虹越え1−5−1







 篠原楓が体育館に戻ってみると、昼ご飯時ということもあって相変わらずの盛況ぶりを見せるカフェブースの中で、予想通り楠田由梨が高麗鼠のようにテーブルの間を行き来していた。無駄な動きが多くて見ていられない。

「由梨ちゃん、助っ人に来たよん。落ち着いて席あきテーブルの上かたづけて?焦らなくて良いからね。あたし、オーダーとるよ」

 人の良さそうな垂れ目をくしゃっと細め、楠田由梨は華奢な手を合わせて小さく合掌した。

「楓ちゃん感謝!あたしまたパニクっちゃって…」
「いいのいいの」

 楠田は篠原と小学校からの付き合いで、動揺しやすく運動もできないが、意外と周りに流されず、心の根っこに強いものを持っている子だと思う。現に、中学校のころ女子から爪弾きにされていた篠原と居るせいで割を食うことがあっても、決して態度を変えたことはなかった。そんなわけで、両極に近い性格を持つ二人は結構な仲良しさんであった。 

「あ、この曲『ムーラン・ルージュ』のダンスシーンの曲かな?」

 体育館内では放送部がミニラジオ局を展開していて、生徒の投稿作品やリクエスト曲をかけていた。誰の趣味なのか、今はミュージカル映画の激しい音楽が掛かっていた。食事時に聞くには交感神経を刺激され過ぎて消化が悪くなりそうな曲だ。

「ああ、ニコール・キッドマンが出てたやつ?パンチが効いてて好きだけど、なんかご飯食べる速度が速くなりそうだね」
「あ、それ狙ってるのかな。テーブルの回転が良くなるように…とか」
「凄ーい。本当だったら計算高いね!」

 少女達がくすくす笑いながらなんと言うこともない会話を交わしてる時だった。

 アスファルトが擦れるような高調波が響いたかと思うと、ドン…っと腹に響く音が校門の方から聞こえてきた。 

「何…?」
「事故…かなぁ?アレって車のスリップ音だよね」
「誰か怪我とかしてないかなぁ?」
「ん…」

 カフェが忙しいのは分かっているのだが、気になって二人とも駆け出すと、体育館の扉に手を掛けた。



 ピィィィィィィィィィッッッッッッッツ!



 扉の向こうで長鳴きの激しい警笛が鳴らされると、少女達も、体育館内にいた人々も一斉に身を固くした。

 二人は後退しようとするが、突然体育館の扉が乱暴に開け放たれると、どっと入り込んできた二人の男に抵抗する暇も与えられず抱き込まれた。

『なに…何がどうなってんの!?』

 篠原楓は息づかいの荒い大柄な男に後ろから身を拘束され、声を出すこともできないほど動揺して震えた。

 篠原の疑問に答えたのは、緊急事態を告げるチャイムと全館一斉放送だった。



ーーただいま本校正門の壁面に逃走車が激突し、4名の不審者が校舎内に侵入しました。内2名は本校職員が取り押さえましたが、已然として2名が校内を徘徊しております。不審者2名は武器も装備している模様です。生徒と来校者の皆様は、本校職員の指示に従い、速やかに鍵の掛かる教室、ないし教官室・職員室に避難をお願いします。不審者を発見した職員は直ちに警笛を鳴らして下さい。男性教諭は防御装具を持ち警笛のする方へ急いで犯人確保に努め、警官隊がつくまで持ちこたえて下さい。繰り返します……ーー



『遅いわーっっ!』 

 と叫びたいところだが、爆音がしてから篠原達が捕まるまで時間にして僅か5分程度。不審者侵入、発見から放送までの時間としてはそう遅すぎると責めるわけにはいくまい。誰が入ってくるか分からない文化祭のこと、学校側としても不審者対応の対策は立てており、職員研修も行っていたのだが、武装した不審者が来るまで突撃してきたのでは防ぎようがない。

 篠原達が捕まってからすぐに、警備についていた用務員の田中と体育教師の松本、他数名の教職員が駆けてきた。田中はさすまた、松本は木刀を手にしているが、身体のあちこちからに切り傷を作り、血を流している。

