虹越え1−5−2 鷹野原と対峙する、突然の介入者。 男達は互いに間合いを取りながら、じりり…と探り足を這わせる。 介入者が手元に持っている物だけ見れば、この勝負には馬鹿馬鹿しいほどの戦力差があった。 鷹野原が所持しているサバイバルナイフは刃渡り50pはあろうかという大振りな物で厚みもあり、鋭利なギザ刃は陽光を受けて不吉な光沢を見せている。 一方、介入者が手にしている短刀をよく見ると、これは正確には短刀などではなく、百円ショップなどで売られている平凡なカッターであった。しかも5o刻みに折れるタイプの物だから、サバイバルナイフと打ち合えばどうなるかなど、3歳の童子にも分かりそうなものだ。 だが、男の持つこの余裕は何なのだろうか。 そしてこの覇気は? 『気圧されてる…?俺が…この俺がかっ?』 それどころか、危うく非力な女のように悲鳴をあげかけたのだ。 鷹野原は腹の底にかっと熱いものを感じて、居合い抜きのタイミングでナイフを突き込んでいった。明確な殺意を込めてふるわれたその突戟は、正確に相手が最も庇いにくい場所を狙って…更には、外されたとしても次の行動がとりやすい体位で成された… 筈であった。 男の動きは、鷹野原の予期可能領域を越えていた。 ふぃ…っと、男の姿が視界から消えた。 男はわざと動きを止めて鷹野原の網膜に残像を刻んだ後、高速で身を開いて視野の外縁を過ぎり、気付かせる暇も与えずに…ナイフを持つ手首目掛けて手刀を叩き込んだのだ。 それも正確に、尺骨神経が皮下浅層を通るその場所へ…。 男は丁度、鷹野原の右真横に立つ位置関係にあった。 ぽろりと落とされたナイフを男は軽やかな動きで蹴り上げ、宙を回転するそれを左手で掴むと同時に、鷹野原の右足首をアキレス腱側から蹴れば、その身体は面白いように後転して行く。その重力と回旋力を伴う鷹野原の項窩目掛けて、ナイフの柄が容赦なく叩き込まれる。 カウンターで突き上げられた項窩から、鈍い音がした。 「…がっ!」 鷹野原の意識は…そこで吹き飛んだ。 そして、いっそ心地よいほど撃ち砕かれた矜持と共に、自律を失った身体が大地へと叩きつけられたのであった。 「押さえろ!」 もうそんな必要などどう見てもないような気がするが…それでも集まった警官達は万が一の反撃を懸念して、二人の犯人を取り押さえた。 項窩への打撃を放った瞬間に勝負が決したことを確信したのか、薄墨色のトレンチコートを纏う男はもう鷹野原など視界に入れてはいなかった。ただ、年嵩の警官に敬礼されて苦笑すると、左手に持ったナイフを器用に手首で回転させ、柄の側を手渡した。 『何とまぁ…憎らしいほど余裕のある男だな!あれ程の大立ち回りを見せながら、息一つ乱しちゃいない…しかも、大手柄を立てたってのに、誇るでなし、照れるでなし…』 犯人がこちらの男の方でなかったことを心底感謝する。 この男が自暴自棄などに陥られた日には、人が何人死ぬか分からない…。 穏やかそうな風貌をしているくせに、この男の体腔にはそら恐ろしいほどの闘気が秘められていることを、年嵩の警官は経験と本能によって悟っていた。 しかし、興味津々で見守る警官にはお構いなしに、男の関心は既に他に向けられている。 いや…この男の興味など、最初から《そこ》にしか向けられてはいないのだ。 全ては《そこ》に存在する、世界そのものよりも大切な…愛おしい彼にしか向けられてはいないのだ。 男はしなやかな所作で…僅か2m程の距離を隔てて立ち竦む《主》に対峙した。 そして…膝を折りつつ右手でとった帽子を胸の前に当て…優雅な貴族の礼をしてみせた。 さらりと風に舞うダークブラウンの頭髪。 端然とした…笑みを浮かべていなければ怜悧と表現した方が相応しいであろう、その容貌。 右の眉端に筋状の傷痕が走るものの、それがまた精悍な印象を与えている柳眉。 切れ長の…鳶色の瞳には銀の光彩が、明星をちりばめたかのごとく煌めき…優しく細められる。 す…と通った鼻筋の下、やや薄めだが男らしく引き締まった唇が…嬉しくって堪らないという感情を込めて引き上げられている。 その全てが、失われたはずのものだった。 愛おしくて…慕わしくて…狂おしいほどに思慕の念を募らせ、一時は精神の荒廃を危ぶまれるほどに求めて…それでも二度と目の当たりにすることは許されないものであった筈だった。 