虹越え2−4−1
「渋谷…大丈夫だったのかなぁ…」
「あの不気味星三人衆に狙われちゃったらしいもんね…黒瀬なんて心配でいても立っても居られなくて、まだ探してるらしいよ?」
「あー、あいつは一途だねぇ…」
2年5組の藤谷と小渕は講堂の椅子に身を沈めると、辺りに姿の見えない級友達の話に花を咲かせた。
講堂の席は現在9割方埋まっており、他の生徒達はスペシャルゲストが誰なのかという話題で盛り上がっていた。そのせいで、ざわめきが壁に反響してわんわんと鳴り響いている。
「黒瀬って男が好きとかそういう趣味なかったと思ったんだけどなぁ…。なんか、2学期に入ってから渋谷にはメロメロだよな」
流石に声を忍ばせて藤谷が言うと、小淵は肩を竦めて苦笑した。
「好きになっちゃったら、相手が何でも…もうどうしようもないもんなんじゃない?」
「おお…小渕、大人の意見」
「揶揄うなよぉ…」
「別に揶揄ってなんかないさ。…確かに、そういうもんだって思うしな。ただ、黒瀬の場合二重に哀れだよな…なんせ渋谷はあの通り鈍いし、《護衛》はただ者じゃないし」
「あー…コンラートさんねぇ…あの人、渋谷の何なんだろうね?名前を付けただけであんなに嘗め転がすみたいに男子高校生を可愛がるって…ちょっと変わってるよね」
「いや、ちょっとじゃないだろ?渋谷が階段から落ちそうになったらいつの間にか駆けつけてキャッチするし、渋谷の口元の飯粒を指先で拭って喰っちゃうし…それに、渋谷の方はタメ口で、あの人は敬語なんだぜ?なんつっても、あれで周りに違和感を感じさせずに生活してると思ってるアノ神経が凄げぇよ」
「まぁねー……。なんか、《指摘しちゃイケナイ》みたいな不文律が出来てるしね」
誰もが奇妙に感じつつも、
『その態度はおかしいと思います』
と突っ込むことが出来ない。
それは、一つにはコンラート・ウェラーの爽やかな笑顔の背後にある奇妙な威圧感のせいであったが、もう一つは…渋谷有利がとても幸せそうにしていて…そして、それが2年5組の連中にとって、とても喜ばしいことだからなのだと思う。
彼が、あんなに心の奥底から溢れ出てくるみたいな歓喜に包まれている様子を見ると、悪戯に揶揄う事が罪深いことであるかのように感じてしまう。それは、普段はシニカルな物の見方を常としている藤谷ですらそうなのだった。
ただ、彼が居ないところでまで心の中に留めておけるほど平らかな心の持ち主ではないのだが。
ビィィィィィィ………
開幕のベルが鳴るとゆっくりと照明が落とされ、非常灯の明かり以外が消えると、するすると緞帳が上がっていった。
「黒瀬の奴、結局間に合わなかったのかな?」
「しぃ…始まるよ」
緞帳が上がりきると、卵色のライトがぽう…と舞台の真ん中に当てられて、一人の人物が浮かび上がる。
肩口までの銀髪がライトを弾き、彫りの深い顔立ちの中で印象的なヘテロクロミアが観客席を睥睨する。
キャャャャャャャァァァァァァァァッッ!
