虹越え1−4−1 渋谷有利の高校では、文化祭の開催日は十一月の第2土曜日で、十月中旬に中間試験が終わると、一気に校舎内ではお祭りムードが盛り上がってくる。 なにがしかの販売物があるクラスは会場が体育館なのでまだ本格的には設営に入れないのだが、それでも教室の片隅に増えていく看板や掲示物、飾り付けのなされ始めた講堂(こちらは演劇や音楽演奏などが予定されている)の様子に、生徒達の心は自ずと沸きたつのだった。 文化系クラブに所属している場合は特に活気もあるが、同時に忙しくもある。クラス展示との兼ね合いで揉めることも多々あるのだが、5組については早めに業務内容を分担して棲み分けが出来ているため、当日間際になって忙しくなる生徒は既に自分の担当部分を終了させており、気兼ねなくクラブ展示に集中できるようになっていた。 * * * さて、とうとう文化祭を翌日に控えた金曜日の放課後。順調に前日設営も終わり、カフェのメニューも各担当者の自宅、ないし業者のもとに予定数があることを確認すると、帰ろうとする渋谷に篠原は一声念押ししておいた。 「ね、渋谷。明日はちゃんと7時には学校に来てよ?約束だからね」 「分かってるって。でもさぁ、女の子はともかく、俺は別にエプロンして蝶ネクタイするだけで良いんだから、そんなに早く来て準備することも無いんじゃない?」 「夜なべして作った最高傑作を完璧に着こなして貰うためには色々準備ってもんが必要なのよ。特に渋谷のその髪と眉。今時手入れしてないにも程があるわ。髪なんて折角サラサラしてるのに、工作バサミで切ったりするから毛先がぐちゃっぱになるのよ?明日、服に合わせて綺麗にしてあげるから絶対7時には来るのよ?」 「…ふぁ〜い……」 こんな事なら腰巻きエプロンなどその辺の量販店で買えば良かったと後悔する渋谷だったが、それでもいい子で約束を守るべくその日は9時には就寝し、翌日も6時には起床した。 その1時間後にどんな目に遭わされるのか知っていれば、恨まれることを覚悟の上で学校を休んでいたに違いない…。 * * * 「ねぇ…篠原?」 「なに?良い出来でしょ?自信作なの。サイズもきっちり渋谷の体型に合わせて作ったのよ。早く着てみて?」 7時に学校に来て、約束していた用務員室(用務員の田中さんには以前から話を付けていたらしい)に入ってみると、畳敷きの4畳半の空間で篠原楓が待機していたのだが、床に広げられたメイド服が2着あるのを目の当たりにした途端、渋谷は漸く嫌な予感を感じ始めた(遅っ)。 「篠原…。俺の衣装って、腰エプロンと蝶ネクタイの、ギャルソンスタイルだよね?」 「今、目の前にあるのがそういうモノに見えるかしら?」 お馬鹿な子供を窘めるような口調に、何やら眞魔国在住の赤い悪魔を思い出す。 「……メイド服、だよね」 「そうよ、私とお揃いのデザインにしたって言ってたでしょ?」 「お揃いって言ったって!普通ワンポイントが共通とか、ラインの色が一緒とか、もっとこう…微笑ましいお揃いモノってあるでショ?なーんで俺にメイド服な訳?」 「着たくないの?」 「当たり前だっ!」 叩きつけるように言った途端、うるりと篠原の目が潤む。普段気の強い彼女は、人前で泣き顔を見せたことなど無いはずだ。その突然の変容に渋谷はあたふたと狼狽えた。 「着て…くれないのね。あたし、渋谷と友達になれて嬉しかったのに…。やっぱり、あんな酷い台詞で中学の時にフッたこと、まだ許してくれてないのね。…しょうがないよね。あたし、自分が許せない。2年もたったのに、許して貰えないくらい…あたし、渋谷のこと傷つけちゃったのね」 「え、えぇ〜〜……?