 篠原を拘束している男の手元を見やれば、そこには血痕のついた…刃渡り50pはあろうかというサバイバルナイフが握られていた。

「……っっ!」

 喉元が引きつって叫ぶこともできない。

「ひぃっ……ひ…………………っっっ!」

 ひゅっ…と響く笛のような音と聞き慣れた声音に傍らを見ると、やはりナイフを突きつけられ、拘束されている楠田由梨が喉元を押さえて反り返っていた。

『過呼吸…っ、こんな時に!?』 

 こんな時だからこそか、楠田は緊張のあまり発作的に息を吸い続けてしまい、過呼吸状態に陥っていた。

 過呼吸というのは一種のヒステリー発作であり、基本的にそれだけで死に至ることは滅多にない。だが、この拘束された異常状態で発作が長引けば、血中の二酸化炭素濃度が低下しすぎることでpHは過度にアルカリ性に傾き、何らかの障害が残される可能性もある。少なくとも、元々精神的ショックに弱い少女にとっては、大きな精神外傷を被るのは間違いないだろう。

 篠原ははっと我に返ると、声を大にして主張した。

「何がなんだか知らないけど、人質なんてあたしがいれば十分でしょ?その子を離してよ。その子、発作を起こしてんのよ?あんた達が見たっておかしいの分かるでしょ?何処に逃げるにしたって、あんなの連れたらどうにもなんないわよ?」

 人質本人の発言とは思われないほど堂の入った提言に、篠原を拘束していた男…30代後半〜40代前半頃と思われる、やや白髪混じりの強面の男は小さく頷いた。

「まぁ…な。お嬢ちゃんの言うとおりだろうよ。孝史よぉ、そっちのお嬢ちゃんは離してやんな。お前は本当に要領が悪いよなぁ…そっちの人質はスカだ」
「駄目だ駄目だ駄目だ!離さないぞっ!人質を離したら俺だけ捕まるじゃないか!俺は捕まりたくないっ!」

 痩せぎすで顔色の悪い男は痙攣するようにして吃音で捲し立てる。

『…こんな状況で何処に逃げるってのよ?』

 既に不審者侵入の警告放送が流れ、警官隊もすぐに駆けつけるらしい。攻撃力は低いものの、さすまたなどの防御装具を所持した教職員もどんどん数を増しており、逃走経路を塞ぎに掛かっている。

『ああ…もう!あたしらってホント間が悪い!あたし達が人質になってなきゃすぐに解決してたって事じゃないの!』

 地団駄踏みたい気分で自嘲する間に、教職員を押し分けて10名程度の警官が現れた。

「君たちは完全に包囲されているー。人質を放せば悪いようにはしないー。早まって罪状を増やすんじゃないぞぉー」 

 太めで年嵩の警官が妙におっとりした口調でそう呼ばわる。それでなくとも緊迫した場面で切羽詰まった声を出すとお互いに過緊張状態に陥るので、それを回避しようとしているのかも知れない。

「少なくとも、そっちの苦しんでる方の子は離してやってくれんか?可哀想だろ?こんな小柄な女の子を泣かせてる姿を見たら、田舎のお袋さんも泣くぞ?」
「嫌だ!絶対駄目だ!人質が居なくちゃ駄目だ!」

