虹越え2−1−1

プロローグ






 ざぁ……

 ざぁぁぁぁ………



 轟々と風が哭(な)き…人の背丈の二倍ほどにもあるススキがうねるように靡いて、その紫褐色やら黄褐色やらの尾花がばたばたと音を立てた。

 半月の掛かる夜空は雲のない滑やかな闇色をしており、風に煽られてススキがうねるたび、四散する種子が燐光のように煌めいては消えていく。

 荒涼としているふうにも、同時にこの上なく賑やかなようにも見えるその奇妙な風景が、少年の視界一面に広がっていた。



『ススキの穂が月の光を浴びて…きらきらしてる』
『綺麗だなぁ……』



 少年がこれまで見たことのある草原は、広大ではあったがこのように丈高い植物で視界が埋められるというものではなく、下生えの芝が緑から茶褐色のグラデーションを呈してどこまでも広がる…そう、馬で疾駆するのに適した場所であった。



『アオ……ノーカンティー………』



 懐かしいその名の響きで、不意に少年は寂しくなった。

 そういえば、此処は何処なのだろう?

 少年の愛馬のアオや、ノーカンティーを颯爽と操る彼の名付け親は何処に行ってしまったのだろう?



『寂しい……』



 そう思うと、ススキの群れがより丈高く…風に捻れていく様が怪しく…恐ろしくさえ見えるのだった。

 少年の立っている場所は少し膨隆した丘のような所で、比較的遠くまで見渡すことが出来るのだが…それでもススキの群れは果てがないほども遠くまで及んでおり、夜闇との境が灰色の混濁した澱となって沈んで見えた。

 一際強い風が轟っと吹き付けてくると身体ごと持って行かれそうになり、脚を踏ん張って抵抗すると、ブルーグレーのパジャマの裾がばたばたと煽られて、一層心許ない居心地になる。

 

『コンラッド…何処にいるんだよ……』



 当てもないのに探し出そうと一歩踏みだそうとしたとき…草いきれを掻き乱す疾駆音が響き、有利の立つ丘の前方数十メートルの所を大きな獣のようなものが十数頭駆けていくのが見えた。 

 

 白銀の…長い毛足が流々と靡き、

 毛皮越しにも分かる精悍な筋肉が躍動している。

 走るというよりも、飛んでいるという表現が適切なほどの加速に残像が生じ、獣たちのシルエットは白銀の流線のようにも見えた。

 まるで風そのものが変じて、獣の姿をとっているかのようだ。



『なんだろう…犬?いや………狼?』

 

 どちらにしろ野生の肉食獣であることは確かであるのに、不思議と恐怖感はなかった。 寧ろその美しさに目を奪われて、逃げなくてはならないという発想が浮かばなかった。



 獣たちは一際大きな体躯を誇るリーダーに率いられており、そいつが静止するとそれが合図であったかのように群全体が疾駆を止め、一斉に喉元一杯に咆吼を挙げ始めた。



 ウォォォォォォォォォォォンンッッッッ

 オオオオオオオォォォォォォォォォォォォォォッッッッッ



 朗々と響き渡るその叫びは、イメージにある遠吠えよりも力強く…そして、随分と心地よさそうに聞こえた。

 

 肺腑を満たす気の続く限り。

 喉の震えの続く限り…。

 

 生きている事への純粋な歓喜が、咆吼に変わって空一杯に広がっていくようだ。



『凄い…楽しそう……』

 

