虹越え1−1−2 黒瀬達がクラスメイトの話を肴(さかな)にファーストフードで腹を満たしている頃、ネタ元となった渋谷有利は一人の女子生徒に拉致られていた。 いや、正確には校舎裏へと連れ込まれていた。 「え……と、篠原さん…なんか用?」 心なしか渋谷有利の口元は引きつっている。 校舎裏に呼び出しと言えば、学生にとって天国と地獄を味わえる場所としてそれぞれ認識されている。 勿論、天国の方は甘酸っぱい愛の告白の呼び出し場として。 当然、地獄の方は世知辛い制裁処置場として…。 普通は女子生徒が男子生徒を呼び出す場合、前者の道を辿るのが正常な学校生活といえるだろう。だが、渋谷にとってその道は極めて希薄な可能性しか持っていなかった。 何故なら、彼は2年前のちょうどこの季節……篠原楓に告白し、見事玉砕しているからだ。 『あー懐かしー……見事なまでの俺のトラウマ……』 中学と高校で校舎は違うはずなのに、妙に既視感を覚えるこのロケーション…。 ありのままの自分、要するに、野球馬鹿一代な自分を晒して成された告白は、 『嫌ぁ、ムッサイーっ』 胸を刺す言葉と共に、鼻をつまむというご丁寧なゼスチャー付きで拒否られた(しかも、その一部始終を村田健に見られていたらしいことが後日判明している。無惨!)。 『でもなぁ……今日のことについちゃ、あれで怒られたんじゃ割が合わないと思うんだけどな』 いきり立っているクラスメイトの間に割ってはいるのは結構な勇気を必要とする行為であり、なおかつ今後のクラス指針を示すに至っては、《この仕切やさんめ!》という不名誉な称号を授与される危険性さえ孕んでいたのである。 『俺にしちゃ頑張った方だと思ったんだけどな』 あの時、渋谷が黙っていても誰も彼を責めはしなかったろう。 彼は現在《別の世界》に於ける重責からは放たれており、率先して意見を述べたり決断したりしなくても責められるような立場にはないのだ。 事実、ここ数ヶ月間というものの、渋谷有利はそのぬるま湯のような無責任状態の中で、まるでクラゲの様にたゆたっていたのである。 本当は今日だって…自分があんな風に発言するなんて、何より自分自身が信じられなかった。 『ああ…俺の心って、まだ全然駄目になったって訳じゃないんだ』 そう思ったら何やら勢いがついて、自分にしてはごくごく真っ当な意見が出せた。少なくとも…クラスの雰囲気は、声をあげる前よりは良くなっていたように思う。 正直、目の前の篠原楓が何の目的で自分をこうして呼びだしたのか、その理由は皆目見当がつかなかった。 「ねぇ、渋谷君…」 校舎の方に向かっていた細身がくるっと勢い良く振り返ると、眉根を寄せたその面がぐいっと渋谷の方に突き出される。 「今日はその…アリガトっ!」 「はぁ?」 口調と内容に甚だ不一致を示す篠原の言動に、渋谷はきょんっと首を傾げた。 「だから、ありがとうって言ってんの」 「はぁ、どうイタシマシテ…」 呆然とした風な渋谷の態度に篠原はきりきりと眉根を寄せるが、よく見るとその褐色がかった虹彩は困ったような…申し訳なさそうな色合いを含んでいて、彼女の態度が照れ隠しであることを告げていた。 そのことに気付くと、渋谷はふぅっと肩の力を抜いて微笑んだ。 篠原の方もその気配を感じ取ったのか、腰に当てていた手を後ろ手に組み、彼女にしては珍しい…もじもじした動作をとった。 「本当に、感謝してんのよ。何か今日ってさ、気持ち悪いくらい暑かったじゃない?そのせいだと思うんだけど、自分でも無駄に苛々してるって分かってるのに止められなくて…黒瀬君に結構酷いこと言っちゃって…」 伏せ目がちになると流石に評判の美少女だけあって、素直に愛らしいと呼べる容貌になる。 「引き際がわかんなくって…正直、パニックになってた」 「そうだったんだ。じゃあ、タイミング外してたわけじゃなかったみたいで良かったよ。俺、二人に《お前は黙ってろ》って言われるんじゃないかと思ってどきどきしてたんだ」「いつもの渋谷君になら間違いなく言ってたと思うわ。