虹越え1−2−2






『渋谷、時間が来たようだ』



 掛けられた言葉を理解できず、コンラートの腕の中できょとんと首を傾げる魔王。 

 見やれば村田健の直ぐ横に、歪んだ空間が渦を巻いていた。その色合いや感覚には馴染みがあった。眞魔国と渋谷有利の生まれた世界を繋ぐ、空間通路の入り口…。

 そして村田健の傍らには更に、うっすらと光を纏う男の姿があった。

『眞…王?……』 

 精神世界の中で渋谷有利を嬲り身体の支配権を奪った男は、今はただ、その秀麗な面差しを少しだけ曇らせて、澄んだ蒼瞳で一同を見ている。

 彼は眞魔国の初代魔王にして、己の身を創主を縛るための器とした男だった。

 存在全てを賭けて…四千年の時を費やして目的を達した彼の想いを、一時同化していた渋谷は理解していた。



 眞魔国への…魔族への切ないまでの愛情。 



 祈るような気持ちで民の幸せを求めていた。

 その為に…心も身体も文字通り創主に喰い尽くされても、彼は決してその無謀な賭けから降りることをしなかった。 

 渋谷有利の持つ可能性に、賭けてくれた男。

『ありがとう、渋谷有利。…俺の願いは成就された。そして、すまない…。俺にはもう殆ど力が残されていない…。卿(けい)に何一つ返すことの出来ぬ俺を、どうか許して欲しい』
『眞王?でも、現役を退いたって言っても、あんただって魔王だろ?ツェリ様だって、モルギフに咬まれはしてもビリビリ痺れたりはしなかったから、俺、あんたも大丈夫かなって…』

 創主だけを打ち抜き、眞王の身は保全することが出来るのではないかと思ったのだが。

『俺の身を案じてくれたのだな…本当に、卿には苦労を掛けた。だのに、何も返せないとは…我ながら情けないな……』
『返すったって…。別に欲しいものなんてないよ?どーにかこーにか創主を倒せたわけだし、俺の大事な人達はこうしてちゃんと無事でいるし。万々歳じゃん?』



『その大切な者達と、お前はもう共にあることは出来ぬのだ…』



『え…?』

 ざわ…と声にならない戦慄が聞く者達の心を震わせた。

『お前も…我が友である大賢者も、魂は眞魔国のものだが身体の構成成分はあちらの世界のものだ。俺はその状態を盟約を交わす要素の力を借りて維持させてきた。だが、もう限界のようだ』
『この男はさ、昔からこういう我が儘で自分勝手な男だったのさ…。死ぬほど働かせておいて、利用するだけして…用が無くなったら放置するのがいつもの手なのさ』

 村田独特の軽やかな声…しかし、その中には隠すことの出来ない憎悪が暗赤色の染みとなって混じっていた。

『今こうして、臣下のミナサマと楽しいひとときを過ごしているのだって、渋谷、君の力であって、眞王が気を回した御陰なんかじゃないんだよ。眞王は最初から自分ごと創主を滅ぼして貰うつもりでいたんだからね。君が本当に眞王ごと滅ぼしていれば、その瞬間に君と僕は余韻を感じる間もなくあちらの世界に弾き飛ばされていたはずさ。君が不満がってたいつものスタツアなんて目じゃないくらい、無茶苦茶な座標軸でね』
『俺…、地球に行くの?』

 《帰る》のではなく《行く》と表現した渋谷有利の、おそらく無意識であろう表現に村田は眉根の皺を深くする。

 面に浮かぶのは彼らしくもない…凄惨な表情であった。

『そう、そして二度と此処に戻ることは出来ない。もう、2つの世界を繋ぐ力は眞王には残されていないんだよ。創主と眞王とは長い時間を掛けて、もう分離不能な状態にまで融け合っていたんだ。一方が滅べば、もう一方だって無傷ではいられない。融和した分の力だけ存在を失うんだからね。最初から分かっていたんだ…僕だって知っていたっ!』