途端に、女子を中心とした生徒達の絶叫が響き渡った。
「高柳鋼じゃーんっっ!」
「嘘!?ホンモノ?」
「間違いないって!あたし歌番組の収録観覧当たったときに見たことあるけど、アレ本物だよ!だって、あんな瞳の人…他にいないって!」
「ウッソ!マジー!?本当にサプライズだよぉー!」
彼のことをよく知らなくてきょとんとしていた生徒達も、高柳がおもむろに歌い出すと途端にあっと息を呑む。
最近よくテレビCMで流されている、耳に馴染んだそのクリスマスソングの曲調…そしてなによりも圧倒的なその歌唱力に、先程まできゃわきゃわとたち騒いでいた女子生徒達も一様に声を失っていた。
驚きはそれに留まらなかった。もう一つのスポットライトが舞台に当てられると、そこには小柄でキュートなサンタ服の少年が居て、彼が高柳に合わせて歌い出したのだ。
「あれ…」
「渋谷じゃん!?」
頬を染めて幾らか緊張はしている様子だが、渋谷有利はリズムに乗せて滑らかな歌声を響かせた。
奏でられる旋律は高く低く混じり合い、追いかけっこのようにはね回り…リズムを速めていくと…そこで鮮やかな光の洪水となり、一気に多彩な光輝が舞台上を駆け巡ると同時に、舞台奥に控えていたバックミュージックの面々が軽快な曲を奏でていく。
それに押されるどころかより一層楽しげに響いてくる歌声が、観客席に誘いかけるように感じられた。堪えきれずに何人かが歌い出すと、ちょいちょいと誘うように高柳の指が動き、一斉に歌い手達はその数を増やした。
クライマックスを迎えて演奏が終わり、高柳が少々気障な所作で…有利がわたわたと愛らしい所作で一礼を決めると、観客席からは一斉に大喝采が起こった。
「皆さん、メリークリスマス!今日は皆さんの文化祭にゲストとして出させていただきました高柳鋼と申します。短い時間ではありますが、幾つかクリスマスや冬にちなんだ曲を披露させていただきますので、どうぞ一緒に楽しんで下さい」
業務用の笑顔を浮かべて高柳が言うと次の曲の前奏が始まり、お役ご免とばかりに有利は舞台袖に駆け込んでいった。
「うっわー、恥ずかしかった!」
「ユーリ、とても上手でしたよ」
勢いが強すぎて転びそうになる有利を笑顔で受け止めると、コンラートはそのままそっと抱きしめて労いの言葉を掛けた。
「…なんかあの人に上手く乗せられた感じ。一人で歌ったらあんな風には出来ないよ。やっぱプロの人って凄いな」
はふーっと大きく息を付いて、安心出来る居場所にもそもそと顔を埋める有利。
すっぽりと包み込んでくれる腕が、小さく震えたような気がして面を上げるとコンラートが複雑な表情を浮かべていた。
「確かに…随分と波長が合ってたみたいですね。俺が聞いていてもまるで共鳴し合う楽器のように調和しているのが分かりましたよ」
褒め言葉の筈なのに、不穏な感情の色が垣間見えて有利は困惑する。
「コンラッド…どうかしたの?」
「どうって?」
「いや…何か、怒ってる?俺…なんか悪い事したかな…?」
「そんなことありませんよ」
コンラートは自分の表情筋のコントロール不全を悟ると慌てて取り繕おうとしたが、有利は眉間に皺が寄せると、コンラートの頬の肉をむぎゅると二指で摘みあげた。
「誤魔化すなよ!もう…俺を誤魔化そうとするの止めろよな。俺のこと考えてくれてんのは分かるけど、俺が気付いたときくらいはちゃんと訳を話してくれよっ!」
真摯な眼差しを真っ向から浴びると、やはりこの人には適わないなと悟る。
コンラートが100年以上かけて培った処世術とか駆け引きとか…そんなものを蹴り倒してこの人は自分の領域に入って来る。そして、それが何時だって自分には新鮮で…そして心地よいのだ。
「…すみません、ユーリ。本当に、とても下らないことなんですよ。俺が嫉妬したというだけの話なんですから」
「嫉妬?コンラッドが?誰に?」
「…あの男ですよ」
指さした先では、高柳鋼が手拍子に合わせてリズミカルな曲を披露中であった。
「有利とあの男は今日初めて会ったんでしょう?リハーサルだって一回しかやっていないのに、それがあんな風に何年も競演しているようなハーモニーを奏でてくれるから…俺は不調法で音楽的素養はありませんしね。なんだかとても羨ましくなったんですよ。俺と有利では、あんな風に歌うことは出来ないんだろうなって……………呆れました?」
