虹越え2−7−2







 その跳躍力たるや…とても人間の脚力が生み出し得るとは信じがたい距離を一気に跳ね飛び、前から7列目の空席背もたれに一度片足を掛けただけで、有利が座るP列15席前の通路まで跳ぶと…ふわりと華麗に舞い降りた。

「ユーリ!具合でも悪いんですか!?」

 コンラートは有利の額に手を当てたり背中をさすったりと一瞬にして体調確認を行うと、目立った所見がないことに小首を傾げた。

「特に熱もないようですが…人いきれで気分が悪くなりましたか?もうプログラムも終わりのようですから会場を出ますか?」
「コン…ラッド……」

 一瞬のことに息を呑んでいた一般来場者も、麗しいツーショットが確立されるや一気にボルテージを上げてきた。

「ととと…跳んだよあの人!?」
「あの男の子が気分悪そうにしてたのに気付いて、介抱しに来たのよ!凄いわーっ!通路を回ってくる間も惜しいほど心配だったって事よね!?」

 コンラートが来てくれたことに安堵を抱いたものの、周囲の反応に冷静さを取り戻した有利は激しい羞恥心に駆られていた。

『勝手にコンラッドの相手役の人に嫉妬して、気分悪くなって…そんでコンラッドに飛んできて貰うなんて…俺、子どもみたいだ』

 頬に血の気が登ってくると、コンラートの相貌はますます不安げに揺れてしまう。

「熱はないと思ったのですが…頬が赤くなってきましたね。やはり気分も悪そうだし、帰りましょうか?歩けますか?背負いましょうか?」
「い…いいよっ!」

 弾かれたように席を立つと、自分のダッフルコートだけを掴んで有利は駆けだした。

「俺…ちょっと外の空気吸ってくるからっ!」
「ユーリ…ユーリ!?」

 元気がなかったはずの主が全力疾走を始めたものだから、コンラートは困惑しつつも自分のコートを掴むと後を追いかけた。



*  *  *




「ユーリ…一体どうしたんですか?」

 会場を出て、自動販売機の影の細い通路にしゃがみ込んでいた有利を見つけ出すと、コンラートは気遣わしげに手を伸ばし…触れかけた肩がぴくりと震えたことに動揺した。

『まさか…あの劇のせいで?』

 年下の少年に性的行為を強要する従兄弟…その劇を見たことで、コンラートと有利は通常の男同士で考えればあまりにも過剰なスキンシップをとっていることに気付いてしまったのだろうか?

 それで…嫌悪感を覚えた?

『…っ!』

 目の前が真っ暗になるような感覚に抗しきれず…コンラートはそのまま跪いてしまった。

『ユーリに…嫌悪感を抱かれた』  

 それはコンラートの存在意義を揺るがすほどの衝撃で、脳髄を揺さぶった。

 この腕は彼を護るためにあるのに。
 この脚は彼の元に馳せ参じるためにあるのに。
 この胸は彼を憩わせる為にあるのに。
 この命は、彼の為だけに存在するのに…。

 渋谷有利に拒絶されたら、どうやって生きていけばいいのか。

 一体どのくらいそうしていたのだろうか…。くらくらと眩む視界の中でふと頬に温もりを感じてやっと注意力を取り戻すと、目の前には心配そうな表情を浮かべた主がいて、コンラートの様子を覗き込んでいる。

 それでやっと、そこまで嫌悪されているわけではないのだと感じて人心地つくが、懸念は完全に去ったわけではない。

「何故…俺から逃げたんですか?」

 問いかければ有利の頬が震え、伏せられた睫毛が頬に薄青い影を落とす。

「……嫌だったんだ」

 どしゅっ!…と、音がしそうな勢いで、空想上の出刃包丁がコンラートの背中に突き刺さる。

「凄く凄く…嫌だった……」

 どしゅしゅ…っ!

 出刃包丁が2.3本追加される。

「俺のことが…嫌いになったんですか?」

 確認したくはないが、勇気を振り絞って…それはもう、100倍の勢力をもつ敵の大群に立ち向かう方が余程気が楽だと思う程の勇気を捻りだして確認すると、うるりと有利の瞳が潤んだ。

「…あんたじゃなくて……あんたが、俺以外の人に笑いかけたりすんのが…なんか凄く嫌だったんだっ!」


 ぱぁぁぁぁ………


 俄に天上から曙光が差し込み、天使がラッパを吹き鳴らし、花びらを散らしながら大気中をはね回る…ような気がした。


 あくまでコンラートの脳内での話だが。


「お芝居だって分かってたのに、それでも…凄く嫌だった…あんたは、別に俺だけのもんじゃないのに……っ!ゴメンな…心配まで掛けて……俺、こんなの…子どもみたいで恥ずかしくて……思わず逃げ出しちゃったんだ……」   
「何を言ってるんですかユーリ?俺の全てはとっくにあなたのものだと…何時も言っているでしょう?あなたがお嫌なら、たとえ猊下に頼まれても二度とこのような役などやりませんよ!勿論日常生活の中でもね」
「でも…そんなの酷いだろ?幾ら俺が王様だからって、そこまであんたの人生操作するなんて、やっぱり酷いよ!」
「ユーリ、俺があなたにお仕えしているのは…あなたが眞魔国の王だからではありませんよ?」
「コンラッド…」

