虹越え1−5−3 その間に渋谷有利の身体は辺りで様子を伺っていた人々に攫われてしまう。 「有利!お前、怪我はないのか!?」 「ねぇよ」 ぐすぐすとまだ鼻水が出るのが恥ずかしいのか、渋谷弟はコンラッドに貰ったハンカチで顔の下半分を覆いながらつっけんどんに答えた。仕方のないこととはいえ、こちらも救い主と引き離されたことが不満なようだ。 「あいつが、例のコンラッドとかいう奴か?」 「そうだよ。すげぇ格好良いだろ?」 にこぉっ!と我が事のように誇らしげに微笑む弟に兄の表情が歪む。 「何が格好良いもんか!お前の護衛係なら、まずお前の身を守るべきだろうが!それをあのスケコマシ!見も知らない女の方を庇いやがって!」 「あいつ老若男女にモテモテだから、スケコマシは否定しないけど…あれは二人で前から約束してたんだよ。だって明らかに篠原を捕まえてた男の方が強そうだったろ?ああいうときには俺を捕まえてる奴の気を引いて貰って俺は自力脱出、面倒そうな敵にはコンラッドが直接行くことになってたんだ」 「まぁ、君を触り上げていたあの糞野郎は見事に手首の腱を断ち切られていたからね、確かにあの戦術でも成功確率は高かったろうけど…でもね渋谷、僕達がどれだけ心配したかは察して欲しいなぁ…」 口を挟んできた村田健は笑顔だった。 だが、その笑顔の背後に立ち上る瘴気のようなものが恐ろしくて、渋谷有利はこくこくと勢いよく頷いた。 「ご…ご心配おかけしました……」 深々と頭を下げると、見守っていた人々の間からくすくすと笑いがおこる。 「全くねぇ。わしらは心臓が止まるか思ぅたよ。でもまぁ、男前じゃったよ!渋谷君」 「本当?」 チームメイトの佐々木の言葉に、ぱぁっと表情を明るくする。本当に渋谷有利という少年の表情は目まぐるしく変わり、見ていて飽きることがない。 特にこんな喜びの表情を崩すのは気の毒で、 『そんな可愛い格好でなけらにゃ、もういっちょ決まっとったろうけど…』 などという言葉は咽頭の奥に飲み込んでしまう。 「渋谷君…ゴメンね、私のせいで…。あの、皆さんも申し訳ありませんでした…」 おずおずと、消え入りそうな小声で控えめに話しかけて来たのは楠田由梨である。小柄な体つきで、童顔のなかなか可愛らしい子だ。まだ体調の方は思わしくないようだが、篠原に肩を貸して貰ってゆっくりと歩いてくる。 「楠田さん大丈夫?まだ顔色悪いよ?」 「ううん、もう平気。渋谷君こそ、怪我とかしてない?ゴメンね、私のせいで怖い思いさせて…」 「大丈夫だよ。それより、楠田さんが無事で良かったよ。女の子が怪我したりしたら大変だもん」 麗(うら)らかな陽光のように心に沁みるその笑みに、楠田由梨は淡く頬を上気させた。 「渋谷君…凄く格好良かったよ。あの嫌な男をばーんって蹴ってくれて、私もうびっくりしたり喜んだりして、苦しいのも飛んでいっちゃったわ」 きゃっきゃっとはしゃぐ楠田と、優しく見守る渋谷。 そのツーショットはとても微笑ましいのだが、絵的にはヒーローとヒロインというより、《百合の園》めいた雰囲気になってしまう。 「なんかね?渋谷君、セーラームーンとかプリキュアのキャラクターみたいだったよ!」 「…………そう?」 『美少女戦士かぁ…』 正直すぎる楠田の感想に、渋谷有利の口角が引きつる。 初代仮面ライダーは無理でも、黄レンジャーくらいにはならないものか。 「そういえば渋谷!あの人が前に言ってた《ずっと会いたかった人》なの?二度と会えないとか言ってなかったっけ?」 「そうそう」 声を掛けるタイミングを伺っていたらしい篠原と黒瀬も話しかけてきた。 「渋谷!あの人は何者なんだ?彼の身のこなし、ただ者じゃないだろ?」 興奮した雰囲気の担任教師も話しかけてくる。 