虹越え3−4−2








「お帰り、ゆーちゃん」
「やほー。お帰り、渋谷」
「あれ?村田、来てたんだ」

 有利がコンラートを伴って自宅に帰ってくると、美子と村田が居間でクッキーを摘みながら紅茶を飲んでいた。金曜日なので、まだ夕方5時には勝馬も勝利も帰宅していないようだった。

「あらあらあら…ゆーちゃんてば…今日は随分と可愛らしくなってない?」

 美子は嬉しそうに歓声を上げ、村田も既に話には聞いていたものの、目の前に突きつけられた友人の姿に思わず息を呑んだ。

『あーあ…全くもう……親友でなきゃ玉砕覚悟で告っちゃうね…』

 心の中で嘆息しながら、厚手のダウンジャケットとコーデュロイパンツ越しにも分かる滑らかでふっくらとした曲線と、何時にも増してぱっちりと開いたつぶらな瞳に動悸を速めていた。しかし、表面上はいつもの飄々とした態度を崩さずになんと言うことはなさそうに声を掛けるのだった。

「僕もその辺の事情を詳しく聞いておこうと思ってね。あれからどうなった?」

 そこで土産物を広げながら今回の事情について語ることになった。

「ふぅん…じゃあ、その蝶はもう強制されてるって訳でもないのに渋谷の中に居着いちゃってるわけだ」
「うん、危ないところを助けてくれたわけだし、無下にも出来なくてさぁ…どうしたらいいと思う?」 
「そうだねぇ…取り敢えず、その蝶の意見を聞いてみようか。渋谷、君の蝶に触れても良いかな?ちょっと脱いでくれる?」
「うん」

 有利は言われるままにシャツを脱ごうとして、きゅっと締まった腰とスポーツブラの膨らみ下半分が露わになろうかという瞬間に…コンラートの手に阻まれた。

「ユーリ…脱がなくても触れることは出来ますよ?」
「ああ、そう言えばそうだよね」

 《ちっ》と、何処かで舌打ちの音が聞こえたような聞こえないような…。

「じゃあ村田、手を貸してよ」

 村田の右手を取ると、シャツの下から潜り込ませて胸の谷間に誘導していく。 

 冷え性の村田の指先が腹の皮膚に触れると、その冷たさと他人の手が敏感な場所に触れる感覚にびくりと有利の背が跳ねる。

 その様に、何やら村田の方まで照れてしまう。それに、そんなやり取りを人に見られているというのも困ったものだ。

「……ウェラー卿…そんな目で睨まないでくれるかな?僕だって下心があってやってるわけじゃないんだし…」
「睨んでなどおりませんよ?猊下に対してそんな畏れ多い…」

 大人げない百歳越の青年は、やや斜に構えた姿勢で右肩を壁にもたれさせ、立ったまま妙な威圧感を漂わせていた。

『目つきは確かに穏やか至極だケドさぁ…目の奥の方に地獄の劫火もかくやって感じの黒っぽい焔が立ってるよ……有害なガスとか発生しそう……』

 物理的に何かしてくるとは思わないが、こんな風に理不尽な敵意を向けられるのは居心地の良いことではない。意趣返しの一つもしたくなるのが人情というものだろう。

「多分この辺…分かる?」
「ん…ああ、暖かいね。こっち?」
「ひゃっ!?ち、違っ!うっひゃ…っ!くはっ」

 布越しとはいえ胸の膨らみ近くの際どいエリアを指先が掠めると、擽ったそうに有利の笑い声が弾んでしまう。

「……………猊下?」
「あー、はいはい真面目にやりますってば」

 あまり揶揄いすぎると後が怖い。村田には何もしない代わり、当てつけるように有利に手出しをしてくるのは間違いないだろう。

「ん…」

 村田が押し黙り、瞼を伏せると流石に賢者としての風格が漂う。意識を集中させて何かを読みとろうとするように、蝶に沿わせた人差し指に力が籠もった。

 暫しの沈黙の後にゆっくりと瞳が開かれると、その有利と対を成すような墨黒の眼差しには…言いしれぬ苦悩が浮かび上がっていた。

「渋谷…。君、この身体は煌姫という妖怪にやられたと言っていたね?その人は倒しちゃったの?」
「うーん…気配が完全になくなったわけじゃないし、妖怪って死ぬものなのかどうか分からないんだけど、取り敢えず襲っては来なくなったよ?」
「つまり、雫石ゲレンデに行っても見つけることは困難なわけだね?勿論、反撃の結果とはいえ手酷く痛めつけてしまったわけだから、今更許しを請うのも無意味そうだしねぇ…」

