番外編1 CAPプログラム〜大賢者様の陰謀〜










「君の危機感の無さにはほとほと呆れたよ…」

 深く嘆息したのは村田健。

「ユーリ…あなたはご自分の保身にもっと努めるべきですよ」

 秀麗な眉を顰めて、気遣わしげな眼差しを送ってくるのはコンラート。

「ゆーちゃん!だから俺が気をつけろとあれほど口を酸っぱくしていったのにっ!」

 激高して捲し立てているのは渋谷勝利。

「困ったものよのぅ…だから俺が体内におらねばならぬというのに…。のぅ有利?もう一度俺と同化してみぬか?」

 ここぞとばかりに合体政策を推し進めようとするのは猫の姿をした、水蛇の上様。

「…」

 納得いかない顔つきで、ぷぃ…と唇を突き出しているのは渋谷有利であった。







 季節は12月の下旬。冬休みに入って間もない月曜日…渋谷家の居間で展開されている光景である(ちなみに勝馬は会社勤務、美子は奥様連中とお出かけ中である)。

 このほど、めでたく《水》《風》の要素を手に入れた有利であったが、心配を掛けた家族や友人へのクリスマスプレゼントを奮発してしまったせいで、懐がすっかり寂しくなってしまった。そこに渡りに舟でバイトの話を持ち込まれた有利は、歳末大バーゲンの百貨店でワゴンセールの手伝いをしたのだが…そこで問題が起きてしまった。

 《俺も行きます》というコンラートを説き伏せて一人でバイトに向かったのだが、バイトの後に着替えている最中に同じくバイトをしていた大学生に抱きつかれてしまい、その現場を勝利に発見されたのである。

 ただ…抱きつかれたとは言っても、その大学生がクリスマスに思い人に告白して振られたそうで酷く落ち込んでいたものだから、《俺だって彼女いない歴17年ですよ!》と励まして(?)いたら、熊のような体格のその男に抱きつかれておんおん泣かれてしまったのである。有利としては気の毒な男性の心のケアをしただけで、特に悪いことをしたという自覚はないので、小学校の帰りの会(別名、学級裁判)のような吊し上げにあうことは当然納得できない。







「関根さんは別に俺のことをどうこうしようなんて考えてたわけじゃないよ!彼女に振られて弱ってるところに優しくされたから、ぶぁっと泣けてきただけじゃん!それをあんな風に罵るなんて…勝利の方がよっほど酷い奴じゃんかっ!大体、何で勝利がタイミング良くあんな所にいたんだよ!」

 何故その場に居合わせたかについては《兄弟愛だから》の一言ですまし、勝利は尚も言い募る。

「あれはそういう手口なんだよ!その気のない奴が普通、男子高校生の尻を撫で回すか!?問いつめたら案の定、振られた相手ってのは女の子じゃなくて後輩の男子高校生だって言ってたぞ!?」
「ええ!?」

 これには流石に有利も瞠目した。そういえば…《思い人》とは言われたが、相手が女だと言われた覚えはない…。

「お前の人が良いのにつけ込んで、《慰めてー》なんて弱ったところを見せつけてどうこうしようと思ってたに違いない!」
「で…でも……そりゃ振られた相手が男だったにしてもさ…そんなにほいほいと別の男を好きになるっておかしくねぇ?それもこんな色気のない野球小僧に…」

 何とか切り返そうと抗弁してみるものの、その物言いが更に激しい反論を呼んでしまう。

「渋谷…いい加減自覚しないまでも受け入れてくれないかな?君はフィルター無しで2つの要素を手に入れたことで、実に瑞々しく鮮やかな愛らしさを呈しているんだよ?」
「はぁ…」

 分かっている気配は微塵子ほどもない…。寧ろ背中あたりが痒そうだ。

 村田は学習された無力感に晒されつつも、重ねて注意を促した。

「それに…世の中にはね、君みたいな乙女思考で想った人だけを一途に…なんて奴は数少ないもんなんだよ?そりゃあホモの人がみんなそうって訳じゃないだろうけど、やれそうなタイミングがあればすかさず…なんて輩は一杯いるんだよ?きょうび、女の子だってその辺の駆け引きは弁えたものさ」

