虹越え3−2−2






 今日の煌姫は昨日とは異なる綾織りの着物を纏い、黒に金糸であやなす蝶が描かれた帯締めを豊満な胸の下できゅっと引き結んでいる。あえやかに寛げられたの胸元は胸骨下端まで開き、有利よりも熟した光沢を持つ胸の盛り上がりが、内側半分覗いているという扇情的な姿で、紅と藍の下地が覗く裾合わせからは、艶めかしい下肢がむき出しになっている。

 ただしその姿に色気を感じるかというと別の問題で、真っ赤になっているのは有利だけで、その手の露出に慣れきっているコンラートと水蛇には大した感慨は無かった。 

 そろ…と視線を有利の方にやれば、大きなコンラートの上着にすっぽりとくるまり、その合わせ目には初々しく肌理細かな肌がちらりと覗く。水蜜桃を思わせるその肌合いは思わず指でつつきたくなるような弾力に富んでおり、見ている者の眦を蕩けさせる…。

 どう見ても…こちらの清楚な胸の方がより煽情的である。

 今すぐあの上着を剥いてベットの上に転がし、あの可愛らしい胸に舌を這わせたい…そんな欲望がついつい脳裏を掠めてしまう。

 その辺りの思惑を素早く見て取った煌姫は、あからさまに不機嫌そうに眉根を寄せた。

「………水蛇…そなた衆道かと思うたら…両刀つかいであったか」
「…俺はもともと、別に男好きという訳ではないぞ?どちらかと言えば女のふくよかな身体が好きだが、それも精を抜くための道具として在ればよいだけ…有利に仕えておるのは、あくまでこやつが有利だからだ…」
「ほ…この妾に惚気を聞かせるつもりかえ?面白くない…妾は期待に背かれることが何より嫌いなのじゃ…っ!」

 そんなに勝手に期待して背かれたなどと言われても、巻き込まれた有利としては困ってしまう。

「あのー…よく分かんないんですけど、あなたは俺を女の身体にして、何をどうしたかったんです?期待外れだったんなら、そろそろ戻してくれません?」
「そなたを女体にしたのはこの水蛇めに一泡吹かせてやるためだったのじゃ。衆道好みだとばかり思っておったからの、そなたが女体になればさぞかし幻滅すると踏んだのじゃが…まぁよいわ。この邪淫まみれの男は、らしくもなく健気な忠誠心とやらを、そなた…有利とかいうたか?おのれに向けておるようじゃ。それこそ、そなたが望まねば指一本触れずとも耐えられる程にな。しかし…そもそもそなたは水蛇のことなど《男》とは思うておらぬようだが」

 水蛇はむっつりと押し黙り、ぎらぎらとした半眼の瞳で煌姫を睨め付けた。
 その眼差しで少しは胸のすく思いがしたのか、煌姫はころころと満足げな笑い声を上げた。

「ほほ…有利よ、そなたの身体は当分戻してやるわけにはいかぬ。その身体で男を銜え込むまではな。勿論、水蛇以外の男とな」
「男をくわえ込む?え…咬めってこと?」

 思わず、誰かの腕にぱくっと噛みつく自分の姿を想像してみる。

『それでなんでこの人が満足するんだろう…』

 ぽかんと呆けて居る有利の唇に、鮮紅色に彩られた爪先を沿わせようとした煌姫だったが、寸前でコンラートの手に阻まれる。

「触れないで戴きたい…」

 声は静かであったが…押さえ込んだ怒気が、暗赤色のオーラとなってコンラートの体躯から滲み出てくる。

「ほ…無礼な男じゃ…」

 気位の高い煌姫の行動をあからさまに阻害したのだ…紅蓮の劫火で灼かれてもおかしない状況なのだが意外と彼女は激することはなく、幾らか興味を引かれたようにコンラートの瞳を覗き込んだ。