いや、別にそんなのもう気にしてないし…」 明らかに論点がずれているし…。 「だって、着てくれないじゃない!渋谷、男前な性格だもん。恨みとかがなければ、女の子が一生懸命手作りした服に一度も袖を通さないなんて考えられない!やっぱり私、嫌われてたんだ!」 両手で顔を覆い、俯いたまま細い肩を震わせる少女が目の前にいると、もうどんな理由があっても男の方が悪者になると相場は決まっているのである。 本当に悪者ならそんなの気にとめずに突っぱねることが出来るのだろうが、哀しいかな、渋谷有利は悪者ではなかった。その上、女の子の涙を無下に突っぱねられるような精神力も持ち合わせていなかった。 「き…着ます。着させて下さい」 絞り出すように言った途端、けろっと笑顔になった篠原に、もう何を言い返す気力もなかった。 * * * 「5組のメイドカフェにすっごい可愛い子が居るんだってよ!」 「マジ?俺カメラ持って行っちゃお!」 開会を間近に控えた9時20分。業者から受け取った生菓子類を台車に乗せて搬入していた黒瀬謙吾は、5組のカフェブースがある体育館に入る直前、2組の男子がそう話しながら駆けていくのを聞いて誇らしげに顔を輝かせた。 5組はもともとクラスを越えて評判になるような美少女が多い。 きつめツンデレ系の篠原楓。 垂れ目で三つ編み妹属性の楠田由梨。 長身スレンダーでお姉様系の望月香。 この辺りが代表だが、更に今日はメイドカフェということもあって、今まで目立たなかった子が急に可愛くデビューということもあり得るだろう。 黒瀬は学校外からの搬入担当だったので、まだ化粧や衣装の着付けをした女子の姿は拝んでいない。 『こりゃ早いとこ行って、目の保養をしないとな』 わくわくと軽い足取りで台車を転がしていく黒瀬は、好みの容姿の少女達を思い浮かべながら、やっぱり自分は女の子が好きなのだと再確認して、そのことに大変満足していた。 体育館にはいると、5組のブース前には案の定既に人だかりが出来ていた。男子だけでなく、女子も集まってきゃいきゃいと囁き合っているのだから、余程可愛く仕上がった生徒がいるのだろう。 「おーい、華形堂のエクレアとシュークリーム運んできたぞ。お前ら手伝……」 言いかけて、黒瀬は息を呑んだ。 見慣れた肩口までのウェーブヘアーは、予想通りに可愛い篠原楓だが、その傍らで頬を薔薇色に上気させ、大きな漆黒の瞳を潤ませている見慣れぬ美少女は一体何者なのだろうか。 『あんな女子…いたっけ?』 サラッサラの黒髪は今時珍しいくらいの濡羽色で、毛先はヘアワックスでも付けているのか少し跳ねさせており、白いメイドハットとの面積比、フリルの立ち上がり具合も大変バランスがよい。 薄く水膜の張った黒曜石の瞳には、伏せ目がちなためか長く濃い睫毛が淡く影を落としており、すっきりとした美しいアーチを描く柳眉が眉根のところで不安げに寄せられている様とも相まって、思わず抱きしめたくなるほど保護欲をかき立てられる。 唇には地の色である桜色の上に透明なグロスだけを乗せているようで、綺麗な曲線を描く唇の形状とも相まって実に清楚だ。 篠原に何か話しかけられて横を向くと、小さな鼻からまろやかな頬、そして華奢な顎へと続く流線が絶妙なラインを描いて続いていく。 袖の肩口部分はふっくらと膨らみ、二の腕の中頃からすっきりとしたストレートになっており、袖口は白い折れ返し地に大振りな黒いボタンが留められていて、これも色彩と面積のバランスにセンスの良さを感じさせる出来だった。 