虹越え1−6−1 白い壁に赤い屋根の一軒家、小さいながらも芝生を敷き詰めたお庭つき。家のあちこちには手作りのお人形さんや印象画風の絵画が飾られ、勿論風に揺れる清潔なカーテンは真っ白なレース…まさに乙女の夢を凝縮させたような…美子の好みで形成された渋谷宅は、気恥ずかしいほどの少女趣味に彩られているが、清潔で暖かみがあるのは間違いない。 コンラッドは玄関で靴を脱ぐという習慣を知識としては知ってたものの、実際目の当たりにすると一瞬戸惑いを見せた。しかし、有利が靴下履きでいるのを見ると自分も勧められたスリッパを辞退し、靴下越しの床の感触を楽しんだ。無垢材の床はよく磨き込まれており、擦るときゅっきゅっといい音がする。 「木の床というのは存外気持ちのいいものですね」 コンラッドが感心する様子に、有利もにこにこと笑みを返した。誰だって、自分の家を褒められれば嬉しいし、相手が自分にとって大切な人ならなおさらだ。 「血盟城とかはタイル敷きか煉瓦だもんね。俺もうちの床好きなんだー。夏なんかは裸足で歩いてんだよ」 「ああ、裸足もいいですね。庭も芝生だから気持ちよさそうだ」 コンラッドは何もかもが珍しいのか、彼にしては珍しくあちらこちらと視線の行く先が定まらず、瞳に好奇心と慈愛に満ちた光を浮かべていた。 「この家そんなに珍しい?小さいと思うかもしんないけど、これでも日本の住宅事情から言えば、親父的には頑張ってる方なんだぜ?」 客間に向かう道すがら、短い廊下を歩く間にもコンラッドの瞳は壁に掛けられた家族写真のコラージュなどに釘付けになっている。 「いえ、確かに小振りですが、そういう意味で驚いているわけではないんですよ。何しろユーリの育った家なのだと思うと、あちこちに貴方の気配が残っている気がして…なんだか、とても此処に居られるを嬉しく感じてしまって落ち着かないんですよ。とても…うきうきしてしまって…俺はきっと今、どうしようもなくはしゃいでいるんだと思います」 そう言うと、コラージュの中の小さな有利の頬を指先でそっとなぞる。 見ている有利は自分の頬を触られたみたいに感じて、擽ったそうにきゅっと肩を竦めた。 「…コンラッドってば相変わらず…よく恥ずかしげもなく、さらっとそういうこと言えちゃうよな」 魔族風味とは言え、日本人としての自負が強い渋谷有利には、時々このストレートすぎる名付け親の言葉や表現を気恥ずかしく感じることがある。 内心…妙に嬉しいと言えば嬉しいのだが、胸の内がもぞもぞして落ち着かない。 「そりゃあ…恥ずかしくなんかないですから。俺は貴方に関わる全てが愛おしいんですよ?」 耳元に甘く囁きかけられれば、びくりと背筋が跳ねる。そんな反応にくすくすと笑みを漏らすコンラッドだったが、次の瞬間有利の爆弾発言に硬直することとなる。 「もー、コンラッドも村田もそういうのわざとやってるだろ?俺、首筋とか背中とか凄い擽ったいのにさ」 「………猊下、に……何かされたんですか?」 「うん、後ろからふーって息吹きかけられたり…ああ、首筋にキスマーク付けられたときなんか、俺…我ながら気持ち悪い声出しちゃってさぁ…」 「……キス……マーク…………?」 「うん、この辺をね?ちゅーっと痛いくらい吸い上げられて、2.3日痕が残ったんだよ」 そう言って学ランの襟元を寛ろげると、襟足をくいっと引いて項を露わにする。そして首を傾げて指させば、しなやかな首のラインと白い肌…そして立ち上る彼独特の香気にコンラッドは軽い目眩を覚える。 「おかげで勝利とか友達とか、色んな人に問いつめられちゃってさ。大変だったんだぜ?」 「……そんなところを、どうやって見られたんですか?」 先程までのにこやかな眼差しが嘘のように、眇められた瞳に底冷えするものを漂わせてコンラッドが問うが、有利は気付いていない。 「そりゃシャワー浴びてるときに勝利が入ってきたり、体育の時に着替えたりで色々だよ。眞魔国にいるときと違って雑多な中で生活してるもんな。そもそもそのキスマークだって、俺が人前でぱっぱと脱いじゃうと襲われるから、むやみに脱ぐなとか村田が言って《ホモ避け》につけられたんだけど、一般的な男子高校生が身体隠しながらこっそり着替えるって、やっぱどう考えても不気味だよなぁ?