 声は何時しか、叩き付けるような口調になっていた。 

 何時も飄々とした風情を崩さない大賢者が、肉体年齢相応の感情を込めて叫んだ。

『この戦いは負けて当たり前、勝ったとしても喜ぶのはこの世界の住人だけで、命懸けで戦った君には何一つ得るものはなかったんだよ!お疲れ様、じゃあさようならと、強制送還されようとしているんだよ、君は!』
『村田…俺、俺……まだ帰りたくない…ってか、もうここに来られないなんて嫌だよ。何とかなんないの?』

 ようやく状況を理解してきた渋谷が焦って名付け親の腕にしがみつくが、村田は冷静さを取り戻したのか、諦めきったのか…掠れた声で最後通牒を行った。

『何ともならないんだよ。ほら、もう引っ張られてる…』
『すまない…』

 眞王の言葉に、吐き捨てるように冷たい声が返される。

『本当にすまないと思うのなら、せめてまともな地点に送ってくれよ?僕はもう何もかもどうだっていいんだ。なにせ、四千年の長きにわたる桎梏から逃れることが出来たんだからね。もう、君に関わらなくて済むんだと思うとせいせいするよ。ただ、渋谷だけは無事に帰してやってくれ。彼にはあちらにも待っている人たちが居るし、これからの人生もあるんだ。せめて、その位は保証できるんだろうね?』
『俺の全存在にかけて、誓おう』
『あてにはならないなぁ…。ま、せいぜい頑張ってくれ』

 いっそ無造作な程の動きでひょいっと大地を蹴ると、村田健はさっさと歪んだ空間に飛び込んでいった。  
 その姿を見送る渋谷有利の身体が宙に浮き…歪んだ渦の方角に、牽かれた。

『あ……あっっ!』
『ユーリっ!!』

 コンラートの、ヴォルフラムの、グウェンダルの、ギュンターの、ヨザックの、ゲーゲンヒューバーの…アーダルベルトの腕までが渋谷有利を掴んで、牽引力を食い止めようとするが、4次元的な力でもたらされるそれを、いかな魔族の精鋭といえど食い止める術はなかった。 

 体重を持たぬ存在のようにふわりと浮いた渋谷の身体は燐光を放ち始め、繋ぎ止める腕の間で小さな電光を発生させた。

 ひとつ、また一つと腕が解かれ、その度にユーリの身体が空間の扉に引き寄せられていく。

 最後に残った一本の腕はやはりと言うべきか、コンラートの右腕だった。

『ユーリっ!』
『コンラッドっっ!』

 喉を引き裂かんばかりにして叫び、しがみつこうとするが、腕の間で電光は激しさを増し、物質間の摂理を頑なに守ろうとする要素の力によってか、渋谷有利の身体を在るべき場所へ向かって手繰り寄せていく。 

『あっ…!ぅあっっ!』

 一際大きな衝撃を受けて細い肢体が跳ね、耐えきれない絶叫がその喉奥から迸ったとき、観念したようにコンラートが手を振り払った。



 これ以上の苦痛から…主を解放するために。



『どうか…どうか幸せになってくれユーリ!辛かったら、俺達のことなど忘れてくれていい…夢だったのだと思っていい……だから、どうか…幸せになってくれ……。俺は、何時だって…ユーリの幸せを祈っているから……っ!』
『コンラッドーっっ!』



 声が…遠退いていった。



 祝福を祈る声も…哀切に満ちた慟哭も……。

 

遠い遠い…次元の彼方へ……



 消えていった………



*  *  *




 転送されたのは3月第4週目の日曜日の朝。春の日差しも麗らかな…けれど流石に水浴びをするには冷たすぎる公園の噴水だった。

 村田健の差し伸べる手に気付く迄、どのくらいの時間が掛かったのか分からない。

 結局、抜け殻のようになった渋谷は噴水から引きずり出されると、抱きかかえられるようにして…何処をどう歩いたのかも分からないまま自宅に辿り着き、学生服とは微妙にデザインの異なる黒衣…それも胸から腹にかけてが引き裂かれたその衣服と濡れ鼠になった状況を母親に問いただされても、まともな返事を寄越すことは出来なかった。