「コン…ラッド……」 自分が呼んでいる名が、信じられない。 これが何かの冗談や夢オチなのだとしたら、そんな残酷な仕打ちはない。 渋谷有利は、種明かしをされるなり目覚めるなりした瞬間、発作的に何をしでかすか分からないと思う。 それほどに、その名は重要な意味をなすものだった。 それほどに、彼の存在は…特別なものだった。 「ユーリ…っ!」 甘い…耳朶に響く特徴的な声。 彼にしか出せない…爽やかなのに官能的にさえ感じる、声だった。 この上なく格好いい…実際、格好つけ以外の何者でもないであろうポーズをかなぐり捨てて、その男…ウェラー卿コンラート……渋谷有利の大切な名付け親…《コンラッド》は駆けだし、硬直したまま震えている愛し子を抱きしめた。 「ユーリ、…ユーリっ!……会いたかったっ!………」 逞しい胸…力強く、トレンチコートの上からでもしなやかな筋肉の躍動が感じられる腕。それらに包まれる感覚と、首筋に伝わる熱い激情を孕んだ声に…渋谷有利は自分の瞳が酷く熱く…次から次へと滴を零していることに気付くまで、暫しの時間を費やしたのだった。 「コン…ラッド……本当に、コンラッド?もう…俺、会えないと思っ……」 声が、詰まる。 唇が…みっともないくらい震えてしまう…。 「こんな、こんなの…嘘だって、今から言われてもっ…俺、耐えられな……っ!」 込み上げる想いが大きすぎて、待ち侘びた日々が長すぎて…言いたいことの半分も口にすることが出来ない。 もう、暫くすると渋谷有利は喋ろうとする努力すら断念して、ただ心のままに…ちいさな幼子にでも戻ったかのように、安心できる胸の中に抱き込まれて…声をあげて泣いていた。 『あれ…が、渋谷の、《大切な人》…?』 黒瀬謙吾は呆然と、目の前の信じられない光景を見つめ続けていた。 気になってしょうがないクラスメイト…女子ではなく男子…が、あり得ないくらい美形の…端正な青年に抱き竦められ、そして…泣いていた。 あの、残暑厳しい放課後に…更衣室での会話中に示唆された《大切な人》は、何故か自分の中ではもっと年嵩のイメージで、もっと漠然と、《凄くいいオジサン》という印象であった。 ところがどっこい、この現実って何だろう? 随分と落ち着いていて世慣れているようにも見えるが、青年は大学生でも通る若さの所持者で…そしてどうやら、とんでもなく強い。 しかも…渋谷有利を見つめる瞳は、保護者とか後見人とかいうような安全かつ健全なものではなくて… 明らかに、一人の《男》として…《雄》として、渋谷有利を見つめている。 そうでなければ…あの瞳の意味するものが恋愛としての《愛おしい》を意味するものでないというのなら、この世の恋人同士の見つめ合いは全て《友情》か、《親子愛》になってしまうだろう。 『渋谷…渋谷、お前ってやっぱり分かんないよ。お前って、どういう奴なの?その男は、何なんだよっ!』 胸の奥を焦がす焔が、脳漿まで沸騰させそうだった。 『何者…なんだ?』 こちらにも呆然と佇む男がいた。 結局何一つ貢献できなかった事と、目の前で展開される光景のために、脳血管壁が危険に晒されている渋谷勝利である。このままでは脳出血を起こしかねない。しかし、何故か二人のただならぬ雰囲気に圧倒されてしまって邪魔しに行くことが出来ない。 『ゆーちゃん…お前、今どんな顔をして自分が泣いてるか分かってるのか?』 全てを相手に委ねきり…思うさま声をあげて泣いている弟など、ここ数年見た覚えがない。まるで、小さな子供にでも戻ったかのようではないか。 『…コンラッド…そうか、あいつが…』 喘ぐように弟の口から零れる名に、漸く察しがつく。 あいつが…あの男が、眞魔国等という国のために弟を利用し、傷つけた連中の一人なのか。 『それが今頃になって何をしに来た!?まさか…』 弟を、今度こそ永久に連れ去ろうとしているのではないか。 あの国に…二度と行けないのだと、弟は言った。 逆に、奇跡的にあちらに行くことが出来たとしたら…二度とこちらに戻ることは出来ないのでは? 足下が地面に引きずり込まれていくような感覚をおぼえて、ふらりと目眩う。 嫌な汗が噴き出す額に髪が張り付くのを乱暴に掻き上げると、そのまま鷲掴みにした。 