 村田の言葉にぴくりとコンラートの眉が跳ね上がる。

「猊下…ユーリの想い人とは?」
「確か同じクラスの篠原楓さんには中学2年の時に告白して振られてるよね。でも、我らが渋谷有利君は修学旅行でこの想い人の入浴シーンを覗く機会があったにもかかわらず、一人だけ覗きに行くことを拒否してホモ扱いされたという素敵な過去の持ち主なんだよ」
「むーらーたーぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!」

 有利が村田に飛びかかって口元を塞ごうとするが、こんな時だけ俊敏な大賢者はするりと逃れてしまう。

「ユーリ…シノハラさんというと…確か文化祭であなたのメイド服やサンタ服を作ってくれた生徒ですよね…。お付き合い…されてるんですか?」
「何か顔色悪いよコンラッド。気持ち悪い?熱でもあるのかな…」

 顔色がアオミドロ色を呈し始めたコンラートに、有利は慌てて近寄ると額を寄せて熱を測ろうとする。

「ゆーちゃん!だからどうしてそういうことをするんだ!?体温計とか手で触るとか、幾らでもやり方はあるだろう!?」
「ナニ言ってんだよ勝利。この測り方じゃないと正確に測れない理由について物理的・生理的見地から蕩々と俺に解説したの勝利じゃねぇか!!これ間違ってんのかよ!?そういえば、こないだ佐々木さんにやったら《渋谷君ちの測り方なんか?面白いのぉ》って笑われたぞ!?」
「お兄さん……」
「ショーリ………」

 底冷えのする笑顔で村田とコンラートが勝利の肩を左右から掴む。天上天下唯我独尊の渋谷勝利とはいえ、人外魔境の二人を前にしては(正確には、背後にしては)流石に分が悪い。嫌な汗をかいて目を泳がせている。

「まぁいいや…ねぇ、渋谷。君…この講習会に行っておいで?僕の知人が主催してる市民団体の講習会があるんだよ」
「ん…何これ?」

 村田が差しだしたチラシには、《CAPプログラム〜子供達を虐待から守るために今できること〜 》と書かれていた。どうやら、児童向け虐待防止セミナーの案内のようだ。

「村田…俺は一応高校生……」
「CAPは各年代の状況に合わせたプログラムを展開しているんだよ。その回は中学生向けだからそんなに浮くことはないって。君、大概の中学3年の男子よりも華奢だから」
「お前に言われたかねぇよ!」
「あと、出来ればウェラー卿も同行した方が良いと思うね。君の護衛としての技量を疑うわけではないけど、眞魔国とこちらの世界では守り方も自ずと違ってくるからね、講習を受けておくに越したことはないだろう?」
「…そうですね」

 村田の勧めに、一瞬躊躇するコンラート。

 この少年が口と態度で表す以上に渋谷有利という存在を大切に思っていることは熟知しているが、時としてコンラートと有利とが親しく接触するのを嫌っているのも知っている。それがわざわざ二人で行動することを推奨するとは…何か裏があるとしか思えない。

 しかし断る理由もなく、次の週末に講習に行くことを約束させられた。

 

*  *  *




 そして迎えた週末…公民館のホールには予想以上の人手があったが、殆どが女子生徒と保護者という組み合わせであったものだから、有利とコンラートは激しく目立っていた。

 囁き交わす声が講習の内容とは無関係な好奇心と歓喜で、はち切れんばかりに弾んでいる。

 コンラートがダークブラウンのロングコートを脱ぐ動作一つにも《きゃーっ》と歓声が上がり、有利がダッフルコートを脱ぐのにコンラートが手を貸せば、一層参加者達は色めき立つ。