 風呂場に入ると頭から熱いシャワーを浴びたまま、1時間程度蹲っていた。

 不審に思った兄が顔色を変えて突入し、身体を検めている間も…一言も返すことはなかった。

 渋谷有利は…同年代の少年に比べると涙腺が緩いはずの自分が、泣いていないことが一番不思議でならなかった。



*  *  *




「もう、どんなに風呂につかっても、プールに突っ込んでも…行けないんだよな。眞魔国には……」
「…さては試したね、渋谷」
「……うん。どうしても信じられなくて、諦め切れなくってさ」

 暑熱はいよいよ激しさを増し、アスファルトをコールタールの状態に戻そうとでもしているのか、焼け付くような匂いで渋谷の鼻腔を責めた。汗で肌に張り付くユニフォームの感触も気持ち悪い。 

「…どうして?」
「なにが?」

 ぼそりと呟かれた言葉を上手く聞き取れなくて、身体ごと向けて聞き返すと、村田健が感情の読めない瞳を向けていた。

「君は…あの日から一度も僕を責めたことないよね。……どうして?」

 言われている意味が全く理解できないのか、渋谷は頭上に2つも3つもクエスチョンマークを飛ばして小首を傾げた。

「あのぅ…村田サン?言ってる意味がわかんない…。何で俺が、どういう了見で責めるっての?」
「分からないって?」

 渋谷の襟元を引き寄せると、息が掛かりそうなほど間近に村田の顔が迫った。

 勢いの割に、相変わらずその瞳からは感情らしきものが伝わることはなかった。

「僕は…知っていたんだよ?どう転んでも、君に良い事なんて一つもないんだって…分かっていて僕は君を突き飛ばしたんだ。僕が、眞王が望む終末のために、君をっ…創主の触手の中に!」

 三兄弟から3つの鍵を奪い、開放されかけた創主…眞王の器に宿ったそのおぞましい触手の中へ突き飛ばされたときには確かに渋谷も驚いた。が…それ以降、矢継ぎ早にとんでもない事態が展開していったため突っ込む暇もなかった。 

「でも、あれはしょうがないだろ?俺が逃げ延びたって戦う地点と時間が変わるだけで、そんなに事態は変わらなかったんだし。結局その件については上手いこと転んだわけだし」
「じゃあ、二度とあの世界に行けないことについてはどうなんだい?」
「どうなんだいも南大門もないよ。行けるもんなら行きたいけど、村田には運搬も発送も無理なんだろ?」
「ああそうだ」
「じゃあ、しょうがないよ」
「だからって…」

 村田の瞳を過ぎった影に気付くと、渋谷は襟元を掴む友人の手をそっと両手で包み込んだ。

「村田…お前、自分を責めさせて俺を楽にしようなんて、キャラじゃないから止めときなよ」
「渋谷…だって君、おかしいよ」

 項垂れた状態で、村田は友人の胸元に額を押し当てる。

「よく笑い、よく怒り、よく泣くっていう少年漫画のキャラを地でいく君がだよ?あの日から一度も泣いてないんだろ?それは君の心が健康体に戻っていない証拠だよ。君は暴れていいんだ。僕を責め立てて詰っていいんだよ!ッていうか、寧ろそうしてくれ!ピンヒールで踏んでくれても構わない!」
「最後のは違うだろ!何でマのつく異常性質を友達の中に育成しなくちゃなんないんだよ!?」

 真面目なのか不真面目なのか分からない友人の言に対して、渋谷は大真面目に突っ込んだ。

「あー…何だか話が逸れちゃったな。何の話してたったんだっけ?そうそう、君に神辺さんに注意するよう助言してたんだっけ」

 顔を上げると、一つ下らないことを言ったお陰で(…)少し気分が上向いたのか、いつもの調子を取り戻して話のレールを戻す村田であった。

「だーかーらー、俺なんか幾らホモの人だって相手にしないって言ってるのに!」
「今年の春までならそうだったかもしれないんだけどね」

 妙な所に期限を切った村田健の言い回しに、渋谷の眉がぴくりと跳ねる。《春》という符号は、眞魔国との決別時期を意味するのではないか?

