虹越え2−3−1 きん…と音がしそうなほど冷え切った冬の大気は、思い切り吸い込むと肺胞まで凍えてしまいそうだ。しかし登校してくる生徒達の目は一様に輝き、明日から始まる冬休みと、本日の《仕切り直し文化祭》への期待に足取りまで弾むようなステップになる者もいた。 2年5組の黒瀬謙吾もその内の一人である。 『女子のサンタ服楽しみだな〜。他のクラスも幾つかやるって言ってたしな〜』 心の声の筈なのに何処か本音というより暗示口調なのが微笑ましい。 『今日はもう大丈夫!なんつっても前に一度渋谷のサンタ服は見たからな。流石に今度はスカートは穿かないって言ってたし、吃驚させられるようなことはないはずだ!』 自分に言い聞かせるように昨日から繰り返しているフレーズをブツブツと口の中で呟いていると、校門近くで何人かの生徒が文化祭の呼び込みをしていた。 「よぉ篠原、嘉手納、そのサンタ服可愛いじゃん」 「自信作だもん。モデルも良いしね」 篠原はスカートの裾をちょいと摘むと気取ってポーズを取った。自信満々な態度が鼻につかないでもないが、流石にプロポーション抜群な彼女がフルメイクでサンタ服を着込んだ姿は何とも可愛らしい。他にも何人かいる女生徒達も少しづつデザインの異なるサンタ服を身に纏い、艶やかに咲き誇る花々のようだ。 『あ〜やっぱ女の子って可愛いなぁ…ふわふわして華奢でさー』 今度は自分に言い聞かせなくともそう感じることが出来て、心からの喜びが自然に溢れてくる。 「よ、黒瀬オハヨー」 油断しきった黒瀬は相手の声を確認もせず、心の準備もなしにいきなり振り返った。 そこに佇んでいたのはもう既に一度見たことのある…ちょっとぶかぶかのサンタ服を身に纏い、大きな白い袋を背負った渋谷有利であった。 確かに初めて見たときには驚いた。 でも、今度は二度目なのだ! そう…二度目なのだ! だから、驚くようなことは何もないのだ! なのに…… 「黒瀬?お前また熱でもあんのか?顔真っ赤だぞ?」 《ホントもう、何ででしょうね》と、自分で自分に小一時間は問いただしたい黒瀬だった。 別に、サプライズで篠原のようなスカートサンタ服を着るようなことはせず、ちゃんと前の通りのデザインのものを着込んでいるのに…朝日に照り映えて金色に光る産毛とか、はにかむような笑顔とか…それこそ何時だって目にしている容貌がきらきらと眩しく輝いて、赤いもふもふした衣装と絶妙にマッチングしているのだった。 「それはいけませんね。もう帰った方が良いかもしれませんよ」 如何にも心配そうな顔をしながら、目の奥に嘲笑めいた色彩を漂わせている警備員がぽんっと肩を叩いてくる。 「い・い・え!熱なんてないデスっ!ちょっと走ってきたから顔が赤いだけデスっ!」 そう言うと、黒瀬は弾丸のような勢いで教室向かって駆けだしていった。 「あんだけ走れるなら大丈夫かな?でもあいつ、時々激しく顔真っ赤になるんだよなぁ…何処か悪いんじゃないかな?」 「自律神経失調症なのかも知れませんね。それよりユーリ、その背負ってるものは何ですか?」 「お、そうだ。俺の役割を忘れてたよ」 有利は白い袋の中に手を突っ込むと、小さなセロファン紙の包みを取り出した。虹色のセロファンの中には個別包装の飴玉が2つ入っていて、赤と緑の2本のモールで捻りとめたその付根には、小さな柊型の飾りとカードがついている。カードをよく見ると女の子らしい丸文字で《体育館・2年5組・お菓子の家に来て下さい》と書かれていた。 「宣伝用のお菓子なんだ。結構可愛いだろ?」 「ええ、とても…」 蕩けるような笑みを浮かべたこの男が考えているのは当然、 『小さなプレゼントを持ったサンタユーリ…なんて可愛いんだろう…』 等という、お幸せなことであった。 「今日乾燥してるから、風邪避けに一個いる?」 