呆れたと言うよりも、心底吃驚したような顔で口を開けている有利の前で、コンラートは身の置き所がないような感じでしょぼんと項垂れていた。その様は、まるで主人の不興を買った大型犬のようで…有利は思わず力一杯抱きしめてしまった。
「あんたってば…時々お馬鹿で可愛いよね!」
くすくす笑って背中を撫でてやると、コンラートはますます困ったように複雑な顔をした。
「あなたの前では成る可く恰好良い自分で居たいんですが…どうも上手くいかないようだ」
「そんな風に気にしなくたって、あんたは十分恰好良いよ。だから、時々ちょっとだけ格好悪いのが微笑ましいんだよ。それに、そんな風になるのって俺に関わってるときだけだよな。だから、ずっと恰好良いコンラッドで居たいんなら俺と関わらなきゃ良いんだろうけど…そんなの俺は嫌だよ?」
「俺だって嫌ですよ。…それくらいなら、どんなに格好悪くてもいいから、ずっとあなたといたい…」
辺りで聞いている者達がいれば、鬱陶しいほどに仲の良いバカップルの会話に聞こえたことだろう。まぁ、本人達が気が付いていないだけで、実際お互いに恋人と称しても可笑しくないだけの感情を相手に捧げている訳なのだが…お互いが微妙にタイプの異なる天然素材なために、なかなか恋人関係成立の合致ポイントを見いだせないのであった。
「それにさ、別に俺と鋼サンが特別波長が合ったって訳じゃないと思うよ?あの人、ちょっと変わってるけどやっぱ凄い人なんじゃないかな?ほら…観客席の盛り上がり具合、凄いもん」
一曲目は丁度タイムリーな時期でもあり、CM曲としても先月辺りからよくテレビで流されているせいで盛り上がったと考えられないこともないが、2曲目に歌った曲はまだ露出も少なく、あまり知られているとは思えない曲なのに観客達は大盛り上がりで身体を動かし、高柳の思うが侭に心を奪われているようだった。
「あ…この曲……」
3曲目になると高柳が一人でアコースティックギターを抱え、舞台の真ん中で弦を爪弾きながら歌い始めた。それは、作った本人は《辛気くさい》と評して商業ベースにも乗せていないと言っていた曲であったが、観衆の方はすっかり心を捕まれているのか、元々この曲自体に力があるのか…陶然と聞き惚れて、瞳を潤ませて居る者すらいた。
「俺…この曲好きなんだ……寂しい曲だけど、なんか…眞魔国のことを思い出す」
「そうですね…」
伏し目がちになり…胸に手を当てる有利は、高柳の歌声に引き込まれるように…コンラートがやはり不安を抱いてしまうほど魅了された表情を浮かべ、殆ど無意識の内に口から歌声を紡いでいた。
気付いた高柳が誘いかけるようにフレーズを刻めば、呼応するように有利の声が絡んでいく。
音は高まり…緩やかに響き……
突然、辺りの景色を一変させた。
ざあああああぁぁぁぁぁぁぁぁ………………
轟々と哭く風が全身に吹き付け、頭髪や衣類を乱し…
紫褐色の尾花をはためかせるススキの穂が、一面に広がり…
空一面には滑やかに墨を垂らしたような夜空が広がって、鮮やかな半月が卵色の光彩を放っている。
これは、
この風景は……
はっと我に返った有利が歌声をとめた途端、景色はまた突然にして見慣れた講堂のそれへと姿を変えた。
「今の…見た?コンラッド!?」
「ええ…見ました。一瞬ですが…あれが、有利が夢で見た映像ですか?しかし、何故…」
ざわざわと観客達が囁きあい、高柳は驚愕の眼差しをこちらに向けている。
どうやら、あの一瞬の映像を共有したのは有利達だけではなかったらしい。
「やはりあの男…何か関係がありそうですね。妙に勘の鋭いところから考えても、何らかの要素と関連があるのかもしれません。おそらく…《風》か…。ユーリ、彼に一人で近寄らないようにした方が良い」
「でも、要素と関係があるなら何か話はしといたほうが良いんじゃないかな!?だって村田だって言ってたじゃん。まずなんか一つでも要素と関わりを持てたら、そこから道が開けるかもしれないって!」
「確かにそうですが…関わりを持つには油断は禁物です。まず猊下に助言を請いましょう」
「ん…そう……そうだな」
確かに相手が何を考えているのか、どんな性質を持っているのか分からない以上、その関わり方に注意を要するのは間違いない。
