虹越え3−10−1







 何か暖かいものにすっぽりと包みこまれて、懐かしいような…慕わしい気持ちで一杯になるような香りを吸い込んで、有利は少しずつ意識が清明になっていくのを感じた。

 身体中が疲れ切ってくたりと力が抜けているのに、妙に幸せな気分がするのが不思議だ。

「ん…」

 瞼が透けて視界が卵色になると、淡い光に照らされているのだと知れる。

 重い瞼をようよう開いてみれば、目の前に映し出された思いがけないものに《まだ夢を見ているのか》と疑ってしまう。

 コンラートが、眠っている。

 それも、有利にぴたりと寄り添って…大切な宝物のように腕の中に包み込んだ状態で…。

 《恋人同士なんだから当たり前じゃないか》等と無粋な言葉で指摘しないで欲しい。

 自分たちにとって、コレはとんでもなく特別な事態なのだから。

『ほんとに…眠ってる……』

 すぅ…すぅ……っと、耳を澄まさないと聞こえないくらい微かな寝息を立てて、ぐっすりと眠り込んでいるコンラート…人当たりの良さとは裏腹に警戒心が強く、決して人に急所を晒さない男の希有な姿に、有利はふくふくと胸に込み上げてくる幸福感で思わず声を上げてしまいそうだった。

『俺の前で…眠ってる!』

 泣きたいくらい幸せで、手当たり次第に感謝したくなってしまう。

 実際、有利は暫くその幸福感に酔いしれて、飽かず恋人の寝顔を注視し続けていたのであった。

『わー…コンラッドでも髭って生えるんだぁ。薄茶色の髭だー…グウェンぐらいの年になったら伸ばしても恰好良いんじゃないかな?』

 恐る恐る指を伸ばして顎に触れてみると、微かに伸びた髭で指の腹がちりりと刺激される。触れた感触には流石に反応して眉がぴくりと震えたが、宥めるように頬を撫でつけると、満足そうに微笑んでまだ規則正しい寝息を立て始める。

「わー…っ。コンラッド…可愛いなぁ……」

 語尾にハートマークが飛んでしまいそうだ。思わず頬や額や唇に、触れるだけの軽いキスを幾つも幾つも落としてしまう。良くコンラッドが自分にするその動作が、何故なのか分かったような気がする。相手のことが可愛くてならないと、そうせずに入られないものらしい。

 調子に乗って、ちょっと時間を掛けて唇の感触を自分のそれで確かめていたら、くるりと一瞬にして身を転がされて…コンラッドに押し倒される形になった。

「…え?」
「おはようございます、ユーリ…身体は辛くない?」

 あまりに素早い動作に、実はもっと早くから覚醒していたのではないかと疑うが、欠伸混じりの声と眩しそうに目を眇めるその動作にほっと息をつく。幾ら眠っていても、あれだけキスを仕掛ければそれは起きるだろう。やっぱり、さっきは眠っていたのだ。

「辛いって…どうして?あれ…俺、昨日どうしてたっけ?そういえば、ここどこだ?」

 身じろげば身体がやけに重い。まるでマラソン大会で妙に頑張ってしまった次の日の疲れを5倍くらいにしたような感覚だ。

「ここはホテルですよ。昨日のこと…覚えてますか?」

 言われて辺りを伺えば、取り敢えずアラーム機能のついたデジタル時計で、時刻が10時過ぎだというのは分かった。

 更に観察してみると、室内は落ち着いたノーブルバイオレットと黒を基調とした洒落た内装なのだが…微妙に手狭なのと、修学旅行で泊まったホテルとは些か異なる雰囲気を呈していた。なんというかこう…妙に艶めかしいライトの光量とか…さり気なく置かれた籠の中にカラフルな真空パックの輪ゴムっぽいものがあるとかいった風景が、何かを思い起こさせる。

『ラブホテル…?』

 ドラマなどで見かける情報と一致したことで、何となく場所の察しはついた。

 しかし、何だってこんな所にいるのだろう。そして、どうして二人とも真っ裸なのだろう?いや、それは寧ろラブホテル的には当然なのか?