「君は本当に気付いてないのかな?自分の顔を鏡で見ても、本当に平凡な顔立ちだと感じているのかい?」
「当たり前じゃん。いつ見ても17年間慣れ親しんだ、ごくごくフツーの顔だよ?」
「今見ても?」

 村田が懐中の手鏡を取り出して突き出すと、渋谷は頬についた泥を拭いつつ…こくりと頷いた。

「うん、お馴染みの平凡極まりない顔。もうちょっと彫りが深くなって鰓が張って鼻が高くなったらいいのになぁとは思うけど、特別不細工でもない…よなぁ?…俺、ひょっとして自惚れてる?」

 自信なげな上目遣いがどれだけ愛くるしいか分かっていないこの男を、どうにかして欲しいものだと村田は嘆息した。まぁ、渋谷のせいだけではないのだが。

「あのさ、渋谷。眞王は君を利用しただけじゃなくて、もう一つ悪辣な行状をやらかしているんだよ。それには僕も一枚噛んでる」

 今度こそ、幻滅されるかもしれない。

 だが、これ以上秘密にしておいても渋谷有利にとって益にはなるまい。

「君は幼稚園の頃までに、何度か誘拐されかけたことがあるよね?」
「うん、2.3回ね」
「いいや、8回だよ。美子さんは全て、時期も相手の風貌も覚えていたよ?」
「だから人の母親を名前で呼ぶな!」
「そんなことはどうでも良いんだよ。とにかく…財閥だの、重要組織だのに関わってるわけでもない君が8回も誘拐未遂されるっていうのは、十分に異常なんだって事は分かるかい?」
「ええと、凄く運が悪いってこと?」
「違ーうっ!君はね、特殊な体質を持つ可愛い子ちゃんだったんだよ。《誘因体質》とでも言うのかな?保護欲の強い人は君に対して全てを捧げたくなるし、征服欲とか、支配欲の強いタイプだと、君を自分だけの物にして束縛したり、監禁してでも独占したいという欲望を起こさせるんだよ」
「ええ!?何っ?そのエロゲーみたいな設定!?」
「そういうゲームやったのかい?」
「うん、エロい美少女がずっとあんあん言ってるの。兄貴に『凄いゲームだから是非やれ』って強制的にやらされたんだけど、寝ながらボタンだけ押してるのに気付かれて殴られた」
「君のお兄さんて……」

 知っていたが、馬鹿である。

「でも、小学生になってからはパタッとそういうことはなくなったぜ?やっぱり、幼稚園の頃はお袋がやたらとドレスだの何だの着せたがったのがまずかったんじゃないのか?」

「違うよ。事態を重く見た眞王が手を下したんだ。君が事件に巻き込まれて傷つけられたり、最悪の場合殺されるなんて事になったらえらいことだし、それに…まともな恋愛であっても、それが肉体的関係に及ぶと、僕達としては少々困ったことになる。君に肉感的な悦楽を覚えられてしまうと、創主に支配されやすくなる可能性があったからね」
「え…なんで?」
「創主は君を取り込んだら、君のトラウマや快感をまさぐって、君を支配しようと試みると考えたんだよ。実際、トラウマの方は責められたんだろ?」

 確かに、渋谷は己の平凡さや何もかもが中途半端である点を責められて、危うく陥落してしまうところだった。その上、逃げ場になりやすい性的快感など知っていたら、それこそコンラッドに説得されても創主を退けることが出来たかどうか自信がない。

「だから、君が誰かを好きになっても様々な手を駆使して成就しないよう手を下したし、そもそも相手が君に対して恋愛感情を抱くことがないよう、眞王の魔力で君にフィルターを掛けたんだ」
「フィルターを掛けた?俺は掃除機かエアコンなの?」

