虹越え3−5−1 『新婚サンは、サンコンさんに非ず』 そんな、今時の高校生には通じないはずのネタを脳裏に掠めながら、大賢者は友人宅のドアホンを押した。 「よぉ、村田。来てくれたんだ」 「ユーリ!相手を確かめずに出ては駄目だと言っているでしょう?」 折角カメラつきのドアホンだというのに、チャイムに反応して直ぐに扉を開けてしまった有利の背後から、窘めるように声を掛けてきたのは、勿論過保護な恋人…いや、夫?…と、呼ぶべきなのだろうか…ウェラー卿コンラートである。 「押し売りが来てもちゃんと断るから大丈夫だって!」 「駄目です!目当てがあなただったらどうするつもりですか!?」 「ウェラー卿の言うとおりだよ渋谷。君はもう少し自己保身というものを学習しなくちゃ!」 コンラートの剣幕を揶揄かうかと思われた大賢者は、意外に真剣な表情で同意した。 「村田までそんなこと言ってぇ…」 「ウェラー卿がいるときなら兎も角、一人で居るときには絶対に相手を確認せずに扉を開けるような真似をしてはいけないよ?特に、そんな可愛い恰好ではね」 「可愛かねぇだろ…」 不思議そうに小首を傾げる有利は、ふかふかした質感でブルーグレーのVネックニットと細身の黒いジーンズに、何げにコンラートとお揃いになったキャンパス地のエプロンを身につけている。簡素な装いではあるのだが、Vネックの襟元から覗く鎖骨だとか…腰で縛ったエプロンの紐によって、その細腰が強調されていることとか…思わず触ったり舐めたりしたくなる愛らしさを呈しているのだ。 無自覚きわまりないその様子とも相まって、保護者的な立場の人々は頭を抱えざるを得ない。幾らなんでもこの無頓着すぎる点は、犯罪に近いのではないだろうか。 「まぁ…じゃあ気を付けるからさ、とにかく、あがってってよ村田」 「何か手伝えることあるかい?」 「ううん。もう荷物は大体かたしちゃったから、丁度お茶にしようとしてたトコ」 村田が通された部屋はコンラートが契約しているマンションの一室で、そこに有利の身の回り品を入れただけなので、大した作業量ではなかったのである。 コンラートは渋谷家の了承をとると迅速に行動し、善は急げとばかりにもう2月の第1土曜日…つまり、有利が修学旅行から帰ってきた翌日には荷物を纏め、夕刻には引っ越しを完了させてしまったのである。学校への届け出はせず、連絡網が回ってきたときには渋谷家からコンラート宅に連絡が回るようにして貰った(流石に事情を説明できないし…)。 『嬉しそうな顔しちゃってさ…まさに新婚夫婦だね。独り身には堪えるよ…』 いそいそと、真新しい揃いの茶器を出したり…薬缶の取っ手を掴もうとして熱がる有利の手を取ったり…鬱陶しいほどのあつあつぶりである。 「そうだ、君達に資料と消毒キットを渡しておこうと思ったんだ」 「資料?何の?それに消毒キットって何のため?」 きょとんとしている有利に、村田はがくりと肩を落とした。 「君さぁ…何のために自分たちが同居することになったか分かってるの?48手を極めて男に戻るってのが大前提なんじゃないの?」 ちなみに消毒キットは有利の処女膜が裂けたときのための品で、粘膜に塗布しても沁みにくい素材の塗り薬らしい。この辺りは流石に気が回る(回りすぎという話も…)大賢者様である。 「あー…そう言えばそうだったな。家のみんなにも意外にあっさりコンラートとのこと認めて貰えたもんだから、嬉しくって忘れてたよ」 「全くねぇ…ご両親は兎も角、あのお兄さんがよく許したもんだね」 「まーね、勝利についちゃー悶着あったけど…でも、最後には許してくれたよ…って、これはまた……」 有利は居間の卓上に置かれた紙包みを開くと、中から出てきた本にウッと息を呑んだ。《サルでも分かる48手入門》とピンクのゴテゴテした字体で書かれた文字と、交接するサルの写真…。