 村田に用意された席がまた、P列の15、16席…中段の中央、大きめの通路の後ろの列なものだから非常に周囲からよく見える席なのである。

「まぁ…信じられないくらい美形なガイジンさんねぇ……」
「あたし知ってる!あの超絶美形さんはコンラート・ウェラーっていう、高校の警備員やってる人だよ!通学途中に挨拶したら、物凄く良い声で爽やかに挨拶してくれるのよーっ!あたし絶対あの高校受験するっ!」
「そうねぇ、良いんじゃない?美津子ちゃん。お母さんも応援するわ!!お母さん、PTA活動頑張っちゃおうかなー」

 なにやら進路が確定しそうな親子連れがいるかと思えば、ネット社会の住人達も手と手を取り合ってはしゃいでいる。

「隣にいる子って…もしかして、ネットに出てた子じゃない?ほら、メイド服姿の超可愛い子!」
「嘘!?うわぁ…顔ちっちゃい…華奢で凄い可愛い…ケド……あれって、男の子じゃない?」
「ひゃーっっ!あの二人ってどういう関係なのかな!?」

 居たたまれない。

 一言で表現するなら、そうとしか言えない状況下に有利はあった。
 《これも一種の虐待ではないでしょうか村田サン…》と、呟かずにはいられない。

「やぁ、約束通り来たね」

 にこにこと愛想の良い笑顔を浮かべて現れた村田に、有利は早くも弱音を吐いた。

「村田ぁ…。約束通り来たからさ、もう帰って良い?」
「来ただけじゃ意味ないだろう?さ、諦めて講習受けなよ。あ、そうだウェラー卿に頼みたいことがあるんだけど、いいかな?」
「猊下のご下命とあらば、聞かないわけにはいきませんが?」

 《来たか…》と、むしろ得心いった風な表情でコンラートが頷く。この展開で、村田が自分に何か仕掛けてこない方が不思議なのだ。

「実はねぇ、講義の後にボランティアによる虐待事例の演劇があるんだけど、途中で一人どうしても抜けなくちゃいけない人がいてね?代わりに1シーンだけやって貰いたいんだよ」
「俺が…ですか?」
「そうそう。ほら、こういう虐待に関わる劇って、あんまり怖そうな人が犯人役をやると見ている児童・生徒が恐怖感でトラウマになっちゃうことがあるから、大抵女性か優しそうな人がやることになってるんだよ。君なら爽やかだしうってつけだろ?」
「…………つまり、虐待する役なんですね?」

 微妙な笑みを浮かべて確認すると、こっくりと大賢者は頷いた。

「…分かりました…お受けします。台本はありますか?」
「ありがとう。君ならやってくれると信じていたよ。演技の方も期待しているよ?」

 村田はぽんっとコンラートの肩に手を置くと、一方の手で薄い冊子を手渡した。

「…」

 座って台本を読み始めたコンラートだったが、段々と眉根に皺が寄り始め…気がつけば長兄にそっくりの深さと角度で刻み込まれていった。  

「コンラッド…どんな役なの?」
「…………それが……その…………」

 珍しく歯切れの悪いコンラートに、有利は不思議そうな表情を浮かべて小首を傾げた。そんなに酷い役回りなのだろうか?



 ビィィィィィィィィィィ…………



 その時開始のチャイムが鳴り、講習が始まった。

 演壇に立ったのは赤城節子という名の40代くらいの女性で、柔らかい物言いながら歯切れの良い言葉回しでこの講習の意義を説明してくれた。

 彼女曰く、CAPとはChild Assault Preventionの略で、子どもへの暴行防止教育を目的とした講習プログラムであるらしい。発祥はアメリカで、小学生女児がレイプされるという事件を切っ掛けに地域住民がパニックに陥り、子供達や保護者が過剰に警戒心を強めてしまったことから、子供達自身が身を守るためには何が出来るのかを組織だって研究・実践したのが切っ掛けであったらしい。そこから派生して、現在では虐待、人権侵害を含めて幅広い意味を持つプログラムに発展しているそうだ。

