虹越え1−8






 11月の第3火曜日…雲一つなく晴れ上がった空は蒼く高く…その分放射冷却により大気は強く冷え込んでいる。人々は出かけようとして思いとどまり、箪笥からコートやマフラーを引っ張り出すのに時間を消耗していた。

 この日は渋谷有利の通う高校にとって、事件後初めての登校日である(月曜日はもともと土曜日の分の代休であった)。1限目には講堂で全校集会が行われ、事件についての説明や今後の警備態勢についての説明があるということで、登校してきた生徒達は寒さよりも発表内容に気を取られているようだ。

「なぁ、文化祭ってやっぱあのままナシなのかなぁ?俺等のクラブ、午後の舞台発表だったから全然見せ場無かったんだよなぁ…」
「うちの小物店も一杯売れ残っちゃってさぁ…」

 講堂に集まった生徒達は互いに不満や憶測を囁き合っていて、一人一人の音量はそうでもないのだが、ざわめきの集合体は大きな反響音となって講堂を埋めた。

 話題の中心は前述のような文化祭の扱いについてのものが多かったが、当然、事件自体に関するものも多い。特に後者の話題になれば、自然と人々の視線は2年5組に集められた。

「ねぇねぇ、渋谷君てどの子?やっぱ美少年?」
「田村、去年一緒のクラスだったんだろ?その頃から女顔だったのかよ。俺、あんまり噂とか聞いたこと無かったんだけどなぁ…」

 集会が始まるまで暇なせいもあって、指定された学級のエリアから身を乗り出して様子を伺っている生徒や、渋谷有利を知る者に情報を求める生徒達が場内のざわめきを一層賑やかにしている。

「んー、可愛いけど美少年って感じとは違うかな?薔薇とかフリルのブラウスは似合わないよー。やんちゃ野球少年だもん。野球の球と一緒になって、コロコロ転がしたい感じ」

 噂の主はこそばゆく感じられて手の甲でくいくいっと目元を擦ったら、その様まで評論された。

「あー、本当だ。動作とか小動物っぽい。エゾモモンガみたい」

『勝手なこと言ってやがんなぁ…。まぁ、薔薇銜えてんのが似合うとか言われるともっと不本意だけどさ。俺はカルメンかっつーの』

 口々に交わされる内容がダダ漏れに伝わってくるのに、渋谷有利は渋面を作った。ちなみに彼の脳裏に今浮かんでいる映像はスペイン村風であり、おそらく発言の主が思い浮かべていたろう《風と木の詩》調の映像は脳内ストックに存在しない。

「ネットの写真見たよー。俺、ダウンロードしちゃった」

 くすくす笑いながらクラスメイト達が話しかけてくるのにも、有利は仏頂面になってしまう。

 正規ベースの新聞・テレビでは、コンラッドの顔写真と名前、簡単なプロフィールについては報道されているが、有利の実名や映像はあがっていない。プライバシーに関わることではあるし、何しろ女装していたこともあって写真報道も控えてくれと学校側からも申し入れをしてくれたらしい。

 しかし、現代日本は言わずと知れたブロードバンド社会である。

 事件後1時間もしないうちに、ネット上には回し蹴りを喰らわせるメイドさん…長身美形白人男性の腕に抱かれながら泣きベソをかいているメイドさん…果ては、スカートを捲ってスパッツを見せているメイドさんの写真まで出回ってしまった。

 事件当日はなにしろ文化祭である。受付で住所さえ書けば入場制限は特になく、女子生徒の盗撮防止にビデオ・カメラ類の持ち込みは原則禁止ではあったのだが、荷物検査まで厳重に行うことは不可能であった。この為、潜り込んでいたカメラ小僧(小僧ではない年代が殆どだが)の撮った写真や動画がネット上に掲載されてしまったらしい。おかげで、生徒の殆どは当日避難していて現場を直接見た者は少なかったというのに、今では学校中に知られてしまっている。

 激怒した勝利や苦笑した村田が現在、画像データを載せているホームページにウイルスを送り込んでいるらしいが、既にダウンロード済みの個人のパソコンにまでは手が回らない。ほとぼりが冷めるまでは仕方ないと諦めるしかないだろう。

「渋谷君、やっぱ怖かったの?あの素敵な人…コンラートさんだっけ?あの人の胸で泣いてたよねー。なんか美味しい映像だったわ、アレ。ご馳走様ー」

 含み笑いをした女生徒に、こんな意味不明な礼句も貰ってしまう。

 何がご馳走様なのか有利にはよく分からない。

『何が美味しい映像だよ…』

 有利以上に憮然とした表情を浮かべて深く備え付けのシートに沈み込んでいるのは、クラスメイトの黒瀬謙吾である。彼は事件の最中には体育館の中にいたのだが、篠原達が人質に取られた段階で、傍にいた教職員が体育館の扉を中から施錠して生徒や来校者の保護を優先させてしまったため、事件真っ最中の情景は見ることが出来なかった。

