虹越え1−2−1






「ナイスピッチー!」
「ツーアウト、ツーアウトー!」

 爽やかな涼風が吹き寄せる河川敷練習場の、野放図に…けれど元気よく生え繁る雑草の中で、年代の異なる男達が活気のある声を出し合っている。

 9月の第1日曜日、朝9時。いつもの練習場に集まった草野球チーム『ダンディ・ライオンズ』のメンバーは、一様に目を細めることとなった。

「もういっちょ行くぞー!」
「おおーっ!」

 元気一杯のかけ声には張りがあり、以前のように無理矢理自分を奮い立たせているような痛々しさは無かった。守備練習のためのノックも軽やかで、にこにこ顔のメンバー達も鮮やかな動きで駆け回る。

 ここ数か月というものの、塞ぎ込んで……それを誰にも相談せずに抱え込み、心配かけまいと空元気を装っていた我らがキャプテン渋谷有利が、どうやら長い曇りの季節を抜けてくれたらしい。

「渋谷君は、ふっ切れたみたいじゃねぇ……」

 眩しいものを見るように、細い目を更に眇めてキャプテンに見入っているのは、年の頃20代後半というところの青年で、このチームの代打要員である佐々木真であった。

「ええ。まぁ、7月の末くらいからちょっと元気にはなってたんですけど、昨日学校で良いことがあったらしくて、何か自信を取り戻したみたいですよ?」

 言葉を拾ったのは、チームの眼鏡っ子マネージャー村田健。分かりやすい気質のキャプテンとは異なり、同い年とは思えないほどのポーカーフェイスを誇るのだが、この時ばかりは隠す気もないのか、年相応の無邪気な笑顔を浮かべていた。

「そうかぁ…、ほんまに良かったなぁ。春頃にはみんなで随分心配したもんじゃがねぇ。あの落ち込みようは見とる方が辛かったもんなぁ……」

 しかも、誰が理由を聞いても苦笑してかわすばかりで説明してくれない。もどかしい思いに悶々としていたチームメイトは一人や二人ではなかった。何しろこの『ダンディ・ライオンズ』は中学生から社会人まで、バラバラな年齢層と技術力の連中が集まった雑多なチームであり、それを纏めていたのは若干16歳(現在は17歳になったが)の高校生、渋谷有利の《人となり》であった。彼が求心力を失えば、チームに存在する意義を失う者も幾人か居るのだ。

 実際、佐々木真の持つ《代打要員》等という肩書きも、草野球チームとしては実に異質であろう。なにやら《秘密兵器》のような重々しさを感じさせるが、彼の歩様を見た者はすぐにそういう意味ではないことに気付く。

 右の脛骨中央から下が…義足なのだ。

 広島の強豪校に所属していて甲子園にも出場し、プロにこそなれなかったものの、社会人野球ではわりと知られた顔であった彼を、5年前に交通事故が襲った。会社は辞めずにすんだものの、チームはやめた。一時は野球を見ていること自体が辛かった程だった。そんな彼に再び野球というものに関わろうと思わせたのは、この河川敷で楽しそうに野球をしていた渋谷有利達の姿だった。

 今まで見てきた洗練されたプレイなどではない…あまりにも未熟で、でも、野球というものを心から楽しんでいるその姿を見るのが楽しくて…気がつくと、この場所に来るのが習慣になっていた。

『良かったら、一緒にやりませんか?』

 ミニゲームの最中に抜け出てきた渋谷は、バット片手に、はにかむように声を掛けてきた。苦笑しながら右脚を指したが、彼は遠慮がちな声にはなりながらも…それでもなにか強い思いを込めて佐々木に言ったのだった。

『ね、一回だけ、バッターボックスに立ってみませんか?だってお兄さん、凄く良い身体ですもん!理想的な外野手体型!俺が5年後には絶対なりたいって体格!俺、さっき見てたんです。小走りに歩いてるトコ。あれ、十分速かったですよ。だから、代打で大きいのをかっ飛ばしてくれて1塁まで行ってくれたら1点入ると思うんです!ね、俺のチームのために、是非!』

 興奮気味で語る渋谷を見やれば、野球人としては気の毒なほど華奢な体格で…今までの佐々木の経験からすると、この先どう頑張っても自分のような体格にはなり得ないはずであった。しかし、彼の瞳はきらきらと輝いて、生きのいい魚が海面で跳ねているような様子であったものだから、思わずつられて、こちらの身体まで跳ねてしまいそうだった。

