虹越え1−3−2 「おい渋谷…この首についてるのって………キスマーク?」 『あー…またかー………。恨むぜ村田…』 明けて火曜日の6限目。多少薄れてきたというのに、キスマークはまたしても発見されてしまった。 相手はクラスメイトの黒瀬謙吾。場所は男子更衣室である。 本日、日直に当たっていた二人は6限目に体育で使用したハードルだのなんだのを片づけるのに手間取り、他のクラスメイトよりも多少遅れて着替える羽目になったのだが、その最中に発見されてしまった。 「ああ、これ友達に嫌がらせでやられたんだよ。酷いだろ?日曜日にやられたのにまだ取れないんだぜ?昨日も篠原に見つかって笑われたんだ」 そういえば、そもそもコレは《ホモ避け》ないし、《ホモに転じる危険性がある男》を誘引しないための自衛策として、人前で肌を晒さない為のストッパーとして付けられたものであったはずだが、普通の高校生活を営む渋谷有利が男子校に忍び込んだ女生徒のように肌を隠すというのも如何なものか。 思い切りよく脱いでおいて今更言うのも何だが…。 『まぁ、ホモっぽい男避けってんなら黒瀬は大丈夫だよな?』 渋谷とはそれほど仲が良いわけではないが、黒瀬謙吾に対しては気さくな良い奴という印象を持っている。好きなアイドルのタイプについて友達と話しているのも聞いたが、確か可愛い系の女の子が好みの筈だ。野球小僧は対象外だろう。 「へぇ、そりゃ気の毒…って。渋谷、篠原と付き合ってんの?」 何故か胸の奥にもやりとした屈託を感じ、心なしか声が地を這ってしまう。 そんな場所に悪戯とはいえキスマークを付けるような友人もどうかとは思うが、それを発見する女子というのも普通の関係ではあるまいと、穿った見方をしてしまう。 「付き合うってのが友達としてなら、前より仲良くはなったよ。彼氏彼女の関係じゃないけどね。なんか文化祭のエプロンと蝶ネクタイ縫ってくれるってんで、採寸して貰ったんだ」 「あの篠原が友情でそんなコトするかなぁ…」 黒瀬が胡乱な表情を浮かべるのに、ぷっと渋谷は吹き出す。 「あはは!黒瀬、まだこないだのこと根に持ってんの?意外ー」 「しょうがないだろ?俺、女の子にあんなに責め上げられたのって小学校の学級会以来だよ。結構女子には評判良いと思ってたのになぁ…」 短めの硬い黒髪をばりばり掻きながら鼻を鳴らすと、少し幼く見える。大柄な体格と、低音の声で年齢より大人びてみられることが多いのだが、実際には案外子供っぽいところがあるのかな…と思って渋谷は苦笑した。 自分だって人のことを言えた義理ではないのだが、何しろ身近に本当の意味で《大人》な人物と接していたせいで、大抵の男には稚気を感じてしまうのかもしれない。 「あん時ゃしょうがないよ。みんな暑さでラリってたんだって。篠原だって後で黒瀬に悪いことしたって言ってたよ?」 「へぇ…て、そういや…まだ、俺あん時のことで礼を言ってなかったな」 「礼?俺、何かしたっけ」 「篠原と俺の仲裁してくれただろ?色んな意味で凄げぇ助かったよ。家に帰ってから自分の言ったこととか思い返してみたら自己嫌悪に陥ったもんな…男女別々で文化祭企画やろうなんてさ、よそのクラスに《俺達仲悪いです》って明言してるみたいなもんだし、クラス替えまでの期間、なんだかんだで気まずい思いしそうだもんな。…あの時渋谷にああ言って貰わなかったら、俺のせいでクラスのみんなにも迷惑掛けるところだった。マジで、有り難う」 居住まいを正して綺麗な礼をみせると、流石に男ぶりが増す。多少子供っぽいところがあろうとも、やはりこの男は何処か清々しい気性の持ち主のようだ。そうせねばならないと思ったときには、照れを交えず謝意を示すことが出来る。 「気にしなくても良いのにさ。でも、黒瀬にそうやってちゃんと礼を言われたりすると、ちょっと照れるな」 「俺にってナニよ」 礼を言うような男に見えないのかと拗ねてしまいそうだが、そう言うことではなかったらしい。 「黒瀬って、たまたまあの時暑さのせいで変なこと言ってただけで、いつもは周りに凄く気を使ってるだろ?ほら、1学期の最初の頃に小渕が体型のせいでからかわれてたことあっただろ?黒瀬、上手いこと周りを窘めてたから、今じゃ全然そういうのないじゃん。