虹越え2−4−2






「此処…って!えぇぇぇぇぇ!?こ、肛門だよ此処!?ウンコ出すトコだよ!?こんなところどうすんの?」
「……今時ゲイじゃないっつっても…そこまで純粋培養なのもどうかと思うんだが…。そこを女の膣代わりにすんだよ?分かった?ちなみに膣ってなぁ女の尿道口と肛門の間にある外生殖器だゾ?」

 お馬鹿な子供に教え込むように人差し指を立てていってくれるわけだが、内容を理解した途端、有利は追い詰められたゴキブリよろしく四肢をばたばたと藻掻かせた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁんんんんっ!か、勘弁してぇぇっっ!何で俺の肛門なんか使うんだよ!あんたイイ男だし、芸能人なんだから女の子だって選り取りみどりだろ!?」
「別に女の代わりにしようって訳じゃないさ。それに、契約さえしてくれりゃあ無理にとは言わない」
「け…契約…そうだ、あんた魔族なのか?」
「魔族?何処での呼び名かは知らんが、俺達は…」

 そこで不意に異彩色の瞳は眇められ、自嘲するような笑みが頬を掠めた。

「…自分たちのことを《白狼族》と呼んでいた。人型と狼型を行き来する、まぁ…言ってみれば妖怪の一種だ。俺はいつ頃生まれたのかがよく分かんねぇから、いい加減なんだが…まぁ、200年くらいは生きてるだろう。俺達はこの山頂にある霊域に《門》を持ってて…そこから、あのススキ野原に…無限に広がる俺達の故郷に住んでたんだ…」

 淡々と語られる内容の突飛さに瞠目するが、考えてもみれば有利のプロフィールだって正確なところを話せば相当常軌を逸するので、人のことを言えた義理ではない。

「住んでた…?」
「ああ、20年前まではな…。そら、そこに見えるだろう?岩の残骸が…」

 見やれば、随分と前に崩されたろう岩の塊が…うら寂しく苔むしていた。

「あれが、俺達の《門》だった神津岩だ。昭和の初めまでは里山を守る村人に狗神のおわす所と崇められ、毎年新しい締縄を掛けて貰ってたもんだが…再開発とやらで崩されたんだが、結局バブルが弾けたとか何とかで開発はされずじまい…だが、一度崩された霊域は生半可な事じゃもとには戻らない…人型でこっちの世界に出てた俺は元の世界に戻れず、中にいた連中はどうなったのか分からない…俺達は定期的に外界の霊力を吸わないと力尽きてしまうから、もう…一頭も生きている奴はいないかもしれない…それでも、試してみたいんだよ。お前さんの力を手に入れて…な」

 下唇に沿わされる母指が、つ…と横に沿わされる。

「なぁ…契約の言葉を口にしてくれよ」

 鼻先が首元に埋められ、くぐもるような声が哀願するように囁かれる。傲岸そうな雰囲気を漂わせていた男が急に縋り付くような声を出してくると、有利としてはうっかり事情を聞いて絆されてしまったせいもあって無下に断ることが出来ない。それでも…有利にも、譲れないものはある。

「俺はこっちの世界で生まれたんだけど、此処とは別に…帰りたくても帰れない世界が在るんだ…。眞魔国って言って、前は凄い力を持ってる眞王って奴に運んで貰ってたんだけど、事情があってその人…って、魔族か。そいつが力を失っちゃったせいで、眞魔国には行けなくなっちゃったんだよ。コンラッドは結構無茶な手段でこっちの世界に来てくれて、俺が眞魔国に帰るためには四大元素の力を手に入れる必要があるって教えてくれたんだ。だから…あんたの配下に加わる事は出来ないよ…寧ろ、あんたには俺の配下になって貰いたいんだ」 

 見上げる黒曜石の双眸と異彩色のそれとが向かいあうが、後者の方は呆れ返ったような色を浮かべていた。

「…………有利、お前さん…今どういう体勢か分かってるのか?」
「………………押し倒されてマスね……」
「この状況で俺に配下に降れって、相当無茶な要求だぞ?」
「うぅ…お、お願い」

 語尾にハートを付けて上目遣いにお強請りしてみるが、これは有利が期待していたのとは全く別な…大変不都合な方向に作用してしまったらしい。

「………可愛いな」

 ナニ頬を染めて言っちゃってくれているのか?

