虹越え2−6








 無事に戌亥門が開いた以上もう芸能活動の必要はなくなった高柳だったが、すぐに引退というわけにもいかず、現在請け負っている仕事を果たしたいと言い残して事務所に連絡をつけに行った。この時期はクリスマス絡みのディナーショーやら何やら色々と仕事が入っているらしい。

 尚、高柳のように実体化できる妖怪も、必要に駆られて有利が呼べばその力具合に応じて多少遠い場所からでも引っ張ってこれるらしい。

『でも、なるべく仕事中は外して貰えると…』

『この期に及んで注文を付けるとは良い度胸だ…』

 すらりと剣を抜いたコンラートの足下に、高柳は尻尾を丸めて平伏した。余程身に染みて堪えたらしい。

 さて、霊体状態で長年有利の体内にいた水蛇上様はと言うと…。

「…どうしても嫌か?」

「だって…こうして顔まで見ちゃうとなぁ…今更、俺の中に入られるのは抵抗あるよ」 

 また元の状態に戻ろうとごねていた。

 その点でなかなか有利との合意を得られない為、二人の協議は難航し、結局実体化したままコンラートの部屋に居続けており、23日正午現在も、居間に置かれたネイビーブルーのソファの上でごろごろしていた。

「なんだってそんなに俺の中にいたいの?」

「ふむ……恥ずかしながら、俺はお前の配下についた以上、どうしても会いたくない奴がいるのだ」

「俺の配下じゃなきゃ問題ないの?」

「全くないわけではないのだがな…。相手の怒りの度合いが違おうな。何しろ相手は俺を焼き尽くしかけた煌姫だ。美しい女妖怪だが…何しろ嫉妬深くてな…俺に情夫になれと持ちかけてきたのだが、好みではないからと断ったら逆上して…紅蓮の炎で住処も蓄財も全て燃やし尽くされた。散々に痛めつけられた挙げ句、情夫が嫌なら配下になれと脅されたのだが、それも断ると、今度は俺自体を燃やされた。そのような男が自ら望んで童の配下になったと知ったら…何をしてくるか分からぬ。だから有利の中でこっそり隠れておったのだ」

「そういえば、上様の力でも倒せない相手となると難敵ですよね。ユーリに《風》の力も加わったとはいえ、倒せる相手でしょうか?」

「無理だな。あの女の力は絶大だ。かなりの妖怪でも味方に付けぬ限り、極力目に触れぬよう心がけた方がよい」

「うーん…でもなぁ……」

「なにも有利の中に居る必要はないのでは?何でしたら、犬とか猫とか、目立たない生き物の中に隠れられては如何でしょう?」

 コンラートの案に有利は手を打って賛成したが、水蛇は相変わらず嫌そうだ。

「…犬だけは嫌だ。あの腐れ狗の眷属だとは思われたくない」

「じゃあ猫が良いよ。猫になって俺んちにおいでよ!猫はあったかいし柔らかいもんなー。湯たんぽ代わりに一緒に寝ようよ」

「此処は普通に、同族の蛇ではどうだ?」

 暖かい有利の言葉が終わらぬ内に、コンラートが別案を出してくる。

「蛇ならやだ。そんならコンラッドの家に居てよ?」

「…猫で良い」

 漸く交渉成立と相成り…上様は近所を暫く回った後、毛並みのよい黒毛野良猫の身体を借りた。

 猫は1歳を迎えた位の年頃で、鼻面と肉球は桜色、鼻から口元、顎にかけてが白く、四肢の先も肘・膝から下がソックスを穿いたような白毛に覆われており、なかなか可愛らしい様子である。  



*  *  *





「ゆーちゃん!ママ心配したのよぉ?昨日はどうしてたの?」

 コンラートと一緒に猫を抱えて家に帰ってみると、ドアを開けた途端に家族3人が飛んできた。

 ひょっとすると昨日の晩は寝ていないのかもしれない…それほど憔悴し、結膜が充血していた。

「文化祭の打ち上げで遅くなって、そのまま友達の家に泊まったって電話したろ?」

「嘘言え!昨日、黒瀬とかいう奴から電話があったぞ?《渋谷君が芸能人の高柳鋼に浚われて、警備員のコンラートが追いかけてる》ってな」

「う…まさかソレ、学校の方には言ってないよね?」

 前の文化祭に引き続き、時の人になりたくない…。

「コンラッドが口止めしてたからって、先生方には言ってないらしいが、お前の携帯に掛けても繋がらないからって、家の方に掛けてくれたんだよ。有利…一体何があったのかちゃんと説明しなさい!」