 がくがく震えながら叫ぶ男の尋常でない様子に、年嵩の警官は顔に出さずに独りごちた。

『こりゃあ…いかんなぁ……もう一人はともかく、こっちの奴はなにかクスリでもやっとるのかな…』

 突発的に、何が起こるか分からない。人質を取られている以上強引な策は取れないが、かといって今現在何らかの発作を起こしているらしい少女を放っておくわけにも行かない。

『せめてこれ以上怪我人が増えないように、先生方は離れさせるか…』

 配下に指示を出そうとしたのだが、それは一拍遅かった。



「じゃあ、人質交換お願いします!」



 たっ…と人垣の中から転がるようにして駆け出した少女を、警官達は止めることが出来なかった。 

「人質、その子と交代して下さい……お願い!」

 《お願い》のところで両手を組み合わせ、上目遣いの潤んだ黒瞳で犯人に詰め寄っているのは…。



「有利っ!」
「渋谷…っ!」



 不意をつかれて止め損なった兄や友人達の、悲鳴のような声が迸る。

「ね、…お願いしますっ!」 

 20代後半くらいの痩せぎすの犯人は、暫く言葉を失ってぽかんとしていた。

 突然の申し入れよりも、目の前でお強請りポーズをとっている少女の愛らしさに度肝を抜かれていたのだ。

 色を入れていないサラサラの黒髪に、小作りな顔の中で印象的に輝く黒瞳。不安げに顰められた眉。上気したまろやかな頬、噛みしめられた朱花の唇…。禁欲的に詰まった襟元と対照を成す、膝上丈のメイドスカートから覗くすらりとした下肢…。

 そしてなんと言っても全体的に醸し出される《きゅるん》としたオーラが男の心を包み込み、強烈に締め上げた。

「…っ!……っっ!」

 男は痙攣するようにしてびくびくと背筋を跳ねさせると唐突に楠田を突き飛ばし、そのまま渋谷の身体を抱き寄せた。

「俺の人質!俺の…っ!」 

 折れんばかりにしてぎゅうぎゅう抱き寄せると、く…と詰まる息づかいが聞こえて、それが一層犯人の嗜虐心を擽った。

「俺は強いんだぞ!?見てみろ、このナイフで刺してやったんだ。俺の邪魔する奴らを刺してやった!」
「ああー…そうですかー、わー怖いなー……いや、怖いわぁー…」

 微妙にわざとらしいような声で渋谷が怖がってみせると、男はますます調子に乗っていた。

「お前は俺と一緒に行くんだ!離さないぞ!俺とずっと一緒にいろっ!」
「あのぅ…出来れば、あなたが逃げるまでの間柄にしていただけませんか?」

 正直すぎる申し出に、男は逆上した。

「駄目だ!お前は俺と一緒にいるんだ!お、お前ら…ひ、飛行機を用意しろ!俺はこの子と一緒に国外逃亡だ!海外ウェディングだ!」

『ウェディング!?何ソレ!どゆこと!?』

 叫びたいが、村田が必死の形相でブロックサインを送ってくるので何とか喉奥に留める。 確かにこれ以上犯人を興奮させることは得策ではなかろう。

 渋谷だって何の考えもなく飛び出したわけではない。

 犯人と人質がどちらもヒステリー状態という最悪なカップのリングを解消させることが出来れば、少しは状況が改善されるのではないかと期待したのだ。折角組み合わせが変わったのに、一緒になって興奮していたのでは名乗り出た意味がない。

 しかし、この男はここまできつく抱きしめておいて、渋谷の性別に気がつかないのだろうか。落ち着いてくるとその辺も切なくなってくる人質ちゃんだった。

『大体、あのお強請りポーズがギュンターとか、眞魔国の人以外に効くとはなぁ…。こっちの世界にもマニアックな人っているんだな…』

 声も無理して高音を出しているせいで、内心《キモいよなぁ〜…》とか思いながらやったのだが…まぁ、結果オーライというところか。



 一方、見守っている側からすれば、到底《結果オーライ》などと暢気なことを言えるような心理状況にない。突き上げる怒りと、我が身を万力で抉られるかのような心慮により、交感神経が過緊張状態に陥っている。

「おたくの弟さんてば…何というか、揉め事に巻き込まれる才能がおありですよね」

 揶揄するような声ではあるが…語尾に絡みつく毒々しい陰影により、大賢者村田健とはいえど、この状況に痛苦を感じていることが察せられる。ただ、それも注意して聞けばのことで、我を忘れて突撃しかねない勢いの渋谷兄には伝わらない。

