虹越え3−1−2 岩手県盛岡市に着くとまず昼食にわんこ蕎麦を食べ、その後は3〜4クラスづつ別れての行動となる。流石に10クラス全てでは動きにくいからだ。 4組から6組は、雫石町にあるゲレンデで早速スキー実習と相成った。 スキーの道具や服は全てレンタルで、みんなお仕着せのピンクや青のスキーウェアに包まれているので、一同に揃うとなかなか壮観である。 実習は20人1セットで1名のインストラクターが付くのだが、当てはまった人物によって、セットになった生徒達は悲喜こもごもの感想を漏らしていた。 「普通さぁ…スキーウェアにゴーグル付けててスキーが上手ければ、誰だって2割り増し美形に見えるもんじゃない?」 「じゃあ、街中ならあれより2割引で更に不細工大放出って事じゃない?」 有利達のグループに振り分けられたのは30代後半の男性で、《その体型でよく…》と感心するくらいの重量感を呈していた。ゴーグルが顔の肉に埋まっている様は、肉まんに何かを埋め込んでいるような質感だ。 しかしキャラクターとしては面白い人だし、そもそも、そんな体型で見事な滑りを見せるという予想外の動きにギャップがあって、普通に滑っているだけで笑いが取れるという、お笑い的には美味しい人であった。ちなみに、名前が《多摩玉美》なのも親は狙ってつけたのかと疑ってしまう填りぶりである。 「やーん、多摩ちゃん結構教え上手で良かったねー。話も面白いしさ」 「篠原、さっきまで文句言ってたくせに」 現金な篠原の発言に有利は苦笑してしまう。 「それにしても、渋谷って意外とスキー上手かったのね?」 「意外は余計だよ!」 眞魔国でコンラート達と旅行に行った折りに習い覚えた技が役に立った…。何しろ、向こうのスキー板などの道具レベルから考えれば、こちらのそれは実に親切設計なので、ちょっと余裕を持って滑れてしまうのだ。 有利のグループは他の生徒も大体滑った経験のある生徒ばかりだったので、一通りこの周辺の注意事項を聞き、何度か近場で滑るとすぐにリフトに乗って上がることになった。 そして何度か滑り降りたりする内に篠原は何度か転んでしまい、お尻の辺りが濡れてきたのを気にし始めた。 「やだー…なんかびしょびしょ…」 「着替えに帰ろうか?」 「ん、一人で良いよ。時間まだあるし、渋谷…結構上手いんだからもっと滑りたいでしょ?」 「いーよ。もう一杯滑ったし」 そう言って、さり気なく有利は篠原の抱えていたスキー板を自分で抱えた。 篠原が先程転んだ際に、少し足を捻ったのを気に掛けているらしい。 『相変わらず、こういうところ優しいのよね…』 振られた身としては妙な期待をしてしまいそうでなんだが、既に有利個人に大きな興味と友情を感じてしまっている篠原にとっては、そういった心遣いを拒絶することは出来ない。 「ねぇ…渋谷、あれから好きな人とか出来た?」 がちゃちゃっ!と音を立ててスキー板を取り落としそうになった有利の様子に、分かり易過ぎて苦笑してしまう。 「やっぱり…できたんだ」 「えぇと…その……」 顔を真っ赤にしてもぐもぐやっている有利に、篠原は悪戯っぽく笑い掛けた。 「誰?、ねぇ…教えてよ。友達でしょ?そういうの、一番に知りたいな?告白はしたの?上手くいった?」 「そりゃ友達だけど…プ、プライベートな話だしっ…!」 おろおろと慌てふためく様子に、篠原は片眉を上げた。 「……なんかおかしいなぁ…。渋谷って、思い切りは良い方だよね?キツイ女ってことで定評のあったあたしに直球勝負掛けてくるぐらいなんだから…」 「うぅ…そのせつは……」 妙な脂汗を額にかいて、視線すら合わせない有利に篠原は鎌を掛けてみた。 「やっぱりそうなんだ…渋谷って、禁断の恋に填っちゃったのね?」 ひゅーっと笛鳴声を上げて青ざめ、勢いよく振り返った有利に篠原は畳みかける。 