すると次々に質問が飛び出してきて、渋谷有利はどれから答えたものかと困惑してしまう。 大体、どうして彼が此処にいるのかなど、一番自分が知りたいくらいなのだ。 「ユーリ、やっと離して頂きましたよ…。おや、この方々は?」 警官に必要事項を伝えたらしいコンラッドが、にこやかな笑顔を浮かべて渋谷の傍らに寄り添う。警官の方はまだまだ聞きたそうにしていたが、焦れたコンラッドから染み出てくる暗赤色の圧迫感に耐えきれなかったらしい。遠くで指を銜えんばかりにして視線を送っている。 「まずあんたをみんなに紹介しなくちゃ!えーと、この人は…」 言いかけて、そう言えば《ウェラー卿コンラート》などと説明して良いものかどうか迷ってしまう。《卿》がつくということはなにがしかの貴族階級にあるということで、彼の現在の《国籍》が分からない以上、迂闊な説明は避けるべきかも知れない。 渋谷有利は詳しいことは知らないのだが、以前、村田健に説明されたことがある。 『卿という称号は、かつては中国・日本の官位制に於ける高位の官職、及びそれに由来する呼称だったんだ。ただ、現代ではイギリスなどで、主に男爵以上の爵位を保持する貴族への敬称である《Lord》の訳語とされているんだ。騎士(ナイト)に対する敬称である《Sir》の訳語として用いられる場合も見られるが、こちらは準男爵に次ぐ位で、貴族とは限らない。何らかの功労者に与えられることもあるからね。《Sir》より階級の高い《Lord》との混同を招く用法だから、適切ではないとされるんだ』 ああ難しい…。 意気揚々と大切な名付け親の説明をしようとしたのに、いきなり初っぱなから挫けてしまった。 しかし、コンラッドの方で心情を汲み取ってくれたのか、くすりと笑みを漏らすと支障の少ない自己紹介をしてくれた。 「みなさん、はじめまして。コンラート・ウェラーと申します。親しい友人にはコンラッドと呼ぶ者もおります。どちらでもお好きなように。こちらの渋谷有利君のご両親とは昔からの友人で、縁あって有利君の名付け親という立場にあります」 「あのー…名付け親って言われましたけど、一体お幾つなんですか?」 おずおずと黒瀬謙吾が(何故か挙手をしながら)聞くと、笑みがこころなしか微妙なものになる。 「39歳です」 「へー…」 驚くべきなのか納得するべきなのか迷っている風な人々。 ぎりぎり青年の範疇…という、何となく中途半端な年齢設定だが仕方がない。コンラッドの現在のパスポート等、身分証明書の記載がそうなっているのだ。まさか本当の年齢で設定するわけにも行かないが、かといって見てくれそのままの年齢では、《渋谷有利の名付け親》というポジションが説得力を欠くことになってしまう。 「二度と会えないんだって渋谷がヘコんでましたけど、なんでまた急に来られたんですか?」 篠原の指摘にも内心冷や汗が出る。 「実は守秘義務がありますので、詳しいことはお話しできませんが…」 そんな前振りで話し出された説明は、やはり結構な中途半端加減だった。 コンラッド曰く、彼はある国の軍属で特殊な任務に就いていたのだが、派閥内の抗争に巻き込まれ、退職を余儀なくされたのだという。 「お陰様で現在は気楽な無職生活中でして、ユーリのお父君に縁故を求めて来日した次第です。まだ日本文化には不慣れですし日本語も覚えたてなので、用法の間違いなどありましたらどうぞ御指摘下さい」 爽やかな笑顔と響きの良い声で堂々と語られるのでなければ、みんな不信感に眉を顰めたであろうが、なんとなく有無を言わさぬ話しぶりに圧倒されてしまい、異議申し立てをする者はいない。しようと思えば出来る者も居たのだが、その能力を持つ者は裏にある事情をよく知っていたので、このような茶番をさっさと終了して頂くべく沈黙を守っていた。 