『じゃあ、一回だけ』 

 握りしめたグリップの感触は酷く懐かしく、心の奥底に染み込んでくるような熱さでもって、佐々木の心に浸透した。

 そしてバッターボックスに立ち、投げ放たれた白球を心地よい感触で打ち返した時、青空に糸を引くように飛んでいくその軌跡が、彼にこのチームへの所属を決意させたのだった。



 佐々木の他にも、ちょっとした《良い話》的エピソードを持ってこのチームに入ってきた者は数名おり、その誰もが渋谷有利に様々な意味での思い入れを持っていた。

 ただし、様々とは、まぁ…様々なのである。

 例えば、今現在渋谷有利に背後から抱きついている神辺篤などはその最たる者で、大柄な体躯で華奢な渋谷にのし掛かるものだから、いつも周りの連中、特に村田健に警戒されている。

「神辺さんは…ちょっとスキンシップが激しすぎマスねぇ…。エネルギーが余ってるのかな?折角ですから、トレーニングメニューを増やしてあげましょうかね……」

 にこにこと、可愛らしい顔に似合った朗らかな笑顔を浮かべているはずなのに、背後に怨霊のような気配を感じて佐々木は背筋を震わす。時々…この年下の少年が恐ろしいと思う自分は小心者なのだろうか?

「神辺さんって、その道の人だって話も聞きますし、僕は渋谷の友人としてはそっち方面でも心配なんですよねぇ……」
「うーん…あいつは赤裸々ホモじゃけぇね。自分がそうじゃっちゅーのもオープンにしとるけど……。ただまぁ、あいつは《後腐れなく犯らしてくれるセフレがいい》とか、《見るからに艶っぽい美少年が好み》じゃとか言いよったし、チームの中で変な雰囲気になりそうな相手はおらんから、ここには長ごぉ居つけそうじゃ言うて、喜んどったけどねぇ……」

 語尾が自信なげになるのは、神辺の渋谷への触り方や目つきが、以前とどうも色合いを異にしてきたことと、佐々木自身、渋谷有利の風貌に変化を感じるせいだ。

「んー…なぁ、村田君。渋谷君は前からあんな顔じゃったかねぇ。成長期じゃから、ちぃと変わったんかねぇ?」

 それにしては、身長の方はさっぱり伸びていないようだが。

「佐々木さんの目にはどう映ります?艶っぽい美少年に見えるようになりましたか?」
「わし…ホモじゃないんじゃが」

 泣きそうな顔で言う佐々木に、村田は肩を竦める。

「だからこそ客観的な意見が貰えるかなって」
「はぁ、まぁそういうことなら……」

 不承不承という感で佐々木は話し始めた。

「そうじゃねぇ、どうもここ1ヶ月ぐらいで随分変わったような気がするねぇ。なんちゅうのか、前は小動物みたいに可愛いとは思っとったけど、どこか野暮ったいっちゅーか、少なくとも目の保養になるようなタイプじゃなかったように思うんじゃけど、今は…なぁ、なんじゃろ?表情とか仕草がえらく鮮やかに見えて、目が離せん時があるわ…」

 そう話す内にも佐々木の目は渋谷に釘付けになり、大切な息子でも見守るかのような眼差しになっている。

 言葉以上に雄弁なその様子に村田は確信を深め、内心嘆息する。勿論、そんな感情の動きを表情に出すほど幼い彼ではなかったが。

『やはり僕の力だけじゃ、カバーし切れないって事か。まぁそりゃそうだよな…。元々、僕の力は増幅者(ディーバ)としてのものなんだから、そういう小器用な芸当には限界があるんだよね』

 しかし、このまま放置するわけにはいくまい。何しろ相手は村田健の大切な親友……異常に鈍く、自分の身に疎いことに掛けては人語に尽くし難いお人なのだ。彼の容姿を秀麗と褒めそやす《あの国》の連中の言を聞きもせず、いつも不思議そうに眉を顰めていた彼が、まさかこちらの世界でまで美形扱いされることを理解できるとは到底思えない。