 やっと鍵を開けて貰って出てきた先では、有利はまさにコンラートに抱き寄せられて泣きじゃくっている最中であり、言葉も上手く出ないくらい感極まった様子であったし、何よりとろけそうな甘い笑みを浮かべて抱き寄せていた青年の雰囲気がすっかり《二人の世界》を構築していて、ろくな質問も出来なかった。

「ねぇ渋谷、あれからあの名付け親さんはどうなったの?もうずっとこっちに居られることになったの?」
「うん、実は就職先が決まったんだ…」

 有利と篠原の会話に蝸牛を反応させた黒瀬だったが、ここで邪魔が入った。

「はい、皆さん静粛にーっ!校長先生からお話があります!」

 マイク越しの大音量で教頭の声が響くと、壇上には狸っぽい外観をした校長が登場した。印象と頭髪は薄いが、人の良さそうな人物である。

 やがて無難な挨拶の後に、様々な説明が始まった。

 校長は休日返上で事後処理に追われたせいか、ややぐったりしているものの、校内の不審者対応としては可能な限りの処置は行っており、生徒に負傷者が出なかったことが評価されて、県教育委員会からは免職や減給といった処置は行われないことが内定したそうで、表情には明るいものがある。 

 事件についての説明は、既に新聞等で報道されているとおりであった。

 学校に侵入してきた4人の男達はスピードやSといったドラッグの売人で、その上納金をくすねており、それが発覚してヤクザ組織の上司(?)から逃走している最中であった(犯人達の自供により、その組織も現在捜索を受けている)。

 捕まればコンクリートを抱かされて海に沈められるとでも思ったのか、男達は必至で逃走した。しかし、別の事件で検問を張っていた警官隊を撥ねて逃走したため、上司だけでなく警官にまで追われることとなった。

 しかも車のナンバーからメンバーの構成員も直ぐに判明してしまい、事件当日の10時頃には警官隊に連絡が回っていた。逃げ場を失っても尚悪あがきをして走行している最中にスリップを起こし、校門に激突した。

 動かなくなった車から這い出てきたうち、2名は校門で警備中だった受付担当の教職員に取り押さえられたが残り2名はそのまま逃走し、校内に侵入したところで女生徒2名を人質に取った。ここで女生徒1名が過呼吸発作を起こしたところ、男子生徒1名が人質の交換を要求して受け入れられ、その後居合わせた青年により、人質は解放された事で事件は解決を見た。

 続いて、校長の説明は文化祭の扱いに移った。

「文化祭は不審者侵入により中断され、折角長い時間を掛けて準備してきた内容の半分も披露できなかった筈です。これは如何にも残念と思いますので、職員会議で討議した結果、入場者は生徒と保護者限定になりますが、12月22日の終業式後、2校時目から開催したいと考えております」

 わぁぁぁぁぁっっっっっ!

 生徒達達から一斉に歓声が上がる。

「生徒会は役員の切り替え時期の問題もあり、準備等大変とは思いますが、なるべく先生達も協力するつもりでいますので、二度とない青春の1ページを今度は楽しい思い出で飾って下さい」  

 生徒達の反応に気をよくしたのか、心持ち血色を良くした校長が相好を崩した。

 次いで、今後の警備態勢についての説明が行われた。

「学校内への不審者侵入問題は以前から問題になっており、小学校や中学校では始業と同時に校門を閉め切り、監視カメラなどを張り巡らせるという処置も為されております。しかし、同時にこれは自由な学校生活を締め付けるという問題点もあります。そこで本校では、警備について実戦経験が豊富なスペシャリストを配備することに致しました」

 校長に促されて、緞帳の影から現れた人物に生徒達の歓声がどっと沸いた。

「キャーっ!あれってあの人でしょ!?」

「うぉーっ!マジっすか?」

 女子生徒から黄色い歓声、男子生徒からは茶色い感歎の声を受けつつ登場したのは均整の取れた体躯の美形白人…コンラート・ウェラー氏であった。

 濃紺のスーツに鮮やかな白い腰・肩ベルトが掛かり、スーツと同系色の帽子の鍔は滑らかな黒いプラスチックで出来ている。一般的な日本人が着ると、実に野暮ったく見える装いだというのに、この人物の持つ関節アライメントは見事なバランスを保っており、印象的な姿勢の良さもあって、優美と称せるほどの美観を呈している。鍔を掴んで帽子を脱げばさらさらとした質感のダークブラウンの髪が靡き、スポットライトを浴びているせいか瞳の輝きも威力を増しているようだ。

 きゃゃゃゃゃぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!