「ああ、軍隊にお勤めだったんですか。道理であの鷹野原を子供扱い出来たはずだ!実戦経験が豊富でらっしゃるので?」 「まぁ、そこそこには…」 『軍隊一筋80年程度です』 とは言えず、興奮して話しかけてくる体育教師に対して熱意に乏しい返事を寄越す。 「あっ!」 納得できるような出来ないような微妙な説明の最中に、篠原楓が鋭く叫んだ。 「渋谷、血が出てるよ腿のトコ!」 「え?ああ、本当だ。気がつかなかった」 あの痩せぎす男を蹴ったときに何処かで引っかけたのか、渋谷の左大腿外側にうっすらとではあるが擦過痕があり、少し血が滲んでいた。 「でも、大したこと無いよ。そんなに痛くないし」 「手当はしといたほうが良いよ?保健室行こうよ」 「えー?いいよそんなの…」 言いかけた渋谷だったが…内腿を覆う大きな掌と、素肌に触れる熱く湿った感触に硬直してしまった。 何時の間にか跪いていた傍らの男が…躊躇もなく大腿の傷を嘗め上げたのだ。 形良い唇から覗く濡れた舌が…紅い血を嘗め取っていく…。 外気に凍える敏感な肌には、伝わっていく舌の感触と温度の全てが…火傷しそうなほどに熱く感じられた。 その様は酷く煽情的で、その感触に怯えるようにへたり込んでしまった渋谷の様相がまた、罪作りなほどに可憐であった。 「……っっ!」 「……こっっここっっ……コンラッド!?」 渋谷有利だけでなく、周囲の人々まで呆気にとられて真っ青になったり真っ赤になったりと忙しくカラーリングを変えている。 「失礼。日本の友人によく、こういう傷は《舐めておけば治る》と聞きましたので」 さらりと事も無げに話すと、鞄から次々に消毒液だのガーゼだのを取り出して手当をしてしまう。 『口の中には雑菌が多いんだよ』 と言ってやりたい村田であったが、あまりに素早く完璧な処置を施されてしまったので、突っ込む余地がなかった。ただ、口惜しいのでこれだけは言っておく。 「へぇ…ウェラーさんは傷があるとすぐ舐めてしまうんですか?誰が怪我をしても何処でも舐めてしまうの?こちらの先生は結構色んな所を斬られてるみたいなんだけど、折角だから舐めてあげます?」 意地の悪そうな問いかけに、コンラートはにっこりと…やはり人の悪そうな…意味深な笑みを返す。 「いえ、そちらの先生にはこの救急セットを差し上げますので、自力でどうにかして戴きましょう。俺の舌はユーリ専用なものでね」 松本に消毒液などを一式押しつけると、コンラートはぺろりと舌を出して見せた。 その紅い舌が、先刻…渋谷有利の大腿を嘗め挙げたのだ…。 『うひょえぇぇっ!』 意識すると何やら腰が砕けてしまって、渋谷有利は立ち上がることが出来なくなってしまう。 居たたまれない状況を一時解消してくれたのは、全館一斉放送であった。 −−不審者は護送されました。生徒の皆さんは落ち着いて講堂に集まって下さい。担任教員は生徒を把握して下さい。来客の皆様は申し訳ありませんが、どうぞお気を付けてお帰り下さい。事件により怪我などをされた方につきましては、事務にご連絡頂き連絡先等をお伝え下さい……−− 校長が確認集会の呼びかけを行っている。事情説明と今後の動向に関する通達があるのだろう。 「あー…文化祭って、これで中止になっちゃうのかな…」 いくら死者や重傷者が出なかったとはいえ、生徒が人質になり教職員が負傷したという事態に、落ち着き次第文化祭を再開…とは行かないだろう。 短い時間で行われた確認集会は大体予想通りの展開で、生徒達は無事を確認されると帰宅を指示された。教職員達は片づけと事後処理に追われることになるらしい。 * * *
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