虹越え1−4−2







「篠原、具合でも悪いのか?次のターンの連中がそろそろ来るからさ、ここは俺らに任せて休みなよ。ほら、オレンジジュースでも飲んでさ」

 渋谷はひょいっと篠原の横に丸椅子を置き、紙コップに入ったジュースを手渡してくれた。

 見上げると、もうそれほど恥ずかしそうにしていないせいか、メイド服は着ていても渋谷の表情は少年らしいものに戻っていて、優しげに見下ろされると胸が高鳴ってしまう。

「ん…ありがと。でも大丈夫だから!」

 ありがたくジュースは飲みきったが、勢いよく立ち上がって笑顔を浮かべて渋谷を見ると、今度は彼の方が真っ青になって脂汗を流していた。 

 動きが完全に止まって、関節が凝固している。



「ゆー…ちゃん?」 



 背後から、掠れを帯びた呟きが聞こえる。

 声の方に顔を向けると、呆然として目を見開いている大学生くらいの青年が居た。

 やや垂れているが眼光の鋭い瞳に、洒落たデザインの眼鏡を掛けている。服装の方も、ラフだが仕立ての良い生成のシャツにオリーブグリーンのジャケットを羽織り、すっきりしたデザインのストレートパンツを穿いた姿は長身痩躯なせいもあって全体的に見栄えがよく、合コンなどでは多めのアプローチを受けそうだ。

 しかし、《ゆーちゃん》とはこれ如何に?

「し…勝利!何でこんなトコにいんだよ!今日は秋葉原でイベントとかって言ってたじゃん!」
「行く前に道っぱたでポスター見たんだよ!弟の学校で文化祭ってんなら、兄としてはこっそり行って木陰から見守るものと相場が決まっているだろう?」
「何だ、その明子姉さんみたいな相場は!?俺はあの球団は大嫌いなんだから、目指して大リーグボール養成ギブスなんか填めねぇよ!」
「ぁぁあああっっっそんな事はどうでも良い!何なんだ有利、その格好は!」  
「弟を思う気持ちがパン屑程度でもあるならそれ以上は言うな!どうせキモイよ!分かってるよ!今日は可愛い女子の引き立て役なんだから、しょうがないのだろ?餡だってきな粉だって、砂糖だけじゃなくて塩をぱらりと入れると味わいが増すだろ?アレと同じ理屈なの!」
「馬鹿かお前は!誰が似合ってないと言った!?可愛いさ、思わず頬ずりしたいほどにな!だがしかし、何だそのスカート丈は!下着が見えたらどうするんだ!?」
「下はちゃんと穿いてます!世間様にこれ以上お見苦しいもの見せられるかよ」

 そう言うと、ぱっとスカートを捲って黒い短パンをアピールする。

 しかし、それも篠原作の全体のバランスを考え抜いて作られた短パンであるから、股下10p程度のぴったりしたデザインで、短めのスパッツのようにも見える。これが膝上までのニーハイとの間隙にある白皙の肌を、煽情的なまでに浮き立たせていた。しかも、野球で適度に鍛えられた渋谷の下肢は薄めながらもすっきりとした筋肉がついており、しなやかな脚線がなんとも艶かしい。