「…決めたぞ」

 紅い虹彩の中にぽっかりと開いた瞳孔が…面白い玩具を見つけた子供のように拡大する。

「そなたがこの有利とやらに女の悦びを極めさせることが出来れば男の姿に戻してやろう。そうじゃな…取り敢えず、48手でも極めてみせよ」
「48手?相撲の決まり手の?それをクリアすると女の喜びが極められんの?」

 思わず、コンラートに《猫だまし》を仕掛ける自分を想像してみる。

『だからソレが何でこの人の満足に繋がるんだろう…』

 先程からさっぱり話が飲み込めない有利に対して、煌姫の思惑を理解した水蛇は青醒め、屈辱に耐えるように唇を噛みしめている。コンラートの方は流石に言われた意味が正確に理解できたわけではなさそうだが…その意図するところは通じているのか、その双眸を一層眇めていた。

「ほほ…これならば流石に堪えよう?そなたの最も愛おしんでおる者が別の男に抱かれるのだ。性技の限りを尽くして肉体を開発され、女として熟していく様を見届けるが良いわ。そうなっても尚、この童に仕え続けるつもりでおるのなら大したものと褒めてやろうぞ」
「…だ、抱くぅ!?」

 そこまで言われて、やっと48手というのが何かエッチな内容の話なのだと察する。

「ちょっと待った!あんた、何でそんな勝手なこと言ってるんだよ。そんな当てつけみたいなコトして、本当に楽しいのかよ?」
「楽しい」

 きっぱりと言い切られると反論の余地もない。

「妾は退屈するのが一番嫌いなのじゃ。この度のことは退屈凌ぎには最高じゃ」
「退屈凌ぎで女の子になったのか俺は…」

 有利は深く溜息をつく。

 もう…こんなのは御免だと思っていたのに…。誰かの思惑で人生を操作され、自分に選択権がないまま進路を強制されることは…。

 幾ら相手がコンラッドだとしても、いや…コンラッドだからこそ、有利はその条件を飲む事が出来なかった。

「コンラッド」

 有利は布団から出ると、真摯な眼差しで真っ向からコンラートの瞳を見つめた。

「俺、自分の力で男に戻れるように頑張ってみる。この胸の蝶を誰の力も借りずに必ず弾き飛ばしてみせるから…だから、俺がどんなにヘコんだり泣いたりしても、同情で俺を抱いたりしないでくれよ?」

 言われた途端…コンラートの面からは感情の色が消え、整った顔立ちだけにその造作は作り物めいて見えた。そして暫しの沈黙の後に紡がれた言葉にも…普段の余裕や柔らかさが感じられることはなかった。

「ユーリ…俺に抱かれるのは、やはり嫌ですか?」

 掠れたような低音に、有利は慌ててふるふると首を横に振った。

「そりゃ、折角だからプロの娼婦の人も唸らせる必殺技ってのも喰らってはみたいよ?でも、俺が嫌なのは…また力がある人の好きなように俺の人生を弄ばれちゃう事なんだ」
「ユーリ…」

 ふぅ…と、知らず溜息が漏れる。

『必殺技では殺すことになりますよ…』

 などと突っ込む元気もなかった。

 有利の性格から考えて、こういう事を言い出すことは十分考えられたのだが…それでも、面と向かって《俺を抱くな》宣言を出されるのは正直辛い。拒絶というのは、どうしたって心に堪えるものだ。