「俺…そうだっ!変な薬を飲んじゃって…それで……」

 有利は少しずつ蘇ってくる記憶に、先程まで自分を包み込んでいた幸福感を吹き飛ばされてしまった。

 不用心にも差出人が不明の飲み物と菓子を口にして、ヨザックに胃洗浄をして貰ってもその効果が消えなくて…

 ヨザックに、唇付けて…

 そのことを思い出すと、申し訳なさで身が縮こまってしまう。

 ヨザックは有利を抱きましょうかと誘ってくれたが、その申し出を堅辞して耐え続けていたら、コンラートが現れて…

 そこからは、何だか断片的にしか覚えていない。

 ショッキングピンクを基調とした…極彩色のペンキをひっくり返したような記憶の色のなかで、はずかしげもなく腰を振って乱れて、コンラートが欲しいと叫んでいたような気がする。

 それでどうしてあんな幸福感一杯で眠っていたのか…自分の感覚が信じられない……。

「コンラッド…ご、ごめんな?何か俺…確か……あんたが嫌がってたアレをやっちゃったような……」
「ああ、フェラチオですか」
「ぐぁーっっ!直裁に言わないでぇっ!」   

 さらっと至極爽やかに言い放たれてベットから転げ落ちそうになってしまう。すんでの所でコンラッドの腕に抱き留められて、その感触でふと自分の《異常》に気付いた。

 正確に言えば《異常》というのとは違うかも知れない。

 寧ろ、《正常》に復したと表現すべきだろうか?

「俺…戻ってる?」

 絡みついていた上掛けを捲れば男の象徴が在るべき場所に鎮座していて、何とも言えない安心感に満たされる。やはり、親から貰った身体はそのままの形が最もしっくりくるように出来ているのだろう。

 すらりと細かった腕にはささやかながら筋肉の張りと膨らみが蘇り、ふっくらとしていた胸はつるりと平坦になり、突起の大きさもちんまりと小型に復している。タトゥーのように刻まれていた蝶の姿もない。

 辺りを見回せば、蝶はふわりふわりと…窓辺の辺りで何となく所在なげな風情で飛んでいる。その様を寂しげに感じて無意識に腕を伸ばすと、くるりと旋回して嬉しげに指先へとすり寄ってきた。蝶なりに気を使っていたのかも知れない。

 指先に、忠誠を誓うようにそっと寄せられる触角から…仄かな温もりと共に言葉が伝わってきた。

『我が契約は解けり。我は己の意志に従い、貴公に永遠の忠誠を捧げる者なり…』

「ありがとう…俺の力に、なってくれるんだね」

 照れたように微笑む有利の様を、コンラートは柔らかく…陽光を受けた蜂蜜のような瞳で見つめるのだった。

「あれ?…そういえば、何で蝶の契約って解けたの?確か、四十八手とかいうのはどうなったんだっけ?」

 そもそも、それがコンラートと同居を始めるきっかけになった筈だ。

「俺にもよく分かりませんが、確か…煌姫はあなたに《女の悦びを極めさせる》と言っていましたよね?四十八手というのはあくまで例えだったのだとしたら、それを成し遂げたことで蝶の《契約》は解除されたのかも知れませんね」
「う…つまりそれは……俺が《女のヨロコビ》ってヤツを体感しちゃったって事?」

 男のヨロコビも味わい尽くしていないと言うのに、何故先にそっちを……。というか、

 その凄まじいばかりのヨロコビとやらを殆ど覚えていないのだが…。

「……俺、そんなに狂喜乱舞してマシタ?」

 恐る恐る尋ねてみると、コンラートは相変わらずイイ笑顔を浮かべて爽やかに言ってくれやがった。

「あなたは感じやすいから…あんなに気持ちよさそうに絶頂を極める人はなかなか居ないと思いますね。充実感に溢れているというか…昨夜、あなたが8回目の頂点を迎えられた頃だったかな?とても気持ちよさそうに嬌声をあげられたかと思うと、高い熱を出して少しずつもとの身体に戻られたんですよ」
「は…8回!?」