 女生徒達の絶叫がボルテージを上げるが、コンラートが、す…と前方に伸ばした大きな手で会場を押さえるように動作すると、ぴた…と声が止まる。この辺りの人心掌握術は、さすが一軍を指揮していただけのことはある。

「皆さん、今日からお世話になりますコンラート・ウェラーと申します。日本語はまだ不慣れなもので、お聞き苦しい点がございましたらご容赦下さい。普段は校門近辺を中心に、警備活動を行う予定ですが、なるべく健全で自由な学校生活に束縛感を与えないよう注意したいと考えております。今後は授業の中で護身術についての集中講義も行われると聞いておりますので、その際には実践的な自己防衛策をご教授しようと考えております。どうぞ、よろしくお願いします」

 日本語に不慣れとはとても思えないような、歯切れの良い低音。

 笑みを浮かべた鳶色の瞳に散る銀色の虹彩…柔らかく上品な物腰。

 腰からきっちりと曲げていく優美な礼…。

 女生徒達の歓声が再度高まる。

「声良いぃーっ!最高っ!」
「超脚長いっ!腕も長くて、手とかおっきくってめちゃめちゃ好みーっ!相当鍛えてそうだしさぁっ!」
「やばいーっ!ウェラーさんに会いたさに校門彷徨いちゃいそう!」
「やーん、不審者また来ないかなぁ!ウェラーさんの戦うところ見てみたいよぉっ!」

 文字通り狂喜乱舞している生徒達の中で、2年5組のごく少数だけが心の中で呟いていた。

『確かに格好良い…けど、あの人………渋谷の腿とか嘗めちゃう、ちょっとヤバ目の人よ?』

 渋谷有利に引っ付いていたいが為にこの仕事を選んだのではあるまいかと疑っても仕方のないことであろう。

 まぁ…実際そうだし。



*  *  *




「渋谷、あれって…お前知ってたの?」

「就職先って、うちの学校な訳!?」

 教室に戻ると黒瀬と篠原が勢い込んで有利を問いただしてきた。他の連中も興味津々の様子だ。既に2限目に突入しており、英語教師の松林えり子先生も到着しているのだが、おっとりした白髪の老先生は、ほっほと微笑んで容認してくれた。

「まぁまぁ何分かは授業を割いたって、教育委員会の方も怒らないでしょうよ。何しろ、あの事件で生徒さん達が怪我をしなかったのはあのお方の御陰なんでしょう?先生も興味あるわぁ…ねぇ渋谷君、先生にもあの方のこと教えて下さるかしら?」

 皺に埋もれた瞳の奥でキラキラと輝いているのは、未だ健在な乙女心の証だろうか。

「うーん、実は俺も知ったのは一昨日の晩だったんだ」

 これからどうやって生活していくのかと聞いた有利に、コンラートが実は…と説明してくれた事情は以下のようなものだった。

『ユーリが入学した時からボブは配下に命じて埼玉県の教育委員会にツテを作ったり、この学校の後援会に会費を納めたりして、色々と繋がりも出来ていたんですよ。それで、あの事件のことがなくても、どのみち俺はこの学校の警備につくことで管理職や県教育委員会にも話は行っていたんです。ただ、中途半端な時期なので、本来なら来年度から勤務の筈だったんですけどね。…まぁ、おかげで早くユーリのお側にお仕えすることが出来たので、俺としては満足です』

 そのまま話すわけにも行かないので適当にはしょって説明したが、どうやら人々…特に松林先生を筆頭に《乙女》な方々が聞きたいのはそんなことではないようだ。

「んん…ねぇ、渋谷君?先生ね?そういうお話じゃなくて、コンラートさんのお話が聞きたいのよ。あの方の前のご職業は何だったのかしら…先生、英国に友人が多いのだけど、あちらの貴族階級の方々よりも綺麗なキングス・イングリッシュを使われるんでびっくりしちゃったわ。それでいて、不慣れなんて謙遜しつつあの自己紹介でしょ?響きの良い声で素敵な言い回しなんですもの。先生ときめいてしまって…持病の僧帽弁閉鎖不全症が悪化しそうだったわよ?」

「先生、命に関わるときめきは止めた方が良いですよ…」

「放っておいて頂戴。先生はときめきのために死ねるなら我が人生に悔いなしよ?教員生活に殉職っていうのも素敵だしね」

「学校で死んだからと言って殉職といえるのかどうか…」

「先生の殉職話はおいといてさ!渋谷君、あの人が名付け親って本当?」

 松林先生を押し退けて他の女子が前に出てくる。

「えぇと…名付け親なのは確かだよ。お袋がアメリカで産気づいたときにタクシーがなかなかつかまんなくて困ってたら同乗させてくれて…それが7月だったもんで、あいつの国の言葉で7月はユーリっていうんだー…ってお袋に話したら、それが採用されちゃったんだって言ってたよ」