 はー…っと深く溜息をつくと、村田は左手で眼鏡を押し上げた。

「まさか…も、元に戻れないの?」
「いや、戻ることは可能だよ?ただね、どうも君…《女の悦び》ってやつを極めないと…つまり、煌姫が言ってたっていう《48手》を完遂しないと戻れないみたいなんだよ…」
「…………は?」
「この蝶は君に従う前に煌姫から受けた指示を受諾してしまった。そこで契約が成立している以上、煌姫自身が命令の取り消しを行い、蝶が再受領しない限り反故には出来ないらしいんだよ」
「えええええええぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 ふら…っと、精神的にも肉体的にも大きな目眩を覚えた有利は…そのまま昏倒してしまった。



*  *  *




 ふわふわして…暖かい。

 肌に当たる心地よい感触にほぅ…と息を付くと、頬に何かが硬いものが触れてきた。その感触はどちらかというとひんやりしていて…でも、乾いてさらりとした感触は懐かしいような…胸一杯に染み渡る、切ないような慕わしさを感じさせた。

 何だか嬉しくてふわ…と微笑んだら、唇に弾力のある何かが触れてきて、くすぐったいような心地になった。

 髪を撫で、櫛とく感覚に…触れているものが手なのだと分かる。

『でかい手だなぁ…』

 すっぽりと有利の頭を覆ってしまえるような大きな…逞しい手。
 そして、堪らなく優しいその手つき…。

「コンラッド…?」

 まだ覚醒しきっていない…ふにゃりとした声が唇から漏れると、くすりと小さく笑う声が聞こえた。

「ユーリ…お目覚めですか?」
「ん…もぅ……朝?」
「いいえ、宵の頃ですよ。このままでは晩ご飯を食いっぱぐれてしまいますよ?」
「うっわ…起こしてよ!そこはひとつっ!」

 がばっと身を起こすと急激な体位変換に自律神経が上手くついてこず、くらりと目眩うのを咄嗟に受け止められる。止めてくれたのは勿論有利専属の護衛にして…今は《恋人》と呼べる人…そんな呼び方を敢えてしないとしても…とってもとっても大切な人である。

 思わず腕に凭れてその感触を楽しんだりしている間に、此処が自分の部屋のベットなのだと気付いた。

「大丈夫ですよ。あなたの分まで食べたりしませんから…ゆっくり起きて?」
「渋谷、大丈夫かい?」

 くすくす笑うコンラートとは対照的に、村田健は彼らしくもなく渋い表情で眼鏡の蔓をしきりと弄る。居心地が悪いときに見せる彼の癖であった。

「大丈夫大丈夫!ちょっとクラってなっただけだから…」
「いや、そういうことじゃなくてさ…君、自分がさっきまで気絶してたって分かってる?」
「うへ!?」

 妙な声を上げて記憶の襞をさぐると、そんなことがあったような無かったような…。

「ぅわー…恥ずかし……気絶って…。映画に出てる白人女性みたい…」
「無理ないよ渋谷。君はまだ自分の体と心の調節が上手くできていないんだ。無理矢理変化させられてるわけだからね」

 羞恥に項垂れる有利に、村田は深々と頭を下げた。

「すまなかった…ああいう話は、まず君と二人きりの時にゆっくりと説明すべきだったね」
「謝ることないって村田!どのみち知っとかなきゃなんない事だったんだろ?確かに吃驚はしたけどさ」
「……吃驚しただけ?」
「え?」