 コンラートは先程までの動揺など何処吹く風、すっかり余裕の笑みを浮かべて居住まいを正すと、有利の前で跪き…隠し持っていた剣を具現化すると、恭しく有利に柄を捧げた。

「そういえば…当然のこととして失念していたせいで、正式にあなたに誓いを立てていなかったのですが…俺の剣の誓いを受けて下さいますか?」
「剣の誓い?」
「ええ、騎士が生涯を掛けてその命を捧げるという、人生唯一度だけ許される神聖な誓いです。これは給与上の上下関係などにとらわれることなく、心から忠誠を尽くしたいと思う対象に捧げる誓いですよ」
「俺に…良いの?」
「当然です。儀式を交わしていなかっただけで、もとより俺の心は常にあなたの上にありました…あなたにも認めて頂ければこの上ない喜びです」

 コンラートはすっかり舞い上がっているし、有利は有利で感動してしまって言葉もない…が、物陰からこっそり状況を伺っていた村田健は込み上げてくる笑いを堪えるのに必死であった。

『信じられない…渋谷が嫉妬心を剥き出しにして口走ったもんだから、すっかり出来上がっちゃうと思ったのに…まさかこんな展開になるとは……』

 有利が天然なのは熟知していたが…どうやらコンラートも隠れ天然であったようだ。

 村田としても、彼らに上手くいって欲しいのか上手くいって欲しくないのか不分明ではあるものの、少なくとも有利に幸せになって欲しいのは確かなので、彼らの関係を客観的に理解して欲しくこの講習に誘ったのだが…どうやら、彼らにはそういった世間の通念などというものは通じないらしい。

 まぁ…彼らなりに幸せなら(正確には、有利が幸せなら)村田にとっては別に良いことだが。

 恭しく剣の誓いを立てる二人を残して、村田は頭をかきながらその場を立ち去った。

 多分、今頃赤城が必死になって汗をかきながらセミナーの帳尻合わせに苦心していることだろう。明らかなミスキャストでコンラートを推薦してしまったことも含めて穴埋めをしておかなくてはなるまい。



*  *  *




 剣の誓いを交わしたところでセミナーを終えた人々が会場から出て来始めたので、気恥ずかしさもあって、二人は足早に公民館を後にした。

「なぁ…コンラッド……」

 コンラートのマンションの居間…手触りが良く毛足の長いラグの上にクッションを置き、更にその上に民芸人形よろしくちょこんと乗っかった有利が、ちろりと上目遣いに話しかけてきた。

「なんです?」

 可愛らしい主の仕草にやに下がりそうな表情を必死で整え、コンラートは何時も以上に銀の光彩を輝かせて微笑みかけた。

 この微笑みが有利一人のものだと改めて誓いを立てた事で、胸が弾むような歓喜が込み上げてくる。今なら太鼓を叩きながら笛を吹く位の芸当は出来そうだ(有利に引かれそうなのでしないが)。

「あのさ…コンラッドの膝、乗っても良いかな。その…ちょっとの間だけで良いんだけど」

 予想外の…そして空前絶後の嬉しい申し出に、コンラートは必死の制動も空しく笑み崩れてしまった。

「どうぞ…俺の膝もあなたのものですよ」
「えと…じゃあ、遠慮無く」

 遠慮なくとは言いつつも…やっぱり遠慮しいしい有利が近寄ってくると、コンラートは膝というより、あぐらをかいた大腿の上に有利を招き寄せると、背後からすっぽり腕でくるんでしまう。

 その状態に最初の内こそ気恥ずかしそうにしていたものの、有利はとす…と背中をコンラートの胸に預けてしまうと、力を抜いて身を委ねた。

「安心…自信…自由……」
「今日のセミナーの内容ですか?」

 小さく呟く声にコンラートが問いかけると、はにかみながら有利が応えた。

「俺…あんたがいてくれると、この3つが全部揃うんだぜ?」
「それは光栄ですね…」

『本当に…本当に光栄ですね……』

 しみじみと胸の中で反芻しながら、コンラートは呟いた。

 しかし、彼は知らない。有利の中で、コンラートの求める形とはちょっと違った形で有利が得心していることなど。

『やっぱりこのままが良い…。告白したりして気まずくなるより、コンラッドの一番大事な人として可愛がって貰う方が、ずっと安心できる……』



 この腕を、この胸を…失いたくない。


 誰にも渡したくない。 


 我が儘でもなんでもいいから、彼を独占したい…。



 こうして、コンラートの知るところで与えられた主従関係の強化と引き替えに、コンラートの知らないところで恋愛関係の歩速は著しく減退したのであった。

 彼らが後者の関係を加速させるのは、それからもうちょっと後の話となる…。





おわり




あとがき


 CAPの講習に行った際、コンラッドが演じていた話を見てつい書きたくなってしまいました…講習自体はとても為になる、良い講習でした。変な形に妄想してゴメンなさい…。


 でも、進行役の人の『この時太郎君はキスをされてとても嫌でした』という説明に、ついつい『嫌じゃなかったらどうなんだろう…』『お兄さんなら、俺…良いよ…とかいう展開の場合でも、やはり母としては止めるべき!?相手のお兄さんの本気度次第!?子どもが成人するまで待てる人なら条件付きで認めるべき!?』と、動揺してしまいました。止めるべきでしょうねぇ…やっぱり。ゲームの代わりにってことでキスしようとするくらいですから。ええ…。冷静になれ私…。


 後はコンラッド側の嫉妬は色々書いているのですが、有利の嫉妬はあまり書いていなかった気がするので、それもちょっと書いてみたかったのですが…意外と難しい。やっぱりコンラッド位はっちゃけてないと笑いには繋がらないものですね。いや、笑いを目指す段階で間違えているのかも知れませんが。