普通に正義感だけがある奴だと一方的にからかった方を《悪者》にしちゃうけど、そうじゃなくて、《そういうの格好悪いよな?》って自然に気付かせてたし、さり気なく、小渕の良いところをみんなに話してやったりとかさ。だから小渕もあの後、からかってた奴らと屈託無く付き合うことが出来たって思ってるんだ。ああいう気遣いが出来るやつって良いなって思ってたんだけど、俺達あんまり喋ったこと無かったろ?だから、黒瀬に認めて貰えるのって何か…嬉しい」 目を細めて照れたように笑うと、その晴れた夜空を思わせる黒瞳の中に煌々と光滴が弾ける。 またしても心臓を鷲掴みにされるような感覚に見舞われ、黒瀬は呻いた。 『だから…俺好みな仕草すんなよっ!』 それにしても、この渋谷有利の観察眼はやはりクラスの人々の美点を見抜いていたらしい。特に、自分がそれほど意識してやったわけでもない些細な出来事をそんな風に評価してくれたのだと知れると、これはもう純粋に嬉しかった。 「渋谷ってさ、結構周りのこと見てるよな?それって癖なの?こないだ仲裁してくれた時にも篠原が縫製得意なこととか、榎本が計算得意なこととかよく知ってたろ?俺、結構感心してたんだぜ。帰りに小渕とか藤谷とも話してさ、《結構侮れないヤツなのかな》とかいってたんだぜ?」 「侮って貰っちゃ、そりゃ嫌だけど、癖…っていうか、意識するようにはしてるんだ。周りの人のことちゃんと見てみようって」 「ふぅん?何かきっかけとかあったのか?」 「ん…、そうだな。俺さ…ちょっと事情があって、大人の人らと一緒に、責任のある仕事をやらなくちゃなんない羽目になってたんだ。だけど俺って唯の野球馬鹿の高校生なもんだから…いや、最初の内なんて、だからこそ俺はそんな仕事やるような義理も責任もないんだって放り出してたくらいだったんだ…。でも、その人達の中にいつも俺のことを立ててくれて、俺にはその仕事が出来るって信じてくれてる人が居たんだ…」 いつしか渋谷の瞳は遠い彼方に向けられて、無意識の内に、肌着の下に入れた青い魔石を握りしめていた。 「俺がどんな綺麗事を言っても、その人だけがそれを心から信じてくれて…具体的な策なんか持ってない俺のために、それこそ…命がけで危険なことまでしてくれて……本当に、死んじゃうくらい危なかったこともあったんだ」 瞳が悲痛な色を纏い、眦に朱が掃かれる。 「だから俺、せめて俺に出来ることをしようって思ったんだ。俺の能力なんてたかが知れてるから、今、何が起きていて、何をまず何とかしなくちゃいけないかだけでもちゃんと理解できるようになろう。そんで、それを何とかするためには誰と何が必要なのか把握できるようになろうって思ってさ、なるべく周りを見る癖がつくようにしてたんだ」 「へぇ…じゃあ、その人も喜んでくれたんじゃない?文化祭に来て貰えよ。俺からも、《渋谷君はクラスでも慕われており、重要なポジジョンで活躍しています》とか言ってやるから」 「何だその披露宴トークは…。それに…その人、絶対文化祭には来れないよ」 「何で?ああ…11月の土曜日開催じゃ民間企業は難しいよな。年末進行も少しずつ絡んでくる時期だし」 何げに社会人事情に詳しいのは、姉がそのくらいの時期になるとそういう愚痴をこぼすからである。 「ううん、そう言うんじゃないんだ。ちょっと訳ありでさ…俺がやらなくちゃなんない仕事ってのは…一応ちゃんと終わったんだ、今年の春先に…。感謝もされちゃうくらい、それはちゃんと終わったんだけど、あの人にも…他の人にも、その仕事に関わった人たちには…二度と会えないんだ……」 何処か遠くに放たれた視線は茫洋としており、それはまさしく1学期頃の、生気に乏しく黒瀬の注意を一片たりと引かなかった頃と同じ表情であった。 あの頃、彼のことを今時の無気力な男なのだと思っていた。 何もかも満ち足りている筈の現代日本の中で甘ったれて、自分からは何もしないくせに周りの大人や社会にばかり文句を言って斜に構えている様な連中と同じなのだと…。 何を根拠に、思いこんでいたのだろう。 「何だよ…それ」 「…黒瀬?」 喉奥を灼き、込み上げてくる激情に声が震える。 