ユーリは包みの一つを開くと、白い飴玉を取り出してコンラートに差し出した。 「ありがとうございます」 そう言って少し屈み、口をそのまま寄せるコンラッド。 ユーリはてっきり手を出されると思っていたので少々面喰らったが、素直に飴玉をコンラートの唇近くまで持ってくる。 ぱくり…と、薄く形良い唇が飴玉を包み込めば、それを包んでいたユーリの指先にも柔らかな口腔内の温度が伝わってくる。 凍えて悴(かじか)んだ指に伝わるその温もりと…微かに触れる、濡れた感触。 ユーリはコンラートが飴を含みきるのも確かめずに、跳ねるように指を離した。 そのまま触れていたら、胸の中で何かが弾けてしまいそうに感じて。 「ユーリ?」 「あ、御免…何か凄く口の中が熱いような感じがしてっ!…その……吃驚、した……」 唇の中の…柔らかく濡れた粘膜が、夢で見たあの濃厚な唇付けを想起させてくらりと目眩を覚える。これでは、急に真っ赤になる黒瀬を笑えない。もしかして、自分も自律神経失調症なのだろうかと首を傾げた。 「今日は随分寒いですからね。指先もとても悴んでる…。幾らフリースのサンタ服とはいっても、その下にはあまり着込んでいないんでしょう?そろそろ部屋に入らないと身体が冷えてしまいますよ?」 「それ言ったらコンラッドだって、制服だけでコートも着てないじゃん。寒くない?」 「大丈夫ですよ。鍛え方が違いますから」 いつもの紺の警備服は冬物ということで多少は厚手なのだが、とても12月の寒さをしのげるようなものではないように見える。確かジャンバーも制服として支給されているはずだが、コンラートは《咄嗟の動きが鈍くなる》と言って、着ようとはしなかった。 「ジャンバーも着ないなんてさ…本当に寒くない?」 「平気ですよ。やせ我慢しているように見えますか?」 「見えない…けど」 確かに震えるでなし、強ばるでなし…もこもことマフラーだのコートだのを着込んだ生徒よりも、コンラートはしゃっきりと事も無げに佇んでいる。寒そうというより、涼やかと言った表現が似合う風体だ。 一体どういう身体の構造をしているのだろうか? 「そうですね…」 急に悪戯っぽい笑みを閃かせたかと思うと、コンラートは身を屈ませてユーリの耳元に囁いた。 「ユーリがキスをしてくれたら…驚いて、身も心も温まるかもしれませんね」 くすくす笑って、いつもの《セクハラ親爺ギャグーっ!》という突っ込みを待つコンラートだったが、今日は何故か反応がない。 『…スベったか?でも、いつもの駄洒落系に比べると突っ込んでくれる割合が高いんだけどな…』 訝しんでユーリの表情を伺うと、俯き加減の彼の面は茹で蛸状態になっており、覗き込んできたコンラートと目が合うと、ばっと身を離して脱兎の勢いで駆けていってしまう。 「ユーリ!?どうしたんですか?そんなにサムかったですか!?」 『エロ系のネタには自信があったのに…』 と、ヘコむコンラートを後目(しりめ)に、有利は爆発しそうな心臓と脳の処理に追われていた。 『こ…コンラッドのアホーっ!いたいけな青少年にエロオーラ垂れ流しにしてんじゃねぇよっ!』 つい先日までは耳朶や首筋近くで囁かれても、ゾクゾクとはするものの、ネタ自体は親爺ギャグとしてスルーできていた内容なのに、どうしてこうも過剰な反応を起こしてしまうのか…。 『そういやぁ、花粉症なんかも急に出ることがあるっていうもんな。免疫系が過剰に反応してんのかも…』 名付け子にアレルゲン呼ばわりされているとは知らず、校門に立ちつくす警備員は気温のせいではない寒さを感じて木枯らしに吹かれていた。 * * * 終業式が終わりいよいよ文化祭が始まると、規模縮小版で生徒と保護者しかいないにも関わらず、体育館内のブースは何処も賑わいを見せていた。特に2年5組のお菓子の家は好評で、ビスケットの屋根はどんどん剥がされ、願い事を書き込まれて人々の胃袋の中に投じられ、補給が間に合わないほどであった。 