「畜生…っ!あの男、殺してやるっ!」

『僕も出来るならそうしたいさ。渋谷に傷の一つでもつけようものなら、生まれてこなければ良かったと思うような境遇に追い込んでやる…』  

 思ったことをそのまま素直に口にしてしまう渋谷兄とは対照的に、村田の方は一層現実的かつ陰湿な復讐方法を脳裏に描いていた。しかし、この兄…こんな単純な気質で政治家を目指すのは如何なものかと村田は思う。

『まぁ、渋谷有利に掛かれば僕だって似たようなものか』

 かり…と音を立てて親指を噛みしめる。落ち着いた風を装うとしても、有効な策を導き出すことが出来ない…どうやら、人のことを言えた精神状態ではないらしい。

 これが眞魔国なら…せめてあちらの世界であれば、これまでどんなに盟約に応じる要素の乏しい状況であっても、反作用を受けつつも渋谷有利は魔王としての力を開放してきた。

 だが、この世界ではそうはいかないのだ。

『君は、そんなことを考えてもいないんだろうね…』

 力がないからとか、

 そんな責任はないからとか…

 いくらでも言い訳はできる筈なのに、悩んでも迷っても、結局…渋谷有利はこうやって行動するのだ。

 本当は人一倍恐がりやのくせに…今だって突きつけられるナイフに怯え、肌をまさぐられる嫌悪感に皮膚一面鳥肌を立てているくせに。渋谷有利の瞳はクラスメイトに…紙袋を口元に当てられ、過呼吸発作の苦しみから少しずつ脱していく楠田由梨に向けられ、ほっと安堵の息を漏らしているのだ。 

『君が利己的な男だったら、僕はこんなに苦しむことはなかったのに…でも、君がそんなだからこそ…こんなにも愛おしいんだろうね……』 

 恋愛としての感情ではないと思うのだが、村田健は渋谷有利に対してある意味での《愛情》を持っている。重ねられ、軋んでいく記憶の迷宮の中で、彼だけが燦然と光輝く指標として存在している。

『君を失ったら、僕は生きている意味を失うんだよ?』

 噛みしめた親指から、血の味がする。

 そんな村田の様子に気がついたのだろうか…渋谷は眉根を寄せると、口元の動きで

『ごめんな…』

 と伝えてくる。

『馬鹿だよ…全く君は……』

 人の心配ばかりしている大馬鹿で…大好きな友人が、どうか傷つくことがないように。

 いまは唯の高2の子供としての力しか持たない村田健には、祈ることしか出来なかった。



 兄と友人達を心労で急死させそうになっている渋谷有利は、ふと思いついた件について提案してみた。聞いて貰える可能性は自分で考えても小さいとは思うので、自然と声は囁き声になってしまう。

「ええと…まぁ、あなたの人質になっちゃった訳なんですが、大人しくしてますんで、あっちの人質は離すように言って貰えませんか?」
「…」

 先程、散々《マイ人質》の所有を主張してきた手前、相方に人質を放してやれとは流石に言えないのか痩せぎすの男は黙ってしまった。

 しかし相方の強面男は多少落ち着いた人物らしく、肩を竦めると警官に話しかけた。

「おい、あんた松本だろ?ちょいと頼むんだがね、こっちのお嬢ちゃんと引き替えに俺達に車を貸して貰えんかな。国外までは逃げきれんだろうが、捕まるまでちょっと足掻いてみたいんでね」

 声を掛けられた松本孝二朗は2年5組…つまり渋谷のクラスの担任で、体育教師をしている恰幅の良い三十男である。その彼が、掛けられた声に眉根を顰めた。

「お前…やっぱり、鷹野原右京か!?」

 ご大層かつ風変わりな名前に、何人かが反応した。

「鷹野原…何でまたこんな事をやっとるんだね君?確か学生時分には剣道の全国大会で3年連続の覇者になっとった猛者だろう?《東北の鷹》とか、安直な名前付けられて…」
「安直で悪かったな…」