「俺はもうちょっと育った…二十代後半くらいからがストライクゾーンなんだが…華奢な高校生ってのも意外とそそるもんだな…うーん、新領域開拓…」
「わわわーーーーーっっっっ!ま、待って!やーめーてーっっっっっ!!」

迫り来る唇に精一杯顔を逸らすが、音楽人らしい器用な手がひょいひょいと襟元のボタンを寛ろげ、はだけられた白い肌に噛みつくようなキスを与えてくる。

「い…た……ゃ、止めてくれよ……」

 恥ずかしくて…そして恐ろしくて、背筋が情けないほど小刻みに震えるのを止めることが出来ない。

 生理的な嫌悪感と寒気が押し寄せてきて、今にも吐いてしまいそうだ。

「意外と反応がカタいな…てっきり、あの強面美人の外人さんに性感帯開発されてるもんだとばかり思ってたけど…」
「コ…コンラッドはそんなんじゃ…俺のこと…大事にしてくれるけど、そういうんじゃ……」

 コンラートは…名付け親として、親友として、渋谷有利を愛してくれている。

 それは恋人とは異なるカテゴリーの愛情だ。

 だから…何時か女の人を好きになったとしても、変わらずに自分にもそのカテゴリーの愛情を与え続けてくれるはずだ。

 だから…だから、例えそうなっても、有利は多少寂しく思ったとしても…そのことを認められないくらい辛い気持ちになんてならなくていいのだ。

 ずっと…親として、友として…コンラートは傍にいてくれるのだから…。

「…泣くな……」

 指摘されて初めて、有利は瞳からぽろぽろと涙が溢れ出てきていることに気が付いた。 それも、男に…妖怪に襲われて貞操の危険があるから泣いているわけではなく…

『俺…今こいつに犯られるカモしんないことよりも、コンラッドが俺のこと、名付け子としてしか…友達としてしか見てくれないことの方が、辛いんだ……』

 いつも寒いエロ親爺ギャグで恋人みたいなことを言うけれど、それはあくまで自分を揶揄うためだけのもので…。

『俺、コンラッドにだったら…こんな事されたいって思ってたのかな?こういう事して貰ったら、コンラッドの特別な人になれたのかな?』 

 でも、駄目だ。 

『俺が《して》って言ったら、コンラッドは優しいからきっと言うとおりにしてくれる…だけど…それじゃ、あんだけ何もかも俺に捧げてくれるコンラッドに、恋人としてのカテゴリーまで強制することになる。…そんな権利、俺にないのに……』

 …て言うか、そんな悠長な事を考えている間に、コンラート以外の男に美味しく戴かれかけているわけだが…。

「泣くなよ…せめて良いようにしてやるからさ。《門》…《戌亥門》が開くまでの話だし。そうだな…何週間かは掛かるかもしんねぇが…その間に色々開発してやるよ。そうすりゃ俺のを挿れられるだけでイケる様な身体になるぜ?自分で股開いて…もっとシテって言うようになるさ……」

 嗤う男の口元が淫靡に歪み、胸元の肌を吸い上げようとする。

 有利は急にこの行為のことを現実的に感じ始めたかのように…背筋を疾る生理的、心理的な不快感に総毛だった。

「い…嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だっっ!」

 必至で藻掻くが…容易にシャツをはだけられ、淡く筋溝の浮かぶ胸腹部が露わにされる。



 と…、その瞬間。



 宵闇の中に狂気すら孕んだ双眸がぎらりと浮かび上がり…キィンッという鋭い音と斜めに走る光が一閃すると、コルベットのフロントガラスがその光の筋に沿うように…ずるりとスライドしていった。