 信じがたい数字にぎょっとして息を呑む。

「ええ、あと1回出来れば試合成立…という感じでしたね」
「野球か!うわぁ〜……こ、コンラッドは平気だった?腰とか痛くない!?疲れただろ?」
「いえ、我を忘れて乱れる有利の姿が大変秀逸でしたし、あなたにフェラチオをやっていただくというのも、多少恥ずかしさはありますが…予想外に気持ち良かったですし、なんと言っても俺のものを銜えて頬を染めるユーリのビジュアルがなんとも淫猥で…」

 まるでオペラの感想を述べるかのような流暢で品のある話しぶりに、有利は身もだえしてベットの上を転げ回ってしまう。 

「ぐはぁっ!後生だからその辺追求しないで!」

 くすくす笑いながらとんでもないことを言ってくれるコンラートに悲鳴を上げてしまう。何か言い返してやりたいが、口で彼に勝つのはとんでもなくハードルの高い難事業である。

「すみません、意地悪が過ぎましたね」

 熟れたトマト色に染まる有利の頬を撫でつけると、コンラートは身を起こして唇を寄せてくる。

「ん……」

 唇を辿る舌先をおずおずと受けいれれば、するりと入り込んできた舌が誘いかけるようにちょいちょいと有利のそれをつついてくる。不器用ながら応えて舌を差し出せば…蕩ける様な唇付けに酔わされた。

「はぁ……」

 満足そうな吐息に微笑するものの、コンラートは何かを思いだしたようにその秀麗な眉を顰めた。

「結果的に事態が好転したものの、薬の事では焦りました…あなたに何かあったらどうしようかと血の気が引く思いでしたよ……」
「ご、ごめんな…?」
「けれど、今回のことは俺が自己開示をするためには効能があったように思います」
「自己開示?」
「あなたという存在を深く受け容れるということは…つまりは俺が自己に内在するものを開放するということですからね。あなたに強く求められて、全てを与えることで自分でも不思議なくらい満たされたように思います。ほら…こんな風に、抱き合って朝を迎えるなんて、昔の俺からは想像がつかない…」

 微笑む表情は少しはにかむような色を含んでいて、それがとても愛おしく感じられる。

「えへへ…俺も、何か今朝凄く嬉しいような気分で目が覚めたんだ…コンラッドが、居てくれたからだよなぁ?」
「俺も、目覚めたら目の前にあなたがいて…おまけにとても楽しそうな表情でキスをして下さるものだから…それはそれは幸せな気分でしたよ。ただ…」

 最後だけ申し訳なさそうに言い淀むものだから、どきんと変な具合に心臓が跳ねる。この幸福感に水を差すような何が、コンラートに起きたというのだろう? 

「た…ただ……ナニ!?」

 ドキドキしながら尋ねると、コンラートは眉を顰めて口元を覆ってしまった。

「このことを口にしていいものかどうか…あなたの怒りを買いはしないかと不安で……」
「何だよっ!そこまで言って止められたら余計に心配になるじゃんかっっ!早く言ってよっ!」
「怒りませんか?」
「内容による」

 意外と冷静な有利の発言に苦笑しつつ、コンラートは両の掌でそうっと有利の頬を包み込んだ。

「また…あなたを抱きたくなってしまいました」
「………………………え?」

 思わず目がぱちくりと見開かれ、口が真一文字に広がってしまう。

「………あの…………コンラッドは、昨日の晩…そのぅ……何回くらいイッたの?」

「そうですね。あなたの負担がなるべく減るようにと、成る可く抜かないまま続けようとしたのですか…それでも我慢できずに4回はイッてしまいましたかねぇ…すみません」
「いや、それ謝るトコじゃないから…つか、薬やったわけでもないのに4回って凄いんじゃないの?出し尽くしたんじゃないの?」
「不思議ですねぇ…何時でも発射オーライな感じですよ?」