《手前ぇが仲裁できるようなタマかっ!》って」 「………そう……」 強(あなが)ち渋谷有利の感じていた危機感は、的を外したものではなかったらしい。 「渋谷君って、1学期には半分死んだような顔してたもん。魚河岸の冷凍マグロだってもうちょっと元気そうな顔してるわーって何時も思ってたのよ」 「………………へぇー……」 袈裟懸けに斬りかかる言葉の暴力に、合いの手にも元気がない。 「でもさ、今日は何か違ってた。なんだか…目とか声に力があって、渋谷君の言葉を聞かずにはいられなかった。不思議ね……あたし自分でも分かってるんだけど、天の邪鬼でさ、人に《こうしろ》って言われると、損だと思っても言い返したくなる方なんだけど、今日の渋谷君の言葉だけは、妙にすぅ…っと心に入ってきたの」 篠原はそのほっそりとした形の良い指で渋谷の頬を包むと、不思議そうな表情でまじまじと彼の瞳を覗き込んだ。 「不思議ね。渋谷君とは中学の頃から一緒で、毎日顔を合わせてたのに…今日初めてちゃんと顔を見ているような気がする。あんたの瞳って前からこんなだっけ?びっくりするくらい虹彩が黒くて…凄く澄んでる」 「元々こんなもんだよ。おホメの言葉…ありがとうな」 苦笑してみせると、篠原はますます困惑したように眉根を寄せた。 「んー、ますますおかしいなぁ。渋谷君って女の子のこういう接触に免疫無かったじゃない?手が触れ合っただけでも真っ赤になって飛び上がってたの見たときには、何十年前の少女漫画キャラかと思ったもんよ」 「流石に高2でそれはまずいデショ。それに、篠原さんが俺にその気がないのもちゃんと知ってるし」 とあるセクシー美女のアプローチが常軌を逸するほどの淫蕩さであったため、流石に免疫がついたものと見える。少々同年代の少女に接近されたところで、その気がないと分かっていればそれほど慌てることもない。 しかし、篠原の返答はまたしても渋谷の予想を超えていた。 「誰がその気がないって?」 「へぁ…?え?……篠原サン?」 「中学の時は、確かに付き合いたいなんて思ってなかったけど……だけど…」 こつんと額を当てられると、近すぎて少女の表情は読めなくなった。 「だけど、あんな酷いことを言うつもりも本当はなかったの。あの時は…ゴメン。何度も謝ろうと思ったんだけど、タイミングつかめなくて…結局言えなかった」 「え?……」 勢い良く身を離した篠原の頬も目元も、朱色に染められていた。 「あの頃の渋谷君って本当に子供子供してたから、恋愛対象じゃあなかったけど、明るくって元気で、良い奴だとは思ってたし、告白してくれたのは凄く嬉しかったの!だってあたしって、ズケズケ物をいうから、中学の頃ってクラスの女子からハブにされてたし、男子からは《あの女キツイ》って敬遠されてたのよ?だけど、渋谷君はあたしのこと好きだって言ってくれた…。《篠原さんの、真っ直ぐで物怖じしなくて嘘がつけないところが大好きです!》って、言って貰ったとき、ああ…あたしの事認めてくれる人が居るんだって、凄く嬉しかったの!でも、渡り廊下の方に仲の悪い女の子達がいるのが見えて…。そいつら、にやにやして指さしてたから…はしゃいで《嬉しい》なんて言ったら、付き合う気もないのにカップル成立って、次の日の朝には学校中に広まっちゃうって思って…頭の中真っ白になって……」 渋谷有利のお株を奪うトルコ行進曲を展開中の篠原楓は、そのマシンガントークで相手を蜂の巣にしていた。 『…って事はつまり何か?俺がこっぴどく振られたってのは、村田だけじゃなくて学校中に知れ渡ってたのか!?』 可哀想な俺…。でも、戦争中に飢え死にした可哀想な象のハナコに比べれば大して可哀想でもないヨ!と、変な慰めで自分の背中をさする渋谷有利だった。 「…御免ね。本当に、御免……」 「もう、いいよ…」 打ちひしがれていた渋谷だったが、尚も詫びの言葉を繰り返す篠原に苦笑すると、気分を奮い立たせて軟らかい表情を作った。 