ぺらりと中を捲れば、男の陰茎部分をバナナで表記しているものの、それ以外は大変リアルなイラスト入りで体位の説明が成されている。 「これは有り難いな。全体位の図と解説文入りですか」 「うわぁ…凄ぇアクロバティックな……何かちょっと、セックスというより曲芸に近い?」 かなり猥雑な絵だというのに、興奮するより先に感心してしまう。 「こんな無茶な体位で本当に気持ちがいいもんなのかなぁ?」 「相当テクニックがいりそうだし、男の方にかなりの膂力を要求されるよね。だから今じゃあんまり流布してないんじゃない?でも、ウェラー卿ならそっちは大丈夫でしょ」 「そうですね。眞魔国に伝わる性技と似ているものもあるようですし、何とかなると思いますよ?」 ぱらぱらとページを捲って大体の技を確認すると、コンラートは小さく頷いた。 「ただ、これは受け手にも結構負担が掛かりそうですね。やはり最初は技の種類などには拘らずに、ユーリの身体が馴染むまで穏やかなセックスをしていった方が良いでしょうね」 「そうだねぇ。処女にコレはキツイよねぇ…ほら、この技とか…渋谷が壊れちゃうって」 「そうですねぇ…。あ、これはどうです?交接が無いぶんユーリの負担は軽いし、あそこを解すには最適かと…」 「へぇー。岩清水ねぇ…男が仰向けになって、その口元に性器が来るように女が膝立ちになり、嘗め回される内に溢れ出る愛液を岩から湧き出流る清水に譬えてるわけだね?騎乗位のクンニって訳だ」 「下から羞恥に頬を染めるユーリの顔を見つつ、愛撫が出来るというのも良いですね」 「やーめーてぇぇぇぇっっ!」 想像したのか、有利は床を転がって壁際まで行ってしまった。 「何この程度でヘタってんのさ。君、薄着のシーズンまでには男に戻りたいんだろ?それでなくてもガクランは兎も角、ユニフォームなんか着た日には体の線なんて目立ってしょうがないんだから。今のところ社会人の人達が年度末で忙しいとか、学生組も受験に当たっちゃって大変ってのもあってチームは休業状態だけど、4月に入ったら練習再開するんだろ?」 「うおぉぉ…そうでしたぁっ!野球できないのはキツイもんなぁ…」 「一緒に頑張りましょう。沢山練習すれば、きっと上手に出来るようになりますよ」 「うんっ!そうだよな。何事も練習が大事だよな!」 スポコンのノリでセックスを語る夫婦に、村田は何と突っ込んでいいのか分からないまま熱い紅茶を啜った。 こうも蚊帳の外に置かれると、つい意地悪の一つも言ってみたくなる。 「ま…フォンビーレフェルト卿も気の毒にねぇ…これで、知らないうちに長年思い続けた婚約者を寝取られちゃう訳だ…」 この言葉の破壊力たるや、村田にとっても想定外のものであった。予想していた数百倍の衝撃でいちゃつくカップルに動揺を与えてしまったのである。 「ヴォルフ…」 さぁ…っと、絵に描いたように蒼白になった有利はぽとりと48手解説本を取り落とすと、その場にへたり込んでしまった。 「そうだよ…俺、あいつと正式に婚約解消してない……」 「ゆ…ユーリっ!それは仕方ないことですよ!あなたは一日でも早く男の身体を取り戻し、四大要素の残る一つ《土》と契約を結ばないことには眞魔国に帰ることが出来ないのですから!ヴォルフもきっと分かってくれますよっ!!」 コンラートは必死で自分たちに都合のいいことを並べるが、有利はぶるぶると水に濡れた犬のような動作で激しく頚を振るった。 「駄目…駄目だよっ!だって…もし俺があいつの立場だったら、俺…絶対許さないもん!」 「逆?」 「だって…もし俺とあんたが婚約してたとして、あんたが俺の知らない内に勝利と結婚してセックスしてたら…俺、絶対にコンラッドのこと許せないよ…」 想像したのか、眦が紅く染まって唇がわなわなと子供のように震えている。 