利用するだけして渋谷有利を放り出した大人達への怒り。 人の美点をそっと認めながら、一人で傷に耐えていたクラスメイトを…勝手な思いこみで視界に入れていなかった自分への怒り。 坩堝(るつぼ)の中で蠢く感情の群が、捌け口を求めて暴れている。 「何だよそれ!無茶苦茶勝手じゃないか!何の仕事だかはよく分かんないけどさ、唯の高校生に期待して、利用して、仕事が終わったら関係ないって何だよ!?一度でも一緒に、必死になって仕事したら、大人も子供もないじゃないか!仕事が終わったって肩書きが何になったって、二度と会えないって何だよ!酷ぇよそんなのっ!」 「黒瀬…黒瀬、違うんだ。その人達のせいじゃないんだよ。説明し難いんだけど、あの人達だって俺に会いたくないって言ってるわけじゃないんだ。別れ際の時にはさ、俺のことを信じ抜いてくれた人なんて、本当に最後の瞬間まで俺のこと掴んでてくれたんだけど、どうしても別れなくちゃならなくなったんだ…。分かってるんだ…俺だって、しょうがなかったんだってっ!」 「しょうがなかったって言ったって!現にお前、メタメタだったじゃないか。抜け殻みたいになってたじゃないか!全然、大丈夫なんかじゃなかったろ!?」 「そうだよ。自分でもどうにもならないくらい身体に力が入らなくて、腑抜けてた…っ!何時か誰かが何とかしてくれるとか、奇跡が起こるんじゃないかとか願って…誕生日が近くなったらドキドキしてさ…7月29日なんて、俺が生まれようが生まれまいが、必ずやってくる、毎月定例の肉の特売日って位の意味しかないんだって、30日になる朝悟ったら、堪らなくなった…っ!俺、何してるんだろうって。あの人が信じてくれた俺が、唯あの人達に会えないってだけでこんなぐちゃぐちゃになっててどうすんだって…!誰かが何とかしてくれる前に、俺のことはまず俺自身が何とかしなきゃ駄目だろうって…。何処にいたって、あの人に誇って貰える自分にならなきゃ、何も始まらないって思ったんだ。だから、7月30日に、俺は変わるんだって誓ったんだ…っ」 久しぶりのトルコ行進曲を展開した後、胸一杯に吸い込んだ空気を今度は死腔限界まで吐き出す。 「……ただ、それでも………やっぱ…」 ノースリーブの肌着から覗く細い肩が揺れ、項垂れた首筋が儚げな弧を描く。 「…寂しい、な……」 「……っっ!」 抱きしめたかった。 この細い肢体を腕の中に抱き込んで…寂しげな微苦笑を浮かべる唇を、自分のそれで塞いでしまいたかった。 でも、黒瀬謙吾は今一歩のところで理性のストッパーを掛けて踏みとどまり、クラスメイトの男子生徒として出来うる範囲のこと…横から肩を抱いて、ばんばん背中を叩いてやるという行為を実行するに留まった。 「…俺、お前のこと今まで全然よく分かってなかったし、お前の事情も分かんない。ぼやかして言うからには俺にはまだ言えない事とかあるんだろ?だから、今は詳しいことも聞かない。だけど、これだけは覚えといてくれ。俺は一度気に入ったら、相手が男でも女でも誠意を尽くす方だ。今時流行んないとか、ダサいとかいわれても、こういうのは流行り廃れじゃないって信じてる。だから、俺ら、今から友達になろう?言える範囲で良いから、苦しいことあったら、俺に言え。1学期頃みたいに、黙って一人で耐えるようなことすんな!いいな、渋谷」 「黒瀬、お前…男前」 「当たり前だ!援団が男前じゃなきゃ、団張ってる意味がねぇよ。な、渋谷。俺、お前の応援してやるよ。草野球チームのキャプテンやってんだろ?友達誘って試合の時には応援に行ってやる。だから、元気出せ」 「うん……うん。……有り難う。…頼むな、黒瀬」 『くろせ』って呼んでくれる声が、『ろ』のところでちょっと『る』みたいな響きになるのが可愛い。 泣きそうな顔なのに涙は零さずに、小首を傾げて懸命に浮かべてみせる笑顔が健気だ。 『そうだ、俺はこいつの応援団になるんだ』 絶対、こいつをこれ以上苦しめるような者の存在を許さない。 誰からも…何ものからも、護ってやる。 抱きしめたいだのキスがしたいだのいうのは、二人きりの更衣室という甘酸っぱい空間が生み出す幻影だ。 黒瀬健吾は己の侠気と存在意義にかけて、このポジションを守り抜くことを誓った。 |