こんな風に…過去の罪を悔いて泣いた少女を、渋谷は知っていた。 そして彼は、自分を殺そうとしたその少女をすら許したのだ。 振られたくらいで許さなかったのでは、《罪》というものの軽重が問われるだろう。 「昔のことじゃん?それに、俺なんかの告白で本当は喜んでくれてたって分かって、嬉しいよ。好きな子に嫌な思いさせたと思って、それも辛かったし」 「…今は?」 「え?」 「今は…………今も、あたしのこと、好き?」 夕焼けに染まる少女の頬は、それだけではない朱に染まって…微かに震えていた。 「あたしは………まだ良く分かんないけど、あんたのこと、好き…かもしれないよ?……ねぇ、あたしのこと今でも好きなら、付き合ってみない?」 潤んだ瞳で見つめる美少女は、どう考えても好意としか取れない口調と態度でもじもじしている。 『好き?』 妙に冷静な頭で自問自答する自分を、我ながら不思議に感じる。 おそらく去年までの渋谷有利なら、こんな態度の篠原楓を目の前にして落ち着き払っていることなど不可能だったろう。きっと心拍出量を記録的に増大させ、風変わりな美形王佐の如く妙な汁を飛散させるか、吃音でまくし立てていたかもしれない。 《好き》か《嫌い》かで言えば、《好き》といえる。 彼女の真っ直ぐで…自分を繕わない態度は相変わらず好ましいものであったし、某赤い悪魔を思わせる鋭利な言語表現は、ある種のカタルシスすら与えてくれる。 けれど、その《好き》は、どうやら既に中学校の告白当時から既に、 人としての《好き》 友情としての《好き》 で、あったらしい。 手酷い振られ方でトラウマにはなってしまったが、篠原が言うように、《嬉しい》と言って貰った上で、《つき合えない》と言われたのであればそれほど大きなショックを受けなかったろうし、普通に友達付き合いをしていたように思う。 「付き合うのは止めた方が良いと思う。篠原さんに好意は持ってるけど、それって男友達で仲の良い奴に対する好きと変わらない気がする。だから、篠原さんと付き合ったりデートしたりしても、俺、やっぱり野球のことを考えたり喋ったりしまくって呆れられると思うな」 「………野球馬鹿らしい説明ありがとう。色んな意味で分かりやすいわ。つまり、付き合う気はないってことね」 「うん。でも、昔の篠原さんじゃないけど、《付き合わない?》って言って貰えたのは凄く嬉しい。だから、友達としてやっていきたいなって思うんだけど、いいかな?」 「ん、勿論。あたしだってそんなに深い思い入れで言った事じゃないしね。いいわ、今日からトモダチってことでやっていきましょ?」 両の掌をひらひらと振ると、篠原は屈託なく笑った。こういうさっぱりした気質が彼女の良いところだと思う。 「ところでさ、これは聞いても良いかな?」 「何?」 「渋谷君には野球よりも好きな人はいるの?その人と居られるなら、この先、野球をみたりやったり出来なくても良いってくらい好きな人が、いる?」 今日の篠原の言動のなかで、これほど渋谷を揺るがしたものはなかったろう。 その人と居られるのなら…… 野球も 友人も 家族も この世界も 自分の治めるべき国も 何もいらないから一緒に居てと 願った人の姿が…… フラッシュバックのように後頭葉に造影された。 均整の取れた長身をカーキ色の軍服に包んだその姿が、渋谷有利の心の中で鮮やかな光彩を纏って佇んでいる。 琥珀色の虹彩には星々の瞬きのような煌めきが散り、柔らかく眇められたその瞳が自分を見つめてくる時……くすぐったいような喜びで胸が一杯になった。 さらさらと風に揺れる癖のないダークブラウンの頭髪は、陽光に透けると獣の鬣(たてがみ)めいて、精悍な面を飾った。 『ユーリ…』 常に笑みを湛えた形良い唇が開かれて、独特の…じんっ……と甘く響く声音で名前を呼ばれるのが大好きだった。 