 にっこりと綺麗に微笑む姿とは裏腹な、場末の酒場調おっさんトークに腰が砕けそうになってしまう。

「ね…ユーリ……抱いても良い?」

 艶を増した声で囁きながら、耳朶を甘く咬むのは止めて欲しい。しかも、こんな時に限って敬語を使わず、お強請り口調で言われた日には……どんなことでも聞いてあげたくなるではないか。

「こ…コンラッドが本当に辛くないんだったら…抱いて?でも…俺、男の身体に戻ったわけだし……ぬ、濡れたりしないわけだから……あんまり気持ちよくないかもしんないよ?」

 自分で言って不安になってしまう。

 コンラートは男の自分を好きになってくれたとは言っていたけれど、エッチなことを始めたのはあくまで女の身体の時である。元々ストレートな性向の彼が、ナニを好きこのんでこんな未成熟な男の身体など欲するだろうか?

「グリ江ちゃんみたいに立派な筋肉とかないし…」
「あなたなら筋肉がついても可愛いと思いますが、ヨザを引き合いに出すのは止めて下さい…萎えそうだ」
「じゃあ、アーダルベルトとか……」
「あの割れ顎を俺にどうしろと?…というか、何故マッチョ繋がり?」
「いやぁ…なんとなく……」
「……ユーリは、俺にもっと筋肉があった方が良かったですか?」 

 勿論優秀な軍人であるコンラートは全身柔軟性に富む筋肉に包まれているが、戦闘用に鍛え上げられたその身体はしなやかであり、腰などは細いと表現してもいいくらい引き締まっている。有利の憧れる外野手体型というよりは、ピッチャー体型に分類されるだろう。

「んー…コンラッドはそのままが良いかなぁ…そりゃ、筋肉がついてもお腹が出てもそれなりに微笑ましいと思うけどさ」

『……………あなたに突き出た腹を見られるくらいなら、どんなに年を取っても血反吐をはくまで腹筋します』

 ええ恰好しいと言われそうなので、そっと心に呟いてみるコンラートだった。

「とにかく、俺はあなただから愛おしいのであって、筋肉フェチというわけではありませんから…」
「そう?こんなんで良い?色気とか全然ないのに…本当に抱きたいって思う?」

 頬を染めて上目遣いに覗き込んでくる仕草に、コンラートは前転しそうになってしまう。

「……あなたはもう少し自覚なさるべきですよ。今…どれだけ色っぽい顔をしていたか分かっていますか?俺以外の前で、絶対にそういう顔をしないで下さいよ?」
「あんたって嗜好が変だよなぁ…マジで色っぽいって思ったの?…んんー…まぁ、蓼食う虫も好き好きって言うもんな」

『分かってない…………』 

 相変わらずのニブチンぶりに、些か彼の日常生活が危ぶまれる。やはり、現在の警備体制は見直すべきだろうか?

「そういえば、グリ江ちゃんは今どうしてんのかな?昨日、テレビ局出てからの事って断片的にしか覚えてないんだよなー…」
「あいつのことだ、その辺で食事でもしているでしょう」 
「あー…食事かぁ……」

 うっとりと伏せた瞼に何が映っているのか、手に取るように分かってしまう。

「…シャワーを浴びたら食事を採りましょうか?昨日吐いているから食道が灼けて上皮が荒れているでしょうから、冷ましたお粥を少しずつ召し上がった方が良いと思いますが」「いいの…?そのぅ……エッチは?」
「あなたを空腹で力尽きさせては切腹ものですからね」
「切腹の習慣なんて眞魔国にないじゃん」