『そうは…させるかっ!』 噛みしめた唇から血の味がした。 『泣いて…いるんだね』 『泣けたんだね……渋谷』 安堵と同時に臓腑に絡みついてくるのは、嫉妬という名の荊(いばら)だろうか? 『今は…その男しか、君を泣かせてあげることは出来ないんだね』 分かっている。そのかわり、自分は彼の身近な者として想いに寄り添うことが出来るのだと。そういう役割なのだと…。それでも、思い願わずにはいられない。ウェラー卿コンラートの位置を占める自分というものを。 『それにしても、問題はウェラー卿がどんな手を使ってこの世界にやってきたかということだ』 暫し瞑目していた村田健だったが、すぐさま大賢者としての思考を始める。嫌でも何でも、彼の思考回路というのはこのように構成されているのだ。 『渋谷の為ならたとえ火の中水の中を地でいく男とは言え、気合いだけでどうにか出来るはずはない…』 村田健の…渋谷有利と対を成す、闇色の瞳が眇められた。 『確認…しなくちゃね』 * * * 警官達が二人の男を護送という名の治療に連行したあと、学校にはマスコミや、ニュースを聞きつけた父兄などが駆けつけ騒然とした。 事件解決に長身の外国人とメイド服姿の美少女が関わったという美味しい味覚に彩られたニュースは瞬く間に全国に知られることとなったが、渋谷有利の写真や実名については事件に巻き込まれたショックのことも慮かって欲しいとの校長の懇請で、一般的な報道ベースには具体的な情報は載らなかった。ただし、そうはいってもこの情報社会の世の中、そんな素敵なネタが放置されるはずもない。観衆の中に隠れていたカメラ小僧達(小僧ではない年齢層の方々が殆どだが…)の手によって、メイド服姿で男に廻り蹴りを喰らわせるという素敵な写真がネット上を行き交う事になるのだが、渋谷有利はまだそれを知らない。 しかも、長身の外国人に抱きしめられて泣きじゃくる姿なんかも思い切り不法掲示されてしまうことを、渋谷有利はまだ知らない…。 今のところ…事件解決から数分が経過した段階での渋谷有利は、漸く泣きじゃっくりがとまり、我に返ったばかりであった。 「コンラッド…どうやってこっちの世界に来れたんだ?眞王の力が無くても何とかなるスタツアの方法が見つかったの?それに…ひょっとして日本語喋れてる?」 「ええ、後でじっくり説明させて貰いますよ。それより…聞いても良いですか?どうして今日はそんなに可愛らしいお召し物を纏っておられるのですか?」 悪戯っぽい表情で目を細めるコンラッド。 「これが学校の制服だとすれば、俺は貴方の護衛が出来なかった日々が色んな意味で悔やまれてなりません…」 しみじみと言われ…改めて自分の身につけているものを見やると、渋谷はかぁ…と、耳朶まで真っ赤に染めてコンラッドを睨み付けた。 「こ…これは、何時も着てるわけじゃないよ!今日は文化祭だから…お祭りだからさ、クラスの子が面白がって着せたの!つか、それが久しぶりに逢って一番気になるトコかよ!?」 「いいえ、それはもう…色々なことが気になって堪りませんよ。こちらの世界に帰られてから、どんな風にお過ごしだったろうか?苦しんではおられなかったか…泣いてはおられなかったか……ずっと、心から離れない日はありませんでした。漸くお会いできたと思ったら、あの状況ですからね…貴方という人は、何処にいても俺を死ぬほど心配させて下さる!」 言った途端に情景が思い起こされたのか…堪えきれず獣の怒気が浮かんで来てしまい、コンラッドは強く胸元に主を抱き寄せ、己の険しい表情を見せまいとした。 『あの下卑た男…っ!この玉体に刃を突きつけ、あまつさえ肌を弄ぐるなど…』 『片脚で吊り下げて、膾切りにしてやりたかった…っ!』 物騒な思念を実行に移さなかったのは、コンラッドの行動原理が彼自身の思いよりも渋谷有利の願いに支配されているからだ。 どんな相手であれ、生きたまま臓腑を引きずり出して這い蹲らせるような真似をすれば、主は哀しむだろう。 『いや、哀しむ以前に引くか…』 間違いなくドン引きだろう。 『この人の前では、仁慈に悖(もと)る振る舞いをするわけには行かない…』 だからこそ、コンラッドにとってはどうでも良い存在をも救ったのだ。 