舞台では高柳がバックに指示を出して仕切直しを行い、今度はノリの良いジャズアレンジの曲で一度引きかけた観客を再び熱くさせていた。
* * *
サプライズコンサートの後、文化祭の閉会式がそのまま講堂で行われると、生徒も教員も後かたづけに追われながら、驚きに満ちたコンサートの話を口々に語り合っていた。
「あれってどういう仕組みだったんだろ?凄いリアルだったよねぇ!」
「コンサートの演出にしちゃ、鋼も素で驚いてなかった?完全に歌止まってたし」
「本当はもっと長い間見せるつもりだったんじゃない?一瞬だったから、映像機器が故障したかなんかだよ」
「でも、歌の方はマジ良かったよね。あたしCD買おうかなぁ…」
「つか、今回の生徒会で撮影とか収録とかやってるよね?ダビングできないかな…だってあのサンタの子!あれって確か、こないだの文化祭の時にメイド服着て立て籠もり犯倒した子だよね?あの子の歌と絡んでるトコもかなり良かったもん」
「確かに!絶対欲しい!!」
そんな他クラスの生徒達の話し声を聞きながら、黒瀬謙吾は項垂れて体育館の外壁に懐いていた。
彼は今の今まで、女装した男子生徒に追われているという有利を捜していたのだ。勿論、それは純粋に彼を助けてやりたいだけであり、決してフリフリのスカートを穿いた彼を見たかったからと言うわけではない。…筈である。
その間に楽しみにしていたサプライズ企画を見損ね、あまつさえ、その舞台に探していたはずの有利が立ち、見事な歌声を披露したとあっては壁とお友達になるしかなかろう。頼みの綱は生徒会が撮影したであろう映像だけだ。先程の女子生徒ではないが、黒瀬はその映像を入手するためなら定期預金を切り崩して良いとすら思っていた。
「あ、黒瀬。どうしたんだよー…元気ないじゃん。やっぱり風邪でもひいたのか?」
声の主を確認した途端、黒瀬の表情は元気を取り戻した。
「渋谷!お前大丈夫だったのか?俺、お前が追いかけ回されてるって聞いて探してたんだよ。そしたらお前、舞台に上がってたとかいうし…何があったんだ?」
「え?俺のこと探してくれてたのか?ありがとうな。実はさ、逃げてるときに鋼サンの楽屋になってる部屋に飛び込んじゃったんだけど、そしたら何か気に入られちっゃたみたいでさー。恥ずかしながら、舞台で歌っちゃったんだよ…。俺、舞台でなんかやるって杉花粉の役くらいしかやったことないのにさぁ」
「それもどんな役だよ…て、それよか、気に入られたって…何か変な事されたわけじゃないよな」
「変なことってのが何なのかがわかんねぇよ」
ごもっとも。
「う…そ、それは……うん、まぁ…心当たりがないなら良いんだよ。うん」
「それよか黒瀬、5組の撤収は終わったみたいだけど、今忙しい?時間あるようならこれ一緒にもってってくんない?」
サンタ服を脱ぎ、いつもの学ラン姿に戻った有利が手に持っていたのはギターケースで、中身が入っているとしても、別に二人で持つような重量があるようには見えない。
「別に良いけど…それ何処に持って行くんだ?」
「鋼サンの私物の筈なんだよ。ケースにサインも入ってたし。楽屋に置きっぱなしになってたから持っていってあげようと思って…」
コンラートと二人で持っていこうとしたのだが、丁度彼を呼び出す放送が掛かってしまった。
『誰か他の人に持っていくよう言付けておいてください』
と念押しされてしまったが、みんな撤収作業中が終わっていても疲れているだろうに、これを持っていってくれと言付けるのは気が引けてしまい、ついつい自分で持ったままになっていた。
『黒瀬と二人で行けば、コンラッドだって怒んないよな』
コンラートにマークされている黒瀬と同行したとあっては、表だっては怒らないまでも、不穏な気配を漂わすことは必至なのだが…その辺りの機微には気付いていない有利であった。
* * *
「アレじゃないかな?ほら、銀のコルベット。それか、横のトレイラーの人に声掛けて渡しとくか」
駐車場には音楽機材を乗せた中型のトレイラーと、銀のコルベットがトラ縞カラーのテープで周囲を区切られ、停車していたが、二人が見ている間にトレイラーの方は発車してしまった。慌てて駆け出すと、コルベットの扉が開き、長身の男が半身を乗り出して有利を迎えた。
「悪いな有利。わざわざ持ってきてくれたのか?」
「ううん。いいよこのくらい」