『どう説明したもんかな…』

 村田健は頭を抱えた。



*  *  *




 3時頃になると暑熱が大地を滾らせ、河原の雑草すらくたりとしなだれてしまう。

 光化学オキシダント警報を伝える広報車も回り始めたことから、渋谷は全員にしっかりと水分を採ってもらった上で解散を宣告した。

「なぁ有利君。この後、俺と付き合わないか?涼しくって良いトコ連れていってあげるよ?」

 彫りの深い顔立ちに浅黒い肌を持つ神辺篤は、そのイタリア男風の風貌に見合った派手なシャツとスラックスにいつの間にか着替えて、ユニフォーム姿の渋谷有利に誘いを掛けた。

「いや、良いですよ。俺、ユニフォームしか持ってきてないし。ちょっと臭うかもしんないし…」
「渋谷、お行儀悪いよ?」

 渋谷がユニフォームの胸元をついっとつまんで、自分の胸元の匂いを嗅ごうとするのをさり気なく手で押しとどめる村田。勿論、似非イタリア男の目がぎらぎらとした光彩を放ち、明らかに目線が胸元を覗き込もうとしていたからだ。

「何だったら、なにか好きなブランドの服を買ってあげるよ?俺、昨日給料が入ったばっかりで懐暖かいんだ」
「いいですよそんな!悪いですって!」

 両手をバタつかせて断りを入れる渋谷は困ったように眉根を寄せていて、しかも、身長差のせいで神辺に対して上目遣いになっている。その小動物めいた可愛らしい姿に、神辺の頬は緩みっぱなしである。

「折角のお申し出ですけど、僕らはこれから約束があるんで、これで失礼します」

 にっこり笑顔の背後に有無を言わさぬ鬼神の迫力を忍ばせて、村田健はこってり顔の男を退けた。

 

*  *  *




「なぁ、村田?俺、お前と約束なんかしてたっけ?」

 べとつくユニフォームを相変わらず気にしながら、渋谷は友人と共にぽてぽてと河原道を歩いていたが、ふと思い出したように尋ねてみた。

「してないよ」
「え?でもさっきお前…」

 不審そうに小首を捻る渋谷に、村田は呆れたようにため息をつく。

「あのままじゃ神辺さんに押し切られちゃいそうだったから、助け船を出してあげたんだよ」
「あぁ、そゆこと。まぁなぁ…いくらキャプテンだからってあんまり奢って貰ったりしてたら悪いもんな」

 屈託無く笑う渋谷の言い回しに妙な引っかかりを覚えて、村田はひくりと口角を歪ませた。

「渋谷…?君、神辺さんに何か奢って貰ったことあるの?」
「うん、何回か昼飯奢って貰った」 
「………二人きりで?」

 胡乱な口調の友人を不思議そうに見やりながら、渋谷は首を横に振った。

「ううん?大抵佐々木さんとか春日野さんとかが《俺らも混ぜろ!》って入ってきてたから、二人きりってことはなかったよ?」

『佐々木さん、春日野さん…グッジョブ!』

 村田健は心のメモ帳に彼らへの謝意を刻んだ。彼らはごくごく真っ当に渋谷を可愛がっているお兄さん連中であり、チームのキャプテンが妙な方向に大人の階段を上ることを由としていなかった。また、神辺に対しても普通に友情を感じているので、妙なことでチーム内がこじれるのも嫌なのかもしれない。

 それにしても、問題はこの渋谷有利の鈍さだ。

「君ねぇ…神辺さんの趣味は知ってるんだろ?うまいこと他の人たちが声を掛けてくれなくて、ホテルに連れ込まれたりしたらどうするつもりだったんだよ?」 
「何言ってんだよ、村田!俺なんてタダの野球小僧だもん。いくらホモの人だからって、俺みたいな色気のないガキ、対象にはなんないって。眞魔国じゃないんだから…」



 勢いで出たその言葉…《眞魔国》という、その国名。



 口にした途端…身体が震えた。

 懐かしさと、痛切な…身体の奥底が疼くような感覚を覚えて、渋谷はしばし沈黙した。

「……眞魔国じゃ、ないんだよ。ここはさ………」

 漸く出た言葉を、咀嚼するように口ずさむ。

「もう二度と行けない、あの国じゃあないんだ……」

 眩しすぎる青空が、嘘臭いような色で視界を埋めた。

 ひりつく瞳は、今日も涙を浮かべることはない。



*  *  *




 渋谷有利が奇妙な別世界に存在する眞魔国(フルネームは面倒なので省略される運命にある)の第27代魔王を襲名(?)したのは高校1年の春。まだ若干15歳の小猿サンであった。まぁ、いまでも17歳になっただけで、大した違いはないかもしれないが、それでも、時間の流れがあちらでは長いということ以上に、濃縮された人生を過ごすことになった。