 普段は飄々としている勝馬も顔色が変わっている。

『うー…黒瀬の奴……』

 そう言えば携帯は鞄ごと学校に置きっぱなしになっているのだ。ささやかな小遣入りの財布がくすねられていなければいいが…。

「ママ、ワイドショーで見たんだけど…高柳って人、ゲイって噂もある人でしょ?何か変な悪戯されたりしてない?恥ずかしがらないで教えてゆーちゃん!泣き寝入りが一番いけないのよ?」

「ご母堂の心配、至極ごもっとも…奴はまったくもってけしからん男です。有利、折角配下に付けたのだ、この際いま此処に呼び出して、平身低頭ご家族に許しを請わせてはどうだ?」

 有利の胸元でごろごろと喉を鳴らしていた水蛇は、美子の言葉にうんうんと頷くとそう薦めてくれたのだが…。

「し…喋った!?」

 家族三人一致で上がった叫び声に、説明すべき内容が増えたことを有利は悟った。

 渋谷家の居間に入ると、未だ怒り醒めやらぬ様子のコンラートが主軸となって説明を行ったため、高柳に強姦されかけ、あまつさえ殺されかけたことまで暴露されてしまい、勝馬は訴訟を起こすと言うし、美子と勝利は殺しに行くと暴れ出すしで大騒ぎだった。

 水蛇についての説明は、《有利を助けてくれた》という点ですんなり行き、床にも置かぬ饗応ぶりを受けて水蛇も満更ではない様子だった。今も美子の膝に乗せられて喉元を撫でられてご機嫌である。

「あんな奴でも一応俺の配下になったわけだし、そんなに悪い奴でもないからさ…許してやってよ」

「お前は何でそう…っ!」

 勝利は頭髪をがりがりとかき回すと、苛立たしげに机に拳を叩きつけた。

「お人好しにも程がある!いくら要素だか何だかと契約を結ぶ為とは言っても、そのために滅茶苦茶に犯されても良いって言うのか!?」

 勝利の荒々しい動作のせいなのか、言われた内容のせいなのか…有利の肩がびくりと跳ねた。その時…コンラートは何かに気付いたように、一瞬だが…愕然としたような表情を見せた。

「どうなんだ有…」

「待って下さい、ショーリ…」

 静かな声は、それでも有無を言わさぬ気迫で勝利の憤りに制止を懸けた。

 そして、コンラートはゆっくりと有利に近寄ると、50p程度離れた場所でその歩を止め、深く一礼したのだった。

「すみません…ユーリ。俺は、自分自身の怒りに駆られて…あなたの心を思いやる余裕を失っていたようです」

「え?…何でコンラッドが謝るんだよ!や、止めろよ…頭なんか下げんなよっ!」

 慌てて有利はコンラートの側頭部に両手を添えるが、上げられた面はまだ俯き気味で…申し訳なさそうに琥珀色の瞳が揺れていた。

「いいえ…俺がまずすべきだったのは、あなたが感じたままの思いを素直に聞いて差し上げることだったのに、俺はただ怒りに任せてあの男を殺しかけた…奴を庇うために、あなたが受けた苦しみをそのまま口にすることなど出来ないことに…気づきもせずに」

「俺…は……」

 言われた意味をゆっくりと理解しているのか、有利はコンラートのダークブラウンの頭髪から手を離さず、固まったように黒瞳を見開いた。

「もう…大丈夫です。俺も、落ち着きましたから。ユーリが何を言ったとしても、あの男を殺したりはしません。ですから、もう…そんな風に彼を庇う必要はないんですよ?ユーリは、責められるような立場にはないんだ…怖い思いをさせて、すみません……」