 赤城がホワイトボートに3枚のカードを張り出した。

 それぞれ、可愛らしい絵本調の絵柄で描かれた子供の顔と、《安心》《自信》《自由》という言葉が書き込まれている。

「子供達は虐待を受けている時、果たしてこれが虐待に当たるのかどうか自信が無く、誰にも相談できないことがあります。そんなとき私達が提示するのがこの3枚のカードです。その行為を受けたとき、あなたは《安心》できた?《自信》が持てた?《自由》があった?ゆっくりと紐解いていくと、その3つのどれか…あるいは全てが引っかかってくるものです。いまからボランティアの皆さんが演じられる劇にもそのヒントがあります」

 赤城に代わって出てきたのは二人組の女性で、何種類かの劇を披露した。

 劇の打ち合わせがあるのか、途中で軽く会釈をしてコンラートが席を空けると…有利は不意に心許ないような気持ちになった。

『こういうの…《安心》出来てない状態なのかな?』

 母親から離された小さな子どもみたいで恥ずかしいが、実際問題として、コンラートといるときの有利は先程提示された3つの要素全てを充足している気がする。

 何が起こっても大丈夫だと《安心》できるし、自分の行動に《自信》が持てるし、《自由》に発想し自分で決めていくことが出来る…それはとても特別で、得難い事ではないのだろうか?こんな風に感じることの出来る人なんて、探したからといって早々見つかるものではないだろう。

『そうなんだよなぁ…コンラッドって、格好良いとかいうだけじゃなくて、凄く一緒にいるとほっとするんだよな』

 ただし、この頃は時々…《安心》だけは出来ない時があるのだが…。

『見つめてるのに気付かれたり、セクハラ系親父ギャグかまされたときのドキドキだけは何とかなんないかなぁ…』

 高柳鋼に襲われた一件以来、少しずつではあるが自分の気持ちの実態が見え始めてしまった。

『俺…やっぱ、コンラッドのこと…今までとは違う意味で好きだと思ってる…』

 コンラートの背中を見ていると、急に胸がきゅーっと締まっても狭心症ではなく好きだからそうなののだとやっと自覚し始めた。そして、そのまま彼の広い背中に抱きつきたいとか…綺麗なラインを描く薄い唇にキスしたいとか……。

「……っ!」

 具体的な想像がリアルに脳裏に浮かんできて、かぁ…っと頬に血の気が集まる。伏し目がちになって一人で頬を染める男子高校生…あまりにも不審だと自分では思うのだが、周りで様子を伺っている少女やおばさん達が《可愛いー…》と呟いたのには気付かない。 

『何考えてんだよーっっ!キスはまずいだろキスはっ!』

 抱きつくのは時々コンラートの方から頼んでくることもあるので出来るのだが、それでも以前のように無心で抱き合うことなど出来そうもない。きっと胸の中で心臓が暴れ回って、挙動不審になってしまうに違いない。キスなんて…こっそりやろうとしてもあのコンラートが気付かないわけはないし、今まで習慣としてなかったのに、今頃になってお休みのキスを頼んだりするのもおかしかろう(《欧米か!》と、笑顔で突っ込んで来そうな予感がする)。

『俺が…《好き》だなんていったら…迷惑だよな』

 気をつかって《恋人》っぽい扱いをしてくれるか…最悪の場合、本当に好きな人が出来ても言い出せなくて、一人で思いを断ち切ってしまいそうな気がする。

『そんなの…駄目だよ』

 有利の我儘でコンラートの人生を台無しにしてしまうかもしれない…それは純粋な恐怖として胸を締め付ける。だが…コンラートへの思いは日に日に強くなって、押さえておくことが難しくなってきているのだった。