 見ていると有利の方まで清々しい心地になってきて、なにやら親しみめいたものまで感じて、じぃっ…と獣たちを観察した。 

 そして、ふと気付いたのだった。

 一際大きな獣の瞳が、とても風変わりな配色をしていることに。

 その獣の瞳は…片目が青で、一方は黒い…左右異なる虹彩を持っていたのだった。







T.草原の夢





 妙な夢を見た。

 とても綺麗なような…怖いような……。

 ここのところ、繰り返し見る夢。

「また見ちゃったよ……何かのゲームとか映画に似たようなのがあったっけ?」

 何処かで見たような気もするが、思い出すことは出来ない。

 とても鮮明な映像だったのに…。

 布団の上に半身起こしたままぼうっとしていると、傍らでアラームが鳴った。 

 示された時刻はAM6:00。

 大きく伸びをすると、渋谷有利は勢いよくベットから降りた。





「ゆーちゃん、そう言えば期末試験どうだったの?村田君の張ってくれたヤマは当たった?」
「うん、まぁね」

 美子の用意してくれた朝食をかっ込みながら、適当な返事をかえす。

 確かに村田健のヤマは当たっていた。

 寧ろ、学校が違うのにどうして此処まで当たるんだと言いたくなるくらい当たっていた。

 ただ、その内容を理解・記憶するのはあくまで渋谷有利なので、結果の方はまずぼちぼちと言うところだろう。少なくとも、心身共に惚けていた1学期分くらいは取り返せた筈だから、2学期の段階で留年が決定するような事態にはならないだろう。



 ピンポーン



「あら、コンラッドさんかしら。毎日マメねぇ」

 美子はエプロンで手を拭くと、いそいそと玄関に急いだ。

 コンラートがこちらに来てからというもの、美子は早朝から化粧に余念がない。

「ミコさん、おはようございます。今日の頬紅の色は華やかですね。ミコさんは色白だからよく映えますよ。コーラルピンクの口紅もとても素敵だ」

 無意識のタラシぶりを発揮するコンラッド。こんな台詞を日本人が口にした日には砂を吐くことは必至だろうに、さらりと嫌みなく響く。

 少なくとも女心は直撃のようだ。

「やぁ〜ん、コンラッドさんこそ警備員の制服がよくお似合いですわ!立ってるだけで映画のワンシーンみたいっっ!」

 美子の贔屓目などではなく、それは間違いなく客観的な事実であった。

 均整のとれた長身に紺の制服は誂えたように似合っており、生地の質まで上等であるかのように見えてしまう。何事も、身に纏う者次第ということか。

 帽子の鍔を指先で摘んで会釈する様子も、爽やかな笑顔と相まってとても好感が持てる。

「毎日お迎えありがとうございます。ゆーちゃんもコンラッドさんがこっちに来られてから早起きさんになって、助かってますのよ。でも…幾らお住まいが近いって言っても、こう毎日じゃ大変でしょ?」
「いいえ、ユーリの元気な姿を見るのが毎日の楽しみですから。お気遣いなく」

 コンラートが現在、居を構えているのは渋谷家からほど近い(というか、至近距離)20階建てのマンションである。どうせ寝に帰るだけだから安アパートかなにかで…と思っていたのだが、11月末に中年男に浚われかけた女子小学生を救ったところ、マンションの持ち主である両親がいたく感謝してくれて、《頼むから住んでくれ》と懇請され、やけに良い部屋に住むことになった。

『ここって…普通に家賃払ったら月額20万円はするぞ?』

 保証人として手続きをとった渋谷勝馬は、19階に位置する4LDKの住まいに驚愕していた。コンラート本人としては、渋谷家に近い点が有り難いというだけで、だだっ広い空間を持てあまし気味である。しかも《無料》というのは逆に肩身が狭い。

 眞魔国から持ち込んだ金塊を現金化したものだけで結構な値であったし、ボブやロドリゲスに餞別として振り込んで貰った金額も合わせると、働かなくともある程度リッチな生活を5年くらいは送れそうなほど貯蓄はあるのだ。

 先方の気が済むまで待って…3ヶ月程度経過したら転居を申し出るか、もう少し格下の部屋を正式に契約しようと思っている。





「お待たせ!行こう、コンラッド!」
「ええ」

 ジャージを着込んで玄関に飛び出してきた有利の元気な姿に、暫しコンラートの相好が崩れる(ちなみに制服はサポートバックの中だ)。

『コンラッドさんてば、ゆーちゃんを見るときだけはポーカーフェイスが崩れるのよね。可愛い!』

 美子は《にやにや》に近い意味深な笑顔を浮かべていつもの風景を見守る。

 普段の笑顔が嘘とまでは言わないが、一般受けのするコントロールされた表情よりも、こうして素の顔を覗かせてくれる瞬間見たさに玄関までお出迎えしているようなものである。