 呆れたようにぼやく年嵩の警官に、鷹野原と呼ばれた男は憮然とした。

「警官になって、将来を嘱望されとるとか聞いとったが、その後話を聞かないと思ったら、えらくまた身を持ち崩したもんだなぁ…」
「…身の上相談はまた別の時にお願いしたい。それより、今は車が欲しい。見たとおり身を持ち崩しているもんでね、いつ逆上してこの子の綺麗な顔に傷を付けてしまうか分からんよ…」

 つ…と押しつけられる冷えた刃には、用務員か担当教員かの血がこびり付いていて、それが不穏な暗示のように少女の頬に照り映えた。

「篠原ぁっ!止めろよっ!女の子なんだぞ!?顔に怪我したら一生の問題なんだぞ!?」

 蒼白になって藻掻く渋谷を、慌てて痩せぎすの男が押さえる。

「この…じたばたすんな!しかしお前、意外と声がハスキーだな。さっきと声が違わないか?」 
「えぇ〜?そんな事ないですよぅ…」

 慌てて怪しい高音を出す自分がいい加減情けない。

『俺のアホ〜…事態をややこしくしてどうすんだよ…。あー、勝利とか村田の心配そうなこと…』

 勝利などは既に警官にマークされており、飛び出そうとするたびに後ろから羽交い締めにされている。ダンディ・ライオンズのメンバー達も同様の有様で、警官達の現在の業務内容は後先考えずに突っ込もうとする一般民間人を押さえることに特化されているようだ。

 人垣を一巡して見やると、ふと…妙に目を引く男に気付いた。

 黒に近い…薄墨色の薄いトレンチコートに身を包んだ男はぴしりと姿勢が良く、均整のとれた長身に加え、周囲の人々と極めて差を感じる腰の高さや、膝から下がすぃ…と長く伸びているのが特徴的だ。

 トレンチコートと同系色の、映画《カサブランカ》に出てくるような帽子を目深に被っているので目元は見えないが、秀でた鼻筋や形よく薄い唇、白人らしき肌の色…細身だが明らかに発達した筋肉を所持していると思しきその男は、機敏な所作に一切の無駄が無く、妙に渋谷の意識に残る…と、言うより、激しく記憶回路の何処かを刺激してきた。



 その男の指が、ある独特の動きをとった途端…渋谷の顔色がさっと変わった。



「おい、勘弁してくれよ鷹野原…。お前、自分でも分かってるんだろ?何やらかしたのか知らないが、もうここまで包囲されたら捕まるのは時間の問題だろ?もう止めとけよ。お前…何でそんなになっちゃったんだよ…」

 松本の嘆息は、呆れているというよりも何処か哀しそうに聞こえた。

「安直なあだ名でも何でも、対戦相手が《東北の鷹》だと聞けば、俺達ぁ腹の底からどしんと気合いを入れて、震えそうな自分を押さえたもんだよ。それだけじゃない、相手に、《剣を交えられるだけでも光栄》なんて言われる奴は全国にそう何人も居なかった筈だぜ?…あんた、本当に強くて格好良かったじゃないか」

 大人しくなった渋谷と痩せぎすの男に代わって、顔見知りらしい松本と強面男…鷹野原とが場の人々の注意を引いた。交わされる世知辛い会話が、世の悲哀を感じさせるようなものになってきたからだ。

「そうだなぁ…、あの頃は良かったよ。大学までは、単純に剣道が出来れば俺は賞賛されてた……だが、所詮それだけじゃ世間は生きて行けねぇもんみたいだな。色々ヘマをやって、懲戒免職食らって…ドジな奴と組んで失敗して…今じゃこの有様さ。お前の言うように捕まるのは時間の問題だとも思うんだがね。もうこうなったら意地の問題さ。俺は…生きるのが下手くそな男だが、一度やり始めたことは徹底的に駄目と分かるまでやってみたいのさ」
「馬鹿か!そんなところに回す意地があるなら、何で真っ当な方向に持っていかなかったんだよ!」
「ああ、よく言われたよ。教員とか親ってのは、どこでも同じ様なことを言うもんだな」