「この大馬鹿ーっっ!」

 一斉に起こるフラッシュの嵐に、兄と友人達は赤くなったり青くなったりしながら渋谷のスカート裾を引き降ろした。

「あ、御免なさい〜っ!食事中にお見苦しいものを…」

 意図を完全に違えた渋谷が真っ赤になってペコペコお客に謝るものだから、周りの胸キュン地獄は如何ともし難く増大してしまう。 

 その騒ぎも収まらぬ中、もう一団現れた者たちが居た。

「渋谷…君って奴は……」

 呆れきった苦笑を浮かべているのは何様俺様大賢者様の村田健。
 その背後で絶句しているのはダンディ・ライオンズのメンバー御一同だ。

「ひぃぃぃっっっ!今日は仏滅か!?」
「大安吉日だよ渋谷。結納、結婚にも最適だよ渋谷」
「うわぁぁんっ!嬉しくねぇっ!」

 村田健のかなりどうでも良い指摘に渋谷は絶叫した。

「へぇ…渋谷のギャルソン姿に期待して来たんだけど、メイド服も意外と良いなぁ…」

 にやにやと男臭い顔に獣の笑顔を浮かべているのは、渋谷狙いが以前から明白な神辺だ。 

「胸もちゃんと膨らんでるけど、どうやってんの?」

 さり気なく触ろうとする手を、エロゲオタとは思えないほど俊敏な動きで制止したのは勝利だった(ちなみに、胸は小さなビーズクッションを二つ肌着に縫いつけてある)。

「うちの弟に何する気だ?」
「へぇ…あんたが渋谷兄?なかなか美人サンじゃないか。兄ちゃんもタイプかな…」
「だ…駄目っ!」

 舌嘗めずりするようにして、制止の為に出された手をそのまま撫でだした神辺を、今度は渋谷弟が制止する。

「勝利はそういう趣味無いから!神辺さん、オトコ道に連れ込まないでよっ!」

 両手を広げてギンっと睨んでも、上目遣いでは子犬のような愛らしさしか醸し出せないので脅しの効果はない。それどころか更に兄に萌えられてしまった。

「ゆーちゃん……お兄ちゃんを庇ってくれるのか?こんなちっちゃな身体で……」

 とろけそうな笑顔を浮かべた兄に抱き込まれてしまう。

「あぁ〜ゆーちゃん…お兄ちゃんは嬉しいぞぉ……」
「俺は嬉しくねぇよ!離せったら勝利っ!」

 ちょっぴり年の離れたカップルのじゃれ合いにしか見えないが、これが兄弟だというのだから世も末だ。

「渋谷、僕…これだけは言わせて貰うよ…」

 指先で眼鏡の縁を押し上げる優等生ポーズで村田健が真面目な表情を浮かべているが、どう考えても真っ当な意見を言うとは思えない。

「僕、折角君がメイド服を着てくれるなら、是非黒い猫耳もつけて貰いたかったな…もし可能なら、ピンクの肉球がついた手袋も欲しかったよ……」

 寂しそうな苦笑を浮かべながら言うことか。

「邪道だ!猫耳はそれだけで巨大なカテゴリーとなるアイテムだぞ?メイド服に合わせるなんて納豆にモロヘイヤと自然薯を合わせるようなもんだ!アイテム過剰でバランスが悪くなる!」

 趣味の合わないオタ同士の不毛な会話が、首脳会議並のエネルギーを用いて交わされる。

「何言ってるんですか!?メイド服と猫耳は切っても切れない仲…。お兄さんは有利君が緩く握った拳を斜に構えて、《お仕置きにゃ!》と言うのを聞きたくはないんですか?」

 眉根を寄せて、今まで見たどんな時よりも真剣な表情で熱弁を振るう村田健。

「む…う……確かにそのシチュは捨てがたい……」

 衝撃を隠しきれず、弟の頭髪に鼻先を埋めながら目を伏せる渋谷勝利。「お前ら宇宙の言葉で話すなーっ!それか今すぐ宇宙に帰れっ!!」

 希望通り握った拳で、弟は兄の下顎に強烈なアッパーカットを浴びせた。

「渋谷君…苦労してんなぁ……」
「可哀想に…でも、可愛いな…………」
「ああ……」

 気の毒とは思いつつも、傍観者を決め込んでいるチームメイト達は、安全圏で渋谷有利の艶姿を楽しんでいた。



*  *  *




 渋谷関係者ご一行の来客により多少混乱したが、すぐに次の給仕担当者が交代に来てくれたので、渋谷は早速用務員室に走っていつもの学生服に着替えようとした。…が、そんな行為を許して貰えるはずもない。「何処に行くゆーちゃんっ!俺の望遠ニコンがまだお前の晴れ姿を捉えていないだろうが!」

「そんなもんどこに隠し持ってたんだっ!」

 見れば、兄の手にはやたらとごついカメラが握られている。

 パソコンマニアのくせに写真だけはデジカメではなく、フィルム派である。なんでも、解像度が違うとか何とか…渋谷弟にはよく分からない拘りがあるらしい。

「そうだよ渋谷。折角なんだからその格好でツーショットしようよ。お兄さん、撮ってー」

 語尾にハートを付けて渋谷の腕に絡みつく村田健を、兄は意外なほどの膂力でひょいと摘み上げた。

「ゆーちゃんに気安く触るんじゃない、弟のお友達!大体、写真を撮るにしても後だろう。有利、腹が減ってるんだろう?さっきから腹鳴りっぱなしだぞ」

 無造作に突き出されたのは焼きそばとたこ焼きのパックが1つずつ。

 あの騒ぎの中、何時の間に買っていたのだろうか。

 そして、何時の間に弟の腹具合を確かめていたのだろうか。

 こういう時、やっぱりこいつは兄なんだな…とか思って渋谷有利はこそばゆう様な気持ちになる。

「アリガト…」

 素直になりきれないくぐもったような声で、それでも礼の言葉を口にすると、またしても何処かの経穴(多分、病が行き着く最終地点と言われる《膏肓》)に填ったのか、兄が悶絶している。

「素直になりきれないゆーちゃんの羞恥顔に萌え…」
「そんな兄の悶絶顔に萎え…」

 前言撤回。 

 やっぱりこんなヤツ兄とは思いたくない…。

「まぁ、なんにしても腹は減ったじゃろう渋谷君。その辺で、みんなで何か食おうや。俺らもちょこちょこと昼食っぽいもの買ったけぇ、分けっこせん?」

 下心のない笑顔(今の状況的には何やら凄く救われる感じの)で佐々木真に促されると、渋谷有利は大人しくついていきかけたが、ふと思い出して傍らの友人達に声を掛けた。

「あ、篠原と黒瀬は?」
「あたしは良いよ。チームの人たちもお兄さんも、折角来てくれたんでしょう?折角だから一緒にいなよ。それに、約束してたシフトは終わったけど、由梨ちゃんがちょっと心配だから手伝ってくる」
「ああ、楠田さんか。ちょっと緊張してたみたいだしな。昼飯時のシフトが一番きついもんね」
「うん、あの子ちょっとパニック障害気味でしょ?前にも一度こういう学校行事の時に過呼吸になったことあるんだ」
「そっか、じゃあ俺も昼飯喰ったら様子見に行くよ」
「俺も少し早めに昼飯は喰っといたからいいよ。そろそろゴミが溜まりだしてたから、回収しときたいしな」 