 斬った者が…居るのだ。



 飛散処理を施された強化ガラスを、障子紙でも切り裂くかの如く易々と断ち斬った者が…居るのだ。



 横目にそれを確認すると、高柳はそのまま淫行を続けはしなかった。しなやかな動きでとっ…と一躍し、宙に舞って介入者…コンラート・ウェラーの剣筋から逃れた。

 あるいは有利を人質に取られるのではないかと懸念していたコンラートは小さく息を吐くと、すぐに意識を敵に向けた。

「惜しいところだった…あと30分も放っといてくれりゃあ、有利の可愛いトコロに一.二回はぶち込んでやれたのにな」

 軽い口調ながらコンラートの力量がどれほどのものか、その気配と剣筋から読みとったらしく、ほんの数瞬の後…高柳は本来の姿…巨大な体躯を持つ妖狼へと姿を変えた。 

 月光を弾く銀の毛並みが宵風に琉々と靡き、強健な四肢がその大型の体躯を軽やかに支え、長く太い爪が大地をはむ。

 そして…そこだけは人型と変わらぬ異彩色の瞳がコンラートを睨め付けた。 

 月を背後に受けるコンラートはそのダークブラウンの髪を逆立てんばかりの闘気を放ち、瞳に明確な殺意を湛えて獣を睥睨すると、すらりと青眼に剣を掲げた。アニシナの開発した圧縮型の剣は普段持ち慣れていた愛刀に比べると些か心許ない重量感ではあるものの、フロントガラスを易々と切り裂いたその切れ味から見て、それなりの威力は持っているらしい。

『コンラッド…コンラッド……来てくれたんだ!!』

 涙をごしごしと袖口で拭うと、有利は急いで車内から飛び出していった。

 彼が自分をどんな風に思っていようとも、こうして拉致者を殺さんばかりの勢いで愛情を捧げてくれることに間違いはないのだ。それが恋人に対する感情より低いと嘆くような愚かな真似をしている場合ではない。せめて足手まといにならないよう、身を処する必要があった。

「貴様…触れてはならぬ高貴な玉体を汚そうとした罪、一度死んだくらいで償えると思うなよ?」
「高貴ねぇ…お前さんが本当に腹を立ててるなぁ、あの子の身分とか何とかにゃ関係ない気がするがねぇ……」     

 にやにや笑いをする獣が光る流線となって突撃すると、コンラートの姿もかき消えるように高速で跳び、撃ち合わされる牙と剣の光彩が宵闇の中に踊る。

 反わし身をそのままくるりと舞わせてコンラートの剣が狼の喉元を狙えば、柔軟な動きで獣の身体が撓り、前脚の鋭い隆爪がコンラートの臓腑を抉るべく一閃される。 



 人の目では全てを見切ることが出来ぬほどの激しい戦闘が展開され、どれほどの時間が経過したのか…はらはらと木陰で見守る有利の前で、交わされる刃と爪牙のやりとりは衰えるどころか熾烈を極めていった。



「はっ!」



 気合いの声と共に白狼の毛並みが逆立ったかと思うと、彼を取り囲む旋風が渦巻き…轟々と音を挙げてコンラートに襲いかかる。旋風を浴びた木々が薙ぎ倒され、その切り口が鋭利な刃物で斬られたかのように滑らかな斜面を成しているのに気付くと、有利はぞっと背筋を震わせた。

『鎌鼬(かまいたち)の凄いやつみたいなのかな?コンラッドは魔力持ってないのに…』

 はらはらと見守る有利だったが、コンラートの方は第一撃こそ左頬を掠めさせたものの、旋風との距離を巧みに測るとしなやかな動作で間隙をかいくぐり、術に集中する白狼へと一太刀浴びせかけた。

『凄い…やっぱ凄いやコンラッド!』

 風の使い手であるギュンターに師事してせいもあるだろうが、コンラートは風による攻撃の特性を把握しているらしく、相手の魔術に惑わされることなく冷静に戦術を立て、確実にそれを実行する。

 知恵と技とが見事に融合したその闘いぶりは、噂に聞こえし《ルッテンベルグの獅子》の面目躍如というところであろうか。

 気が付けば、有利はヒーローの殺陣に熱中する子供のように、拳を握りしめて声援を送っていた。  



 ガッ!



 決着を付けたのは、人の身には不可能と思われる俊敏さで撃ち込まれたコンラートの斬戟であった。

 その直前に繰り返し受けた円の動きから、一転しての直線の動きに転じた突檄に反応しきれなかった獣は信じがたいという表情を浮かべて、どぅっ…と大地に身を横たえた。

 肩甲骨と肋骨の隙間をすり抜けて貫かれた刃先は片肺を潰したらしく、ごふりと咳き込んだ獣の口からは、気泡を含む鮮やかな血潮が飛び散った。

「人型に戻ってくれるなよ?俺は捕縛されるわけにはいかないんでな。受けたとしても罪状は動物虐待くらいにして貰いたい」

 垂直に撃ち込まれた剣は獣の肋骨間を貫いて、そのまま大地を抉った。片脚を脇腹に乗せ、体重を掛ければ息継ぎすら侭ならぬ獣は最早抗う術を持たない。ただひくひくと痙攣して、辛うじて生きていることを主張するのみだ。