広い背に、逞しい胸板に…しなやかな体躯に刻まれた無数の傷痕は、渋谷有利の治めるべき国と民とを護って百年の時を閲(けみ)した、誇り高き戦士の証。目にする度に感謝と憧憬の念を込めて…そっと撫でたものだった。 「……っ!」 声が詰まって、眦が熱く染まる。 それでも、涙が流れることはなかった。 眼球の表面が張りつめたような痛みできりきりと悲鳴を上げるのに… 《あの日》から、一度も渋谷は泣くことが出来ずにいた。 哀しみが大きすぎて 失ったものの重みを心が許容しきれずに 数ヶ月間というものの、全ての事柄に興味を抱くことが出来なかった。 けれど…… ふぅ……っと意識してゆっくりと息を吐き、吸い込むと、次第に呼吸は正常化していき、それに伴って動悸も落ち着いてきた。 『…大丈夫。だって、誓ったろ?』 まっすぐに立って、もう一度ちゃんと前を向いて、生きていくのだと。 「渋谷君?」 告白を断られた時、ごく一般的に投じるであろう質問をしただけの篠原は、まさかこれほどに渋谷が動揺するとは思いもせず、顔色を変えた質問対象者に慌てて声を掛けた。 しかし…何とか渋谷の方は気持ちを落ち着けさせたようで、薄く笑みすら浮かべて質問に答えた。 「篠原さんが言ってる意味の好きとは違うと思うけど、大切な人はいるよ」 そもそもあの人は、女の子のように《私と野球とどっちが好き》かなんて、分野の違う物同士を比べることを強要したりはしないと思うが、 また、あの声を聞くことが出来るなら… また、あの眼差しを向けて貰えるのなら…… 野球を二度と目にすることが出来なくなっても、 耐えることは出来ると思う。 失った世界の誰を思いだしても胸は痛むけれど、あの人を思うとき渋谷の身体を貫くものは…その度合いを異にするものだった。 『コンラッド……っ』 名付け親で臣下で護衛で野球仲間で……そして親友だった。 ひととき袂(たもと)を分かったときでさえ、彼以上に大切だと思う人を見つけることが出来なかった。 自分などには勿体ないような人達が忠誠を誓い、友情を惜しみなく注いでくれたというのに、心の奥の大切な部分を占めていたのは常に彼だった。 「…付き合ってるの?」 「だから、篠原さんが思ってるような気持ちじゃないんだって!恋人とかじゃないんだ。ただ……凄く、本当に凄く大切な人だったんだ。もう……二度と会うことは出来ないんだけど」 「まさか…死……」 はっと顔色を変えて申し訳なさそうに口ごもる篠原に、慌てて訂正を入れる。 「死んだわけじゃないよ。ちゃんと生きてるのは確かだと思う。だけど、事情があって…二度と会うことは出来ないんだ」 『二度と会えない』 自分で口にした言葉に眇められた漆黒の瞳は、切ないような色を含んで斜めに地面へと突き刺さる。その表情に、篠原は不審そうに小首を傾げた。 恋人ではない相手に対して、会えないだけでそんな眼差しをするものだろうか。 『なんか…ちょっと、悩ましい………とか思っちゃうくらい、艶っぽいのに』 恋する少年と言うより、何か乙女めいたものを感じるのだが…それは流石に口にしない。 「なんで会えないの?」 「んー…それは説明できない。御免。」 最後の《御免》にそれ以上追求する事の出来ない拒絶を感じて、篠原は彼女には珍しく神妙な表情で口を閉ざした。 込み入った事情があるのは間違いないだろうし、何しろ自分たちは単なるクラスメイトから友人に切り替ったとはいえ、即席の関係には違いないのだ。心の中に土足で踏み込んで行くような不調法は避けるべきだろう。 「分かった!もう聞かない。いつか、言えるようになったら何時でも言ってくれる?」 「…うん!」 篠原の男前な台詞に感じ入ったのか、渋谷有利は本日最高の笑顔で微笑んだ。 大きな漆黒の瞳がふぅっと細められ、綺麗に揃った歯列が口元から覗くと、白い蕾が綻ぶような雰囲気が渋谷を包みこむ。 いま自分の頬が微かに熱いのは、夕刻になってもひかないこの暑気のせいだ…。 篠原楓は、半ば必死になって自分の身体に起こった反応を説明づけた。 |