 けらけら笑う有利を抱きかかえるようにして風呂場へと運んでいく。まあ、焦ることはない。今日は土曜日で、しかも恋人達の超ビック・イベント(らしい)バレンタインデーなのだから。自宅に帰ってから浴びるほどいちゃつくこともできる…。

 この時、コンラートの心は凪いだ瀬戸内海のように穏やかであった。

 それが厳冬期に時化を迎えた日本海並の大荒れとなるのは、この2時間ほど後の話である。



*  *  *




「家に帰れ?」
「そう、君は実家に帰るべきだよ渋谷有利」

 ぽかんと口を開ける者と、冷徹極まりない表情で眼鏡のツルを押し上げる者…。

 どちらがどちらだとは説明するべくもないが、眞魔国の魔王と大賢者とは暫く無言で視線を交わした。

 傍らでその様子を見守っている護衛は表情を完全に消して優雅に鎮座しているが、その凍るような視線はつんつんとオレンジ髪のお庭番に突き刺さっていく。

 落ち着いた造りの日本料理屋には十分な暖房が掛けられ、戸口もきっちりと閉まっているはずなのだが…2月の外気よりも強い凍気がどこからか吹き込んでくるようだった。

 グリエ・ヨザックは冷え切った珈琲に満たされる白磁のカップを手にしたまま、口を真一文字に結んで懸命に視線を逸らした。

『俺がお呼びした訳じゃないんだけど……』

 そう、風呂でさっぱりしてヨザックに買っておいて貰った服(ちなみにサイズと色、ブランドの指定をしたのはコンラートである)を着込んだ有利は、コンラートに気遣われながらお粥をゆっくり食べていたのだが、そこに現れた大賢者様は大変ご立腹であった。 

 何故かと言えば、昨日の夕方になっても有利に取り付けていた発信器が見学先のテレビ局から動かず、しかも夜になって移動していった先がコンラートの家ではなくホテルだったものだから、一体どうなっているのかと何度も電話をしたのに、応答がなかったせいらしい。ヨザックは昨日有利の携帯を使用した際にメールや着信履歴の表示が出ていることには気付いたのだが、それどころではなかったためにそのままコンラートに電話してしまったのだ。お陰で嫌みの飛礫で身体を打ち抜かれる程に苛められてしまった。

 ちなみに、コンラートは村田の電話に気付いていたが、こちらは故意に無視をした。悪気があったわけではないが、有利の愛撫に集中したかったのである。彼も村田の嫌みに晒されはしたのだが、ヨザックよりも厚いらしい面皮の庇護の元、特に気にした風はない

「え…でも、俺…コンラッドの家に引っ越ししてきたばっかりだし……」
「そうだね、でも何故引っ越さなくてはならなかったか…その理由は覚えているだろう?」
「うぐ…」 

 適度に満たされた腹は先程までもっともっととお代わりを要求していたのだが、急に喉がつかえてしまい、胃壁が引きつれるような感覚がしてくる。

「君のご家族は、君をもとの姿に戻らせてあげたくてウェラー卿との同居を認めたはずだよ?なら、念願適って元の姿に戻れたんだから、すぐに家に帰るのが筋だろう?それもずっとってわけじゃない。高校を卒業したら好きにしていいと言ってくれてるんだから」
「そりゃ…そうだけど……」

 でも…ほんの1週間程度しか同居していないのだ…もう少し余韻を味わったって良いと思うのだが…。

「渋谷…分かってるのかい?君は四大元素の力を手に入れたら眞魔国に帰ると言ったんだよ?そして実際、君は既に3つの力を手に入れている。そのことは本当に頑張ったと褒めてあげたいし、僕だって素直に凄いと思ってる。だけど、君は本当に眞魔国に戻るということがどういうことだか分かっているのかい?」
「…王様に……戻るんだよな」