結局、何時も通りに生活してるけど、今のところ支障はないよ?まぁ、流石にホモだって分かってる神辺さんの前じゃ、村田に怒られるから注意してるけどさ」 「……カンベさんって、誰ですか?」 先程から、話し始める際に《溜め》が多くなっているコンラッドだった。 「俺が立ち上げた草野球チームのメンバーの人だよ。家族にも職場にもカミングアウトしてる前向きなホモの人。基本的にストレートの人には手は出さないし、気軽にエッチしてくれる美少年系の子が好みだって言ってたから、そんなに大袈裟に避けることもないと思うんだけどなぁ…何か最近、村田の奴…俺にそんなんじゃ襲われるぞーって脅すんだよ。気にしすぎだと思うんだけどなぁ…」 思わず元プリ3兄弟の長兄そっくりの皺を眉間に刻んでしまう。 腹の黒さは筋金入りの大賢者のこと…なかなか本心を見せることはないが、それでも有利に対する彼の執着は尋常ではないと思う。およそ物にしろ人にしろ、自分の命や人生に対してすら、何処か達観するようなスタンスを崩さない彼だが、渋谷有利に対してだけはそうではない。おそらく、冗談めかしながらも真剣に有利の身を案じた上で忠告や措置を行っているのだろうが…冗談と本気の成分比が掴めない…。 それに、この有利の無自覚さは相変わらずらしい。 眞魔国にいる間、《こっちの美的感覚はオカシイ》と、あんまり有利が言い張るのでそういうものなのかと納得しかけていたのだが、こちらの世界に来てみると疑惑が明瞭なものになった。 声を大にして言いたい。 『オカシイのはあーなーたーでーすーーっっ!』 再会するなり喧嘩などしたくないので心の中で叫ぶに止めておくが、やはりそうに違いないと確信している。 確かに日本人の顔立ちは眞魔国人に比べると神秘的だと感じるが、手当たり次第に誰も彼もが美しいとは思えない。確かに雑誌の表紙を飾っているような人々は随分綺麗なものだなと感心したが、《形》としてそう思うだけで、どうしようもなく魅きつけられるという程のものでもない。 ひょっとして、大量の日本人の中に投げ込まれたことで慣れてしまったのだろうかと疑ってもみた。この土地で渋谷有利と会っても、眞魔国で思いを募らせていたほどに心騒ぐことはないのではないかと…そうならば、彼の望む《名付け親》としての立場を維持することが出来て好都合なのではないかと…そう思っていたのだが…。 現実に渋谷有利を目の当たりにした瞬間の衝撃と来たら、ビックウェンズデーもびっくりという大波でコンラッドの心を浚ってしまった。 身につけている衣服の形状も(何故メイド服?という疑問はさておいて)それはそれは愛らしかったが、それを差し引いてもコンラッドの主は地球の大地を踏みしめてから目にしたどんな人間よりも愛らしかった。 周囲の人間達の扱いを見ても《渋谷可愛い》《ゆーちゃん可愛い》という心の声がダダ漏れ状態であるのに、唯一人有利だけが認識していないのだ。 これは傍らで見ている村田健としては気が気でなかったろう。 それを考えると《キスマーク》という手も、方策として理解できないわけではない。 しかし…。 『なんて羨ましい…』 そう思わずにいられないのも確かであった。 まぁ、大賢者のすることには立場上なかなか口出しは出来ないので、取りあえず危険人物認定が共通に成されている《神辺》とやらには大きな釘を刺しておく必要であるだろう。 「ねぇユーリ、明日は日曜日でしたよね?その野球チームの練習はあるんですか?」 「うん、予定はしてたんだけど…コンラッド、こっちに来て間もないんだったら街を案内してあげようかと思ってるんだけど、どう?」 「いえ、野球仲間としては、有利の捕球能力がどれだけ進歩したかの方が気になりますね。もし良かったら、練習に俺も混ぜて貰えませんか?」 「大歓迎だよ!きっとみんなも喜んでくれるぜ?今日会った人らも凄い良い感じの人らだったろ?」 『要警戒の人も居ましたけどね…』 とは言わず、無難な笑顔で頷く。 「あ、そう言えば今日泊まるところや住む所ってどうなってんの?」 