 しかし、この時…コンラート自身は欠片も気付いていないのだが、有利の発言に対する突っ込みどころはもっと重大なところにあった。

『喰らってはみたい』

 …要するに、コンラートに抱かれてその性技を体感することについては拒絶していないのである。勿論、言っている有利自身も気付いていないのだが…。

 この辺りのお互いの鈍さ加減が、明らかな両思いであるにもかかわらず関係成立を阻害している最大の因子であろう。

「俺はへなちょこかもしれないけど…だけど、俺は俺だ。渋谷有利なんだ。どんなにちっぽけでも、やっぱり俺の人生は俺が選んで進めていきたいんだ」

 たとえそれが結果として自分の望む道になったとしても、自分で選んだのとは違う気がするのだ。

『それにしてもなぁ…勇気を出してコンラッドを告白しようと思った矢先にこれだもんな…間が悪いったら…』 

 あと数日待ってくれれば、結果はどうあれコンラートの本当の気持ちを聞けたのに…今思いを告げれば、彼は如何にも以前からそうでしたよと言わんばかりに自分を好きだと言ってくれるだろう。有利を気分良く男に戻してあげるために…。

『だから、今は絶対言えない…』

「な?約束してよ」  
「…ええ、約束しましょう。全てはあなたの思うままに…」

 静謐なその微笑みは…優しげなのに何処か胸を突くような哀しみに満ちていた。その意味を計りかねて有利は小首を傾げたが、約束は取れたわけだから受け流すことにした。

「よし、じゃあそういうことなんで、俺は自分で何とかしようと思います」
「ほぉ…自分でな……それはそれで見物じゃな。それでは、お手並み拝見といこう」

 またしても高笑いを上げて煌姫は姿を消した。

「はぁー…」

 有利が深く溜息をついていると、戸をノックする音が聞こえた。ちらりと時計を見るとまだ午前6時10分で、7時から8時までに設定されている朝食の時間には早い。

「渋谷、居るんでしょ?具合はどうなの?」
「篠原!」

 扉を開けると、そこには不透明なピンクのビニール袋を抱えた篠原が居た。

「渋谷、身体はどうなったの?」
「あー…なんかさ、この通り」

 今は女の子同士という気安さもあってか、有利は羽織っていたコンラッドの上着をはだけると、膨らんだ胸を篠原に晒した。

「く…っ!あたしより良いプロポーションしてるわね…。何かちょっと悔しいわ」
「人工物だもん、そんな良いもんじゃないって」
「それより、あんたそのまんまじゃ困るでしょ?これ着なさいよ。おろし立てだから、後でお金だけくれればいいわ」

 そう言ってビニール袋を開けると、そこにはシンプルなデザインのスポーツブラとショーツが入っていた。

「これはフリーサイズだからカバー力は低いけど、緊急事態だからしょうがないよね。帰ったら丁度良いサイズの可愛いやつ一緒に探したげるわ」
「…い、いや待って篠原!俺こんなの着れないよ!ブ…ブラジャーって!」
「えー?じゃあどうすんのよコレ」

 篠原は無造作にぶぎゅると有利の右乳を鷲掴みにした。

「うっひゃ!?」
「Aカップくらいなら兎も角、あんたCは余裕であるんだから生チチなんて揉んで下さいって言ってるようなもんよ?それに、折角形良いのに垂れたりしたらどうすんのよ」
「ち…チチって垂れたりすんの!?」

 有利は胸元に上着を掻き寄せて涙目になっている。その姿は何とも庇護欲を誘い、ついでに篠原への嫉妬を煽る。

『くっ…俺だって…あの乳を思うさま揉んで嘗めて甘咬みしたいのにっ!』

 正直すぎる感想を抱きながら、コンラートは握り拳に力を込めた。

 …っていうか、篠原はそこまではやっていない。

「そういえばあんた何時までこういう身体で居るつもりなの?2.3日なら別に放牧状態にしてたってそんなに影響ないと思うけど、もし何ヶ月も何年も…って事になると、そりゃ重力と年齢に従って確実に垂れるわよ?」
「それがさぁ…どうもあの煌姫って女の人が上様への当てつけで俺をこういう身体にしたらしくってさ。男の身体に戻したきゃ、コンラッドと48手を極めろとか言うんだよ」