『こんなふうに好きにならなけりゃ、それこそ《安心》《自信》《自由》を保てたのにな』 

 言ってもしょうがないことだがついつい恨みがましく思うと、ふぅ…と、息を吐いた。

 舞台上に視線を戻すと、進行役の赤城がスポットライトを浴びて喋っている。

「…さて、ここまでは被害者が女子の場合だけで設定してきましたが、実は男子が被害者になるケースも意外と多いんです。女子が成人までに性的被害に遭う確立は2.3人に一人と言われていますが、男子も5.6人に一人が性的被害に遭っています。しかも、女子よりも恥ずかしさが強くて言い出せず、事件が水面下に隠れているケースは更に多いと言われています。次の劇は男子が被害者になるケースで、被害を受けたことを周囲に言い出しにくい事例を扱います」

 促しを受けて幕袖から現れた短髪の30代くらいのボランディア女性(胸には《太郎》と書かれた札が掛かっているので、被害者の少年役なのだろう)にぱちぱち…と、お愛想程度の拍手が湧くが、続いて現れたコンラートには凄まじいばかりの歓声と喝采が浴びせられた。

「きゃぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
「あの人が演じるの!?」 
「やぁぁんっっ!!寧ろ襲って欲しいっっ!!」

 この受け具合…性的被害の事例演習としては不適切なのでは無かろうか?案の定、赤城が微妙な表情をしている。

「シュチュエーションは親戚のお兄さんの家に遊びに来た中学生の男子という設定です。それでは、早速お願いします!」

『コンラッドも大変だなぁ…男の子に悪戯する従兄弟のお兄ちゃん役なんて嫌だろうなぁ…』

 シュチュエーションが微妙に自分とコンラートに重なるとはちんまりとも思わず、有利はのほほんと傍観していた。

 太郎役の女性が椅子に座ると、胸の前でぴこぴこ指を動かし始めた。どうやらゲームをしているという設定らしい。

「太郎君、そのゲーム面白いかい?」

 コンラートが良く響く声で呼びかけると、独特の甘い響きにどぅっと観客席が沸く。

「凄い良い声!」
「腰に響くぅ…っ!」
「しぃぃー!」

 赤城が必死になって観客席を宥める。

「うん、面白いよ。お兄さんの家ってゲームが一杯あって良いなぁ!」
「そう…じゃあ、そのゲームあげようか?」
「いいのぉ!?」

 喜ぶ《太郎君》にそっと近寄ると、コンラートはにっこりと柔らかい笑みを浮かべて跪いた。途端に《太郎君》の頬が目に見えて赤く上気し、口籠もってしまう。

『…』

 《太郎君》に優しげな笑みを浮かべて、親しげに近寄るコンラートの姿を目にした途端…有利は息苦しさを覚えて口元を掌で覆った。

 あれは唯の劇で実際の光景ではないのだと分かっているのに、コンラートの柔らかな眼差しが他人に注がれていると思うだけで、胸が焼けるような感覚に見舞われる。

『なんだろう…これ……』
『……苦しい』

 有利の想いとは無関係に、劇は進んでいく。

「太郎君…ゲームをあげるから、お礼をくれるかな?」
「え…ええと……あの……そのぅ………」

 台本では《お礼って何?》と返ってくるはずなのだが、真っ赤になってもごもごしている女性に、コンラートは苦笑した。

『まいったな…この人、演技を続けられるのかな?』

 既にかなり危ない。

「キス…していい?」
「………っ!!」

 台本通りの台詞なのだが、喜びを帯びた声にならない叫びが、《太郎君》の喉奥で炸裂する。

『…止めて……っ』

 本当にキスしたりするはずない。

 分かっているのに…有利は叫んでしまいそうな自分の頸を、跡がつくほどの強さで締め上げた。
 一方、コンラートは本気で動揺しまくっている《太郎君》に困惑していた。

『…………大丈夫か?この人……』

 それでも仕事は全うしなくてはならない。持ち前の義務感からコンラートは《太郎君》の顎に指を沿わせると、観客席からはキスをしたように見えるように角度を考えながら唇を寄せた。当然、触れるはずはないのだが、それでも至近距離まで接近してきた美形のアップに耐えかねたように女性は椅子ごとひっくり返り…そしてそのまま昏倒してしまった。