「取る物もとらず来日してしまったので、その辺りはこれからおいおい探して行くつもりなんですよ。ショーマに保証人になって貰おうかと思いまして。もし許して頂ければそれまで泊めて貰えると助かります。有利の部屋に、俺が寝られるくらいの空間はありますか?」 「そんなものはないっ!どうしても泊まりたいなら、庭で駄犬2頭に頭を下げて同衾して貰え」 きっぱりと断言したのは勿論有利ではなく、渋谷家の長男であった。 トイレで排泄している僅かな間に、大切な弟に虫が付き掛けていたのだから声にもささくれ立ったような険がある。 「何言ってんだよ勝利!折角久しぶりに会えた俺の友達に酷いこと言うなよ。なぁコンラッド、客間に泊まりなよ。客間のベットは親父関連の外人さんが来ても良いように大型のやつを入れてるからコンラッドでも大丈夫なはずだよ」 勝利の言葉よりも寧ろ、《友達》《客間》という単語の方が堪えたコンラッドだった。 「お前こそ何言ってんだ有利。そう言うことは一応、一家の長たる親父に確認してからだろ?」 「勝利こそ勝手に冷遇決め込んでたじゃないか!」 「俺は世帯主に次ぐ権威があるから良いんだ」 「おーい、君達いつまで廊下で立ち話なんかしてんのさ。いい加減部屋に入りなよ勝馬さんも美子さんも待ちくたびれてるよ?」 大賢者のごもっともな指摘を受けて居間に入ると、台所と合体した比較的大きな部屋の中では、微妙な表情をした勝馬と、弾けんばかりの笑顔を浮かべた美子と、すっかりくつろぎモードに入って玄米茶を啜っている村田健がいた。卓上にはぎっしりと料理が並べられ、どれも美味しそうなのだが、カレーに豚カツにお寿司という異文化混在メニューに、美子の性格が現れているように思える。 「まぁま、お話は後々!まずはお腹を満たさないと落ち着いて話なんか出来ないわよ。まずは食事!その間は立ち入った話なんかしちゃ駄目よ?」 美子のお達しをお利口に守って、みんな表面上は朗らかに食事をとっていたのだが、内心複雑な物を抱えている父と兄は眉間に幾ばくかの皺を寄せていた。 『こいつ…よくまぁ和やかに飯なんか食っていられるな』 勝利は先程からずっと睨み付けているのだが、コンラートの方は気にした風もなく寛いで食事をとっている。 薄墨色のトレンチコートとジャケットを脱ぐと、勝利には嫌みに感じられるくらい洒落た縦ストライプのシャツが現れ、長くしなやかな腕や、広い肩幅の割に細く締まった腰へのラインが明らかになり、つくつくとコンプレックスを刺激される。 弟の方も多少そういった感情は持っているようだが、それ以上に純粋な憧憬の念が勝っているようで、歴戦の傷痕残る節くれ立った指や…シャツ越しにも分かる逞しい胸板などを、何か輝かしいものでも愛でるかのように見つめている。 『…くそっ!』 砂を咬んでいるような食事とはこういうものを言うのだと、勝利は人生で初めて知った。 食後のコーヒーとお茶がそれぞれの前に並べられたところで、やっと奥方のゴーサインを貰った夫が話し始めた。 「………コンラッド、今日うちのゆーちゃんを助けてくれたことについては礼を言う。本当に、アリガトサン。だけどさ、お前さん…何か俺達に言うことあるデショ?」 飄々とした風情ながら、渋谷勝馬の声には微かな苦みも混じっている。 実際、言ってやりたいことは山ほど在るのだ。 大切な息子を異世界の魔王として、成人を迎える日には送り出さなくてはならないことは、息子が生まれる前から重々承知していた。だが、その日取りを家族に内緒で何年も早められた上に、《仕事が終わったからもういらない》とばかりに、ぽいっと返還されたのだ。つい先日までの息子の懊悩は、元々が単純で健康的な気質であることを知っているだけに、見ていて心底辛かった。 事情を告白されてからも、生まれてくる前から勝手に決められていた運命のために息子が傷ついたのだと…随分自分を責めたりもした。 「ショーマ、君達シブヤ家の人々に何の事情説明もないまま、大切なユーリを眞魔国にお迎えした上、深く傷つけることになったこと…大変申し訳なく思っている。俺などが謝っても気の収まるものではないことも分かっているが、どうか謝意だけは受け取って欲しい」 コンラートは居住まいを正すと、一国の主に対してでもするかのように頭を垂れた。 