 そっと抱き寄せられて、逞しい両腕と胸筋の間に包み込まれると…コンラートのコロンと体臭とが綯い交ぜになった、芳しい香りが胸一杯に広がる。

 すると、堪えていたつもりはないのに…双眸からぽろぽろと涙が溢れてきた。

 滔々と…堰き止められていた思いがそのまま溢れ出てきたかのように、涙は流れていく。

「俺…俺っ……」

 漸く…声が出る。

「………怖…かった……っ」

 啜り泣きと共に出てくる声は自分でも情けないくらい上擦って、泣き吃逆でつっかえつっかえだったけれども…もう止めることもできなかった。

「怖かったね…そうだよね……」

「無理矢理…シートに押し倒されて、俺、一生懸命暴れたのに、簡単に片手で手首捕まれて…全然動けなくて…俺、男なのに……凄く、情けなかった……恥ずかしかった……っ」

「相手は大人の身体だし、ましてや妖怪だったんだ…動けなくてもしょうがない…すぐに行けなかった俺が悪いんだ……ユーリは悪くない…」

「服…脱がされて……首とか胸とか…嘗められたり、す、吸われたりして…気持ち悪かった…吐きそうで、怖くて……逃げたいのに、逃げられなくて……そんで、ケツにチンコ入れるって言われて…それも、門が開くまで…何回も、何回も犯られるんだって聞いて……そのうち、自分からシテって言うようになるんだとか言われて……怖…かったっ!…自分…が、違う…生き物になっちゃうような……気がした……」

 コンラートのシャツにしがみつく手は小刻みに震え、きつく握り込んだ指先が…哀れなほど白く色を失っていた。

「ユーリは何をされたって、ユーリのままだよ。勇気があって…自分に、そんなことをした奴まで許してあげられる、本当に…強い男だよ。俺の、誇りだ……」

 コンラートは蕩けるように優しい声音で囁き続け、その口調も…柔らかく親しみを込めた言い回しになる。

 その内心が、実は噴き上がるような憎悪と憤檄とで彩られ、筆舌に尽くし難いような拷問術で高柳を責め苛む様を想像することで、どうにか心の平衡を保っているなどということに気付く者は居ないだろう。

「怖かった……怖かったよぉっ!!」

 やっと全ての思いを吐き出したらしい有利は、後はわんわん泣いて泣いて…涙が枯れるまでずっとコンラートは、優しく愛し子の背を撫で続けていた。

 そして…渋谷家ご一同と水蛇は、何とも言えない表情でひたすらその情景を見続けることを強制されていた。

 何しろ、コンラートが先程になって気付いた事柄…周囲の者が我を忘れて高柳を責めれば責めるほど、有利は彼を庇うために本当の苦しみを吐露することが出来ないのだということに気付いてしまった以上、いち早く気付いた者勝ちというこの状況を受け入れざるを得ないのだ。

 いま叱責などしようものなら、それこそ有利は萎縮して本当に感じたことを、自分でも気付かぬままに心の奥底に閉じこめてしまうだろうから。

 しかし…特に勝利などは居たたまれなくて、暴れ出してしまいそうだった。どう考えてもあの会話の流れでは、勝利が言い出した言葉がヒントとなって、コンラートは気付いたに違いない。



『滅茶苦茶に犯されても良いって言うのか!?』



 良いわけ…ないではないか。



 有利が怖くて堪らなかった事など、分かりそうなものだったのに…。

『気は強いが、人一倍怖がりなんだって…俺が一番知っている事じゃないか…っ!』

 自分が男だということへの自負が強く、鍛えるための努力だってしているのに報われないことや、女顔だと言われることへの怒りに気付いていたのに…。

 そんな弟が、好きでもない男に犯されかけて平気な顔をしているのを、何故おかしいと思わなかったのか?

『俺は阿呆なガキか…っ』

 分かっている。もしも先に気づけたとしても、勝利はこんな風に有利を安心させてやることは出来ない。こんな風に包み込み…何も怖いものなどないのだと…全て受け入れてやれるような度量は持ち合わせていない。勝利の気質は何時だって《評論家》としてのそれで、何時だってこんな風に体当たりで行動できる人々から距離を置いて、羞恥心から逃げているのだ。

「ユーリ…大丈夫だよ…大丈夫……ちゃんと泣いたら、きちんと消化できるからね…こういうことは、誰にも言わずに自分だけで溜め込んでしまうと自家中毒を起こすんだよ?他にも言いたいことがあったら、ちゃんと言っておいて…」