 恋路の邪魔されたことよりも、細かいネタの方に食いついてくる渋谷有利。

 案外、村田健を責めたくない一心でそうしているのかもしれないが、単に鈍いだけかもしれない。その辺りの機微は不分明である。

「君の姿の周囲に障壁のようなものが掛かるようにしたのさ。実際の君の容姿を操作することは極めて難しいし、反作用も強いけど、平凡に《見える》ようにするってだけなら、眞王の力であれば可能だったんだ。…創主ごと力を削がれるまではね。だから現在、君は十年ぶりに有りの儘の君として、モロ出し状態になっているんだよ」
「人を猥褻物みたいに言うなよ!」
「ところが、近いものがあるんだな。とにかく、その気が少しでもある人は君に誘惑されてしまうわけだからね。君自身が自覚して、身を守る必要があるんだ」
「えぇ〜?俺がぁ…?」

 鼻面に指を突きつけられ、心底嫌そうに渋谷の顔が歪む。

「1学期の間は微力ながら僕がフィルターを掛けてたんだ。僕はもともと増幅者(ディーバ)としての存在だからね。君の性質を変える存在だから、盟約に応じる要素がないこちらでも君に対してだけなら多少は働きかけることもできた。ただ…元々こういうのは不得手なんだよね。君が活力を失って蓑虫状態になっている間は効いていたけど、元気になっちゃったからねー。君がキラキラしちゃってるせいで効かなくなってきたみたいだね。そのせいで神辺さんはやられゃったんだよ。今日なんて夏場の蠅の如く君のまわりをぶんぶんやってたのに…気付かなかったのかい?」
「俺は蠅に集られる生ゴミか!?」
「生ゴミなら捨てるか焼くかすれば済むんだけど、君じゃあそうもいかないから問題が複雑なんだよ」

 投棄も焼却もできない男、渋谷有利。
 ダイオキシンかプルトニウムのような扱いである。

「そう言えば、そのフィルターって眞魔国でも張ってたの?」
「いや…フィルターについては、向こうでは張っていなかったよ。ただ、血盟城の君のベットには《睡魔の呪縛》が掛けられていたから、君と常に同衾していたフォンビーレフェルト卿は1、2の3で眠っていたはずだよ」
「あー?え、あれってヴォルフの奴が年寄りだからって訳じゃなかったの?」
「それもないとは言えないけどね。とにかく、眞魔国ではこっちよりも調整が難しい点があったのは確かだね。君を魔王に据えた目的が創主を滅ぼすことに特化されていたとはいえ、国民の皆さんに嫌われて排斥されたんじゃ困るからねぇ…。肉体的悦楽に繋がりそうな連中には牽制を加えつつ、君の魅力で魔族の皆さんを魅了する必要もあったんだ。幸い、向こうじゃ東洋系の顔立ちが2割増し美形に見えるみたいだから、王佐みたいに分かりやすく壊れたり見惚れて動けなくなる魔族もいたんだろうねぇ…ブースター効果ってやつだ」
「じゃあ、こっちなら幾らフィルターってもんが無いにしても、流石にあそこまで大騒ぎはされないんだな?それに、今は創主は滅びちゃったわけだから、俺のエッチ禁止令は解除なんだろ?結婚しても子造りできないなんて悲劇は起こらないわけだ」
「結婚とか子造りについては君の判断に委ねるよ。ただ、君のモテ度については甘く見ないでよ?眞魔国とはあくまで比較の問題なんだからね。とりあえず君、これからは少なくとも、人前でむやみに肌を晒さないようにしてくれよ?」
「俺、片肌脱いでウフンなんて言ってねぇよ!」
「そこまでしたら犯されても文句は言えないよ。そうじゃなくても、さっきユニフォームの襟元を摘んで胸元を覗き込んでたろ。あれで十分クる人はクるんだよ?君は特に健康的に焼けた小麦色の肌と、日焼けしてない地肌の白さのギャップがオイシイ要素なんだからさ。大体、君の無自覚に見せる仕草ってのがどれだけ男心を擽るか分かんないかなー。分かんないんだろうなぁ…君の婚約者も随分と気を揉んでいたもんな」

