無事だったか!あれから音沙汰ないから郷里の連中はみんな心配してたんだぜ?」 「俺が旅立ってから、眞魔国ではどのくらい時間が経過しているんだ?…その間に、何か変事でも起こったのか?」 「1年ちょいってトコだな。んで、あんたの身内や眞魔国の情勢自体は平穏至極だよ」 「では何故お前がここに来たんだ?」 「何だよつれないねぇ…俺が来ちゃなんかマズイわけ?グリ江哀しい…」 「しなを作るな気色悪い。用がないならとっとと帰れ」 「本気でひでぇ…」 《しっしっ》っと犬でも払うような仕草をされて、ヨザックは何処から取り出したのか、レースのハンカチをくわえて引き絞る。 「お前が用事もなしに動くはずがないだろうが?さっさと用件を伝えろ」 「へぇへ…お見通しでやんすか…」 ししし…っと噛み合わされた歯列は犬歯が大きいのが如何にも獣っぽく、彼らしかった。細められる蒼瞳も悪戯っぽい光を帯びて、コンラートと気心の知れた雰囲気を醸し出している。 巫山戯たり少々酷い物言いをしても、心底の深意は必ず伝わっている…そんな信頼感が垣間見えて…有利としてはちょっと複雑な心境である。 『ちょっと羨ましい…かも』 コンラートは《恋人》というカテゴリーに分類されるようになったとはいえ、有利に対してはやはり臣下の礼をとってしまう部分があり、それが少々二人の間柄の溝のように感じるときもあるのだ。 「実はね、書状を届けてくれって頼まれたんですよ」 「書状だと?」 「フォンビーレフェルト卿から、坊ちゃん宛にね」 「ヴォルフから!?」 あまりにもタイムリーな人名に心臓が弾みすぎて、胸郭から逸脱しそうになる。 何があっても届けられるよう留意したのか、ヨザックは肌の一部に見える腹部の皮をぺりぺりと剥ぐと(そこは人造皮膚であったらしい)、中から丁寧にくるまれた油紙包みが出てきた。それを更に剥げば…見覚えのある紋章で臈纈留めされた…鮮やかなアイボリーの封書が現れる。 渡されたそれを中に何が書かれているのか想像も付かないまま開けてみれば、一枚目に現れたのは… 婚約破棄の、書状であった。 「…え?」 「本当は、隊長が旅立つときに渡すつもりだったらしいんですけど、決心がつかなかったそうで…それをずっと悔いておいででした」 2枚目以降に目を通せば、その書状をしたためるに至ったヴォルフラムの心情の経過が、彼らしい文体で…懐かしい、右上に跳ね上がるような勢いのある文筆で…丁寧に書き込まれていた。 そもそもの婚約騒動が有利の物知らず故の《事故》であったことなど、重々承知していたこと。 有利と友人として親しくなればなるほど、婚約者として付き合う気持ちが無いことを再確認して辛かったこと。 そして…コンラートが有利の後を追うべく5年掛かりで準備を進めて、実現に漕ぎ着けたと知ったとき…その間自分が有利を失ったことに傷つき嘆きはしても、コンラートのようには行動できなかった事に対して感じた憤りと、後悔。 その時、《負けた》と感じたのだと…。 潔く婚約破棄の手続きをとり、それをコンラートにも伝えるつもりでいたが、躊躇している間にアニシナに捕まり、《時空の彼方に飛んでっちゃえっ!でも行き先は風だけが知っているドキドキワクワクロケット団RS》への魔力供給源として装置に繋がれてしまったこと…。 『ユーリ、お前は自由だ。だが、忘れるな。婚約者という立場でなくなっても、僕は常にお前を大切に想っている。お前が誰と結ばれようとも、その想いが揺らぐことはない。僕の忠誠と友情が永遠にお前の上に在ることを、決して忘れるな』 声となって聞こえてきそうな…その不器用で果断な言い回し…。 