「そう言えばコンサートの手伝いをして貰った礼もしてないな…どうだ?俺の車に乗って飯でも喰いに行かないか?良い店を知ってるんだ」
「良いよ礼なんて!あ…でも、ちょっと待って貰えたらコンラッドも誘って良い?鋼サンに相談したいことはあるんだ」
「コンラッド?ああ、あの妙に迫力のある外人か。そうだな…」
考える風に小首を傾げていた高柳だったが、ギターケースを受け取りながら有利の腕を掴むと、勢いを付けて身体ごと車内に引きずり込んで、手早く扉を閉めてしまった。
「…腹が減った。あの外人には後で連絡してやるよ」
「え…ちょ……待って!」
「おい、ちょっとあんた!渋谷をどうするつもりだよ!!」
助手席で狼狽える有利を押さえつけてシートベルトを填めようとする高柳に、黒瀬が窓の隙間から手を伸ばそうとするが、ちっと舌打ちした高柳が軽く手首を握っただけで、痺れるような痛みが黒瀬の脳を劈(つんざ)いた。
「うわぁぁっ!」
「黒瀬!?何すんだよ鋼サン!」
「俺ぁ、邪魔されるのが嫌いなんだよ」
驚愕した有利が掴みかかろうとするが、その腕を取られると両腕の肘内側を痛打される。途端に尺骨神経の走行にそってビリッとした痺れが疾り、瞬間的に腕を引っ込めてしまった。
その隙にコルベットは発車してしまう。
「渋谷…渋谷ぁぁぁぁっっっ!」
黒瀬の叫びが背後に響く中、銀のコルベットは悠々と郊外へと入りだした。
* * *
「あれ?此処で待ってるって言ってたんだけど…」
コンラートを放送で呼び出した教頭は、応接室の扉を開けて不思議そうな顔をした。
そこで待っているはずの人物が不在であったらしい。
「先生、誰が俺を呼びだしたんですか?」
「ああ、今日のコンサートに出てくれた高柳さんだよ。どうしても直接伝えたいことがあるから呼び出してくれと言われたんだが…何処に行ったんだろう?ちょっと此処で待っておくかい?流石に呼び出しを掛けると生徒が集まってしまうからね」
「いいえ、俺はこれで失礼します」
引き留める間も在ればこそ、コンラートは素早く踵を返すと廊下に出て、懐に納めていた探知機を手にして顔色を変えた。
『やられた!』
有利に取り付けられた発信器の表示が、人間の移動速度ではあり得ない早さで校外に移動しつつある。高柳に填められたのだ。
今度は携帯電話を取り出すと、真っ先に掛けた番号は短縮の2であった。短縮の1には有利の番号が入っているが、今掛けても出ることは出来ないだろう。
『もしもし、ウェラー卿かい?君が僕の携帯を鳴らすって事は、渋谷に何かあったって事かな?』
飄々とした口調ながら何処か刺々しい印象を孕んでいるのは、既に何らかの予兆を感じたせいなのか…。
「猊下、申し訳ありません。《風》の要素と関連があると思われる高柳鋼という男にユーリを連れ去られました」
『君らしくない失態だね…ウェラー卿。成る可くこちらの法律に触れない範囲で追跡してくれ。僕も急ぐ』
「了解しました」
探知機は村田も持っている。だが、彼はこちらでは一介の高校生としての財力と行動力しか持ち合わせていない。知識はともかく、現在物理的な助力を恃(たの)みにするには不十分な存在だ。ともかく今はコンラート・ウェラー個人の能力で有利を取り戻すほかない。
『こちらの法律に触れない範囲でか…猊下も無理な注文をされる!』
今すぐ、あの男を一寸刻みに膾切りにでもしてやりたいコンラートだった。
「あ…コ、コンラート…さん。大変なんだよ!」
校外への道を求めて駐車場までやってくると、左手で右手首を掴んで顔を顰めた黒瀬が真っ青な顔でコンラートに駆け寄ってきた。彼の口から有利が拉致された状況を説明されると、コンラートは冷然とした表情で黒瀬に口止めをした。下手に軽擦に介入されるとややこしいことになるかもしれないからだ。
* * *
「鋼サン…鋼サンってば!あんた何でこんなに強引なんだよっ!コンラッドが来るまで待ってくれたって良いじゃないか!」
「あいつに用はない。俺が興味があるのはお前さんだけだよ、有利」
コルベットは何時しか全く見も知らない道をひた走り、周囲には民家もまばらになってきた。これで本当に飯を喰わせてくれるのだとしたら、相当隠れ家的な料理屋ということになる。
「飯喰わしてくれるって言ってたけど…こんな所に本当に店なんてあんの?」