 ぶふっと親父臭い咳き込み方をして頬を染めた篠原は、口元を掌で覆って有利とコンラートとを見比べた。

「それはまた…初エッチから激しいわね…」
「激しいの?なんかエッチなことらしいのは分かったんだけど、48手ってナニ?」
「あたしも詳しくは知らないんだけどね、江戸時代の好き者さんたちが相撲の決まり手をもじって整理したエッチの型が48種類あるとか聞いたわよ?」
「はぁ…やっぱりエッチ系の話かぁ…それにしても48種類って…抱き合う形と後ろからいくやつしか分かんないよ」
「で、コンラッドさんともうやっちゃったの!?そ…その、2つをやったの?どうだった!?」

 流石に声を顰めてこそこそ囁くが、同様に声を潜めた有利の言葉に篠原は呆れてしまった。

「いや…断ったんだ。だってさ?いまあいつに抱いてなんて言ったら、同情でOKされそうなんだもん。だから、俺…自力でこの術を跳ね返そうと思ってるから、何時戻れるか分かんないんだよ」
「あんた…何処まで乙女思考なのよ…そんなもん、やることやっちゃえばそのうち気心も知れてそれなりに恋人っぽくなるわよ」
「でも俺…そういうの嫌なんだ……」

 潔癖なまでにそう言い張る有利に、篠原は再度嘆息を漏らす。

「…そう、じゃあ今からのこと考えようか。まずは、周りにあんたの身体のことを言っちゃうか、元に戻れるまで隠し通すか…その方針だけは決めなくちゃ」
「病気で乳が張れたってのはどうかな?股間までは風呂にでも入らなきゃ誰も確認しないだろうし」
「あー…そうねぇ、そういえば、肝炎なんかで性ホルモンの分解が不十分になると乳が膨らんじゃうって聞いたことあるし、急に女になりましたとかいうよりは通りが良いかな?でも、長丁場になりそうならやっぱり下着はちゃんとしたのつけなよ?」
「うーん…そう……します…」

 渋々了承した有利は、シャワーを浴びた後に下着を身につけ、その上から身体の線が出にくいように厚手のウールシャツとセーターを重ね着したのだが…やっぱりふっくらと膨らんだ胸と括れた腰…そして小振りだがくりっとした曲線を描くヒップはどうにも誤魔化しきれない。身長や顔の造作は殆ど変わっていないのだが、何処か表情がより甘い雰囲気を纏うようになっていて、心細そうな眉とも相まって愛玩動物のような印象を受ける。

「おかしいかな…コンラッド……」

 おずおずと上目遣いに聞かれると、コンラートは表情が緩まないように必至でセーブする必要があった。油断すると蕩け崩れてしまいそうだ。

「いっそ一段落するまで学校を休まれては如何ですか?」
「それは嫌だよ!」

 学校の話を出された途端、有利ははっとしたように面を上げて表情を改めた。

「俺…眞魔国からこっちに引き戻されてずっとヘコんでたときにさ、クラスの連中に励まして貰ったんだ…だから、あいつらとちゃんと思い出作っときたいんだよ」

 この先何時になるかは分からないものの、必ず眞魔国への道を開く力をつけるつもりでいる。だが、そうなれば有利の中の時間は、彼らとは流れ方を異にすることだろう。そもそも本格的に仕事として魔王業をやっていくつもりなら、そうそう地球に帰ってくる時間はなくなるだろうし、話題だって合わなくなっていくだろう…。

 そういう事情が全くなかったとしても、学生自体のこの数年間というのはとても特別な時間なのではないかと思う。試験が大変だったり、色んな規則に縛られて面倒だったり、退屈に感じられることもあるけれど…それでも、同じ年頃の子供が集まって損得抜きの関係でわいわいやっているこの時間は、とても貴重なものなのではないかと思う。