 眉根を寄せてじいっと凝視してくる友人の目つきが…先程までと色合いを異にしている。村田はちらりとコンラートの方にも目を遣ると、苦笑するその様子に更に眉根の皺を深めた。

「はぁん……そゆコト……。心配して損しちゃったじゃないか」
「え…何?どうしたの村田?何でそんな急にヤサグレちゃってるわけ?」
「これがヤサグレずにおけるかっての…馬鹿馬鹿しい…君達が出来上がってるなら問題なんてないじゃないか!48手でも96手でも好きにすればいいさ!」

 言われた意味を汲み取った途端、有利の頬はぼわんっと音を立てんばかりに紅潮し、心なしかコンラートの眦にさえうっすらと紅がさして見える。流石は大賢者と言うべきなのか、実は態度で丸分かりだったのか…。

「それをカマトトぶっちゃってさぁ…気絶なんかするから、よっぽど女として抱かれるのが嫌なんだと思ったのに」

 ふてくされたように壁に凭れ掛かる大賢者様はすっかりやる気を失っていた。もうどうにでもなれと言わんばかりの捨て鉢状態である。

「カマトトって…お前は幾つだと突っ込むのも最早アレだな…」
「ウェラー卿と…実はもうやっちゃってんのかい?」
「や…ややっ!」
「やっていませんよ…今はまだ、ね」

 余裕の笑みを浮かべて、見せつけるように有利の肩を抱くコンラート。

 そんな様子に辟易したような表情を浮かべていた村田だったが、ふと何かに気付いたように…にやぁ…っと笑うのだった。

「なに村田サンその笑顔…何げに怖いんですケド……」
「ウェラー卿にしつもーん。ねぇ君、処女を抱いたことはあるの?」

 突拍子もない下世話な話題のようで…実は結構この状況に深く関わる質問に、ウェラー卿コンラートは思わず点目になってしまった。

「処女…は、ないと思います……」

 噂に聞く処女膜の破瓜による出血というのは見たことがないし、挿入によって痛がられたという記憶もない。

「へぇぇ…じゃあ、渋谷は結構大変かも知んないよ?処女膜って、人によってはかなりの大きさで膣孔を覆ってるから、白人のデカイので突かれたりすると結構出血するかもよ」
「ふへっ!?ち、血が出るのって、擦れてちょっびっと出るだけじゃないの!?」
「うん、半分ぐらいの人はひりひりするくらいで済むんだけどね、処女膜の襞が大きかったりすると、コレ、膜って言っても金魚すくいの最中みたいなもんじゃないからねえ…」

 村田の瞳が眇められると、星のない空のような深墨色が茫洋と宙に向けられた。

「僕の魂がAV女優に入ってた頃の記憶なんだけどさぁ…処女喪失が結構悲惨でね、男に騙されて半分レイプみたいな感じで無理矢理突っ込まれたら、下半身血まみれになっちゃってさ…泣いても喚いても男の方は聞いちゃくれないし、《コレが気持ちいいんだろう》なんて言いやがって、ガツガツ挿入しやがるからその度に襞が引っ張られて…自分で、《メリメリ》って身体が裂ける音が分かるんだよ。《何が気持ち良いだこの野郎》って、僕は腹立たしく感じているんだけど、彼女にとっては信頼していた男に裏切られたショックと痛みと恐怖で心が引き裂かれそうになっててね…《助けて、助けてっ!》って声が出なくなっても心で叫んでいたんだよ…キツクてねぇ…あの記憶が蘇ると、僕は女の子は大事に抱こうってしみじみ心に誓うんだよ…」

 リアルな話で引かせるつもりだったのだが…静かになってしまった有利は、そぅ…っと村田の手を取ると、力を込めて握りしめたのだった。

「…泣くなよ、渋谷。君を怖がらせようとしただけだよ…少なくとも、これは僕に起こった話じゃない。僕の魂の襞の中に蓄えられている…哀しい記憶の一つと言うだけだよ」
「でも…酷い……そんなの……」