 そう言うと、篠原と黒瀬は連れだって体育館の方に戻っていった。

「へぇ、篠原サン可愛くなったねぇ」 

 ぴゅっと口笛を吹いてそう言うのは村田健。

「あれ?村田って篠原のこと知ってたっけ?」
「知ってるも何も同じクラスだったじゃないか。君が2年前に篠原サンに告白して無惨に振られたのも知ってるよ」
「さらりと傷口を抉るなよ!」
「…もう、別段傷口なんか残ってないみたいじゃないか」

 ゆぅるりと意味深な笑みを浮かべる村田健は、何処か怒りを含んだ瞳で篠原の後ろ姿を見送っている。

「女の子って強いよね。誠意を尽くして告白してきた渋谷有利君を《ムサイ》なんて言葉で一刀両断しておいて、今更仲良く出来るんだもんね」

 魔王となる運命の渋谷有利に、こちら世界への未練を抱かせないために策謀したのは他ならぬ自分であるのだが、それでも2年前に目撃した場面には腹腸が煮えくり返る思いをさせられた。

 羞恥心を押さえ込んで、精一杯の勇気を振り絞って成されただろう告白に対して、あの女は殊更相手を傷つけるような言葉と口調で斬りつけたのだ。

 あの時、もしも自分に魔王並の破壊の力があったなら、彼女をどうしていたか分からない。

 それにしても…そんな女と、渋谷が今現在仲良くなっているとは思いもよらなかった。

 しかも、どうやらいま渋谷が着込んでいるメイド服は彼女のお手製らしい。採点の辛い村田健の目から見てもそのデザインは渋谷有利の体型の長所を彩り、短所を隠す巧みなものであったし(野球をやっている間に膝蓋腱や向こう脛をぶつけた痕を隠すように、透けない布地の黒いニーハイにしているところとか)、縫製にしても一針一針丁寧に縫われている。

「確かにあの時は傷ついたけどさ、こないだ謝って貰ったんだ。篠原にも事情があったんだって」

 彼女について話す渋谷の口調も柔らかいものであった。

「それで君は彼女を許した上で、付き合うことにしたわけ?」
「なに!?ゆーちゃん、あの子と付き合ってるのか?お前よりも可愛い美少女でないと、俺は嫁とは認めんぞ!」
「そんな美少女は物理的に難しいですよお兄さん。見て下さい、この弟さんの完成度!僕は今まで2次元でも3次元でも、こんなに愛くるしいメイドさんに巡り会ったことはありませんよ!?」
「うむ、弟の友達。そこだけは意見が合うな。俺も、どんなゲーム画面にもアニメにも、これほど萌えたことはないと断言できるぞ」
「頼む…お前ら、お願いだから宇宙に帰ってくれっ!」

 共通項を認めたらしい兄と友達の不思議会話に耐えられなくなった渋谷家の次男は、恥ずかしげに頬を染めながらも勢いよく焼きそばをかっこんで行く。食欲には敵わないのだ。

「あーあ、渋谷ったら。がっつくから…青海苔ほっぺについてるよ?」

 村田はポケットから折り目もきっちりとした清潔なハンカチを取り出すと、甲斐甲斐しく渋谷の頬を拭ってやった。

「こら!また引っ付こうとしやがって!油断の隙もない男だな、貴様」「いえいえ、僕なんて可愛いもんですよ。ハンカチで間接的に拭いてあげてるだけじゃないですか。いいですか?友達のお兄さん。世の中にはこの渋谷有利君のほっぺについた生クリームだのパン屑だのを直接指で拭った後、そのまま何の抵抗もなく自分の口に入れるような男が居るんですよ?」

 ぶふっと、意地汚くも口一杯頬張っていた焼きそばを吹き出しそうになり、鼻に入った欠片に噎せてしまう渋谷弟だった。

「何だと!?誰だ、その変態野郎は!こいつか!こいつかっ!?」

『止めてつかぁさい、指ささんといてつかぁさい…』

 神辺と一緒に指さされた佐々木が心の涙を流す。

「いえいえ、この中にはいらっしゃいませんよ。神辺さんは直に舌で嘗めとろうとして逃げられたり、周りの人に殴られたりはしてましたけどね。ああいう行為を相手に警戒心を抱かせずに、ごく自然にやっちゃうような人が一番警戒すべき相手なんですよ?」

 尤も、もう二度と会うことも無かろうが…。

 そんな和気藹々としたやり取り(?)が交わされる中、アスファルトを擦るような…極めて耳障りな擦過音と、足下まで響いてくる激突波が感じられた。







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