「コンラートさん…とか?」 「ちちちちちっちがっち、ちががっっ!」 今度は赤くなっておたおたしている。 篠原は何となく《やっぱり…》といった表情を浮かべ、呆れたように髪を掻き上げた。 「いーんじゃないの?好きになっちゃったんならさぁ…。あたし、応援するよ?」 『あたし以外の女と引っ付くくらいなら、あのくらい完璧な男と引っ付いてくれた方が、友情関係は維持しやすそう…』 この辺り、打算的な篠原である。 「違うよ…コンラッドは……そ、そんなんじゃ……だって、お、俺のこと構い倒して、可愛がってはくれるけど、俺のことそんな風には……」 「あたしが言ってんのはあんたの事よ、渋谷有利?コンラートさんがどうかなんて今は関係ないでしょ?」 「俺は…」 篠原は有利の手を引っ張って林の中に連れ込むと、頬をぴたぴたとはたいて凄んで見せた。 「渋谷、その様子だとちゃんと気持ち伝えてないんでしょ?」 「…だって、め…迷惑だろうし……コンラッドは優しいから、凄く悩むだろうし…気を使ってさ、同情で俺と付き合ったりされたら居たたまれないし……」 「馬鹿ね渋谷、コンラートさんはあの通り大人でしょ?その辺はきっとたてわけ出来るわよ。了解なら了解、駄目なら駄目ってちゃんと言ってくれるんじゃない?それで駄目になるようなら、どのみちその程度の関係なのよ」 「う…」 「あんた達の関係って、片方が一方の希望と違う好きになり方をしたら、駄目になっちゃうくらいなもの?」 沈黙が生まれたが、それは自信がないからではなく…有利が自分で自分の中にある何かに問いかけて、答えを確認しているためだと分かる。 彼らの間には、付き合いの浅い篠原には想像するしかないが、何かとても深い繋がりがあるように思うのだ。それを反芻するだけで、おのずと答えは出ると思う。 「…それは、違うと思う」 案の定、数拍の後に出された答えを言うとき、もう有利の瞳は揺れていなかった。 「そうでしょう?だってさ…あたしは昔あんたのことを振ったし、あんたもこないだ、あたしのこと振ったんだよ?でもさ…それでもこうしてちゃんと友達やってるでしょ?それってさ、あたし、あんたにそれだけの価値があるからだと思う」 「篠原…」 普段はひねくれた言動の多い彼女だが、腹を括ったときの率直さは目を見張るものがある。何かをどうしても伝えたいとき、彼女は言葉を飾ったり、誤魔化したりしない。突き込んでくる剥き身の刃のように懐に斬り込んでくる。 「あたしにも、そんだけの価値があると思うから、こうして友達やっててくれてんデショ?そんならさ…コンラートさんが可愛い名付け子がシモの方でもお世話になりたいって言ったくらいで変な関係にはならないわよ」 「シモ…」 先程から、返答が断片的になりがちな有利だった。 「まぁ…社会通念的には変と呼べる関係になりたいのかもしれないけどさ…少なくとも、同情で付き合うなんて、本当にあんたのことを思ってるなら出来る訳ないわ。どうしたって何処かで気付くもんでしょ?そのくらい、あの人は分かってるわよ」 「そうか…そうだよなぁ……あいつ、モテるんだから、今まで色んな人振ってるだろうし…その中には友達としては凄く大事な人なんだけど、恋人には出来なくて…っていうパターンもきっとあるよなぁ?」 何しろ彼は老若男女にモテまくっている訳だし、人生経験だって百年以上もあるのだ。相当な恋の修羅場もくぐって、懲りたりなんだりも一通り体験していることだろう。 「ん…ありがと篠原!俺、なんか元気出てきたよ!よっしゃあ!修学旅行から帰ったら直行でコンラッドんトコ行って、告白大会だ!」 「振られたらあたしの胸で泣かせてあげるわ」 「うう…」 胸の感触だけは楽しませて欲しいような気がするようなしないような…男心は複雑だ。 