きっちりと締められたフリルシャツの喉首と、丸襟の黒いワンピースとの間には細いベルベットのリボンが縛られ、禁欲的な雰囲気を感じさせるのに、膝が少し見える程度のスカート丈は、下地に何重かのペチコートを装着している為ふんわりと膨らんだその下縁と、膝上丈のニーハイとの間に透き通るような白い大腿が見え隠れして、見る者の心臓を頻脈に陥れる。着ている本人も気になるのか、少し動くたびに恥ずかしそうに裾を下に引っ張っている。 他の女子に声を掛けられてくるっと振り向くと、たっぷりとドレープを取ったスカートが傘状に広がり、きゅっと細腰で結ばれたエプロンのリボン部分がふわ…と浮いた。 その動作も含めて何から何までが… 『か…か、か……可愛い…すっげぇ、可愛い!』 心拍数が跳ね上がり、息をするのもままならない程に視線を捉えられた黒瀬は、一心に少女を見つめた。 ここは何とか自然に話かけ、この文化祭というお祭りムードの中でいい雰囲気に持ちこまくねば!と、勢い込んでブースに近寄っていった黒瀬だったが、次の瞬間篠原の発した言葉に逆噴射を起こし、危うく台車の上に載せていたエクレアたちを地面に転がしてしまうところだった。 「ほーら、大人気じゃん渋谷!こーゆーのは文化祭のお約束なんだから、誰も変だなんて思わないわよ」 『…今、なんと、おっしゃいマシタか?篠原サン……』 信じない。 信じたくもない。 またしても渋谷有利にときめいてしまったなんて! 心の涙を滝の如く流す黒瀬を後目に、そういうことの気にならない面々は続々と渋谷有利の周りに人垣を作るのだった。 * * * 10時になると放送で校長先生の談話が流され、月並みなオチの言葉を掻き消すような大拍手が校舎中に鳴り響くと、これが文化祭の始まりを告げる合図となる。 体育館のメイドカフェブースも拍手が鳴りやむなり、営業を開始した。 開店前から出来てしまった行列が他クラスの展示物の前を塞いでしまい、危うく諍いが起こるところだったが、渋谷は急遽担任に頼んで体育用の赤白コーンを借りると、メイドカフェブースから他クラスの邪魔にならないコースに沿ってそれを置き、最後尾の人に札を持って貰うことで列を整理した。更に迷惑を掛ける恐れがある位置関係のブースには数人の女子(勿論メイド服姿)と廻って、一言ずつお詫びを言っておいた。 「うちのイロモノ企画のせいで迷惑掛けて御免な?なにか不都合なこととかあったら、遠慮なく言ってよ。成る可く迷惑掛けないように気を付けるから。あと…今日はお互い楽しもうな?」 自分の身なりが恥ずかしいのか、微苦笑になりながらもにぱっと渋谷が笑うと、桜の蕾がふわりと綻ぶような…清楚な華やぎが辺りに広がる。 すると男子も女子の関係なく頬を上気させ、こくこくと勢いよく頷くのだった。 この10分程度の巡回が功を奏したのか、5組は他クラスから嫌われるどころか、やたらと便宜をはかって貰えるまでになった。 「渋谷君、良かったらうちのクラスで販売してる小振りなフラワーアレンジメント使わない?数を多く入れ過ぎちゃったから、譲ってあげる。テーブルに1個ずつあると雰囲気良いと思うよ?」 これは1組の百宮千春。 「渋谷ー、俺らのトコ思ったより面積使わなくてすむみたいだからさ、2メートルくらい譲ってやるからテーブル間隔広げなよ。狭いとオーダー運ぶの難しいだろ?」 これは8組の杉乃原秀二。 最初に声を掛けてくるのは昨年渋谷有利と同じクラスにいたメンツで、そこをとっかかりにして見ず知らずの生徒も何くれとなく5組への…いや、渋谷への心遣いを見せた。 「みんな凄い親切だよなぁ…普通自分トコの展示が一番大事って思うもんなのにさ。良かったなぁ、みんな!体育館のブース使用の人らがいい人ばっかでさ」 何故親切なのかについてはよく分かっていないのか、ひたすら感心している渋谷に篠原は苦笑した。 