 ぽろぽろと…止めどなく零れていく涙はまろやかな頬を伝うと顎の先から滴って…ぽぅんと弾むようにして完璧な球体になると、煌めきながら落ちていく。超高感度カメラで撮影すれば、その雫が有利の手の甲や膝に落ちるたび…綺麗な王冠のようなフォルムを呈して弾ける瞬間を撮影できるのだろうか。



 泣き虫で開けっぴろげで騙されやすくて…

 そして、とんでもなく優しい…



 村田健が生涯を捧げようと誓っている王は、そんな少年であった。



『君ってば、どうしてそう何でもかんでもが鮮やかで…心に沁みるんだろうね?』

 意地悪な想いも揶揄いも、渋谷有利の素直な反応の前ではこんな風に他愛なく…その性質を変えてしまう。

「ん…ちょっと意地悪し過ぎちゃったかな?でもね、ウェラー卿、君はちゃんと覚えておくべきだよ。君が今まで抱いて啼かせてきた女性達は、多分遊び慣れた…こういっては失礼かもしれないが、アソコが十分に成熟してこなれている人達だろう?だが、渋谷は心も身体も初々しい、全くの処女なんだ。しかもこの体格差…ウェラー卿のイチモツが噂より大したモノじゃなかったとしても、渋谷の細腰じゃキツイだろうよ。本当なら、身体が十分に成熟するまで待ってやってくれと言いたいくらいだけど、渋谷は3年になっても高校に通いたい…そうだろ?」

 有利がまだ止まらない涙を懸命に手の甲で拭いていたら、いい匂いのするコンラートのハンカチでそっと目元を拭われた。

「…うん、だから…薄着の季節になるまでには、男に戻りたい……」
「そうなると、今からちゃんと身体をほぐしてあげて…一日一発ペースでも進めていかないと間に合わないよね。何しろ48種類あるわけだから」
「何かこう…勢いでカッカッカッと2.3日で終わんないかな?」
「君ねぇ…僕の話聞いてた?ああいうのは最初に酷いやり方をすると、死んでも魂から抜けなくなるくらいキツイ記憶になるんだよ?」
「だって、金土日で一気にカタつける位じゃないとコンラッドんトコに泊まれないじゃん。バコバコやったその日に家族と顔合わせるのも何だしさぁ…」
「そのことですが…ユーリ、俺からお願いしたいことがあるんです」
「え?何ナニ、改まって…」 

 コンラートはさり気なく村田と握り合っていた有利の手を取ると、自分と向かい合わせになるように誘導して真っ直ぐ瞳を見交わした。

「俺と…結婚を前提とした同棲生活を始めてはいただけませんか?」
「けけけけけけけっ!?」
「結婚です。血の痕ではありません」

 ボケで逸らされそうなので先手を打っておく。

「どどどどどどどっ!?」
「同棲です。銅で出来たものとかではありません」
「うーん…まぁ、渋谷の心理的な面から考えても、それがいいかもねぇ…と、言うわけで、君はお留守番だよ?」

 先程からすっかり部外者扱いの続いている水蛇は、クッションの上で不貞寝している。

 ちなみに、美子は階下で夕食の支度中だ。

「誰しも環境の変化に最初は戸惑うけど、馴染んでくるとわりと平気になってくるモノだからね。二人っきりで遠慮なくイチャイチャして、ウェラー卿のクサい台詞垂れ流し状態でトライすれば、破瓜の痛みも何とか越えられるかもね。アソコが馴染んでくれば48手も拷問技って訳じゃないんだから、結構楽しめるんじゃないかな」
「どうでしょう?あなたの苦境につけ込むようで心苦しくはあるのですが…俺としてはこの期にあなたとの生活を幾重にも楽しみ、更には将来の約束も取り付けたいのですが…お嫌ですか?」