「うん…も……大丈夫。ぇへへ…御免な、また泣いちゃったよ…コンラッドってば、泣かせ上手なんだもん」

「そうよぉ…コンラッドさんたら凄いし、ズルいわぁ……そういう役回りはママが欲しかったなぁ…」

「パパだって欲しかった…」

「…」

『お兄ちゃんだって欲しかった…』

 とは、何となくこの流れでは素直に言えない勝利だった。

「……猫は…やはり問題ありだの……何処かその辺の器量の良い男にでも取り憑くか……」

 クッションの上で不貞腐れている水蛇が、何か不穏なことを言っていた…。



*  *  *





 その日、コンラートが有利の部屋に泊まることについて流石の勝利も異を唱えなかった。ただ、やり場のない怒りが籠もった眼差しで一瞥を与えただけであった。

 水蛇も今日は一人寂しく居間に置かれた毛布にくるまって眠っている。

「なぁコンラッド…明日、予定ある?」 

 それぞれの布団に入って暫くすると、有利が声を掛けてきた。

「いいえ?学校がない日は何時も通り警備の方もお休みです」

「そっか。じゃあ…あの、俺と買い物でもしない?クリスマスのイルミネーションとか見たり…て、男同士で一緒にそういうことすんのもサムいかもしんないけど…」

「ユーリと一緒なら何処にいたって俺は楽しいですよ?是非ご一緒したいな」

 枕の上に頬杖を突いて、にっこりと微笑むコンラートは首筋からパジャマの襟元にかけてのラインが…男らしいのに、ある意味《色っぽく》て…有利は妙にときめいてしまう。

『俺…やっぱりコンラッドのこと、そういう意味で好きみたい……』

 芽生えたばかりの思いは、まだとても相手に告げられるような段階のものではないけれど…。

『コンラッドの方はそんなつもりないんだろうけど…それでも、今はまだ良いや。だって…今は、俺だけのコンラッドだもんな!…恋人としてじゃなくても、俺を一番大事にしてくれてるんだもんな……』

 そんな乙女なことを考えている有利に対して、コンラートはコンラートで愚にもつかないことを考えていた。

『ユーリとクリスマスデート!なんてステディな響きだ…俺は今、宇宙で一番幸せな男だーっ!!』

 ぱぁぁ…と脳内にエンドルフィンやらドーパミンを撒き散らし、心の瞳を潤ませているなど、その爽やかな笑顔から伺い知ることは出来ない。



*  *  *




 明けて24日のクリスマスイブ。街中は見事なまでのクリスマスカラーに彩られており、赤と緑、そして金を基調とした色合いに、種々のオーナメントやリースが溢れている。

「綺麗だねー。何か、この辺はお店全体がプレゼントみたい」

「そうですね。店舗の外壁まで凄い飾りようだ」

 ブランドショップのお洒落な装飾から、パチンコ屋の無節操なほどのサンタギャル攻勢まで、思わず笑ってしまうほどのクリスマスバリエーションに、見ているだけでわくわくしてしまう。

 にこにこ笑いながら歩いていく二人は、道行く人々が振り返るのにも気付かない。いや、正確に言うならば…一人は素で無自覚なのであり、もう一人は目の前にいる人物を愛でることと護ることだけが主眼に置かれているため、不審者以外は眼中に入っていないのである。しかも、その不審者というのは有利の姿に見惚れて振り返っただけの男も範疇にはいるため、気の毒なその男達は夢に見そうな程凶悪な眼光で睨め付けられ、呪われたように壁や電柱に激突していた。 

『全く油断の隙もない…あのような目で見られては、有利が目減りしてしまいそうだ』

 《見たからって減るもんじゃなし》という言葉は、彼…ウェラー卿コンラートには通用しないのだろうか?

 いや…彼はそういった点では《自分には》寛容な男であった。

 不審者と危険物には油断なく視線を送っているものの、それは最低限の時間に留め、それ以外の時間は飽きることなく有利を見守っている。

『全く…どうしてこうこの人は、こんなに可愛いのだろうか』

 《知らねぇよ》と、オレンジ頭の幼馴染が居たら突っ込んだかもしれないが、筆者などはコンラートの意見に大いに賛同する者である。

 有利は襟元がやや毛足の長いファーになっている黒のコーデュロイコートを羽織り、やはり黒いカットソーとの間に差し色として青チェックのウェスタンシャツを合わせ、いつもの蒼い魔石を胸元に下げている。ジーンズも黒に近い墨色で、身体にぴったりしたラインのせいもあって統一感があり、全体として年頃に見合った清潔感のあるコーディネートとなっている。

 特に…動き回るとオフホワイトのファーが揺れるのが、元気な若い猫を思わせてなんとも闊達に見える。それはもう、有利スキーの人々にとっては握り拳を突き上げたいくらい可愛らしい様子である。

 一方有利の方はどうかというと、こちらは成る可くコンラートをまじまじと見ないように注意していた。勿論見たくないわけではなく、うっかり見てしまうとぼぅっと見惚れてしまいそうだからだ。

