虹越え3−4−1






 下山してみると、色々とプチパニックが起きていた。

 まず魔剣を目撃し、あまつさえ風に巻かれて下山してしまった友人達にはコンラートが退治してくれたのだと説明した。友人達はきょとんとしてたが、特に箝口令を敷く必要もなかった。あまりにも素っ頓狂な話であり、怪談話としては兎も角、真面目に色んな人に広めでもしたら自分の方が変人扱いされそうなことに気付いていて、魔剣を見た仲間同士でそのネタを出すことはあっても、人に言いふらしたりはしなかったのである(篠原には勿論、後で詳細を説明しておいたが)。

 また、こちらは有利達の与り知らぬ事であるのだが…祠を開けて凍らされた3人の生徒が、解凍はされたのだがそのまま夕方まで街路に放置されていた。夕食の点呼に居なかったので捜索されたところ、全員肺炎を起こしていたという。

 彼らは熱に浮かされながら病床で、

『剣に凍らされた』
『剣が空を飛んだ』

 と、泣きながら訴えていたらしいが、高熱のあまり混乱しているのだろうと、誰一人真に受ける者は居なかった。



*  *  *




 さて夕食をとった後、水蛇は追い出されて別室で不貞寝を決め込み、コンラートと有利はというと、コンラートのとった必要以上に豪奢な部屋でお茶を飲み飲みなんということもない話をしていた。

 お互い《好き》だと告白したのだから、もっとこう…甘やかな会話を交わした方が良いかなー…とか思わないでもないのだが(修学旅行なのだから、熱も下がったことだしクラスメイトの居る8人部屋に戻った方が良いかな…という発想は、本日は浮かんでこなかった)、なんとなくこうして何時も通りの会話を交わしている方が安心して…リラックスできる。

 少なくとも、有利はそう思っている。

 コンラートの方はどうなのか分からないが、少なくとも有利の見る限りでは現状に焦れたり不満を感じている様子はない。

 ただ…時折じぃ…と、柔らかく綻んだ眼差しが、とても幸せそうな表情と共に向けられていて…その神々しいばかりの笑顔に照れてしまって、顔を直視できないこともある。何度かそんなことが続くと、妙に焦ってきた有利はお部屋探索と称して室内を徘徊しはじめた。すると襖と雨戸を開けた先に、6畳ほどの広さの露天風呂が付いていて、檜造りの湯船にはなみなみと湯が湛えられていた。

 きん…と冷え切った空気は刺すように冷たいが、もうもうと立ちこめる湯気は誘いかけるように有利をの眼前に広がってくるし…天空は晴れ渡り、降るような星々の煌めきが織りなす羽衣のように広がっているし…。温泉好きには堪らない誘惑であった。 

「うわぁー、良いなぁ…内風呂に露天風呂があるなんて!そう言えば俺、昨日は熱だしてたし、今朝もシャワー浴びたっきりなんだよな…」
「では、入られますか?」 

 コンラートが何時も通り爽やかに笑っていうものだから、有利も散歩に連れていって貰えると分かった子犬のように無邪気な笑顔で頷いてしまった。



*  *  *




「ふわぁー…凄っげぇ気持ちいいー………」

 冷厳な外気と、高めの温度に調節されたとろみのある白濁色の湯の絶妙な均衡が、有利の身体から緊張感や凝りといったものを解きほぐしてしまう。

 良い香りのする檜の浴槽にもたれかかり、鼻歌なんか歌ってご機嫌なところに声が掛けられた。

「ユーリ…俺も入って良いですか?」

 いつもなら…そう、この想いに気付く前なら頼まれなくても《入って来いよ》と自分で誘っただろう男が、控えめながらよく通る声で…囁くように尋ねてくる。

 有利はたっぷり5秒間掛かってひゅー…っと息を吸い込んだ後に、漸く返事をすることが出来た。

「い…いいよ。…あんたの部屋なんだから、俺に断ることないじゃん」

 それに、自分たちは互いに想いを確認し合った恋人同士で…裸の付き合いをしたって何もおかしいことはない。

 それなのに…自分でも奇妙に思えるくらい脈打つ拍動と頬を染める熱気に、解れていたはずの緊張が戻ってくるのを感じていた。

「失礼します…」

 コンラートは風呂に入るのだから当たり前だが…何も身につけておらず、淡い照明の光に照らされたしなやかな肢体が余すところなく有利の視界に刻まれた。

『……この野郎、良い身体しやがって………』

 腹が立つくらい長い下肢はこんな時まで隙のない所作で歩を進め、服を着ていると細身に見えるのに、脱ぐと意想外に逞しい体幹の筋…闇に映える健康的な白い肌が…何処か艶っぽい陰影を呈している。