 甘く響く男らしい声が…切なげに揺れる琥珀色の瞳との合わせ技で有利の脳を誘う。
 ちょっと怖くて…でも、たまらなく魅力的な二人きりの生活へと…。

 暫しの沈黙が続いたが、それが拒絶ではなく羞恥による躊躇であるのは明白で…。

「ふ、ふつつか者ですが……」

 消え入るような声で囁かれた声には、甘い艶が溶け込んでいた。



*  *  *




「む…弟の護衛、何でこんな所に居るんだ?」
「ショーマにお願いしたいことがありまして、此処で待たせて貰ってます」

 にっこりと微笑む笑顔が、勝利の目には実に胡散臭く映る。

『ゆーちゃんに向ける笑顔と絶対に質が違うんだよ…同じ目で見られるのも嫌だが』

 胡散臭い笑顔でも女性には有効らしく(向けられた瞬間に性質が変わっている可能性もあるが)、上機嫌の母親はにこにこ顔で食前酒などを勧めているし、卓上に乗せられたおかずも普段より2.3品多い。

 ピンクのハートをこれでもかと飛ばしている母親とは対照的に、何処かぐったりと脱力した感のある村田健がソファに沈み込んでぬるそうな茶を啜り込んでいたが、これは視界の隅に留めただけで無視した。それよりも遙かに危険度の高そうな男の方が気に掛かったのだ。

「願い事?有利に関する事じゃないだろうな?」
「ユーリに関することです。ミコさんの了承は頂いたのですが、やはり世帯主の同意も得なくてはね」 
「了承だと?…有利に関して?まさかお前…」

 そんな馬鹿なこと…とは思いつつも、瞬間脳裏を過ぎった恐ろしい仮説をつい口にしてしまう。

「…うちのゆーちゃんとエッチな意味で付き合いたいとか言うんじゃないだろうな!?」
「ええ、結婚を前提とした同棲を認めていただきたいんですよ」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!?何言ってくれてんだこの腐れ異人!チンコに硫酸掛けられたくなかったらとっとと出て行け、この変態野郎!今後二度とうちのゆーちゃんに近づく事は許さんっ!」

 勝利の怒号が隣近所にまで轟く勢いで鳴り響くと、どたどたと慌ただしい足音が居間に近づいてくる。

「勝利!コンラッドに酷いこと言うなよっ!コンラッドのせいじゃないんだからなっ!」
「ゆーちゃん!?」

 風呂場から直行してきたのか、濡れた黒髪を振り乱し大判のバスタオル一枚で身を包んで仁王立ちになっているのは…

 弟…の、パーツを持つ美少女であった。

 夢にまで見た最愛の《ゆーちゃんチックな美少女》…妹属性で気が強いくせに泣き虫で、心細いと《お兄ちゃん…ゆーちゃん、怖いにょ……》と囁いてくれる(…と、期待する)美少女は、華奢な体躯に見合わぬふくよかな胸を弟お気に入りの青いバスタオルで隠し、大股に開いた大腿も中程から露わになった状態で、零れ落ちそうな大粒の黒瞳でキッと勝利を睨み付けている。

 その不満げに突き出された唇の形はよく見慣れたもので…

「ゆ…ゆーちゃん?」

 ぶるぶる震える指先で指し示した先の対象物が疑い通りの人物であることを、次の瞬間には周囲の一同全員で認めてくれた。

「ユーリ!そんな恰好で…っ!」
「渋谷っ!見えるっ!見えちゃうからっ!」
「ゆーちゃんったら!床が濡れちゃうから足はちゃんと拭いてっていつも言ってるでしょ?」 

 一人だけ観点の異なる指摘をしてきたのだが、有利はよりにもよってその発言に一番反応してしまった。

「あ、御免御免!急いでたからさ。直ぐ拭くよ」
「うわぁぁぁっ!ユーリっ、身体を包んでるタオルを外さないでっ!足拭き用のタオルなら直ぐ持ってきますからっっ!!」

 これほど必死の形相で疾走するウェラー卿コンラートを見ることなど、滅多にない機会であろう…。

「何だぁ?騒がし…」

 帰宅するなりの騒ぎに困惑顔で居間に入ってきた勝馬も、変わり果てた息子(?)の姿を目にした途端、がくりと腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。