以前、眞魔国でのお忍び城下町探索中に、今回とよく似た展開の事件が発生した。 ちょっと目を離した隙に、茶屋で一服していた主と給仕をしていた娘とが逃走中の強盗に捕らえられ、人質にされてしまったのだ。 当然コンラッドは主の身柄を最優先に行動し、毛筋一つほどの傷を負わせることもなかった。 だが、恐慌状態に陥った給仕の娘はコンラッドの介入を待たずに暴れ、その結果顔に傷を負ってしまった。 丁度…嫁入りを前にした娘だった。 後日聞いた話では嫁入り自体は問題なく執り行われ、仲良く暮らしていると聞いたのだが、主はその事件のあと…当分塞ぎ込んでしまった。 主は自分が王であることの意味を以前よりは認識していたから、コンラッドを責めることはなかった。あの状況下で死人を出さずに事件を解決した手腕は、彼でなくては考えられないことも知っていた。 だから、主は自分自身を責めた。 『俺がもっと機敏に動けたら…人質になんてならなきゃ、コンラッドはあの女の子に集中して救けてくれたかも知れないのに…』 そんな主に、コンラッドはある提案をした。 もしも再び同じ様な状況に陥ったときの為に、サインを決めましょう…と。 普通は二度とこのような状況が起こらないようにするのが護衛の役目の筈なのだが、ことこの主に関する限り、度々このような事件が再発する可能性があった。だから、状況に応じて幾つかのサインを決めたのだった。 その内の3種類ほどを説明すると、以下のようになる。 片手で床を押さえる動きをしたときは、敵の戦力が高く応援を呼ぶ必要があり、戦況が変わるまでの時間稼ぎを求めるサイン。とにかく、大人しくしていろという意味だ。 人差し指で空を払う動きをしたときは…これはなかなか主が承諾のサインを返さないだろうことが予想されるのだが…どうにもならないときは聞き分けてくれと、コンラッドがごり押ししたサイン。事態が切迫していて、何をおいても主の身の保全をはかる必要があり、他に人質がいて、その身が危険に晒されることがあっても諦めて…強行突破を受容してくれという意味だ。 親指を上に突き上げる動きをしたときは、最もコンラッドの判断力が問われる…成る可く使いたくはないサイン。主を捕らえている者の力量が低く、他の人質を捕らえている者の方が注意を要する場合に、親指を下に向ける動きを取るのと同時にコンラッドが何らかの方法で注意を引くので、渋谷有利自身の技量で倒せという意味である。 先程、人垣の中からコンラッドが送ったのが三つ目のサインであった。 出来れば二つめのサインを送りたかったのだが、明らかに少女を捕らえている鷹野原とかいう男の力量の方が上であったことから、三つ目のサインで決行しなくてはあとあと渋谷有利に恨まれてしまいそうだったのだ。 まさに、苦渋の決断。 捕らえられている時の脱出方法については丁寧に指導してきたつもりだが、この場で主が実行できるかどうか不安であったし、万が一コンラッドの放ったもの…実は百円ショップで購入したカッターの換え刃2本…が逸れ、主の身に傷を付けるようなことがあれば、生涯自分を許すことは出来ないだろうと臓腑を凍えさせていた。 『上手くいったのは僥倖とでも呼ぶべきのなのかも知れないが…』 それでも見事な回し蹴りで敵を仕留めた主の技量を誇らしく思う。この人はやはり、守られてばかりではなく、状況によっては戦う事を認め…支援すべき人なのだ。 「あー…そろそろ落ち着いたようなら、ちと聞いても宜しいかな?」 えふんえふんと遠慮がちに咳払いをしながら声を掛けてきた年嵩の警官を、職務上致し方ないことなのだろうと理性では納得しながらも、つい睨め付けてしまうコンラッドだった。 『久しぶりの甘やかな時間だというのに…』 それが伝わったのか、警官は益々困ったように眉間に皺を寄せると、嘆息混じりに問いかけた。 「まぁ…どうやらそっちの人質の子とは馴染みの仲らしいし?あの状況から救い出して感極まる思いも十分わかるんだが、功労者とはいえこの事件の関係者には違いないんでね。一応色々聞かせて貰いたいんだが、いいかな」 『嫌です』 「…ええ、勿論ですよ」 正直すぎる心の声を飲み込み一般向けの爽やかな笑顔を向けると、コンラッドは警官の質問に大人しく答えていった。
|