 少し前の自分だったらこう言っただろうと即座に思う。

『そんなの、俺は眞魔国のみんなに会いたいだけだもん。王様業はグウェンがやってくれるよっ!』

 けれど、今はそれがどれだけ羞じるべき言葉なのか理解している。

 今こうして抗いきれない力で地球へと張り付けられて、眞魔国の魔王業から遠ざかっているのは有利の責任ではない。だが、世界を渡る力を身につけてなお、魔王業は嫌だと言いだせば、有利は大切な約束や信義を反故にすることになるだろう。

 あの…一本気で、眞魔国を愛してやまないフォンヴォルテール卿グウェンダルが渋谷有利の政治方針を引き継ぎ、二度と王が戻ることがないとしても、生涯を《国王代理》として業務を続けていくのだと伝えられたとき、その重さに震撼した。

 そして同時に…泣きたくなるくらい彼の想いが伝わってきた。 

 彼は…グウェンダルは信じてくれているのだ。

 渋谷有利という《へなちょこ王》が成し遂げようとしたビジョンが、眞魔国の幸福に繋がるのだと信じて、困難な業務に精勤しているのだ。それがどれほどの苦難を伴うのか、膨大な労苦と時間と…グウェンダルの編みぐるみ作成時間の削減を必要とするのか…今の有利には幾ばくかなりとも理解することが出来る。

 だから、有利が世界を渡ると言うことは、客人として訪問するのではなく、王として戻ると言うこと。

「王様になるからには…もう、こっちに戻ってくることは凄く少なくなるよな…もう、学生でもないわけだから」

 それはすなわち、地球に住み続けるであろう家族との別れを意味するのだ。

 もちろん行き来は可能なのだから、完全に別れてしまうわけではない。会おうと思えば何回かは会うことが出来るだろう。だが、ごくごく当たり前に朝起きたら寝惚け眼で挨拶をして、夕食時になんということはない話をしながら笑い合う日々は、きっと今だけの特別な時間なのだ。

「…村田、ありがとうな。村田の言うことはいつも耳に痛いけど、だけど…大事なことを言っててくれるのは分かる。親父やお袋…ついでに勝利のヤツとも、べったり家族としてやってれるのって、この調子で要素が揃うなら、もう少しのことかも知れないんだよな」
「…………理解いただけて良かったよ」

 ちょっと拍子抜けするくらいの聞き分けの良さに、内心村田は肩すかしを食らってしまう。もっと子どもっぽい理由でごねられるかと思ったのだ。

「コンラッド、俺…引っ越しの準備して、月曜日には家の方に戻るよ…」
「あなたのお望みのままに…」

 コンラートの笑みは静かで…返事は極めて簡潔であった。

  

*  *  *




 コンラートの家に戻り、携帯電話を確認してみると、春日野からも何回もメールや電話があったようなので掛けてみると、彼は電話口で何度も何度も《すまなかった》と繰り返し、そのうち泣き崩れてしまったようだった。有利は言葉を尽くして自分を責める春日野を慰め、結局ヨザックの胃洗浄のお陰で酷いことにはならなかったからと説明した。

 そして、気に病むあまりダンディ・ライオンズを辞めたりしないことと、事件報道が自分に及ばないように口裏合わせをする事だけ念押しして電話を切った。

 ふぅ………

 胸郭の空気全てを吐き出すような深い吐息が漏れると、急に疲れを感じてそのままころりと横になる。毛足の長いラグが優しく頬を撫でるのに擦りついていくと、無骨で大きな掌が髪を撫でつけてくれた。

「ユーリ…」
「コンラッド…ごめんな……」
「いいえ………」

 コンラッドの声は優しく仕草も穏やかであったが、有利が実家に帰ると分かってからと言うものの、ずっと言葉少なであった。

「……怒ってる?」
「どうして?猊下の仰ることは尤もですし、以前の通り、休日には遊びに来て下さるのでしょう?」
「うん…そうだよな」

 けれど、口にしない思いが彼にはあるような気がして…落ち着かない。  

 結局そのもやもやは夕刻になり、渋谷家に状況説明に行く迄の間も変わることはなかった。






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