『漫画を読むのに回す熱意を勉強に回せば天才になれる』

 というのと同じ論理かも知れない。確かに、物理的にはそうでも、実際にはできないことの方が多いようだ。

「俺は、学生時代に一度徹底的に負けておけば良かったんじゃないかと思うことがあるよ…。なまじ《剣豪》なんて言われて妙な矜持を持っちまったから、俺は自分が一かどの人物みたいに感じてしまったのかも知れない…。一度、襤褸クソに敗けてしまえば…諦めもつくのかな」

 学生時代の鷹野原に、対戦するからといって恐怖を感じたことなど一度たりとなかった。道場の師範相手ですらそうそう鷹野原を敗かすことはなかったし、敗けたとしてもそれは僅差の判定による勝負であり、常に腹蔵の中では感じていた。

『今が戦後の世なら…大段平で乱世を切り取る世ならばよ。俺はお前なんぞに敗けたりはしなかった…』

 現代日本で剣豪と言ってみたところで、所詮は棒振り遊びに過ぎない…。

 そう感じてしまう段階で、鷹野原は純粋に剣の道を究める可能性を自ら潰してしまったのかも知れない。

 真剣による斬激の応酬…命を懸けた鬩(せめ)ぎ合い……流血への渇望。

 そんなものへの漠然とした妄執に囚われてしまったのかも知れない。

『誰か…いっそ俺を、砕いてしまってくれ』

 こんな…袋小路に追い込まれて、何時か精神力が尽きた瞬間に、一人の男としての技量ならば負けるはずのない警官共に取り押さえられるくらいなら、英雄の一人でも現れて俺の矜持も何もかも砕いてくれたらいいのに…。

 そんな勝手な鷹野原の望みを叶える者が現れるなど、次の瞬間まで心底信じていたわけではなかった。



 薄墨色の影で構成される闘気の塊が、己目掛けて突進してくるまで。



「…っ!」 

 その瞬間、鷹野原が感じたのは…未だかつて人生のどの場面に於いても感じたことのない、純粋な恐怖だった。

 まるで己が身を守る術のない草食動物にでもなってしまったかのような錯覚すら感じさせる…それほどの烈気。



 捕食者が、獲物として己を屠ろうとしている…っ!



 生物の持つ、原始的な恐怖が鷹野原を襲った。

 それでも動体視力に優れた鷹野原の目は、観衆がそうと認識するよりも数秒は迅速に、薄墨色の塊がトレンチコートを纏った長身の男であることを見て取った。

 そして、その男の右手が一閃し…。

 鷹野原の目元をひゅ…っと音を立てて切り裂こうとした。

「…っっ!」

 咄嗟に避わした鷹野原の反射神経を流石と賞賛すべきなのだろうか。

 いや、突進してきた男の目的が彼の目を潰すことであるならば、それは完遂されていたであろうことを…誰よりも鷹野原自身が理解していた。

 短刀に気を取られた鷹野原は篠原を拘束していた手を緩めた。その瞬間、男は少女の所有権を奪い、己の背後に庇い込むと…その背を指先で突いたのだ。

 《逃げろ》…と、鋭く囁いて。



 男が鷹野原に向かって突進するのと同時に、渋谷有利も人質生活に終了を告げていた。

 痩せぎす男の両手首に、例の男の手元から放たれた…何か棒状のものが刺さるのと同時に《示し合わせた》通り、拘束者の鳩尾に鋭い肘鉄を喰らわせ…うずくまってきた貧相な顔目掛けて回転加速の乗った回し蹴りをお見舞いしたのだった。



 水平面上で旋回する黒いスカートと真っ白なエプロン。その裾から飛び出した下肢のしなやかさと威力に、観衆がどよめいた。



『蹴られてぇ…っ!』



 と、心中で叫んだ者も一人や二人ではなかった。

「ごがっ!」

 観衆の思惑をよそに、踵に伝わる耳障りな鈍音と獣声を振り払って渋谷は身を離した。

 べたべたと妙なところを触られた恨みはまだ燻っているのだが、痩せぎす男の身柄は警官達に任せておけばいい。



 だから…だから。渋谷は今、集中して良いのだ。

 あの《男》を見つめることに。




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