「そりゃ、渋谷が可愛いからよ」 「はぁ?何言ってんだよ。あー…でもメイド服で上目遣いにお願い作戦は篠原の言うとおりだったな。俺のはキモいけど、篠原とか楠田さんとか望月さんはむちゃくちゃ可愛いもんな。俺、あとで写真欲しい」 布巾でテーブルを拭きながら言うと、篠原が慌てて背後に回った。 「馬鹿ね渋谷!あんたが一番シャッターチャンス狙われてんのよ!?作ったあたしが言うのも何だけど、そのスカート短めだから、大股広げて前屈みになっちゃ駄目よ!」 「俺のケツなんか撮っても不毛だろ?」 「そんだけ可愛いけりゃ不毛のホモゥもないわよ!みんなの写真ならあたしの一眼レフでばっちり美麗カット撮ってあげるから、言うこと聞きなさい!」 「ふぁーい」 不満げに唇を突き出している渋谷の愛くるしさに、篠原は目眩を覚えた。 『あたしがキスしたいとか滾ってどうすんのよ!』 お父さんお母さん、楓はなんだか変な道に入り込んでしまいそうです。 そもそも、渋谷にエプロンを作ってあげると約束したときには、篠原も普通に気の利いたデザインの腰エプロンを作るつもりで図面を引いていたのだ。しかし気がつくと鉛筆の先は渋谷の似顔絵を描いていて、数刻して更に気がつくと、くるるんと軽快に動く軸芯は紙の上に愛らしい《萌え萌えメイド有利たん》を描いていたのである。 『…………可愛い。…かも』 だって折角の文化祭だし? 普通のエプロンなんて芸がないし? そんな風に考えて暴走した結果、たった一度きり文化祭で着るだけの衣装なのに、2着ともかなりの金額を掛けて良い布地を選び、何日も夜なべして手の込んだ装飾を凝らしてしまった。 『それにしたってこんなに似合っちゃうなんて、反則よ渋谷…』 幾ら眉毛を整えて、ザンバラにしていた髪の毛先をカットしたとは言え、化粧自体はそんなに手の込んだ手法を凝らしたわけではない。舞台用のドーランも持ってきていたのだが、夏の盛りにはこんがり灼けていた肌も、秋口に入ってから(本人は無念がっていたが)本来の白さを取り戻しており、中間試験あけから指導しておいた洗顔法も効いたのか肌質自体も肌理細かになっていたので、軽くパウダーファンデーションを掃き、仄かに薔薇色のチークを乗せただけで、ナチュラルティストのお人形さん顔になってしまった。長く印象的に仕上がった睫毛にしても、ビューラーで上向きにして透明なマスカラを塗っただけなのに、どうしてあんなにもぱっちりお目目になってしまうのか…。 至近距離で化粧を施しているうちに、どんどん《少女》の顔になっていく友人に、妙にドキドキというか…下手をするとムラムラするものさえ感じてしまった。 『おかしい…おかしいよあたしっ!』 当初の予定ではメイド服で相手をどきどきさせるのは篠原であり、お揃いのワンポイントが入ったエプロンで、最近密かに増え始めていたライバルを牽制する予定だったのだ。 『それを、なんで自分で増殖させるかな…』 つい欲望に負けてメイド服を着せてしまったはいいが、女子だけでなく男子まで、相手が渋谷だと分かった上でときめいている。 『最近あいつのことが気になるけど、気のせいだよな…、あいつ男だしネ!』 なんて自分を誤魔化していた連中に、 『だってしょうがないじゃん。あんなに女装似合っちゃう小悪魔たんなんだから、俺が好きになっちゃってもしょうが無いってみんな言ってくれるヨ』 みたいな言い訳を与えてしまった節がある。 『馬鹿馬鹿!篠原楓の大馬鹿!』
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