吹っ切れて意気揚々と歩き出した有利だったが、ふと視界の隅に何か鮮やかな色合いが掠めたような気がして…右側の林の奥を覗き込んだ。 雪景色に覆われた林の中、一点だけ鮮やかに浮かび上がる… 紅色の蝶。 ひらりひらり…ふわりふわりと、優雅に舞うその羽根はぬめるような黒と血のように鮮やかな紅とで彩られており…視線が離せなくなってしまう。 「何…あれ?見たことないけど…岩手県にはよくいるのかな?」 「いや…だって、おかしいよ……いま、真冬だよ?」 特殊な生態を持つ蝶なのだとしても、こんな雪景色のなかであのように鮮やかな色をしていては、捕食者にとっては捕まえて下さいと言われているようなものだろう。ただ、可能性として考えられるのは… 「毒を持ってるとか?」 「確かに…南米の蛙とかそうだよね。毒を持ってるってアピールして、敵に喰われないようにするって……」 言われてみれば、その美しさは妖しいほどで…見続けていると禍々しい術にでも掛かってしまうそうな…そんな不吉な予感がする。 「取り敢えず、さわんない方が良いんじゃないかな?」 「ん…そうだよね……」 蝶を迂回するようにして歩き出そうとした二人だったが、ふと異変に気付く。 「え…?この林って、こんなに深かったっけ?」 篠原がぎょっとして鋭い声を上げる。 確か、ゲレンデから2.3歩入った程度の疎らな木々の間に入り込んだだけだった筈なのに、向き直ったその先には…森と表現した方が適切なほど木々が生い茂り、その間隙に目を凝らしてもゲレンデや仲間達の姿を視認することは出来ない。 ひらり…ひら…… ひらら…ひらり…… 一羽…また一羽と…二人の周りを舞う紅色の蝶が、誘いかけるような動きをしながらその数を増やしていく。 「何…?嫌……なんか、怖いよ…」 「篠原、落ち着こう?きっと大丈夫だから…」 有利は素早くスキー板を地面の上に投げ出すと、篠原を庇うように蝶の前に立ち塞がった。 『風よ……応えてくれ』 ふぅ…と小さく息を吹き出すと…くるくると小さな旋風が起こって、蝶を二人から引き離す。この程度の風なら、白狼族を呼び出さなくてもある程度操作できるようになっているのだ。 「ふむ…こざかしい技を使う…」 突然に…まるで映像の中にぺたりと張り付けた様な唐突さで、二人の前に優美な…そして毒々しいまでに鮮やかな印象の女性が姿を現した。 身の丈は華奢な体型の二人を見下ろす180pはあろうかという長身で…けれど一片たりとも無骨な気配など絡みはしない。小作りな白皙の顔には艶(あで)やかな彩色を施し、唇はもとより、眦に掃かれた紅が雪の上に散った血のように鮮やかだ。 秀でた額から膝まで流れる豊かな黒髪は手入れの行き届いた美しい光沢を誇り、その身を包む錦織は黒地に金糸銀糸を織り込んだ豪奢なものなのだが、豊満な胸を上半分ほども晒すような煽情的な形で合わせが解かれ、高い位置で締めた帯の下では裾合わせから肉感的な脚線が覗く…。 朱唇がつぃ…と微笑すると、その唇を愛おしむように蝶が彼女の周りに集まっていく。 そして、伏せられていた瞼がゆっくりと開いていくと…二人は凝固したようにその場から動けなくなった。 圧倒的な《力》を感じさせるその瞳は、彼女を彩るどんな紅とも違う紅…正しく《血の色》に相違ない、どす黒さを帯びた鮮紅色であった。 「こちらに来やれ…童や。妾の傍に寄ることを許してやろう…」 尊大な口調がよく似合う、人に命令し慣れた滑らかな高音…。 動きそうになる脚を叱咤し、有利は全身に力を込め…呼びかけた。自分を護ってくれるはずの、《風》と《水》に…。 「お止め…童程度の力では、妾の張った結界を越えることなど望むべくもないこと…無駄に疲れるだけだえ?」 ほほ…と、しなやかな仕草で手の甲を口元に近寄せる。