「今回もうちのクラス盛況だな」 「願い事が叶うなんて、誰が叶えてくれんのよとか思ってたけど、結構食いつき良いよね」 「それ言っちゃあ…」 身も蓋もない篠原の発言に、ごもっともとは思いつつも苦笑するしかない有利だった。 かくゆう有利も同じようなことを考えていたのだが、《鰯の頭も信心から》的な発想で、実はこっそり願い事を書いてもぐもぐ食べてしまった。勿論、願い事は人に見られると恥ずかしい…というか、ドキュン扱いされることが必至な内容であった。 『四大元素と契約結ぶ…ってなぁ…』 切羽詰まるほど深刻なお願いなのだが…。 「あ、文字用のデコペンって予備の箱あったっけ?ちょっと心許なくなってきたね」 「まだ教室にあるかも。俺取ってくるよ」 「ん、あたしも行く」 二人で小走りに教室に向かうと、デコペンと、ついでに予備のビスケットの箱も全て持っていくことにした。余ったらみんなで分ければいいやと多めに用意していたのだが、なかなかの盛況ぶりなので、閉会までにはけてしまいそうだ。 篠原は4つある段ボールのうち2箱を持とうとしたが、上の方の1箱はひょいと有利が浚っていった。 『可愛らしい見てくれはしていても、こういうところは昔からオトコの子なのよね…』 格好付けとかではなく、自然にそうする習慣が出来ているらしい(尤も、その習慣が眞魔国在住の赤い悪魔によって更に強化されていることを篠原は知らないが…)。 『なんか…さ、ときめいちゃうじゃん?』 生徒机の上に持っていた段ボールを置くと、篠原はつい…と有利の頬をつついた。 思わせぶりな…小悪魔的なしなを纏う仕草で。 「ね、渋谷…」 腰の高さで後ろ手に組み、細身の割に豊かな胸の膨らみを突き出せば…細く括れたウエストから流れるスカートの隆線が、きゅっとしまったヒップラインを際だたせる。 今日のために何週間も前から目星をつけていたルージュは艶やかに唇を彩ってくれているだろうか? 重ねたグロスは潤んでいるだろうか? どきどきと拍動を早くする心臓に気取られぬよう、恋に手慣れた女を装って誘いを掛ける。 「ねぇ…」 「何?」 しかし、当の有利は篠原が着々と準備してきたエロ可愛い装いや小悪魔メイクにどうという感慨も持たないのか、なんで箱を降ろすのかと不思議そうに小首を傾げている。 計算していないだろうその仕草が…狙い澄まして演じた篠原のそれよりも明らかに愛らしくて、何やら妙に腹立たしい。 『く…この乙女系男子がっ!』 最も腹立たしいのは、そんな有利にときめいている自分だったりするのだか…。 「ん、ねぇ…渋谷、キス…したことある?」 「え…キス!?」 言われた途端に思い出されるのは、あの恥ずかしい体験と…夢とは思えないくらい生々しく、濃厚な唇付けで……。 『ユーリの名付け親は、こんな事しないだろう?…』 そう言ったコンラートの表情は、見たことないくらい男臭くて…そして、ぞくりとするくらい煽情的だった。 『うわぁぁぁぁっ!忘れろよ俺!』 頬が上気していくのが自分の顔を見なくても分かる。 その反応をどう思ったのか、篠原は余裕を取り戻した笑みでつい…と口角を挙げた。 「ないんだ?」 「う…ん……まぁ…………」 確かに、現実世界ではない筈だ。不承不承頷くと、篠原の顔が鼻先の近くまで寄せられる。 「ね…あたしと、キスしない?」 「え?」 「深く考えなくても良いよ?それで付き合えとか言わないから。ただ、あたしがしたかっただけだもん」 軽くつき合える大人の女のように、艶めいた唇をつんと突き出して微笑すれば、サンタ服の美少女はちょっとしたアイドル並に美しく見えた。 『キス……キス?』 こんな可愛い子が、 付き合うとかいう前提なしで、 したいから、キスしようといってくれる…。 まさに据え膳状態。此処で戴かねば男が廃るというものだろう。 