 そしてなんと言っても彼の表情が…夜の暗がりがそう見せるのか…それともそれが本性なのか、唇に浮かべた笑みもその眼差しも…何時もの爽やかさを払拭して、鋭いのに甘い…蠱惑的な色彩を孕んでいるのだ。

「流石に裸では寒いな…俺も掛け湯をしたら、直ぐに湯船に浸かっても良いですか?」

 断られることなど想定していないであろう物言いも余裕綽々で、有利としては慌てて胸や陰部を隠す事もできない。そんなことをすれば、余計に笑われるような気がしたのだ。それでなくても80年以上の年の差、経験値の差があるのだから、あまり余裕のない態度を見せたくはなかった。

「…いちいち聞かなくてもいいだろ?入れよ…」

 つい無愛想な口調になってしまい、コンラートの方を見ないようにして湯船の端に寄ると、それとは反対の縁にコンラートが身を沈めてくる。そのゆったりとした動きに連動して溢れた湯が、滔々と縁べりから流れ出ていった。

「ユーリ…」

 呼ばれてそろりと視線を向ければ、悪戯っぽい艶を掃いた双眸が…ダークブラウンの髪を掻き上げる(それはコンラートの癖で、有利がちょっと…いや、かなり好きな仕草であった)その掌の下から有利を見つめている。

 そんな視線にどきりとしながら…同時に、何か不安なものを感じて有利は小さく肩を震わせた。

 それに気が付いたのだろうか、コンラートは滲ませていた毒気をあっという間に四散させると、普段の爽やかな気配を取り戻して優しく囁いた。

「ユーリ、そんなに怖がらないで…」
「こ…怖がってなんかないよ!」

 子供扱いされたような気がしてむっと頬を膨らませると(その仕草が既に子供だが…)、有利は対抗心も露わに勢いよく湯をかき分けると、コンラートの逞しい背に両腕を回してきゅうっと抱きついた。

「俺…好きって言ったんだし…それは勢いで言った訳じゃなくて、本当にコンラッドのこと好きだから言ったんだから…怖くなんかない……っ!」
「…そう?」 

 微かに苦笑したような気配を察知して眉を顰めていると、コンラートの右手がそうっと動いた。

「ひゃうっ!」

 悪戯な指が強ばる身体の上を優しく伝うと、鼻の奥から抜けるような甘い声が挙がる。

「ユーリ…可愛い……」
「か、可愛い言うなっ!」

 くすくすと笑う声が肌を擽り、触れるだけの唇付けが耳朶や首筋に落とされていく。

「あなたの首筋を目にするたびに…こうしたくて堪らなくなった……思う様唇付けて、甘い声で啼かせてあげたくて…平静な顔を作るのに何時も必死でしたよ」
「ゃ……やぁっ!」

 望み通りの声と反応を返してしまう自分が恥ずかしくて堪らない。

「そう…夢見たとおりの声だ…なんて可愛いんだろう」

 かぷりと耳朶の下の柔らかな皮膚を甘咬みされ、びくりと震える鎖骨に沿って舌を這わされる。節くれ立った長い指はやわやわと胸の膨らみをまさぐり、時折掠めるように堅く膨れ始めた蕾を弾く。そうされると甘い電流のような感覚が身体を疾り、元々自分にはなかった場所が熱く潤むのだった。