 フォンビーレフェルト卿ヴォルフラムの怒声が脳裏に蘇る。

『このへなちょこ尻軽めーっ!どれだけオトコを誑し込めば気が済むのだ!?』

 渋谷有利にはさっぱり理解できない理由で責め立ててくれる金髪碧眼の美人さん。今となっては彼の罵声や奇妙な鼾、豪快な寝相すら懐かしい…。

 ただ、ウェラー卿コンラートを思い出すときの切なさとは対照的なまでの微笑ましい思い出しぶりに、恋人としての積極的要件を欠いているのは明白なのだが、この婚約者同士はお互い、そんなことには気付いていないだろう。

「んなこと言われてもなぁ。…俺、やっぱり分かんないよ」
「仕方ないなぁ。それじゃあ不肖村田健、僭越ながら渋谷有利君の今後の人生のために、ストッパーを掛けさせて頂きます」
「え?村田の魔力じゃ不十分なんじゃなかったの?」
「僕のはこの頭脳を駆使し、この省魔力時代に適合したエコロジック物理刺激ストッパーだよ。さ、渋谷。後ろを向いてごらん?」
「ん、こう?」

 言われるまま、くるりと背を向ける。

 この警戒心の無さが、既に激しく不安である。

「そうそう。で、ちょっと首を前に倒してごらん」
「こう?」
「そうそう」

 村田は指先を友人の襟足に引っかけると、ちょいっとはだけさせた首筋に唇を寄せ…

 噛みつくようにして…きつく吸い上げた。

「ゃあっ!」

 襟元から立ち上る…汗と綯い交ぜになった蠱惑的な体臭と、耳朶に響いた思いがけず甘い声。

 ずくり…と雄の部分が刺激されて軽い眩暈を覚える。

 どちらかと言えば淡泊なたちの村田健に、そのような感覚を味合わせてくれるフェロモンたるや如何なものか…。

「げぇ、何すんだよ村田!俺、気色悪い声出しちゃったじゃないか!何でこんなトコ嘗めるんだよ!?」
「君、首筋弱いんだねぇ。…つか、やっぱり魔族って快感に弱いものなのかな。この感度じゃあ、やっぱり予防策を張っておいて正解だったね」
「いや、そう言う問題じゃないだろ!?」
「これはね、君に肌を露わにさせないための方策なんだよ。そんな場所にキスマークがあれば君だって恥ずかしくて、流石に人に見えるところで襟足を晒したりしないだろ?」
「キスマーク?え?村田、お前口紅とか付けてないじゃん」
「はぁ?」
「キスマークって、満員電車で見知らぬOLさんに襟元にベタッと付けられたのを奥さんに見咎められて、『誰に付けられたの!?』って夫婦喧嘩に雪崩れ込むきっかけになるやつだろ?」
「渋谷…」

 村田健はぐったりと脱力すると、その場にへたり込んでしまった。
 最初はネタかと思ってまじまじと友人の顔を見返したのだが、覗き込んだその目は…大真面目だった。

『赤ちゃんは何処から来るの?』

 とか言い出しそうな予感がするほどだ。

「大丈夫か村田?そこの木陰で休む?」
「うん、とりあえずそうするよ………」

 木陰に二人で座り込むと、漸く人心地ついてきた。

 時間というのはありがたいもので、多少の衝撃なら大抵この『時間の経過』というやつで解消できる。

 村田健も何とか自分を取り戻すと、このお子サマな友人に解説を始めた。

「あのね、渋谷。キスマークって言うのはね、確かに口紅でついたのもそう呼ぶんだけど、素肌を直に吸い上げることで出来た鬱血痕の事もそう呼ぶんだよ。基本的に、性交で出来たキスマークの場合は後者の方を指すことが多いんだ。だから、後者のキスマークが旦那の身体にあった場合は夫婦喧嘩どころか離婚の危機に立たされるし、君の首筋にあれば君が誰かと性交渉を持ったことを疑われるんだよ。しかも、男の首筋にバックからキスマークを付ける女性なんて滅多にいないから、見る人が見れば、君は《後背位で男の陰茎を銜え込まされながら所有の証を刻まれた渋谷有利君』と見なされるんだよ?」