「俺は我が儘で、欲張りなんだと思う…でも、卒業まではちゃんと学校には行きたいんだ」
「そうですか…なら、ちゃんと気をつけて下さいよ?いままでは幾らあなたが魅力的でも男ということでセーブしていた連中も、女の子になったと分かれば目の色変えて襲ってくる危険性がありますからね?」
「うちの学校の連中は大丈夫だよ」
「何の根拠があって言ってるんですかね?」

 きょとんとして言い張る有利に、流石に眉間の皺を隠しもせずコンラートが反論する。

「だって…俺が《元男》なのを知ってるんだから、幾ら女の子の身体になってたって、オカマみたいで気持ち悪いじゃん」

『どの(可愛い)面を下げてそういうことを言うのかこの人は…』

 コンラートの嘆息は、篠原以上に深く…長いものだった。

「そう言えば、あいつに連絡しといた方が良いかな?」
「あいつ?」
「村田だよ」

 有利が鞄の中から携帯電話を取り出すと、ディスプレイには《村田腱》からの着信履歴が表示されていた。かけてみると、村田はいつもの揶揄うような声で通話を始めた。

『やぁ渋谷。そっちでなんかあったんだろ?』

「うん…実は……」

 有利が一通りの説明をすると、村田はコンラートに代わるよう指示してきた。

『やぁ、ウェラー卿…君も苦労するねぇ…。48手だって?さぞかしやりたいんだろうけどねぇ…』

「いえいえ…そもそも、俺には48手がなんなのか察しもつきませんし…」

 コンラートは如何にも清潔感の漂う爽やかな声でしれっと言ってのけるが、大賢者が納得する筈などない。

『またまたぁ…《眞魔国式閨房術の権威》と呼ばれる君がこの手のネタに食いつかない訳ないだろう?』

「そのように不本意な肩書きを持った覚えはありません」

『あれ?《奥義・性生活100》を極めたんだっけ?まぁいいや…とにかく、渋谷が望まないのならその技もそのまま奥義として隠し持っててよ。ちなみに君ももう分かっていると思うけど、48手というのはエロ方面に使われる場合は江戸時代に確立された性技の種類を指しているんだ。みんな、なかなか雅やかなネーミングが成されていてね、たとえば×××という技だと男が×××な時に女が×××して×××になるという技でね…。ちなみに僕は図も入った専門書を持っているんだけど…ああ…でも、知ってても渋谷にやってあげることは出来ないんだよね?じゃあ、知ってても意味ないかな?』

「ええ、俺には必要ないものですから、お借りする必要はないと思いますね」

『ふぅん…随分と我慢強いことだねぇ…』

「我慢など…常にユーリのお側にある俺に、そのような不満を抱く瞬間などある訳がございませんよ。昨夜も寝ずの看病を行いましたが、俺のような男が汗ばむユーリの素肌に触れ、その水蜜桃を思わせる柔らかな胸や…しなやかな下肢へと続く秘められた場所を伝う汗を拭かせていただけるなど、望外の幸福です…。ユーリも熱で心細いのか、何度も俺の名を呼び、すり寄ってこられましてね…それはもう可愛らしいお姿でした。汗に濡れた下着をお取り替えするときなど、恥ずかしがって身を捩るお姿がなんとも…」

 バシコーンッ!!

 いい音を立てて…うっとりと陶酔したように喋るコンラートの後頭部に、結構な勢いで張り手がかまされた。 

「ななななな………何ギュンターみたいなコト口ばしってくれてんだよコンラッド!」

 虚実入り乱れた説明に、昨夜の記憶がない有利は頬を真っ赤に染めてコンラートを叩き続けた。

「酷いですよユーリ…看病させて頂くのがとても嬉しかったというか、楽しかったと猊下にお伝えしてているだけなのに…」
「嬉しいはともかく楽しいってナニ!?看病ってそう言うモノ!?」
「俺にとってはそうでしたね」