「コ…コンラッド……」

 戦いの帰趨を決した後の…常にないコンラートの様子に有利が声を掛けるが、その表情にも声音にも何処か怯えたような色があった。

「仰りたいことは分かっていますが…今は言わないで下さい」

 普段は柔らかい琥珀色の色彩を湛えた瞳が、今は酷薄な肉食獣のそれで獲物を見下ろし、主の方に向けられることはなかった。

「でも…このままじゃ死んじまうよ!この人だって悪い人じゃないんだっ!お…俺に悪戯しようとか言うんじゃなくて…俺を配下にしたら、この人の故郷に戻る力が得られるからって…ただ、この人は仲間の所に帰りたがっただけ…故郷に、帰りたかっただけなんだ!なぁ…コンラッ…」
「配下ですって?はっ!この犬畜生があなたを配下にすると?憎上慢にも程がある!」

 鋭い蹴りが一閃すると、既に大量の血潮を吹き上げている胸壁に靴先がめりこみ、宙に血飛沫が舞った。

「や…止めてよコンラッド!」

 悲鳴を上げてコンラートの背中にしがみつくが、やっと主を見た彼の瞳は…噴き上げる憎悪によって毒々しいまでの色彩に染め上げられていた。

「何処までお人好しなんですか…こんな痕まで刻まれて!こんな…っ」

 有利の襟元を乱暴に掴めば…夜気に晒された白い首筋には、禍々しい呪詛でもかけられたかの如く…紅い染みが点々と刻まれていた。

 コンラートが欲しくて欲しくて堪らないこの身体を組み敷き、欲望の証を染ませた獣にどんな情けを掛けろと言うのか。

「こんなのどうってことないよ!」

 強がる有利の目元を、傷痕だらけの人差し指がいたわしげに、そぅ…となぞる。泣き腫らした目元は紅に染まり、すべらかな頬には幾筋もの涙の痕があった。

「こんなに涙を流しておいて?どんなに悔しく…恐ろしい思いをしたんですか?あなたを…涙を零すあなたを、力ずくで組み敷くなんて…っ!」

 顰められた目元が、痛切に歪む。

『いや…泣いたのは実はあんたを思って泣いたんだけどねー…』

 とは言えず、必死で言い訳を考える。

「それに…そうだ、こいつは《風》の要素に所属してるんだ。契約させればこれで要素一つゲットだよ?死んじゃったら元も子もないって!」

 陵辱を受けかけたとは思えないような闊達な弁に、コンラートは奥歯を噛みしめる。

『あなたは分かっていないんだ!自分が何をされかけたのか…』

 穢れを知らぬから、汚されるということがどういう事なのか実感が湧かないのだ。

「あなたは…強姦されるところだったんですよ!?」
「でも、本当にされたわけじゃない!されたとしても俺は男だよ?妊娠するわけじゃないんだから、チンコの一本や二本肛門に突っ込まれたからって、切れ痔になるくらいなもんだよ。ケツからの出血多量で死ぬっていう間抜けな死因は嫌だけど、切れ痔くらいなら止まって治すブリザSとかボラギノールっていう強い味方がいるんだよ!?」

 拳を握って力説する有利。

「切れ痔……」

 菊花を強引に嬲られ、滴る血潮が白い内腿を伝う…そんな情景が脳裏を掠めた途端(有利の色気もへったくれもない説明で、そこまで官能的な想像が出来るこの男の思考回路も如何なものかと思うが)、コンラートは残虐な怒りに囚われて足下に獣の肋骨を荒々しく踏みしだいた。

「コンラっ…」

 叫び掛けた有利だったが…



 目の前で起こり始めた異様な光景に、ひゅっと息を呑んだ。

 

 ゴボ…

 ゴボ……ゴ………



 赤黒い血の泥濘が不気味に泡だったかと思うと、弾けた気泡の一つ一つから…ゆらりと立ち上る無数の影が、見る間に辺り一面を覆いだした。

 薄墨を梳かし込んだようなその影は狼の形を成すと、ぼたぼたと血を零し…半ば崩れかけながら大地を踏みしめたのだった。

 そして、獣達の祈りとも…呪詛ともつかぬ呻き声が響き始めた。



『門よ開け…』
『我等の門よ……』
『おお…よみがえれ同胞(はらから)よ…』
『我が故郷への扉を開き賜え…』
『帰るのだ…帰るのだ……』
『生身で帰り得ぬのなら…せめて我が魂の欠片なりと還り賜え…』
『我が血と肉を儀式の贄(にえ)として』 