 最終兵器の獲得だの魔笛の獲得だの言っている間は夢中で時間が過ぎて行き、慌ただしいながらもどこか心にゆとりがあったように思う。

 それは、後日失ってみて初めて自覚する事もなるのだが、偏に名付け親のウェラー卿コンラート…渋谷自身は親しみを込めてコンラッドと呼んでいる《青年》の存在があったからだと思われる。(わざわざ《》つきで青年と呼んだのは、魔族の実年齢が見かけ×5というファンタジックな設定であることに加え、なかなか彼自身が実年齢を教えてくれないせいである。82歳と明確に自己申告してきた単純我が儘プーの弟君に比べると、彼を尊敬してやまない渋谷にすら、彼の人格には表面に出てこない妙な方向への深みがあるように思えてならない)。

 いつも爽やかな笑顔で(そう言うといつも村田やオレンジ頭のお庭番は口角を引きつらせていたものだが)、男前で、大人なコンラッドは、渋谷の求める事を常に先手を取って汲み取り、示唆を与えてくれた。そんな彼に甘えきっていた渋谷にとって、大シマロンでの出来事は大きな衝撃をもたらすことになった。

 結果的には渋谷を裏切っていたわけではなく、眞王の指示もあり、彼自身の意図もあって、大シマロンから禁忌の箱を奪取し、更にはこの国の基盤自体を崩すために行動していただけだと知れたものの、その間に放たれたコンラッドの言葉は鋭利な剣の如く心を抉り、渋谷の心をマリアナ海溝まで沈めた。

 しかしコンラートが帰還すると、渋谷は彼の仕打に対する想いを自己の成長という形で昇華させていった。

『俺が本当に頼れる男で、演技もできる男なら、コンラート一人にあんな苦しい思いをさせることなんか無かった筈なんだ』

 胸の奥にそのことを痛いほど刻みながらも、自省の泥沼で自分を見失うことなく、渋谷はしなやかに、伸びやかに成長を遂げていった。

 確かにその歩みは緩やかであり、深謀遠慮に富んだ思索を瞬時にやってのけるような器用さは持ち合わせていなかったけれど、渋谷はじっと周囲に目を凝らし、自分を支えてくれる人々の美点を見抜いていった。そしてその美点に適合した業務を託し、託したからには何処までも下駄を預け、見守った。

 その取り組みは彼の王国のみならず、近隣諸国の端々に小さな花を咲かせ、いつか大きな繋がりとなって世界を包むかに思われた。



 創主の力が蘇る、その時までは。



 眞魔国に4つの禁忌の箱が集結したとき、これを封印することで厄介事は解決されるものと、殆どの者がそう信じていた。流石に封印した途端に世界が平和になり、人々の心に安寧が約束されるとまでは思わなくとも、大きすぎる力が消滅すれば、魔族・人間を問わず自国の持てる本来の力で勝負するしかないわけで、そうなれば国家間の正常な交渉なり連盟なりで、内心はどうあれ正常に近い関係を築けると思っても、そう暢気者と責められる筋合いはあるまい。

 実際、眞魔国の王たる渋谷有利などは安心しきって封印の儀式に臨んだのである。

 ところが、予期せぬ…後になってみれば、眞王と大賢者のみは正確に予測していたであろう事態が、世界を飲み込んだ。

 封印されるどころか、密やかに…着実に箱の中から触手を伸ばして機を伺っていた創主の力は、三兄弟からそれぞれ鍵をもぎ取ると、双黒の魔王さえその内腔に取り込み、彼の精神の最も弱い部分を責め立てて意識を奪った。

 