「この辺にゃないな」
「あっさり言うなよ!じゃあ何のつもりで俺を連れだしたんだよ!?黒瀬だって無理矢理連れてかれるとこ見てたんだぜ?《芸能人が男子高校生を拉致》って明日の朝刊の見だしになっちゃうぜ?」
「ま、それもいいさ。多分、お前さんさえいれば…ちまちま芸能活動なんかやんなくても俺の目的は果たせる」
完全に民家の気配がなくなり、山の頂上に近い辺りまで来ると漸くコルベットが停車した。窓から辺りを伺うと、迫り来る夕闇のせいで背景は不吉な暗赤色に染まり、枯れ木や崩れた岩がグロテスクな影絵めいて…黒々としたシルエットをなしている。
「さて…お前さんが疑問に思うのも尤もだ。この辺で解説しといてやろう」
「おうよ!納得できるようにびしっと説明してくれよ!」
両腕を胸の前で組んでふんぞり返る有利に苦笑すると、高柳はシートベルトを外して助手席の有利にのし掛かっていった。
「え…?ちょ……っ」
慌ててシートベルトを外そうと藻掻くが、左手一本で簡単に両の手首を拘束され、頭上に纏められてしまう。そしてギター胼胝のある右手の示指と母指とで顎を固定されると、間近にヘテロクロミアを突きつけられた。
「俺はお前さんを手に入れたいんだ…ちょいとひとこと、《心と身体の全てをあなたに捧げます》と言ってみないか?」
「嫌だよっ!何ソレ!?なんでそんなこと言わなくちゃなんないんだよ!?」
「お前さん…気付いてるのかどうか知らないが、相当な霊感体質なんだよ。霊感というか霊力というか…その力が俺は欲しいんだ。人間の中にはそういう体質の奴がたまに居る。そういう奴に歌を聴かせて共鳴してきた力を吸い取ることで俺は力を得てきた。だが、お前さんの共鳴度は桁違いだ…。お前さんがさっきの言葉を俺に捧げてくれりゃあ、《契約》が交わされる。そうすればお前さんの力を俺が自在に扱うことが出来るのさ」
「あんた…やっぱり俺の見てた夢と関わりがある人なのか?俺、今日のコンサート中に出てきたススキ野原と白い狼の夢を何度も見てるんだ。そのリーダーみたいな奴の目…あんたと一緒だった」
高柳の方は説明しつつも有利には理解できないと踏んでいた節があったが、返された夢の話にその異彩色の瞳を見開いた。
「驚いたな…!夢にまで共鳴してたのか?ありゃ、俺が毎晩飛ばしてた映像だ…俺の仲間が反応するように…それに、お前さんが反応してたのか…」
『そうか…』
と…噛みしめるように微笑むと、細められた双眸はこんな不穏な体勢にあるくせに、何処か親しみの籠もる優しげなものになった。
「な…誓いの言葉を言っちまえよ。霊力のことがなくても、俺はお前さんを気に入ってるんだ…無理強いはしたくない」
「無理強いって…どうするつもりだよ?」
「霊力を持つ者から力を奪うには3通りの方法がある。一つは配下に降ると制約を誓わせること、もう一つは生け贄としてその血を儀式に使うこと、最後が交接により霊力が最大限に高まったところでソレを吸い取ること…言ってみりゃあ、セックス漬けにするってこった。毎日絶頂を味あわせてその度に霊力を吸いとりゃあ、そのうち十分な量が貯まるだろう。ま、血の儀式をやるよりゃ効率は悪いが、俺の平和的な主義から行くと、契約が駄目ならこれしかねぇや」
「ねぇやって…!えーと…ほら、一緒に歌うのとかは?ススキ野原出てきたじゃん」
「ありゃあ、唯の幻さ。出てきたからって、あそこで本物の仲間に会えるわけでも、走り回ることもできやしねぇ…ま、諦めて股開きな。セックスしよ、セックス」
「いーやーだーっっっっ!だって…お、俺…男だよ!?ほら、学ランも着てるデショ!?」
「あー、ははは。大丈夫大丈夫!子供相手は初めてだけど、男とやんの自体は場数結構踏んでるから!初めてでも安心のスムース・インだよ。まぁ任せとけって!ほら、最近はこの世界も便利になったからなー、このオイル使ってやるよ」
陽気に笑う高柳は、何やらキャラが変わったような朗らかさで請け合うと、右手でボックスからガラス瓶を取り出した。クリスタルカットの華奢な瓶の中にはとろりとした柑橘色のオイルが入っている。
「何ソレ?」
「これでお前さんの此処をほぐすんだよ。そういうコト用に調合されてるから下痢になる心配もなし。切れ痔も予防できるぞ」
つん…と触られた場所は、あろう事か股間の奥の部分で…
→次へ
|