人一倍《男らしさ》には反応してしまう渋谷有利としては、当然有り難く頂戴すべき展開であった。 なのに、身体が動かない。 瞼を閉じ、キスの訪れを待つ美少女を目の前にしながら…段ボールを降ろすことが出来ない。 何故なら… 『コンラッドの顔が…浮かんでくる』 夢で見た淫蕩な眼差しとか…普段の爽やかな笑顔とか…珍しく油断してうたた寝しているときの横顔とか……。 《キスしたい相手》を思い浮かべた途端、どうして彼の顔が出てくるのか…。 その理由を知りたい気はするが、知ったら…どうなるだろう? 今までの性向とか信念とか…そんなものが崩れてしまいそうで、怖い。 かといって、それを誤魔化すために篠原にキスをするほど、渋谷有利という男は小器用に出来ていなかった。 「御免…篠原、俺……出来ない………」 篠原の表情が強ばるのがわかる。 肩が小さく震えて、息を呑んだのも分かった。 そもそも、彼女がそう人に信じさせたいと思っているほど遊び慣れているわけでも、気が強い訳でもないことを有利は知っている。だから、胸に込み上げてくる想いは、何と言っていいのか分からないほどの《罪悪感》だった。 「篠原…凄く可愛いし、唇とかきらっきらしてて、キスできたら凄く気持ちいいだろうなって思うけど…俺、篠原のことやっぱり…凄く大事な友達だけど…誰よりも特別好きだとは思えない」 「馬鹿渋谷…そんなの、期待してないって言ってるじゃない?」 俯いたくりくりパーマの茶髪が、ピンで留めた小さな帽子と共に震えている。 「そうだよな…自分でも馬鹿みたいだって思うんだけど…俺、そういう風にしかやってけないみたい……」 「馬鹿…馬鹿っ!何が友達よっ!冗談にもキスできない位の相手が、友達なわけないじゃない!」 「それは違う!」 それだけは自信があるとばかりに、激高するように声が響いた。 「篠原は友達だよ!本当に大事な友達だ!!クラス変わっても卒業しても、何処にいたって、何してたって…俺、篠原が困ってたら助けてあげたいし、何もなくたって、会って話したりしたいよっ!」 「分かってるわよ…分かってるけど……嫌だ……ヤダ……こんなの。こんな事で泣いてるあたし…嫌………っ」 振り絞るような声と共に激しく頭部が振られると、ぽろぽろと涙の滴が零れていく。 色あせた教室の床に…散らばる水跡が酷く切なかった。 「あっち行って……もぅ……キス、しないなら…あっち行ってよぉ……」 もう演技なんて出来ない。 唯の十七歳の女の子に戻ってしまった篠原楓は、両手で顔を覆って啜り泣いた。 「篠原…」 「こっち来ないで!あんたのために何週間も前から衣装作って、めいっぱい綺麗に見えるように化粧してたのにっ!不細工になってるトコなんか見ないでよ!」 「篠原は泣いてたって可愛いよっ!」 どうしていいのか分からなくて…でも、こんな状態の篠原を置いていくことは出来なくて、有利は荒っぽく篠原を引き寄せると胸に抱きしめた。コンラートのように体躯には恵まれていないから、とてもすっぽりと包み込むといった芸当は出来ないけれど、それでも篠原が泣きやむまでは此処にいたいと思う。 「馬鹿…馬鹿っ…………」 結構な力で叩きつけていた拳が次第に弱くなり…すすり泣きが涙声の余韻だけを残して止まってしまうと、漸く篠原はばつの悪そうな顔を上げた。 「………いつか、あんたが誰かにこっぴどく振られたら…あたしの胸で泣くのよ?」 「うん、そうして貰う。わんわん泣かして?」 そんな立場なら、ぽふぽふした胸の感触を思う存分楽しむことが出来るだろう。 篠原がやっと浮かべた笑顔は涙の跡と、落ちてしまったマスカラでパンダ目になっていたけれど…今まで見たどんな笑顔よりも可愛いかった。
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