有利は眦に込み上げてくる涙を袖口で擦ろうとして、コンラートが脇から差し出してきたタオルに阻まれる。 「あんたの弟って、やっぱいい奴だよな…」 「自慢の弟です…今も昔も…」 タオルを受け取りながら言えば、誇らしげな声で返される。 「ヨザックもありがとうな…この手紙を届けるためにナントカロケットに乗り込んでくれたの?」 「いえいえ…坊ちゃんのためならえんやこらデスよ。ただねぇ、坊ちゃん…さっきから気になってしょうがないんですけど…坊ちゃん、なんか……こう………えらく《きゅるん》としてる気がするんですが…気のせいですか?」 涙を滲ませた黒瞳の煌めきは以前とそう変わらない気がするが、心なしか睫毛の密度と長さが増量され、唇はぷっくりと膨らみ気味に…そしてなんと言っても、身体のラインが愛らしいウェーブを描いてはいないだろうか…? 「あー……気が付いた?」 「そりゃあねぇ…」 少々呆けたような表情をしていたヨザックは、コンラートが来てからの有利の激動の生活を説明され、ますます目を見開き口をぽかんと開けてしまった。 「口を閉じろみっともない」 「ほっといて下さいよ」 「しょうがないよ…だって、女の子の身体になっちゃうなんてさ…知ってる奴が急にそんなコトになったって知ったら普通はまず呆れるって。みっともないもんなぁ…」 しょぼんと有利が肩を竦めれば、コンラートの眼差しが押さえる気のない凍気を迸らせる。 「ユーリをみっともないなどと評価しようものなら、今すぐ斬り捨てますよ?」 「みっともないなんて全く、これっぽっちも思ってないから斬りかかんな隊長。つか、斬りつけてくれた方がマシってくらいの極寒の眼差し送んなっ!」 「みっともなくない?」 「当たり前でしょ?俺が呆れてんのは寧ろ隊長にですよ…」 「俺のどの点についてそのような論評を下すつもりだ?」 「………その、坊ちゃんにへばりつきながら幼馴染に冷たい物言いをするその大人げなさにですよ……」 「言うようになったものだな、ヨザ」 「だから剣を抜くなよっ!」 隊長と元部下の極めて大人げない言い合いは、有利が呆れて席を立つまで続けられた。 有利がヴォルフラムの手紙をじっくり読み返そうと部屋を出たのを確認すると、コンラートの眼差しが別の意味で冷えたものに変わる。 「…それで、お前の真の用件は何なんだ?」 「あらヤダ隊長。弟君の大切なお手紙を届けるのだって大切なお仕事でしょう?」 にやりと笑むヨザックの表情も、心なしか毒気を含んだ人の悪いものに変わる。 有利が見ていたなら、その表情が出会ったばかりの頃の彼を想起させることに驚いただろう。 「伝書鳩の代わりなどもののついでだろう?そんなことの為だけにお前が危険きわまりないアニシナの装置に身を委ねたりするものか」 「あれまぁ、流石にお見通しですか…」 くすくす嘲笑いながらベットの上に半裸の身体を横たえると、髪を掻き上げる手の影から眇めた蒼い目がコンラートを捉えた。 「何ね?見届けたくなっただけですよ」 「直接目の前で結論を見届けたいというのか?」 コンラートの口端に嘲るような色が浮かぶ。 「…お前は、もう少し賢い男だと思っていたがな」 「買い被りすぎですよ…たーいちょー…。俺って、結構諦めの悪い男なんですよ?」 「見ていれば分かったろう?ユーリは…既に俺のものだ」 「はっ!」 弾くような笑いに身を震わせ、引きつる傷の痛みに少々表情を歪める。 「見ていれば分かりますよ。あんた、坊ちゃんにまだちゃんと手出ししてないんでしょう?…直裁に言っちゃえば、あんたのイチモツを坊ちゃんに埋めるところ迄はいってない…違いますかね?」 「…っ!」 