「ゆゆゆゆゆゆゆ…ゆーちゃん?一体全体どうして…」
「あーあーもー……」
「大混乱…だね」

 双黒の魔王と大賢者は、同時に深い溜息をついた。

 大賢者は兎も角、魔王の方にその権利があるかどうかは知らないが…。

 

*  *  *




 一通りの状況説明が終わった後、家族の顔は謎が解けたことによってすっきりと…している筈もなく…予想以上にとんでもない状況に、父と兄とは暫く言葉を継ぐことが出来なかった。

「し…48手って……」
「そんなの、今の日本人でやったことある奴なんて余程の好き者だぞ!?」

 《好き者》という言葉に、ふるりと有利の肩が震えた。パジャマの上にどてらを着込んだ姿は民芸人形のようで、ミニサイズにして掌に載せたいような愛らしさである。この、色事の《い》の字も知らなさそうな無垢な子に48手を極めろとは…無体を通り越して非道と言わざるを得ない。

「そうなんですよ…もともと、普通の性交では満足できなくなった人達が洒落も含めて編纂した性技の事ですからね。幾つか亜系も伝えられているし、どれが正当というのも確立されているわけではないんです。なので、本当に48手全てをやれという指示なのか、あくまで例えなのかも分からないんですよ…48手というと、結構ハードな体位も多いですからね。渋谷…有利君にいきなり挑めというのは、精神的にも肉体的にも辛いと思います。不幸中の幸いというか…卵巣は見受けられないんで、生本番で妊娠するっていう事態だけは避けられそうですけど、あまり慰めにはなりませんよね?」
「なるかぁっ!」

 村田の説明に、案の定勝利が眉間に皺を寄せて怒号をあげる。この男は先程から続けてこの状態なため、既に喉が枯れはじめている。

「ゆーちゃんはこのまま清らかな女の子でいたらいいじゃないか!セックスなんか一生せずに家にいたらいいだろ?なんなら、俺が養ってやる!」
「…男に戻れないのはヤダよ…。ずっと嘘の身体でいなきゃいけないんだぜ?勝利がそうなったら、耐えられる?」
「俺ならここぞとばかりにコスプレしまくるね!普通の女の子には頼めないポーズで一人写真撮影会をするぞ」
「眼鏡を輝かせながら言うなよ…聞いた俺が馬鹿だったよ……」

 兄の常識は世間一般とは逸脱したところにあることを失念していた。

「俺は好きでもない男に良いようにセックスされる方が耐えられんぞ?ゆーちゃん、幾らこの護衛を気に入ってるとは言っても、そういう意味で好きというわけじゃないんだろ?」 弟を説得するために掛けられた言葉はしかし…次の瞬間、勝利を絶望のズンドコに突き落とすことになる。
「コンラッドと…そゆコトするのは…別に嫌じゃ…ない」

 ぽそぽそと…頬を真っ赤に染めつつも言い切った有利に、父と兄とは共に顎を外してしまった。

「ゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆ…ゆーちゃん?お、落ち着け?お前、こんな異常な状況だから混乱してるんだよ…」
「勝利こそ落ち着けよ…」
「だって…だってお前……そ、そうだ!ゆーちゃん、今は女の子の身体だから、その爽やか魔人の罠に掛かってるのかもしれないが、48手を極めて男に戻ったらどーすんだ?…気まずいだろ?」
「俺のことならご心配なく。俺はユーリがユーリなら、男だろうが女だろうか猫耳だろうが電撃娘だろうが、髪の毛の先から足の爪先まで隈無く愛す自信があります」

 《爽やか魔人》はしれっと言い放つと、そのまま有利の肩を抱き寄せて少し湿り気の残る黒髪にキスを落とした。しかし、何げに嗜好が勝利と似通っている点が問題アリのような…。

「ですから、ユーリと俺の結婚を認めて下さい…お義兄さん、お義父さん…」

 後半は立ち上がると居住まいを正して、ぴしりと軍人らしい美麗な動作で礼を決める。


 



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