『駄目…駄目……』

 そう言いたいが、声に出すことは出来ない。《怖くない》と、つい先程言ったばかりなのだから。

 時折絡み合う琥珀色の双眸には、心から幸福そうな光と滲むような欲望の艶があって…それは自分のような子供を本当に触りたくて触っているんだなと思うと…それは凄く嬉しいのだけど…与えられる刺激の大きさに過剰に反応している自分が堪らなく恥ずかしくて …そして怖い。

『鋼さんに触られたときは、吐き気と寒気しか感じなかったのに…コンラッドの指って、何か変な電磁波でも出てるのかよ!?』

 コンラートの骨組みがしっかりしている割にしなやかな印象を受ける指は、がっついて皮膚を擦りあげたりするような無粋な真似はせず、ごくごく優しく伝い、触れているだけなのに…必ず何処か感じやすい場所を見つけだしては、あり得ないくらい甘い刺激をもたらすのだ。

『俺…何かおかしい……触られてるだけなのに……』

 熱くて焦れたようにひくつく場所に、もっと明確な刺激を与えて欲しくて、無意識の内にコンラートの大腿にそこを擦りつけていた。ぬるつく鋭敏なその箇所でコンラートの肌に触れることで、今自分がどれだけはしたない行動をしていたのか自覚した途端、有利の頬が染まった。

「ふ…くぅ……」

 目の表面と鼻の奥がつん…と、痛みを伴う熱さを帯びたかとおもうと、堪えきれない涙が次々に零れ落ちてしまう。

「ユーリ…!」
「ごめっ…ごめん、な……コンラッド…」

 慌てて目元を手の甲で擦り、コンラートを抱きしめる。

「厭な訳じゃないんだ…でも、俺…経験値低いし、今は身体もこんなだし…俺…実はさ、コンラッドにキスされた夢見ただけでイッちゃったことあるんだ…そ、そんくらい、感じ過ぎちゃうんだ…そういうの、何か情けなくて…。コンラッドには触ってるだけでも、俺にはこんだけで《抱かれてる級》に反応しちゃうんだ。…だから、も…止めて……」

 懸命に言葉を探すのだが、それでも上手く説明できないもどかしさに一層涙が込み上げてくる。せめて、コンラートに触れられることに嫌悪を感じているわけではないと分かってくれればよいのだが…などという有利の懸念は、それはもう…ものすごい杞憂であった。

『………………… 可愛すぎるっっ!』

 我慢しきれずに、《触る》などという表現が明らかに不適切な手技を搦めて幼い身体を煽ったというのに、怒るどころかこの態度…なんという愛らしい反応だろうか。

 胸板に押しつけられるふくよかな膨らみ、先程大腿の皮膚に感じた…濡れた粘膜の感触…。それが今こうして涙に暮れながらコンラートに抱きついている有利の一部なのだと感じるだけで、堪えきれないほどの情欲を誘ってくる。

 しかし…ここでそのまま押し倒せるほどコンラートの性根が鬼畜なら、こんなに片思い期が長い筈がないのである。

「ユーリ…御免ね。あなたがあんまり愛おしくて、俺が触りすぎた…ユーリの反応は健康な身体なら当然の反応だよ」
「い…いやらしいとか……思わなかった?」
「いやらしいのはやりたい放題触ってしまった俺の方でしょう?ユーリこそ…俺に呆れたりしませんでしたか?」
「それは…」

 有利は真面目に思い出しているのか、暫く小首を傾げて黙っていたが…

「俺のこと…触りたくて触ってんだなぁ…って思ったら…それは、ちょっと嬉しいような気がした」

 はにかむような呟きはとても小さく…注意していなければ聞き漏らしてしまいそうな程か細いものだったのだけれど。

 勿論、この男が聞き逃すはずもない。

 有利の発言に対してはデビルイヤー並の精度を誇るコンラートのコルチ器は、極めて正確に…その微かに掠れた声が有毛細胞を震わす感覚にすら酔いしれて、意識を陥落させられそうになった。

 しかし…腕の中の華奢な身体は相変わらず小さく震えていて…そのまま行為を進めれば心を傷つけてしまうことは確実だった。

『この方は…やはり色んなところが未発達なのだ…』

 それも仕方のないことだろう。

 元々の年齢から考えても豊富な体験を持つ少年など少ないだろうし、彼の場合は特に、眞王の都合で正常な性発達を阻害されているのだ。行為に感じてしまう自分の身体そのものが恐怖なのだろう。

