虹越え1−7−2






 勝利に借りたオリーブグリーンのパジャマ上下を着込み、勝馬のガウンを羽織ったコンラートが客間に戻ると、暫くして小さなノックの音が響いた。

「コンラッド、いい?」
「勿論。それより、何か上に一枚着ないと…湯冷めしますよ?」

 そう言うと、水色のパジャマを着ただけの有利に借り物のガウンを羽織らせてやる。

「相変わらず過保護だなぁ…」
「世話を焼かせて下さい…ずっと、こうしたかったのですから…」

 くしゃりと髪を撫でつけると、幾分濡れた感触に琥珀色の瞳が眇められる。

「また生乾きのままで…本当に風邪をひいてしまいますよ?」
「あー…うー……」

 有利は促されるままクッションの上に腰を下ろすと、コンラートが鞄から取り出した清潔そうなハンドタオルを頭髪に当てられる。

 しゃっ、しゃっ…とリズムよくタオルが動くと、濡れた毛先が頬を擽った。

 強すぎず、弱すぎず…心地よい動き。
 覚えのある感覚は、血盟城では日常的に体験していたものだった。



 暫く…お互いに口を開かなかった。



 言葉にすることの出来ない…既視感を含む温もりに包まれて、このまま漂っていたかったのである。   

 髪がすっかり乾いてさらりとした質感を取り戻すと漸くタオルが離れたが、その代わりコンラートの手が髪に絡められて、つぅ…と髪の一房を指挟み…それはなかなか離れていかなかった。

「コンラッド?」
「ユーリ…抱きしめても良いでしょうか?」
「へ?」

 見上げると、何とも言えない微妙な表情をしたコンラートが居た。

 強いて表現するなら、照れているのかもしれない。

「なんだか、まだ夢のようで…ちょっと、深部感覚でもあなたを味わってみたいんです」

『味わうって表現が微妙にエロ臭い…』

 とは思いつつも、気持ちとしては同じような事を考えていた有利は、返事の代わりにコンラートの胸にことん…と頭を凭れさせて、そっと腰に手を回し…力を込めた。

「ユーリ…」

 そぅ…とコンラートの右手が有利の後頭部に沿わされ、少し冷たくて…柔らかな髪の感触と、小さな頭蓋骨の形を確かめるように撫でつけた。左腕はくるりと肩から背中へと回し、互いの間から隙間をなくそうとするように、ぎゅっ…と抱きしめる。  

 両者の口元から期せずして、ほぅ…と零れた息は酷く切ないものだった。

「星を…掴むことが出来た」
「何?」

 詩的な表現に、有利はぱちくりと目を見開く。

「いえ、あちらにいる間…時々不安になることもあったのですよ。本当にあなたに再会することが出来るのか…魔石を集めるというこの方法で本当に合っているのか?無駄な回り道をしているだけではないのか…地球に行くことが出来ても時間軸がずれていて、既にユーリは亡くなっていたとか…そんなことになったらどうしようなんて、酷く恐ろしく思ったこともあるんですよ」

「コンラッド…」

 それでも、彼は諦めなかったのだ。5年以上の時を掛け、唯ひたすらに有利との再会を夢見て旅を続けたのだ。 

「時折…思ったものです。俺の抱いている夢は、きっと星を掴むように無茶なことなのだと…けど、それが今叶って…俺はあなたを抱きしめている……」

 コンラートの声が、微かに震えたような気がした。

「あなたを…ユーリを、抱きしめている……」

 沁み入るようなその声音に、有利はもう何を言うこともできなくて、ぎゅう…と名付け親の逞しい胸に顔を埋めた。

 嬉しい…嬉しい。

 思い続けたこの人が、自分という存在一つでこんなにも歓喜を露わにしてくれることが。

 この人が、此処にいてくれることそのものが…どうしようもないくらい、嬉しい。

「ユーリは…暖かいですね……」
「コンラッドは相変わらず、ちょっと体温低いよね」
「冷たい?」
「ううん、ちょうど良い。俺、自分の体温高いけど、暑いの嫌いだからさ…コンラッドと引っ付いてると、何時も凄く気持ちいい。コンラッドこそ暑くない?」

「俺は逆に暖かい方が好きだから…ほかほかして気持ちいいな」

 本来はコンラートも、暑いのは苦手である。と、言うより…人肌の温度が苦手なのだ。

 女性との性交中では集中もするし人並みに耽溺もするが、その後のピロートークや睦み合いというのが少々面倒で、何かと理由をつけては朝まで同衾していたためしがない。

 しかしこんな風に有利の子供っぽい熱量を抱いていると、可能な限り長い時間…この感触を楽しんでいたいと思ってしまう。

 出来れば、それ以上の行為も……。



『………俺は、やはりギュンター並のアレなんだろうか……』



 こんな未成熟な少年に、何を望んでいるのだろう。

 純真に自分を信じて縋り付いてくる有利に申し訳なくて、具体的な行為を思い描こうとするたびに、理性の力を最大限に発揮して妄想を掻き消してしまう。

 本当は、こんな風に抱きしめたりしなければいいのだろうが…

 