『霊力持つ者を屠り、戌亥門を開き賜え……』



 断片的な語句が切れ切れに…出鱈目な音階で獣達の口から呟かれる様が、忌まわしく呪わしい…。

「ユーリ…下がってっ!」

 後ろ手に有利を庇うコンラートが、飛び込んできた獣の影を剣で斬りつけるが、変化した高柳と違ってこちらの影のようなものは何か霊的な存在なのか、薄く陽炎のように揺らめきはしても、何ら物理的な損傷を受けた形跡はない。

 一撃の応酬でそれを悟ると、有利を抱きかかえて素早く反転した。

 コンラートに撤退を不名誉と考える矜持があったとしても、それで行動を制約されるような愚は侵さない。こと、大切な主の身が掛かっているとあっては己のちっぽけな誇り等にかかずらっている場合ではなかろう。

 その判断は正しく行動も可能な限りの迅速さで行われたのだが、獣の影は予想よりも遙かに素早く二人を取り囲み、コンラートを此処まで運んできたバイクに絡みつくとめりめりと音を立てて潰してしまう。



 さようなら(無理矢理)借りたバイク。

 御免なさい、貸してくれた人。

 完全に廃車みたいです…。 



 そんな悠長なことを考えている場合ではない。

 影はしゅるりと触手を伸ばすと、もう狼の形すら成さずに逃亡者の肢体へと絡みつき、コンラートを逆さに釣り上げるとそのまま固定し、その前に見せつけるようにして有利の四肢を拘束すると中空高く持ち上げ、丁度崩れた岩…かつて戌亥門を形作る神津岩とされていたその場所まで来ると、その動きを止めた。



『贄を…』
『贄を……』


『霊力ある者の血を…』
『捧げよ…捧げよ……』



 ぶつぶつと…異様に甲高く、そして地を這うように低く唸る声が次第に高まり、影が集まると、巨大な…死神の鎌のような形状に収束していった。

「…ユーリっ!!」

 コンラートの胸に後悔が苦い毒液のように広がっていく。



 何故あの時、躊躇したのか…。



 いや、躊躇したわけではない…寧ろ、私怨を晴らさんと…死の苦しみと恐怖をぎりぎりまで味あわせるために嗜虐したばかりに…あの犬畜生にとどめを刺すのが遅れた。



 その報いが、これなのか。



 コンラートはこれまでの人生で、苦痛を与えることを目的に誰かを傷つけた事などない。その初めての行為に対する報いがこれなのだとしたら、なんという代価の大きさだろうか。 目の前で、愛する者が生贄にされようというその時に、指一本満足に動かすこともできず…身代わりになることさえ出来ずにその死に様を見続けろと言うのか。



 いっそ…発狂してしまいたい。



 どれほど自分が切羽詰まった顔をしているか…コンラートは自覚することもできなかった。

 見つめる先で…恐怖に引きつっていた顔がコンラートの眼差しに気付くや、きりっと引き締められるまで。

「…やられるもんかよ…」

 呟かれたその声は、ひとたび音として大気に放たれると、発声者の蝸牛を満たすリンパ液を震わせて…その心をも奮い立たる獅子吼となって大気に響き渡った。



「…やられてたまるもんかよっ!」



 力強い咆吼が、呪わしい空気を断ち切るように叩きつけられる。

「コンラッド…見てろっ!お前の王はこんなところで死ぬような男じゃないっ!」
「ユーリ…」

啖呵を切った少年は瞳を閉じたが、それは目の前の情景からの逃避でないことをコンラートは知っていた。



 調息と…集中……



 焦らずに、額の真ん中に意識が集中するように…

 第3の目を開くように……



『出来る…絶対出来るっ!』



 僅か一ヶ月の修行とはいえ…水芸程度のものだとしても、確かに有利は水を動かすことが出来たのだ。相手が血液という液体から生み出されたものなら、高柳が言っていた彼ら本来の要素《風》よりも、有利の《水》の力に呼応するはず。

 今は、そう信じてやるしかない。

「おおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっっっっ!」

 

 禍々しい呪詛を、凪払え!