『ゆっくり…ゆるゆると、全てが熟するまで促し、お育てしなくては…な』

 本来ならばこうして触れることすら許されない方だったのだ。それを…その望外な望みが奇跡のように叶ったことに、自分は浮かれていたに違いない。

「ユーリ…俺は、何時まででも待つよ。あなたという蕾が春を迎えて自然に綻びるその時まで…だから、それまではキスだけ俺に許してくれる?」
「コンラッドは…それでいいの?」
「あなたに恋をしたときから一人の女性にも触れていませんが、それが苦痛になったことはありません。あなたの心を手にしているこの喜びの中で、身体に触れるのに少し時間が掛かったからといって、どうということはありませんよ」

 そういうと、《変な電磁波》と称された手つきを子供をあやすような優しいものに変え、…有利の身体から完全に強ばりが抜けるまで撫で続けていると、有利はくにゃりと力を失い…。

 強ばりが抜ける代わりに背骨さえ抜かれたように…逆上せてしまった。

 コンラートは慌てて有利を湯船から救い出すと、ささやか(?)な幸福としてその肌触りを満喫しながら介抱したのだった。  

 

*  *  *




 さて明けて翌日は修学旅行最終日。この日はホテルを引き払ってバスで盛岡まで移動し、美術館などの施設見学をしたりした後、繁華街でお土産を買い込むと地元埼玉への帰還と相成った。

 満身創痍の水蛇は有利の治癒の力である程度回復したものの、流石にまだ本調子ではないということで、本性に近い子蛇の姿でコンラートのポケットに忍んでいる。本人は有利のポケットを希望したのだが、蛇嫌いの有利にとって、その姿は流石に堪えるものがあるのだ…。



*  *  *




「なんかさぁ…渋谷って…」
「うーん…そうだよなぁ……」

 帰路の新幹線のお手洗い前…別段連れションというわけではないが、たまたま用を済ませた後の藤谷と用を済ませようとしている黒瀬とが出くわすと、何となく有利の話が持ち出された。

「やっぱ、お前も…アレ?って思うよな?俺の気のせいじゃないよな?」

 最近、とみに自分の感覚に自信が持てないらしい黒瀬がとり縋るようにして藤谷に尋ねると、彼もまた普段通りの冷静な顔ぶりをしつつも、素直に同意してきた。

「どう見てもありゃ、女の子っぽいよな。だって、胸とか尻とか《きゅるん》っとか、《ぷりん》って感じだろ?それに…ここんトコえらく…何つーか、可愛いっぽい感じだったけど、今はもう分かりやすくプリティオーラ放ってるもんな…俺、何も知らなかったら《付き合ってくれ》って言うトコだよ」
「なんだとぉっ!?」

 友人の予想外の発言に黒瀬が思わずくってかかるが、藤谷の方はいきり立った子犬でもあやすように手をひらひらと振って見せた。

「何も知らなかったらって言ったろ?あいつがどういう奴なのかは知ってるし、それなりに《お友達》って意識もあるんだ。そんなこと急に言いだしゃ嫌がられるに決まってるし、それを乗り越えてまでどうこうしたい程の思い入れはねぇよ。寧ろ…お前こそどーなんだよ?渋谷のこと、好きなんだろ?」

 後半は努めてひそひそ声で囁く藤谷は、こう見えても他人のプライバシーは守る男であった。

「す…好きって!?な…何言って……っ!」

 黙していれば精悍な顔立ちと表現される黒瀬の顔は真っ赤に染め上げられ、その造作も何処か乱れがちであった。

「お前はどうしたいわけ?」
「どうって…」

 問いかけに直ぐに答えを返せないが、それは今初めてそのことを考えたからではなかった。そんなことはここ半年ほど常に懸案事項として頭のどこかに引っかかっていた事柄であり…そして数ヶ月前…有利を抱きしめるコンラートに対して感じた明確な《嫉妬》により、自分が抱いている思いがどんな種類のものなのかは朧気に認識していた。