 実際にはそんな短絡的なこともないと思われるが、このパンチは要は渋谷有利に効いていればいいのである。

『ひいぃぃぃぃぃぃっっ!』

 声にならない叫びが渋谷有利の脳天から発せられた。見れば、頭頂部の頭髪が立ち上がっている。
 どうやら、この上なく良いパンチが決まったらしい。

「お…おまっ!なんて危険なモノを俺にしてくれちゃったワケ!?何か俺に恨みでもあんのかよ!」
「だーかーらー、君の身を守るためだって言ってるだろ?あんまり聞き分けがないと、歯形とか縛り痕とかもっとハードな痕跡を刻むよ?」
「…も、もうこの辺で許して下さい、大賢者サマ……。もう人前で誤解を招くような不審な動作見せたりしないから……」

 本気で戦慄しているらしい友人に、流石に悪いと思ったのか苦笑を零す。

「これでも、僕なりに君のことを心配してるんだよ?君は、大切な恩人だ。僕自身と、僕の…あれでも深い繋がりのある友人の魂を救ってくれた。本当に…感謝してるんだ。そして、申し訳ないと思ってる…君を、辛い目に遭わせたことをね」

 重いと感じられることを懼れて、彼の名付け親のように口に出すような真似は出来ないが、それでも…村田健自身は心に誓っているのだ。その先の人生の全てを、渋谷有利の幸福に捧げるつもりだと。

 何の見返りもない戦いを、村田が予想したどんな終焉より見事な形で締めくくった彼は、受けた痛みを四千年腹黒コンビに恨み言一ついうでなし、自分の中に飲み込んで消化しようとしている。見ている方が辛くなるような数ヶ月を乗り越えて再び輝き始めた彼を、懸念と同時に込み上げるような喜びで迎えていたのだと、気付いてはいないだろう。

「そんなの…だって、一番辛かったのって、村田じゃん。だって、誰にも言えないままあんなに長い間使命を負わされてさ、俺が何にも分かってない単純馬鹿なせいで、しないでもいい苦労してさ…言いたくもない嘘ついて…そんでもって、眞王の分も俺の分も含めて、全部の尻拭いまでしようとしてたんだろ?」

 かり…っと、渋谷のスパイクが乾いた地面を掻き、小さな砂ぼこりを立てる。

「もしも、俺があのまま創主に取り込まれたら、眞魔国…いや、あの世界の最期を見届けるつもりだったんだろ?それだけの覚悟をもって…俺を信じて、待っててくれたんだろ?」

 己の無力さに歯噛みしながら、二人の友人が世界を屠る様を見続けなくてはならないなんて…。

 大賢者は深い叡知を持っている。それ故に、己に何処までのことがなし得、何処までのことがなし得ないかを知っている。

 大賢者は単体では、創主も、眞王も、魔王も滅ぼすことは出来ない。

 全てのカードを切った上で、ただ待つことしか出来ないもどかしさがどれほど辛いものなのか…本当の意味で渋谷有利にそれを理解することは出来ないが、その想いに寄り添うことは出来ると思った。

「俺、誰かを信じて待つのって凄く勇気と忍耐力がいることだって思う。だからさ、村田は誇って良いんだよ。俺、お前のこと凄いって思ってるし…俺のこと信じててくれたの、嬉しかったもん」

 村田は返事を寄越すことはしなかった。 

 何か口にすれば、折角この胸にある想いが照れのせいで無意味な揶揄いの言葉に変わってしまいそうだったから。



 だから…ただ友人の手を痛いほどの強さで握りしめた。



 それだけで、彼なら分かってくれると信じて。



 そして返される、やはり強い握力に…小さく嗚咽を漏らした。


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