 そして運命の日、勝負は決したのであった。



 底知れぬ瘴気を纏い、眞王廟の前に立つ双黒の魔王は、眞魔国で最高水準の魔力と技量を誇る彼の臣下を事も無げに一蹴すると、地に伏す男達を睥睨した。

 その容貌の基本構造は変わらぬ筈であるのに、内在する精神の歪みがこれ程に人の姿を変えるものなのかと誰もが瞠目した。

 ブラッディレッドに染め上げられた背景の中、ゆらゆらと沸き上がる怪しい妖気に艶やかな黒髪が舞い、艶を纏った朱唇が淫靡な笑みを浮かべる。

 底知れぬ闇を孕んだ瞳は瞬きひとつせず、陶器のように青白い面差しの中でおぞましいほどの存在感を放っている。

 しかし呪わしいその姿は背徳的な美すら伴って、向かい合う者に恐怖を越える劣情さえ抱かせるのだった。



 真に《魔》と呼ぶべき存在が、そこに在った。



 一か八かの賭けとして王佐がもたらした剣…バンダー・ヴィーア島の火山に於いて本来の姿を取り戻した魔剣モルギフを手にしてすらも、魔王の存在が変質することはなかった。

『ほう…忠実なる湖畔の民よ。俺に忠義を立てるべく我が剣に力を蘇らせたか……。褒美を遣わそうぞ!』

 喉奥で嘲笑(わら)う魔王が緩やかに剣を凪いだだけで、辺りの木々は薙ぎ払われ、臣下達は王佐の展開した障壁の中で絶望の表情を浮かべ、膝をついた。



 いや…まだ膝つかぬ者が、唯一人だけ存在した。



 儀式めいた恭しい動作で佩剣を地に置くと、カーキ色の軍服に身を包んだ男はゆっくりと魔王に歩み寄っていった。

 つと邪風が止み、奇妙な静けさが辺りを押し包んだ。



『ユーリ…』



 甘い響きを持つその声は、常と何の変わりもない口調で…それだけに、この状況では寧ろ異常とも言える声音で主を…いや、《名付け子》を愛おしげに呼んだ。



『ユーリ、おいで』



 緩やかに広げた両腕は既に大小の傷を受けて血を滴らせているが、頓着せぬ様子でその男…ウェラー卿コンラートは無防備に胸襟を開いた。

 まるで相手が自分を傷つけるなど毛筋程も思わぬかのような表情で、信頼を込めて銀の光彩を散らした瞳が瞬いた。

 それは空間に穿たれた闇い洞穴の如き魔王の瞳と、見事なまでの好対照をなしていた。

『何時まで眠っているの?みんなあなたのことを待っているよ?そんな闇いところにいないで、こっちにおいで』

 揺らいだ瞳は、闇色の方だった。

 微かな震えが大振りな魔剣に伝わり、その刃先を震わせる。

『なんの…つもりだ』
『いつものように、お寝坊さんのあなたを起こしにまいりました』

 魔剣の切っ先をその胸骨左縁に触れさせながら、男は婉然と微笑んだ。

 そして慣れた仕草で名付け子の頬をそっと包み込む。

『おいで、ユーリ…』

 反射的に払った剣先は名付け親の軍服と、微かに皮膚をも切り裂いて鮮血を迸らせた。その赤い色に動揺したように、魔王の身体が明らかに動揺を示し、怯えを含んで退いた。

『来るなっ……!貴様何のつもりだ!この俺に、何を求めているっ!?』
『あなたが、あなたであることのみを望みます。あなたが唯あなたでいてさえくれれば、俺は何も要らない。この腕もこの胸も、そして命も、とうにあなたに捧げているのだから』

 この上なく幸福そうな表情で、ウェラー卿コンラートは微笑んだ。

 何かを確信するように。

『俺が…俺で?……』
『そう、あなたが、あなたでいればそれでいい。間違っても失敗しても、あなたはそのことから決して逃げない。委ねきってしまわない…。それこそが俺の愛おしむ、あなたの強さなのだから』
『俺は…』

 強張った表情の中、少しずつ…少しずつ…闇色の瞳が生気を取り戻し、決意を込めて名付け親に向けられた。

『逃げないって…信じてくれる?……』

 喘ぐように…縋るように尋ねる声に、返される言葉は決まっていた。

『ええ、信じています。だから俺は此処にいる…そうでしょう?』

 力強い同意を得て、渋谷有利は静謐(しず)かに瞳を閉じると、剣を握る手に力を込めた。



『じゃあ、信じて…いてね……』

『俺が、何を……しても………っ』  



 渋谷有利は勢いよく魔剣を振り、一突きに己の胸を貫いた。



『……っユーリ!?』



 先程までの余裕を全て吹き飛ばす絶叫は、悔恨と絶望が綯い交ぜになった苦鳴を孕んでいた。

 しかし剣は勢いをとどめず、突いたと同じように勢いよく引き抜かれると、そのままの勢いを乗せて……

 

 …鮮やかに宙を切り裂いた!