 耳の奥で激しく沸きたつ感覚と、体中の血液が沸騰するような高揚感に煽られるが、意識を手放さずに額の真ん中に集中する。

『コントロール…コントロールだ!幾ら外野からダイレクト返球しても、ホームに行かずにバックネット直撃じゃあ意味がないんだよ!』

 

 研ぎ澄まされた意識が一点に収束したとき…

 水が…動いた。



 ざぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっ!

 

 渦巻く水流が蛇の形状となって幾筋も地中からわき上がり、暗赤色の狼たちを屠り始めた。のたうつ狼を噛み砕き、丸飲みする水蛇(みずち)の驚異は、見守るコンラートがひいてしまうほど凄まじかった。

 しかし、眞魔国で力を発揮していた時との相違にコンラートはいち早く気付いた。

『上様モードに入ってない?』

 時代劇めいた言い回しもなければ、瞳が釣り上がることもない。

 有利は苦しそうに眉根を寄せ、脂汗を額に浮かべてはいるものの、それ以外は常と変わらぬ風貌で水蛇を操っていた。  

 一通りの影を消し去ると、有利の操る水が渦を巻いて血塗れの獣の肢体の周囲を取り囲む。意識のない獣は死んだように横たわっていたが、微かに胸壁が上下しているのを見逃さず、水蛇の一匹が渦から離れて獣の喉笛目掛けて飛び込んで行ったのを…



 有利はかっ…と目を見開いて制止した。



「勝手に動いてんじゃねぇっ!」

 声に弾かれたように水蛇が垂直に吹っ飛ぶ。

 すると、渦はしゅるりと地中に飲み込まれ、その水蛇だけが大地に取り残された。

「ユーリ…一体……」

 思いがけぬ展開に、影の拘束を逃れたコンラートが駆け寄るが、有利の集中力はまだ継続されていた。

「お前は…何なんだ?」

 呼びかけられた水蛇は、身を捩らせて有利に向き直る。

 全身は胴の太い10メートルはあろうかという大蛇だのに、その面(おもて)は蛇のそれではなく…滑るように青白い…不気味なほど端正な男の顔をしていた。

「《何》とはご挨拶だな…十数年ものあいだ、共に過ごしたというのに…」
「共に…?」

 嘆息した大蛇はぶるりと震えるとその身を縮め、白装束を纏った…艶やかな黒髪を持つ、美しい男の姿をとった。

 コンラートは、彼の顔立ち自体には覚えがないのに、妙に馴染みがあるような気がして眉を顰めた。

 これは…この目は……。

「ユーリ…この男の瞳……あなたが上様モードに入ったときの目と一緒ですよ」
「えー?マジで!?」

 素っ頓狂な声を出すと集中が途切れそうになってしまい、慌ててこめかみを両の親指でぎゅっと押す。

「ふん…この俺を配下につけておいてすっかり忘れているのだからな…大したタマだな、魔王陛下」

 口角を歪ませて嘲笑う男は酷薄そうな顔立ちをしているくせに、どこか愛着を感じさせる眼差しで有利を見るのだった。

「しかも、とうとう俺を御するまでに成長したか…。随分長い間住み込んでいたのだがな…弾き飛ばされる日が来るとはな……」
「えーと…俺の成長に感慨ひとしおっぽいところ失礼しますが…あんた誰?」

 本当に失礼であるが、覚えてないものは仕方ない。

「話すと2時間くらいかかるが、よいか?」
「すみません…後にして下さい」

 風変わりな恰好をしているくせに、妙に世慣れした対応をする男の態度に、有利は彼を後回しにすることを決定した。実際、言われた男は特に不機嫌になるでなし、開き直ったような不貞不貞しさで頬杖を突いて横たわっている。放っておいて特に支障なしとみた。

「ユーリ…まさか……」
「だって死にかけてるし!俺、さっき魔力使えたから、きっと治癒もできるよ?」 
「出来るだろうから反対してるんです。あなたはまだ懲りてないんですか?ついさっき犯されかけ、殺されかけたのに…」
「ウェラー卿、どうせ言ってもこやつが聞かぬ事は判じておろう…放っておけ。それに、その狗っコロのことなら心配はいらぬ。その類(たぐい)の妖怪は情に篤い…先程は故郷恋しさに暴走しておったが、命を救われてなお有利を狙うほど悪辣な性質は持たぬ。おそらくは…素直にそうとは言わぬだろうが…おいおい有利の配下に降るであろう」

 口を挟んできた訳知り顔の水蛇に眉を顰めるが、自信たっぷりにその様子に、コンラートも頷かざるを得なかった。





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