 けろりとして言う男に、有利はもう一発張り手をお見舞いしておいた。



*  *  *




 和食中心のバイキングメニューをセレクトしていた黒瀬謙吾は、食堂に現れた予想外の人物に口をぱかっと開けてしまった。

「あれ…コンラート…さん。何で此処に居るんですか?」

 ちなみにコンラートは警備員服は流石にまずかろうと、ホテルの売店で購入したビジネススーツに着替えている。多少サイズが合わなくて、丈が微妙につんつるてんなのはご愛敬と言うことで…。

「修学旅行や研修旅行先で犯罪に巻き込まれるトラブルが増えているそうなので、同行することになったんですよ」
「はぁ…」

『じゃあ何で初日は一緒にいなかったんだよ…』

 という当然な疑問を浮かべる黒瀬だったが、コンラートの押しの強い笑顔に迫力負けしてしまい、それ以上は追求することが出来ない。しかも、その後ろからぴょこりと現れた人物にぎこちない挨拶を受け、それが誰なのか分かったときには…もうコンラートのことなど宇宙の彼方に飛んでしまった。

「おはよー、黒瀬。げ…元気?」
「え、うっ、あ、はぁ!?」

 少し普段より高い声で…《ふくっ》と《きゅっ》と《ぷくっ》となボディラインのこの人物は……黒瀬謙吾のセンサーに間違いなければ、渋谷有利君ではなかろうか?

 しかし、しかし…

「お、おまっ…お前……なんか今日…おかしくねぇ?」
「あー…それがさ、昨日の夜に熱出したろ?それで朝起きてみたら胸とか尻とかが異常に腫れてたんだよ。気持ち悪いだろ?」
「え…いや、気持ち悪くは…ない……ケド………」

 と、いうよりも、寧ろ……

『何時にも増して…』

 これまでは、時折閃くように《可愛い》と思っていたのが、なにやらもう…ぷりっぷりして生きの良い海老みたいに食欲…いや、何らかの欲を誘う愛らしさが滲み出ているような気がする。

「えぇ?マジ?その胸って腫れちゃったの?渋谷ちゃん、かーわいそぉー」

 あからさまに冷やかすような…悪意を含んだ声。

 嫌らしい笑みを浮かべて寄ってきたのは、顔も知らない他クラスの男子生徒だった。すると、その友人らしい2人の生徒達も寄ってきて有利を囲む。どれも悪そうな…それも気合いの入った悪ぶりではなく、如何にもチャラチャラした《俺ってワルなのよ》とでも気取っているような風体の連中である。

「熱が出ておっぱい腫れちゃったんだってさ」
「うっそ、マジー?熱とかで腫れたにしちゃ、立派な膨らみしてんじゃん」
「ちょっとエロいよな?」
「なぁなぁ、ちょっと見してみてよぉ」

 ニキビ面の男子生徒がにやにやしながら胸元を覗き込もうとするが、その動作は意外な人物に止められた。

「し…渋谷君っ!ご飯食べようよっ!朝ご飯…い、一緒にっ!」

 吃音(ども)りながら…頬を染め、泣きそうになりながら声を掛けてきたのは、クラスメイトの楠田由梨であった。性格のきつい女子が集まっている5組の中ではかなり気の小さい部類に入る彼女が、有利の手を引いて5組の生徒が固まっているテーブルに連れていこうとする。

「えー?待ってよこっちが先約…」

 ニキビ面の生徒が不平を口にしながら有利の肩に左手を掛けかけたその瞬間。

 轟っ…と吹き付けてくる冷気に人々の背筋は震え、戸外への扉でも開いたのかと辺りを見回るが、そんな様子はない。どうやらその出所が警備員、コンラート・ウェラーなのだと気付く頃には、悪ぶった少年達は顔色を蒼白に変えて小刻みに震えていた。

『何だ何だ!?』
『わ…笑ってる…爽やかに笑ってるのに……』
『何で真っ黒で怪しい気配が立ち登ってんだよぉぉっ!?』

 形だけは笑みの形に固定された琥珀色の瞳の奥に…残虐なまでの殺意が込められているのは気のせいだろうか?