コンラートの方はというと、仮定とは言えあまりにおぞましい話に別の意味で泣きそうになっていた。 「ヴォルフは大事な親友だよ…俺がヘコんでるときに言葉を飾らずに真っ直ぐ意見をくれる…純粋で、すっごくいい奴だもん…おれ、裏切れない……」 「ユーリっ!まさか今更ヴォルフと結婚するなどと言い出すのではないでしょうねっ!」 妬心の滲む物言いに、有利はやはりふるふるっと首を振る。 「それはないよ。だって、今も昔も俺があいつをそういう意味で好きだと思ったことは一度もないもん。幾らあいつが良い奴でも…ううん、良い奴だからこそ、そういう気がないのに結婚したりしたらお互いにとって良くないってのは分かってるよ。だけど、内緒で結婚するのは…あまりにも不誠実ってもんだろ?」 予想外のどんでん返しに、村田は眼鏡の蔓をくいっと引き上げる。 「…それで渋谷はどうすんの?実家に帰る?」 「それは…」 「爆弾投げた当人の僕が言うのもなんだけどさ…一大決心決めて出てきたのに今更元婚約者に悪いからって帰るのってどうなんだろう?渋谷家の面々は婚約者云々の話は知らなかったわけだから、知ればまた別の反応が返ってくるんじゃないかな?」 「別の…?」 「ウェラー卿自身にそのつもりがなかったとしても、弟の婚約者を寝取るっていう事実に変わりはないだろう?週刊誌ネタ級の《醜聞》だからね。君達の仲に《ロマンチックぅー》なんて言って賛同していた美子さん辺りが一番反応しそうじゃない?」 『嫌っ!コンラッドさんたら不潔よっ!!』 乙女思考の美子なら十分考えられそうな反応だ。 「君達がヤるヤらないはともかく、渋谷がフォンビーレフェルト卿と結婚する気がない以上、どの段階であれ婚約破棄することになるんだし、君達は結婚するわけだろう?」 「それはそうだけど…」 有利はどうしていいのか分からなくなって、混乱した頭を抱え込んでしまった。 「でも…でも、俺…このままこんな気持ちでコンラッドとエッチなんて出来ないよ…ヴォルフにちゃんと謝って、一発グーで殴って貰わなゃ気が済まない…でも…そうして貰うためには《土》の要素と契約しなくちゃいけなくて…」 真っ青になって蹲っていたら、胃がむかむかして吐き気まで襲ってきた。おまけに空調はしっかりきいているはずなのに、指先が酷く冷えて細かく震えだしてしまった。 「どうしよう…どうしよう……」 息が苦しい。 空気が、上手く吸えない。 息苦しさに喉元を掻こうとしたら、その手をそっと包み込まれた。 「落ち着いて…ユーリ。いいんだよ。とても大事なことなんだから、ゆっくり考えると良い。どうしてもヴォルフに説明するまで納得できないと言うのなら、俺は待つから…だから、落ち着いて?」 「コンラッド…」 「俺は待ちます…待てますよ。あなたが俺のことを愛して下さっていると分かって居さえすれば、何時まででも待てますから…あなたはあなたの思うようにしてください」 「良いの?コンラッド…俺と…エッチなしで暮らしてくれる?」 きゅるりと涙に濡れた瞳で上目遣いに見上げられ…早速自分の発言を撤回したい衝動に駆られるコンラートだったが、長年鍛え上げた自制心を駆使して自分の情動を押さえ込んだ。 「ええ…大丈夫ですよ。今までだって、俺はあなたに性的な欲望を見せたことなど無かったでしょう?」 我慢しきれず眠っている間に唇付けたことはあったけど…。 「コンラッド…御免…御免な……」 『ユーリ…謝らなくて良いから…だから……そんな可愛い顔で俺を見るのは止めて下さい……我慢できなくなりますから……っ』 コンラートは造り笑顔を顔面に張り付けたまま、心の中で号泣していた。
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