『俺は…どうしたいんだろう?』

 信頼されたかった。
 抱きしめたかった。

 …コンラートのように。

『ああ…そうだよ……。あの警備員みたいに、誰よりも身近に居て…素直に泣き顔も笑顔も見せて欲しいんだ……』

 けれど、それは無理な注文なのだということにも薄々気付いてはいる。

 有利のことを何時もじっと見つめているから…もしかしたら彼自身よりも彼の思いに気付いているのかもしれない。

 コンラートを目にした瞬間にみせる、あの何とも言えない幸福そうな笑顔…雲間から曙光が差し込むような…芳しい微風にくるまれたような…咲綻ぶ花房のようなあの表情を、他の誰が浮かべさせることが出来るというのだろう?

 それが出来ないのならば…

「俺は…あいつにいつも笑ってて欲しい。あいつに嫌がられたりしたくない…」

 嫌われたり、ましてや哀しまれたりするのは…辛い。

「じゃあ、《何もおかしなコトはない》って態度を貫くしかないだろうよ?」
「……出来るかな……」
「やるしかないだろ?どっちにしろ、お前見込み無いんだし…」

 容赦ない藤谷の言葉に、精神的に1m程度地面にめり込む。

「む…凹んだか?でもしょうがないだろ?相手はあのコンラート・ウェラーだぜ?元もと超のつく美形な上に、渋谷と抱き合ったり、砂吐くほど甘い言葉垂れ流しにするのが日常風景になってる男で…おまけに、空中に浮かんでる不気味な剣を倒しちゃう不思議君なんだぜ?お前、勝ち目ないって。こうなったらお前に出来ることは、その《友人席》を確保することだけだよ」

 ブォン…

 鈍い空気音を立てて車両間の扉が開くと、話題の中心人物その人が小走りに駆け込んできた。

「あれ?黒瀬、藤谷、お前らもトイレ待ち?男子便所でこんな込むのって珍しいな」
「あ…う、違うよ。俺らはちょっと喋ってただけ。トイレなら開いてるぜ」
「そう?」

 用足し前に話を始めてしまった黒瀬は実のところ結構な尿意は感じているのだが、空いているトイレを前にしてまで話をしていたとなると妙な感じなので、直ぐに有利にトイレを勧める。

「…じゃあ、俺行くわ」
「ああ、俺も…」

 とはいうものの、二人は同じグループなので戻る席は同じである。黒瀬は一度席に戻ったものの、埼玉までとても尿意を我慢することは出来ず、有利が戻ってくる前に反対側の車両にトイレを求めて行った。そして漸く膀胱内容量を皆無にしてトイレから出てくると…そこには、何か言いたげな顔をした有利が待っていた。

「あれ?どうしたんだよ渋谷」

 どきっと胸の中で弾む心臓が、いつもとは違った苦いような響きを伝えてきて…黒瀬は理由が明確に分からぬまま軽く眉を寄せた。

「黒瀬…あのな?昨日のゲレンデでの事…御免な、巻き込んじゃって」

 有利は腰に組んだ手をもぞもぞしながら、上目遣いで言いにくそうに謝ってきたのだが、黒瀬には何故謝られているかの見当が付かない。

「何言ってんだよ渋谷。お前が謝る事じゃないだろ?」

 有利はふるふるっと首を振ると、哀しげな眼差しでじいっと黒瀬を見つめた。

「俺…ちょっと普通じゃない事情があって、これからもああいう奴に絡まれる可能性が高いんだ…妖怪みたいな奴、引き寄せやすいんだよ」
「え…?」 
「こ、この身体とかも、そういうのの一環でさ…今、胸とかあって…チンコなくなってんだ…身体が、女に変わってんだ」

 有利は泣きそうな顔で俯くと、絞り出すように呟いた。

「…気持ち悪いよな…やっぱり」
「ななななななな何言ってくれてんの!?何で俺がお前のこと気持ち悪がらなきゃなんないんだよ!?」
「違うのか?だって…さっき、藤谷と話してたのって、そういう話だろ?だから…俺に聞かれたくなかったんだろ?」