 ああ…あの瞳の中では、脳裏では…一体どんな所行が行われているのか…。

 悪ぶり少年Aは手足を麻酔無しで鋸引きにされる感覚に見舞われ、
 悪ぶり少年Bは自分の股間の一物が飢えた獣に喰い千切られる感覚に見舞われ、 
 悪ぶり少年Cは腹を割かれて腹腔内に熱した油が注ぎ込まれる感覚に見舞われ………

「ご…ゴメンな渋谷っ!」
「身体大事にしろよっ!」
「腫れ、引くと良いねっ!」

 ぎくしゃくと、ゼンマイの壊れたブリキ人形のような動作で少年達は詫びを入れると、食事をした風もないのにその場からじりじりと後ずさり、2.3メートル離れた付近で猛然とダッシュしていった。 

「なんだぁ?」
「ま、気にすんなよ渋谷…それよか、飯でも喰おうや……」

 黒瀬はコンラートに脅された少年達の姿に自分を重ね、しみじみと思った。

『ああ…アレはしょうがないよ。怖がってもしょうがない…あんな人外の気配で凄まれて平気な顔をしてる奴が居たら、そいつは危機的状況への反射能力に欠ける奴だよ…大脳皮質よりも辺縁系辺りが《ピンチですよ》って警報だしてんだもん…』

 そういった意味では、幾ら敵意を向けられる対象ではないとはいえ、あんな至近距離でコンラートの殺気に気付かない有利というのは、鈍いのか大物なのか…判然とし難いところであった。

「渋谷君…平気?」

 楠田は有利の袖口を指でちょいちょい引っ張ると、気遣わしげに覗き込んできた。

「楠田さん、声掛けてくれてありがとうな。変な絡み方されてて、嫌だったんだ」
「う…ううん!?あたしなんて、結局何の役にも立ってなかったよ!あの人達が行っちゃったのは…」

『コンラートさんの迫力勝ちだよ?』

 言いかけた楠田だったが、有利の背後で苦笑しながら《しぃ…》という感じで人差し指を唇の前に立てているコンラートを見ると、もきゅっと口を閉じた。どうやら彼は、あの人外の恐怖に満ちた姿を有利に晒すつもりはないらしい。

「それに、一緒にご飯食べたかったのは本当よ?ねぇ、あっちにみんないるから行こうよ。ほら、黒瀬君もコンラートさんも!」

 ちなみに、上様は久しぶりに一人で散策してみると言い残して別行動をしている。どのみち妖怪というのは快楽追求の一環として食物摂取を行うことはあっても、生命維持のために必要というわけではないらしいので、三度三度の食事というのは採らないそうな(食べた分は異空間にでも行くのか?)。

「渋谷、さっきの何だったの?」

 下着を渡しに来てから部屋に戻り身支度をしていた篠原を筆頭に、テーブルには5組の生徒が多く揃っていて、先程のやり取りの間もコンラートの牽制がなければ参入を計ろうとしていた生徒も何人かいた。

「んー…、胸のこと揶揄かわれただけだよ」 
「だけって…!何かいやらしそうな感じだったわよ?…ぶん殴ってやりたかったわ」

 篠原は勇ましく、ぱんっと音を立てて右の拳を左の掌に叩きつける。

「殴ったら篠原が捕まっちゃうよ…でも、ありがとな」

 はにゃりとはにかむように微笑うと、白い花房が風の中で揺れているような…胸がほっかりする様な雰囲気が辺りに漂った。

『心配してくれて…ありがとうな……』

 しみじみと感謝の念を胸に抱くと…鳩尾に刻まれた蝶がぽぅ…と熱を持つような気がした。それも、昨夜のように魘されるような熱暑ではなく…春の日だまりのような暖かさで…。







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