 二人は元気にジョギングしつつ学校に向かっている。

 そんな姿を近所の人々は温かい目で見送り、時には声を掛けてきた。

「コンラッドさーん!おはようございますっっ!」
「有利君も元気そうねぇ。マフラーもなしで寒くない?」
「コンラートさん、こないだはありがとうねぇ!」

 人々の顔には一様に笑顔があり、時には深い感謝の念も混じっていた。

 実は…今日までの僅か1ヶ月の間に、コンラートは近所で発生した数々の事件を解決しているのだ。

 とは言っても、別に密室殺人事件を見事な謎解きで解決したというような話ではない。 中年男から女子小学生を救った事件を筆頭に、カツ上げされそうになっていた中学生を助けたとか、横断歩道で立ち往生していたお年寄りを助けたとか、ひったくり犯を捕まえたとか、木の枝に引っかかった幼児の風船を取ってやったとか…そんなものである。しかし、その数たるや凄まじいもので、1日に数件は事件を解決している。有利の高校の半径1キロ以内では犯罪が激減しているという噂もあるくらいだ。

 本来の職務ではないし、逮捕権は当然ないので何処からか苦情が出そうなものだが、なにしろ文化祭の大捕物の件で協力的な態度を取ったことで地域の警察組織には気を遣って貰っているし、何よりコンラート自身の態度が控えめなので、人々の向ける感情は殆どが好意的なものだった(勿論、退治される側からは恐怖の念を送られていたろうが)。

「おはようございます。風邪などひいておられませんか?」

 爽やかな笑顔で響きの良い声を掛けられると、ときめいた老人が頬を染めた。

 ちなみにおばぁちゃんではなく…おじいちゃんである。





「何か気に掛かることでもおありですか?」
「え?なんで?」
「考え事をされてるみたいだったから…」

 近所の人々に挨拶を返しながらも、有利の観察に抜かりはない。

「んー…大したことじゃないんだけど……なぁ、コンラッド。右と左の目の色が違う動物っているよな?」
「ええ、確かNASA情報によると、《虹彩異色症》というのが正式な病名だそうですね。俗称では金銀妖眼とか…ヘテロクロミア、オッドアイとも呼ばれるそうです」
「へぇ、なんか格好良い名前ー」

 口の中でもごもごと復唱している様子が、言葉を覚えたての小児さながらで微笑ましい。

まぁ…この男の場合、有利の仕草や発言の殆どを微笑ましいと感じてしまうわけだが。

「どこかでご覧になったんですか?」
「あれも見たことになるのかなぁ……」

 聞かれると、有利の視線が上向けられ…何処へともなく彷徨った。

 記憶に残る風景が、視界の何処かにあるかと探すように。

「…なんか、ここんところ不思議な夢を見るんだよ。夜のススキ野原を白くて大きな…犬だか狼だかが走っていくんだけど…そのうちの一頭の目が、青と黒をしてるんだ…」
「不思議な夢ですね…。ススキ…というと、群生している状態は見たことありませんが、ぽわぽわとした綿毛が房状になっている丈の高い植物ですよね?日本人には馴染み深い植物と聞きますから、それ自体はユーリが何処かで見た景色なのかもしれませんが…しかし、ニホンオオカミは絶滅しているそうですし、そもそもあまり大きな体格ではなかった筈ですよね。白というのも狼には珍しいし…」

 植え付けられただけの知識を蕩々と披露してしまったのが気恥ずかしかったのか、コンラートは説明の途中で苦笑するとお茶を濁した。

「まぁ、夢だからと言ってしまえばお終いですが」
「そうだよなぁ、白っていうか…銀みたいな色だったし…そんなのが十匹以上いたもんな。変な夢……。おかしいよなぁ…あんな景色とか、犬とか…見たことなんかない筈なんだけどなぁ」

 有利が凍える大気の中にほぁ…と息を吐くと、白い蒸気の固まりが一瞬、夢で見た獣のような形状をとってから風に運ばれていった。



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