『あ…』

 黒瀬は、此処にいたって漸く自分が感じていた居心地の悪さが、一体何に基づいているのか気付いた。有利が…自分を見る目が、哀しそうだった訳。それは、同じグループの藤谷と自分がわざわざ席を離れた場所で話をしていて、そして、有利がトイレをしている間に去ってしまったから…

 有利は、友人達に《線を引かれた》と感じたのだ。

「違う…違うよ渋谷。確かにお前に聞かれたくない話じゃあったんだけど…そりゃ、お前を気持ち悪いと思ってたとかじゃなくて…」

 しどろもどろで言い訳をするが、本心を隠したままでそんなことをしようとしても、上手く説明できるはずもない。

 がたがたと揺れる車体…揺れる脳の中身…揺れる思考回路……

 指先は酷く冷たいのに顔だけは熱くて、目が細かく横揺れしているような感覚に見舞われながら、目の前の有利の表情がどんどん暗くなっていく。

 そんな顔は見たくない。 
 そんな顔をさせるつもりではなかったのだ。

「俺は…渋谷、お前のこと好きなんだよっ!そんなの…お前に面と向かって言えるわけないだろ!?」

 ぐるぐると回転する思考の果てに口から飛び出したその台詞に、有利は豆鉄砲でも喰らったみたいな表情でぽかんと口を開けた。

「好き?」
「そーだよもー…あーあ、もー…言っちゃったよコンチクショー!」

 ばりばりと堅い髪質の短髪を掻きむしり、黒瀬はそのまま両手で顔を覆ってしまった。

「勘違いすんなよ?俺は女の子好きで…」

『ゲイって訳じゃなく、たまたまお前のことを好きになっただけで…』

 典型的なBL定番の台詞を口にしようとしたのだが、その言葉は深い安堵の吐息でもって中絶された。

「そっかぁー…そうだったのか、安心した!そうだよな。黒瀬って男が好きって訳じゃないもんな。今、俺がこんな身体になってるせいで混乱しちゃったのかぁ…。気ぃ使わせて御免な?でも、安心しろよ。そのうち元に戻るからさ!」 
「え…へぇ……へ?」
「どうかしましたか?ユーリ」

 ブォン…と鈍い空気音を立てて車体間の扉が開くと、如何にもトイレに用がありましたよと言わんばかりのコンラートが声を掛けてくるが、その目線はさり気なく黒瀬の様子を伺っている。そして…ごく自然な動作で右腕をするりと有利の背中から腰にかけて回すのだった。

 新幹線での有利の席周囲はがっちり予約指定席で埋まっているため、コンラートは自由席に座っている。別にコンラートとしては立ったまま数時間有利の傍らに控えていても何の苦痛もないのだが、流石にそれは異様に見えるだろうし、何より周囲に威圧感というか…圧迫感を与えるだろうということで自重した。

「えへへ…何でもないよ」
「そう……何でもないデス……」

 なりそうだったけど、回避されちゃいましたヨ…。

「そう?それよりもユーリ、こんな所に何時までも立っていてはまた熱が出てしまいますよ?此処は暖房も効かないのに…身体が冷えてるんじゃありませんか?」

 そう言うと、大きな手でそっと有利のふた周りは小さい手を包み込むと、そっと持ち上げて唇を寄せる。

「こここ…コンラート!そこで唇つける意味あんの!?」
「俺の手も冷たい方ですからね。唇でないと分からないんですよ」

 さらりと笑ってかわすと、コンラートはそのまま有利の肩を抱いて席の方へと促した。

「あ…じゃあ黒瀬も早く戻ろうぜ?トランプとかやる?」
「うん…うん、やろう。神経衰弱でもセブンブリッジでも付き合うよ…」

『本当は、別の意味で付き合いたかったんだけど…』

 うっかり告白したのに微妙な関係にならなかっただけマシと思わなくてはならないだろうか?

 黒瀬はとぼとぼと項垂れながら歩いていたら、新幹線の突然の横揺れでしこたま側頭部を壁にぶつけたのだった。


 ……哀れ。 






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