翻る繊手の動きは、辺りを舞う蝶を思わせる軽やかさである。 すぅ…と、体重がない者のように雪の上を移動するその足下にはなんら足跡めいたものはなく、ふわふわとした新雪が降りかかったときのまま、そこにあった。 「何よ…何よあんたっ!あたし達に何の用!?」 「駄目だ篠原っ!」 有利の制止も間に合わず、篠原の言いぶりにあからさまに顔を顰めた女性は無造作に右手を水平に捻った。 その動きに連動して発生したのは…直径30pほどの火球であり、それも見て取る暇も在ればこそ、現れるなり高速で篠原目掛けて飛んでくるのを有利はすんでの所で弾き飛ばした。厚手の手袋を填めたその表面に、更に水の膜を張ったというのに、その表面は醜く焼けこげていた。篠原に当たっていれば大火傷を被ったに違いない。 「おお…その瞳……その、穢れなき黒瞳であの男を誑し込んだのかえ?全く…仕様のないもの…女慣れして自分を伊達男と信じて疑わない者ほど、そなたのような純朴そうな童子に骨抜きにされるのだ…。やれ護ってやりたいだの、やれ可愛らしいだの…ちぃと毛色が違うところが堪らぬのだろう…」 「…もしかして、その男って…水蛇の上様のこと?」 「そうとも、妾を袖にしたあのくだらぬ男よ!」 かっと見開かれた瞳が爛々と光り、噛みしめられた朱唇が彼女の恨みの深さを物語る。「妾と比べるべくもない程度の力しか持たぬくせに、二度に渡る妾の誘いを拒絶し…挙げ句にそなたのような童に従属の誓いを立てるなど!許せぬ…許せぬわ!」 「すみませんが、そういうことは本人に言って頂けると……」 「言われずともそのつもりじゃ。もう居場所は分かっておる…唯、その前にそなたを揶揄かっておきたかっただけじゃ」 「俺を?じゃあ…この子には何もしないでくれますか?」 「断る。妾に失礼な口をききおったそこな小娘には思い知らせてやらねばならぬっ!」 「御免なさい…この子はあなたがどういう方なのか知らなくて、急に綺麗な人が現れたんで驚いただけなんです。どうか許してやって下さい」 必至で手を握りしめてお願いポーズをとると、余計に相手の怒りが増すかとも思ったのだが…意外と効果はあったらしい。 「ふ…む。成る程の…確かに愛嬌のある童じゃ。そうじゃな…誠心誠意を込めて妾の手に接吻をすれば、許してやらぬ事もないわ」 何か言葉を発しようとした篠原の口を素早く塞ぐと、有利は女性…おそらく、《煌姫》と呼ばれる強力な妖怪の前に跪き、魔王として学習した記憶を頼りに精一杯優雅な動作で繊手の甲に唇付けを落とした。 「…なかなかに、慣れぬ仕草ながら気品ある接吻であった。褒めて遣わす…」 「有り難き幸せ」 何だか時代がかった言い回しに笑いそうになりながら頭を垂れると、有利の頬に繊手が絡んできた。 「これで小娘の無礼は許して遣わそう…だが、まだ妾の目的を果たしておらぬでな…」 頬に触れていない方の掌を宙に翳すと、ぽう…っと燐光を放つ蝶が現れた。 その蝶は、手の動きに合わせて有利の胸元へと移動し… 「ぅわっ!」 弾かれるように身を反らした有利の胸に、熱い衝撃が走った。 「渋谷っ!」 駆け寄ってきた篠原に抱え起こされた時…辺りは元の閑散とした林に戻っており、すぐ目の前にはゲレンデが広がっていて…不思議そうな顔でこちらを見ている数名の生徒達が居た。 「何やってんだせよお前ら」 「渋谷、スキーじゃ結構滑れるのに、素足だと転んじゃうのか?」 屈託なく笑う友人達の様子に、《あの女を見たか》と言いかけて二人とも口を閉ざした。 見ているわけがない。 あんな異様なものを目にして、こんな風に笑っていられるわけがない。 「ねぇ渋谷…あんたは何か知ってるんでしょ?」 「うん…篠原には、話すよ」 小声で問いかけてくる篠原に、やはり小さく…けれど明確に有利は答えた。 |