 コンラートは普段外出するときにはスーツとロングコートの組み合わせが多いのだが、一度マンションに戻ってから着替えたときには有利のファッションに合わせて、いつもよりカジュアルな装いにまとめてきた。

 羽織っているのはグレーのロングカットソーで、裾丈は膝上10p程度。珍しくその下に着込んでいるのは襟を立て、胸元を鎖骨の所まで開けたオリーブグリーンのニットで、穿いているのは少しゆったり目でカーキ色のコーデュロイパンツ。平均的な日本人が穿けばもっさりしてしまいそうなそれも、驚くほど長い股下のおかげでカジュアルでありながら綺麗なラインを描いている。

 見慣れた警備員の服からこういう装いに転じられると、有利は芽生え始めた気持ちとも相まって動悸を禁じ得ないのだった。

『うー…じっくり見て楽しみたいけど、変に思われたらヤダしなぁ……コンラッドってばどうしてこう恰好良いんだろう?』

 《君の脳内には蝶々が飛んでいるみたいだねぇ…》と、眼鏡っ子の親友なら突っ込むところだろうが、筆者はやはり有利の意見に熱く賛同する者である。

「ユーリ、まず何処に行きますか?」

「飯食わない?俺、スパゲティ食いたいなー」

 腹をさすりながら言う有利に笑いかけると、コンラートはその答えを予測していたかのようにサクサクとした足取りで心当たりの店に向かう。

「あっ!渋谷っ!!」

「おー、黒瀬じゃん。どしたの?」

「どうしたじゃねぇよっ!」

 インディゴブルーの重そうなダウンジャケットを着込んだ黒瀬は少々顔色が悪く、結膜も充血した状態で有利に詰め寄ってきた。

「お前、あれからどうなったんだよ!?俺…心配で心配で……」

「あ…そっか。黒瀬、俺んちにも電話くれたんだよな。御免なー、昨日ばたばたしてて返事するの忘れてたよ。まぁ…その、そんなに心配するようなことはなかったよ?すぐにコンラッドが迎えに来てくれたし」

「じゃあ何で家にも帰ってなかったんだよ!」

「う…それは……」

 思わぬ食いつきの激しさに、有利は後ずさってしまう。

 そんな有利の前に長身を滑り込ますと、コンラートは接客用の隙のない笑顔で対応した。

「クロセ君、ユーリは俺の家に泊まってたんだよ。少し事情があってね…ご家族に連絡を入れるのが遅れてしまったんだ。心配を掛けてすまなかったね」

「え…?コンラート…さん、の家に…泊まった?」

 黒瀬の喉がごきゅりと鳴るが、有利は全く気付かず、明るい表情でうんうんと頷いた。

「うん、お互いの家によく泊まりっこするんだよ。うち、家族ぐるみの付き合いだからさ。なんせ名付け親だし!」

「ええ…ですから、一緒に料理をしたりお風呂に入ったり…色々と楽しくて…つい連絡を忘れてしまうことがあるんですよ…」

 語尾にくすりと笑みを含ませて言うコンラートに、黒瀬の表情が見るも哀れに歪んでいく。

『…一緒にお風呂?色々と…楽しくて?』

『それってそれって…どういう意味でしょうか警備員サン?』

 詳しい意味を知りたいような、絶対聞きたくないような…。

「ユーリは時々甘えん坊だから、一緒の布団で寝たいっていうこともあるんですよ。でも、俺はこの通り大柄でしょ?ベットから落ちないように有利を抱き寄せて寝るようになるんですよ」

「たまに言うだけじゃん!それに…コンラッドだって…嫌って言わなかったじゃないか…」

 有利が拗ねたように言うと、コンラートは朗らかな笑みを浮かべて主の黒髪を撫でつけた。

「嫌な筈ないでしょ?有利はいい匂いがしてちっちゃくて抱き心地が良いから、抱き寄せるのはとても気持ちよくて好きですよ?ただ…俺の身体で寝潰したり、ベットから落としてしまわないかと心配にもなるんですよ」