「親父!コンラッドが悪いわけじゃないんだぜ!?そんな風に責めるようなこと言うなよ」 「ゆーちゃん。確かに以前、魔王として呼ばれたときには眞王とかいう奴の指示でコンラッドはお前に関わっていたんだと思うよ?だけど今、そいつは消滅してはいないにしても実体は持っていないし、魔力だって随分目減りしているんだろ?じゃあ…」 勝馬の眼差しが…普段の彼を知る者には意想外なほど鋭角の厳しさを込めて、コンラートに向けられた。 「コンラッド…お前さん、何で今ここにいる?方法も気になるが、それ以上に俺は懼れているんだ。お前さんが一体、何を求めてここにいるのか…。その目的が、またまた眞魔国で有利の力が必要になったってんで、再び召還に来やがったんじゃないかとね」 勝馬の言葉に、彼の長男も顔色を変えた。 「もしそうなんだとしたら…どの面下げて来やがったんだ手前っ!有利がどれだけ傷ついたか分かってんのか!?何ヶ月も魂抜かれたような顔して…この脳天気野球馬鹿が、食事も満足にとれないくらいヘコませておいて、また必要になったから来ただと!?」 「勝利っ!止めろよっっ!」 コンラッドの襟元を掴んで揺すりあげる勝利を、有利が必死の形相で止めようとする。 しかし、実際に効果があったのは弟の懇願よりも、コンラートの一瞥であったかも知れない。 「落ち着いてくれ、順を追って説明する」 有利を前にした時の柔らかい雰囲気を払拭し、コンラートは真摯な眼差しで渋谷家の面々を見た。 「君達の最大の懸念は、大切なユーリの身を再び眞魔国に連れ去られることだろう。そのことについて、俺は自分の目的がそうではないと強弁することは出来ない」 「……っ!」 いけしゃあしゃあと言ってのけるコンラートに、父と兄とは一度は座り掛けた椅子を蹴って立ち上がった。 「だが、誤解しないで欲しい。俺はユーリに、眞魔国に来ることを強要はしないし、またユーリに解決して欲しい事件が発生したから、その解決のために呼び出したいわけでもない。少なくとも俺が今ここにいる理由の殆どは、ただ純粋にユーリの傍でお仕えしたいが為だ。それに、先程俺は《強要しない》と言ったが、正確には《出来ない》と言った方が正しい。俺はユーリを眞魔国に送ることはおろか、俺自身の身すら自分の意志で送ることは出来ないんだ」 「…どういうことだ?」 「俺がいま此処にいられるのは、魔石を燃料にしたロケットで突っ込んできたからなんだ」 「魔石?それって、強い魔力を持った魔族が亡くなったり、一定量以上の要素が何かの因子を触媒にして凝縮したアレかい?」 やや説明的な台詞で会話に加わってきたのは、勿論眞魔国のオブザーバー村田健である。 「だが、魔石なんてそうそう手にはいるようなものじゃないだろ?1個で大きな力を持つ物は滅多にないし、複数集めたにしても魔石の要素が同一でないと、使いこなすのは難しい」 「ええ、簡単ではありませんでした。必要な量を集めるのに…ほぼ5年掛かりました」 「5年!?」 「5年間…眞魔国国民が総力を挙げて集めた魔石と、強い魔力を持った男達の犠牲の上に、俺は今ここにいる…」 「……………」 犠牲になった男達…と言うフレーズに、有利と村田とがぴくりと反応した。 「そ……それってもしかして…………」 「ええ……フォンカーベルニコフ卿の発明品…《時空の彼方に飛んでっちゃえっ!でも行き先は風だけが知っているドキドキワクワクロケット団RS》で、文字通りこちらの世界に撃ち込まれたんです…」 その時のことを思い出しているのか、コンラートの顔は蒼白になり、指先はチアノーゼを起こし掛けていた。流石赤い悪魔アニシナ…記憶だけでルッテンベルグの獅子をショック状態に陥らせるとは流石である。 「大丈夫コンラッド?これ飲みなよ」 傍らから勧められた熱いコーヒーを一服すると、その味わい以上に有利の上目遣いに癒されて、コンラートは有利が強制送還された後の眞魔国について詳しい状況を話してくれた。 * * *
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