端正な顔を歪めて、コンラートは拳を強く握り込んだ。 相手がヨザックでなければ、それこそ斬りかかりかねない表情だ。 「眞魔国の社交界のみならず、国域を越えて色街にその名を知られた伊達男が…本気の相手にはその体たらくとはね…ま、相手があの天然坊ちゃんじゃ無理もないか」 「お前なら籠絡できるとでもいうつもりか?」 「いいやぁ…そんなつもりはないデスよ?俺なりにあの坊ちゃんには忠誠尽くしてますからね、籠絡なんてそんなそんな…」 「なら、どういうつもりだ?」 「本気で頂きに来たんですよ」 「…なんだと?」 巫山戯た表情を斬り剥ぎ、見開かれた蒼瞳は真摯な色を含んで真っ直ぐにコンラートに突きつけられる。何時も飄々としたスタンスを崩さないこの男の、意想外の《真剣》を突きつけられてコンラートは絶句した。 彼が有利のことを気に入っているのには気付いていた。 殊に自分が大シマロンに拠らざるを得なかったあの日々…苦悩する有利の脇にあって彼を支えていたヨザックが、特別なポジションにいたことも知っている。 だが…よもやここまで本気の想いを抱えていたとは…。 「正直、フォンビーレフェルトの坊やと同様、あんたがこのチキューってトコに辿り着くために魔石を集め始めたときには感心したさ。だから手伝いもしたし、あんたが旅立つのを見守りもした。だが、それであんたの友人としての責務は果たしたと思うね」 「…勝ち目があるとでも思っているのか?」 「正直ね、坊ちゃんの《一番大事な人》になる自信はないんですよ。そのポジションがあんたから動くってのは相当の事態でもない限り無い…なんせ、《裏切られた》《見捨てられた》と思ってる間でさえ、坊ちゃんはあんたを一番に思い続けてたんだから」 その様を、ヨザックはまさに身近で見守らなくてはならなかったのだ。 「では何故挑んでくる?」 「一番好きな奴が一番身近に居られるとは限らないからですよ、隊長」 「…どういうことだ?」 「そこまで教える義理はないねぇ…それでなくても不利な闘いなんだからさ」 元のにやにや笑いを取り戻すと、ヨザックは布団を引き上げて収まりの良い場所にもぞもぞと入り込む。 「さて…それじゃあちょいと休まして貰いましょうかね。流石にウルリーケ様の魔力を注いで貰った石を使ったとはいえ、アニシナちゃんの装置はデンジェラスでしたからね…。坊ちゃんに引き出して貰わなきゃ、永遠にあの歪んだ世界に閉じこめられていたかもしれない」 「…閉じこめられていたのか?」 「ああ…時間の感覚が無くなるくらいにね」 「そうか…」 流石に、《そのまま閉じこめられていれば良かったのに》等という言葉は出なかった。 「…ねぇ隊長、俺はさ…坊ちゃんに会えたのも嬉しいけど、あんたにこうして会えたのも実は結構嬉しかったりするんだぜ?」 「…知っているさ」 コンラートは苦笑混じりの視線を交わすと、素っ気ない…けれど思いは伝わるであろう一言を残して部屋の電気を消した。 友人は、ベットをとられたコンラートがこれから何をするか分かっているだろう。 そしてその行動を止めていたものが、自分の渡した書状によって消滅することも十分理解しているはずだ。 それでもコンラートの足を止めようとしないその背後には、何か勝算があるのか?それとも、唯のはったりなのか? 『読めない男だよ…お前は』 味方にすれば頼もしいが、敵としては戦法が読めない分なんともやりにくい男だ。 だが、ダークホースの存在に多少の不気味さは感じるものの、コンラートの勝率の高さは歴然としている。 『負けてやる気などないさ』 大切な想い人に最後の一手を決めるべく、コンラートは歩を進めた。 |