 どす黒い瘴気の束のようなものが、捻れるように…うねるように…鋭い大剣の一薙ぎによって引き裂かれる。そう…その宙に在ったものこそ眞王という器に内包され、つい先刻まで渋谷有利を支配していた…

 《創主》の…実体であった。



 ギャウァァァァァアアアアアアアア……………ッッツッッツツ!!



 絶命する獣の咆哮を数百数千と練り合わせたような大音響が大気を劈き、次いで弾けるような衝撃を残して霧散すると、辺りには煌めきながら散り輝く、無数の光体が現れた。



 その現象は創主の生み出した軍勢に蹂躙されていた各地の戦場でも同様に展開された。

 傀儡人形共は糸を切られたようにくたりと脱力すると、次々に弾け飛び…光体となって霧散していった。



『ユーリ!ユーリ……っ!あなたは…なんて無茶を!』
『無茶でもなんでもやんなくちゃ…。だって、あんたにあんなに信頼されて、ギブアップする事なんて出来ないよ…』

 コンラートが気遣わしげに渋谷の上体を抱き留め、傷口を改める。しかし、有利の身体は疲れ切って脱力し、その黒衣こそ見事な切り口で引き裂かれていたものの、肌にも、無論肉にも…欠片ほどの傷もなかった。



 魔剣モルギフは魔王に絶対的な忠節を尽くし、けっして魔王を傷つけることはない。



 そんな伝承は、モルギフ獲得作戦の際に咬まれたことで些か確信に欠けるものではあったが、今の渋谷有利にはそれしか賭けられる札がなかったのだ。最悪、その伝承が誤りであったとしても、魔剣の持つ力はその身に伝わっていた。

 

 この剣ならば切り裂き…滅ぼすことが出来る。



 そう信じて、己ごと貫いた。創主は救いを求めて渋谷有利の身体を手放し…逃走しようと試みたが、逃さず二撃を放つと、過たず打ち抜いた剣は見事に創主を屠ったのであった。

『あのモルギフがねぇ…立派になったもんだよ。見て、コンラッド、こいつの顔の自慢げなこと!』
『そりゃあ自慢でしょうとも。主を守り、創主を滅ぼしたのですからね。結局剣士として何も出来なかった身としては…妬けてしまうな』 

 不満げに嘆息する男に、ぷっと渋谷は吹き出すと満開の笑顔を浮かべるのだった。



 彼、本来の…輝くような太陽の笑顔で。



 見守る魔族の面々……普段は焼き餅やきの《なんちゃって婚約者》も珍しくコンラートと引き離すような真似はせず、眦を赤く染めて(恐らくは濡れているのを隠すように伏せ目がちになって)黙って佇んでいるし、湖畔族の王佐も、何らの液体を振りまくことなく柔らかい笑みを浮かべていおり、長身で威圧感満点の宰相も、この時ばかりは眉根に寄せた皺を緩めて…満足げな表情を浮かべている。

 オレンジ髪のお庭番はこの大団円の雰囲気が照れくさいのか、魔王の黒髪を指先に絡めてくるくるして、ぴしゃりと名付け親に叩かれていた。眼帯をした宰相の従兄弟も、今ひとつ身の置き所に困るようで、こちらはすこし離れた場所で佇み、目前の暖かな風景を楽しんでいる。その傍らにいる出奔した十貴族の一人は、更に面映ゆそうに割れ顎をさすっていた。

 信じられないくらい全てが良い形に収束し、安らぎに満ちた世界が始まるかに思われた。

 そんな中、ゲーゲンヒューバー、アーダルベルト同様離れた場所に佇み、全てを見守っている少年が居た。

 魔王と同じ双黒を纏う村田健ただ一人が、感情を殺した瞳で渋谷有利を見つめていた。



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