『抱き心地が良い…』

 金槌でがーんと側頭部を撃ち抜かれたような衝撃に、黒瀬は頽(くずお)れそうになった。 

「ちっちゃくて悪かったな!つか、小鳥やハムスターと寝てるわけじゃないんだから、そこまで心配すんなよ!」

「そうですか?じゃあ、今日も一緒に寝ます?」

「う…」

 恋心を自覚し始めた有利にとって、つい先日まで何の気兼ねもなくお風呂に入ったり同衾していた日々は、なんだかとても遠い昔のことのように感じられた。

『いまやったら…ギュンターみたいに鼻血噴きそう……』

 コンラートにひかれるのはちょっと…いや、かなり辛そうだ。

「…子供っぽく思われそうだから、もうしない。なんか黒瀬も吃驚してるみたいだし…」

 思わぬ言葉にコンラートの瞳が野獣の眼光を孕むが、直撃を受けて慄然としているのは黒瀬だけで、伏し目がちに足元を見下ろしている有利は欠片もそんなことには気付かない。



『…墓碑銘は何が良いですか?』



 表情の形だけは笑顔を成しているその面が、口の動きだけでそんな事を伝えてくれる。



『驚いただけで墓場行きーっ!?』



 がくがくぶるぶる震えている黒瀬は、そもそも大好きな人の心配をして…報われず、恋敵にアテられたうえに、何故に殺人予告など受けているのだろうか…。

 …哀れすぎる。

「そーだ、黒瀬腹減ってる?心配してくれたお詫びに昼飯奢るよ。一緒に行く?」

「え…?」

 ぱぁ…と曙光がさして有利の背中に天使の羽根が見えたような気がしたが、同時にその背後で大魔人が地響きをたてんばかりに殺気を発している…。



『来たら殺しますよ…』



 その目は雄弁にそう物語っていた。

『渋谷…お前、その人の正体分かってる?』

 愛しい人の身も心配だが…情動を揺るがす原始的な恐怖にうち勝てず、黒瀬は首を横に振ってしまったのだった…。



*  *  *





「あ…ライトつき始めたよ!」

 ゲームセンターで遊んだり、家族へのプレゼントを買ったりしているうちに時間はあっという間に過ぎ去って…気が付けば辺りに夕闇が落ちかかり、街を彩るライトはこの時とばかりに一斉にその華やかな彩りを際だたせ始めた。

「わぁ…」

 アーケード街に灯るルミナリエ…大型百貨店の外壁一面を飾る巨大なツリー…そして、日中は立体的な針金の塊にしか見えなかった街路のオブジェに明かりが灯った途端、それらは橇に跨るふとっちょサンタに大柄なトナカイ、プレゼントの数々に笑顔の子供達といったものに変わっていったのである。

「とても綺麗だ…。昼間の飾りも良かったけど、夜のライトというのはとても美しいものですね」

「うん…うん、凄い綺麗!うわー…作った人凄いなぁ!!」

 素直に感動してきらきらと瞳を輝かせる様は如何にも子供っぽくて、思わず抱きしめてしまいたくなるコンラートだったが、伸ばし掛けた手が不意に止まる。

 スクランブル交差点の一面を飾る大型スクリーンに高柳鋼の姿が映し出され、耳馴染みのある…例のクリスマスソングが流れた途端に、有利の身体がびくりと震えたからだ。

 その瞳からは純粋な…子供らしい歓喜は消え去り、代わりに浮かんだのは微かな怯えの色と…自嘲の笑みだった。

「やだなぁ…も、平気だって言ったのにさ…」

「…そんなにすぐに、平気になったりは出来ないものですよ…ごくごく普通の反応です」

「そうかな?…」

 精一杯笑ってみせようとするその頬を右の掌で包み込むと、肌は二人とも同じくらい冷え切っていた。

「自然に…本当に平気になるまで、無理はしないで?俺の前では繕わない表情でいて…」 自分は思いっきり繕いあげて、元の形が分からないほど縢(かが)りまくっているのだが…棚に上げるのは得意な男なので、気にしない。

 そのうち画面はレトロな雰囲気の映像に代わり、女性ジャズシンガーが定番のクリスマスキャロルを歌い出した。英語の歌詞だが、音楽の時間に習ったこともあるので有利がつい口ずさんでいると、コンラートも小さな声で歌い出した。

 微かな声と声が、同じ音階を刻む。

 それは、舞台で高柳と競演したクリスマスソングのように奇をてらったものではなかったけれど…コンラートの響きのよい声と、有利の少し甘い声とが絡み合って美しいハーモニーを奏でていった。

 歌い終わると二人ともクスリと笑って…どちらからともなくそっと手を差し出すと、人に見られないようにこっそりと…でも、しっかりと手を握り合って家路についた。





第2部 了



→第2部 番外編