 本人は《まさか採用されるとは思ってなかった》と言っていたし、ましてや《有利》なんて微妙な当て字をされるとは思っても見なかったろうけど。

「お国の言葉?7月を《Juliユーリ》と呼ぶのはドイツよねぇ?英語だと《Julyジュライ》だから樹里ちゃん?まぁ可愛い。そう言えば、コンラートだと英語よりドイツ語風ねぇ。ドイツの方なの?」

 再び松林先生が食いついてきた。

「あれ?でも新聞ではアメリカ人って書いてあったような…」

「アメリカなんて移民も多いんだから、ドイツ系って事もあるんじゃない?」

「それにしても渋谷君、紹介されたのがドイツ語で良かったねぇ。昨日教育テレビで見たけど、イタリア語だと7月は《luglioルッリョ》なんだって。瑠璃ちゃん?っつか、何処の国の言葉をとっても女の子名だね…」

「ほっといてくれ!」

「で、コンラートさんの国籍は結局何処なの?ドイツなの?」

 話題のレールが微妙に切り替わっていて少しほっとしていたのに、流石は教員生活四十年。松林先生はきっちり話題修正を仕掛けてきた。

「えぇと…一応、今の国籍はアメリカみたいです」

 とりあえず無難な線で逃げておくが、コンラートはドイツ語は喋れるのだろうか?何故か眞魔国共通言語はドイツ語の系統を引いているようだから、少しは通じるのだろうか?

「あたしネットで見たんだけどぉ…コンラートさんと渋谷君て、なんか凄く親密そうだったじゃない?抱き竦められて泣いちゃってたしさ。今までもよく会ってたの?」

 クラスの女子から更に厳しい質問が…。

 会っていたと言えば、びったりと引っ付いていた時期もあるのだが、《ある国の軍部で極秘任務に就いていた》コンラートに頻繁に会っていたというのは如何なものか。

「こ…子供の時によく遊んで貰ってたんだよ。昔から凄く強くて頼りにしててさ…文化祭の時もナイフ突きつけられて結構怖かったもんだから、助けてくれたのがコンラッドなんだって分かったら安心して泣けてきたんだよ。事情があって、ずっと会えなかったし…。もう会えないって言われてたし………」

 思い出したら…また泣けてきた。

 込み上げてくる衝動につい瞳が潤み、眦が紅に染まる。どうも一昨日から涙腺が緩くなっているらしい。語尾が呟くようになるのと並行して視線が床に落ち、長い睫が頬に影を落とした。きゅっと噛みしめた唇が朱を纏い、艶めいてさえ見える。

「………!」

 そんな有利の表情に堪えきれないほどの保護欲を刺激されて抱きしめたくなったり、嗜虐心をそそられて、もっと苛めたくなった人々が一様に息を呑んだ。  

 その時、唐突に教室の扉が開けられた。

「ユーリ、どうしました?」

 きゃぁぁぁぁぁぁっっっっ!

 現れた人物に女生徒の歓声が迸る。

「コンラッドっ!どうして此処に!?」

 長身制服美形、噂のコンラート・ウェラー氏は心なしか眉を寄せ、椅子に座った有利の前まで来ると気遣わしげに跪いた。

「ユーリが泣いているような気がしたんです。どうかしましたか?」

「いや、警備はどうしたあんた!?」

「ユーリの身を守るのも警備のうちでしょう?」

「いや、泣いてるくらいのことは一々気にしなくて良いから早く仕事に戻れって。就職1日目にして職場放棄すんなよ」

 泣きかけていた気まずさもあって仏頂面になる有利に、コンラートの愁眉は解かれない。「それでは巡回に戻りますが…本当に大丈夫ですか?」

「本当に平気だから…あんた過保護過ぎなんだよ」

「そうですか、ではお言葉に従って業務に戻るとしましょう。先生、大切な授業のお邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした」

 コンラートが胸に手を当て端正な所作で一礼すると、松林先生の顔が茹でたトマトのように真っ赤に染めてしまったので、心臓の弁は大丈夫なのかと生徒達は懸念した。

「そ、そうね…じゅじゅじゅ…授業!授業に戻りましょうか!」

 ばたばたと教卓に戻る先生に釣られて、生徒達も漸く本業に立ち返っていったが、胸の内には様々な疑問が渦巻いている。

『なんでコンラートさんが敬語で渋谷君がタメ口?』

『どうやって渋谷君が泣いてるのに気付いたのかしら…』

 種々の疑問は質問として放出されることになり、当分渋谷有利を苦しめることになるのだった。



第一部 了


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