「じゃあ俺、湯たんぽ代わりになるかもよ?なぁ、このまま一緒に寝ようよ。このベットかなり大きめだから、何とか二人でも寝られるよ?」

「……………ええ…と」

 無邪気な爆弾発言に、コンラートの背が強ばる。

 警戒されていないことを喜ぶべきなのか哀しむべきなのか…。

 まぁ、自称婚約者と同衾してすら警戒しちゃいないのだから、名付け親相手に警戒するはずもないか。

「そうですね。お言葉に甘えようかな…」

 これまでも何度か同衾したことはあるが、どうにか自制心を途切らせたことはない。それなら、無警戒なこの立場を最大限に満喫した方が人生楽しかろう。

「よーし、じゃあ早速!」

 有利は勢い良いベットに飛び乗ると、スプリングの効いた感触を楽しむ。

「実はこのベットのスプリングが好きなんだよね!俺のベットって昔、勝利と一緒に使ってた二段ベットの一部なんだけど、俺がもうちょっと大きくなったら買い換えてやるって言われたまま、ずっと使ってるんだよ。寝返り打つとギシギシいうんだぜ?」
「そりゃまた気の毒な…」
「ささ…コンラッドも入って入って!お袋がシーツ換えてくれてるから良い匂いがして気持ちいいよ?」

 色気も邪気もなくばふばふとベットを叩いて呼んでくれる有利に苦笑しつつ、誘われるまま布団に入る。抱き寄せようとするコンラートの動作よりも速く、有利はもそもそと壁際に寄ってしまった。

「ユーリ、そんな壁際じゃ苦しいでしょう?こっちに寄って下さい」
「そしたらコンラッドがベットから落ちるじゃん。俺は壁際だから、落ちたりはしないよ?」
「落ちませんよ。ほら、こうして…」

 腰に腕を回して抱き寄せると、胸の中にすっぽりと収まる身体…筋肉もある程度ついているので、勝利が表現していたような《貧相》な感じはない。寧ろ、柔軟な筋肉に覆われて骨が当たったりしない分、抱き心地が良いとさえ思う。

『抱き心地…』 

 つい、思考の端に乗った言葉を意識してしまい、特に意図があって沿わしたわけではない右手の先に、二つの膨らみがあるのが気になってしまう。

 勿論、胸ではない…尻である。

 成熟した女性のような豊満な膨らみではなく、何処か頑なな蕾を思わせる硬質なものなのに、彼のものなのだと思うだけで指先の感覚受容器が敏感になってしまう。

 それに、丁度コンラートの胸元辺りに埋められた有利の頬が、寛ろげたパジャマの鎖骨部分に直接触れている。

 もそ…と、収まりのよい体勢を求めて有利が身じろぐと、ふぅわりと石鹸の…そして彼独特の香気が漂ってくる。 



『…有利の、匂い………』



 相手が彼だと思うだけで、

 有利なのだと思うだけで……



 こんなにも全てが特別で、

 胸が締め付けられるほど……切ない。



 そんな風に感じる自分はなんて……



『…なんて、…変態臭い………………』



 名付け子の香りに欲情する自分…有利に出会うまでは想像もしなかった情けなさである。

 だが…同時にそんな自分が嫌いではないと、コンラートは思う。

 自分の心すら思い通りにコントロールできなくて、相手のちょっとした仕草や言葉に動揺する…それは客観的に見ればとてもみっともないものだろうけれど、きっと、本当に相手を好きになってしまったときには魔族も人間も関係なく、こんな風になってしまうものなのだろう。

 おそらく、コンラートなら最初は強引に組み敷いてしまったとしても、そのうち快楽に酔わせて、有利に自分から《欲しい》と言わせることも可能だろう。



 だが、そうしない。

 …そうしたくない。



 有利の健やかな人生を守りたい。

 有利自身が自発的に望まぬ限り、この想いは(セクハラ系親父ギャグと言われても)冗談のオブラートに包んで、彼を苦笑させる為だけに伝えよう。

『ただ、あなたに本気で好きな人が出来たときには、ショーリのように頭の固い保護者として振る舞わせて下さいね?』

 コンラートを負かすほどの技量でなければ有利はやらないとか?

『その段階で相手が男限定になっているな……』

 すぅすぅと寝息を立て始めた愛し子の背を撫でつけてやりながら、コンラートは一人苦笑を漏らすのだった。
 



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