「とととと…東儀さん!?」

 赤城が慌てて駆け寄ると、東儀と呼ばれた女性は恍惚とした表情を浮かべたまま気を失っていた。ただ、ぶつけた跡自体は大したことがなかったので、赤城は必死で笑顔を浮かべると話を続けた。

「ええとですね…この時、太郎君は安心できていたでしょうか?自信があったでしょうか?自由だったでしょうか?」

 お約束の呼びかけに、会場内が今までとは違う色合いでざわめいた。

「とりあえず安心してないのは確かよね。あたしだったら激しくドキドキしてると思うわ」
「そうねぇ美津子ちゃん。でも…不安というのとも違うわよね?怖いわけじゃないものね…」
「うん、お母さん…とりあえずあたしが万が一コンラートさんとそんな状況になりそうなときには邪魔しないでね?」
「まぁ美津子ちゃん…そうはいかないわよ?」   
「ええ!?お母さんとは思えない発言…」

 美津子の母…普段の言動はどんなだ。

「ふふふ…美津子ちゃん、そういうときにはビデオなんかで動かぬ証拠を作っておくものよ?そうでないと逃げられちゃうじゃない」
「凄い!流石お母さんっ!!」

 妖しく瞳を輝かせる美津子とその母…。

 コンラート危うし。

 いや、別にそんな状況に陥ることは100%無いので全く心配はないのだが。

「そうですね!安心出来なかったですよね!?」

 そんな答えは返ってないが、無理矢理赤城は望ましいコースに話を進めていく。

「でも、相手が親しい親戚のお兄さんや友達だった場合、人に話すと相手の人が酷く責められるんじゃないかと心配で言い出せないこともありますよね。でも、このお兄さんは一人ではこういう事を止められない人なのかも知れません。ですから、他の大人の人に止めて貰うことは、このお兄さんの今後の人生の為にもなるんです。そうでないと、お兄さんは何度もこんな事を繰り返して、罪を重ねていく可能性がありますからね」

『…………罪ですか、そうですか………』

 お芝居上の役回りではあるのだが、年下の少年に悪戯する性犯罪者役など…大賢者の悪意をひしひしと感じてしまう。

『ユーリにこんな事を想いを抱くのは…確かに罪でしょうね』

 この事例は年下の少年に性的行為を強要する事だけではなく、少年が抱いていた信頼感への裏切りという意味でも罪深い行為であろう。

 有利は心からコンラートを信頼し、頼りにしてくれる。そんな彼に性的な意味で思いを寄せていると知られれば、どれ程幻滅されるか…考えただけで身震いがする。

 それが怖くて自制していたのに…自制していけると信じていたのに…先日、コンラートはとうとうその自戒を解いて有利に唇付けてしまった。それも、悪夢に魘されて意識のない状態で…。

 罪の意識と同時に残されているのは、あの柔らかな唇の感触…。

 甘やかにさえ感じる口腔内の熱と…絡めていけば小鳥のように怯えていた小さな舌…並びの良いつるりとした歯列…。

 ひとときの…一方的な唇付けに溺れた自分が信じられない。

『ユーリを大切だと言いながら、あんな独りよがりな接触に歓喜を覚えるなど…騎士道に悖る振る舞いだ…』

 そうだ、有利はどうしているのか。

 会場の中とはいえ、一人きりにしてしまった主の事が気に掛かり視線を向けると、コンラートはさっと顔色を変えた。

 有利は息でも苦しいのか喉元を押さえ、哀しげに瞼を伏せて顔を逸らしている。

 脳に一気に血が上り、コンラートはもうここが舞台の上だとか人目があるだとかいったことは全て思考の中から吹き飛んでしまい、加速をつけると一気に…

 

 舞台から、跳んだ。

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