第一章「星を掴むように」
プロローグ







 《喪失感》というものが、どれほど無惨な切り口で心を抉るかなど

 少年は何度かの体験で知っていると思いこんでいた。

 しかし、そういった物事は突きつけられる度に、

 実にご丁寧にその度ごとの特性をもって、

 心と身体を刻んでくれるものらしい。

 

 《その出来事》は、不可避の事象であり、

 その中で少年も、周囲の人々も最善を尽くしたと言える。

 にもかかわらず、その結果生じた《現実》というものは

 理性では辛うじて許諾でき得るものの、

 感情の方では到底受容しかねる内容であった。

 

 少年は誰を責めることも出来ず

 誰に縋ることも出来ず

 泣くことも出来ず

 叫ぶことも出来ず

 このまま自分は虚無の渦中で、

 ぐずぐずの形ない生き物のように成り果ててしまうものと思いこんでいた。



 ところがどっこい…

 少年の心にドンと建った支柱の太さは並ではなかった



 少しずつ、少しずつ…

 今の自分に出来ることに気付いていって、

 そして………

 

T.渋谷有利株上昇中







 残暑厳しい9月の第1金曜日。朝方降った小雨に、多くの人々は涼感の訪れを期待していた。

 しかし、結果としてこの雨は期待とは真逆の効果をもたらすこととなった。昼前になって急速に強まった陽光とも相まって、蒸発した水分が人々の呼吸を困難なものにし、不快指数を記録的に上昇させたのである。





「だーかーらーっ!そういう事じゃないって言ってんでしょ?男子のそのっ!非協力的な態度がムカつくって言ってんの!」

 緩めのソバージュヘアーが目元に落ちかかるのを鬱陶しげに掻き上げると、篠原楓は切れ長の瞳を一層釣り上がらせて目前の男子生徒を睨み付けた。

『そうよねーっ!』

 篠原と気の合う数人の少女達も、お互い目線を交わしながら頷きあう。

「だーかーらーーーっ!こっちだって協力する気はあるんだって!ただ、女子ばっかり衣装の話で盛り上がってるから、どっから手ぇ出していいのか分かんないだけだよ。何して欲しいか言ってくれりゃ、俺たちだってちゃんと仕事するって!」

 180p以上はあるかと思われる長身を更に大仰に竦めてみせると、ガテン系男子の黒瀬謙吾は叩き付けるような声音を出した。応援団の構成員であるだけにその声量は豊かであり、それなりにドスも利いていたのだが…女子生徒の方には大して怯んだ風もない。

『そうそう』

 応援してくれる男子生徒の声も、女子の目線に負けているようで覇気に欠ける。

「あーやだやだ、指示待ち人間って。オトコとして下の下よ?そういう奴が退職後に奥さんに濡れ落ち葉みたいにくっついて回ったり、熟年離婚を突きつけられたりするんだから!」
「勝手に俺の人生行路を定めてんじゃねぇよ!」
「あんたの人生なんて、どうせ想定の範囲内よ!」

 散々にして不毛な言い争いが展開されているこの場所は、埼玉県の平凡な高等学校の東館(3階建)2階、第2学年5組の教室であり、時刻は4時を少々回ったところ。冷房などという気の利いた設備を持たないこの一室において、生暖かく不快な湿気は生徒達の首筋に髪をまとわりつかせ、体幹部の皮膚にシャツを貼り付けさせていた。





 のんびりした気風のこの高校では、本格的なコース選択は3年になってからだが、2年生に上がる際にもクラス替えはあった。多少は成績による割り振りもあるのかと思うと、10クラス中の5組という位置は見事な中流階級といえる。

 まぁ、そんな大人(教員側)の事情は兎も角として、このクラスに入った生徒達は比較的結束力が強く、協調性もあり、春先から大きな揉め事を起こしたことはない。よって、本日この時間に発生した諍いが、記念すべき5組紛争の第1回目という事になる。

 論争の中核をなしている議題、それは《文化祭のクラス発表》であった。

 実施される内容については特に反対もなく《メイドカフェ》と、LHRの時間中にあっさり決まっていた(些か時流に乗せられ過ぎかとも思われるが…)。

 この為、週末を前にしていち早く準備に取りかかるべく、放課後に話し合いを持とうという提案が成された時にも特に反対はなかった。担任の体育教師も《これなら心配ないな》と言い残して、この時間は定例の職員会議に出ている。

 しかし6校時が終了して生徒が教室に集まり、さあ具体的な点について話し合おうとした途端、メイド服のデザインについて女子だけが熱く議論を交わし始めてしまい、男子生徒の間にはやや白けたムードが漂い始めてしまった。

 ちなみに、このクラスにも代議員という者は約一名存在するのだが、《気は優しく力無し》な臼井晋太郎はひたすらオロオロするばかりで、問題解決の糸口も掴むことが出来ずにいた。





『大体、このクラスの女共には可愛いげってもんがないんだよなぁ……』

 言い争いの一派をなす黒瀬は嘆息した。

 確かに、このクラスには(性格はともかく)わりあい可愛らしい容姿の女子が多い。そんなコ達のメイド姿を間近で、しかもタダで見られるのならめっけもんかなとLHRの時には夢想したものだ。



 しかし、だ。



 どうも女子連中の話しぶりを聞いていると、男子の扱いというのは体裁の良い《雑用係》であり、愛らしく着飾った彼女たちを引き立てるため、ひたすら土台の仕事…要するに、設営、材料の調達、調理、皿洗い等々…といったものを《引き受けやがれ》と言っているようにしか聞こえないのだ。

 普段なら気のいい男子の揃ったこのクラスのこと、憮然とはしながらもこの役割を受け入れていたかもしれないが、何しろこの天候だ。教室は酷く蒸し暑く、クラブ活動に早く行きたいという焦りも手伝って、どうにも男子生徒達は不機嫌な表情を隠せなかった。

『そもそも、物事には頼み方ってもんがあるだろうがよ…』 

 女子の一人で良いから、

『面倒なことばっかり押しつけてごめんね?でも、あたし達もお客さん達が沢山来てくれるように工夫するから、一緒に頑張ろう?』

 なんて言ってくれて、小首の一つも傾げながら上目遣いにお願いしてくれたなら、鼻の下を伸ばして二つ返事で引き受けようというものなのに、この連中と来たら、尻ペタを叩かんばかりの勢いで罵倒してくる。

『こういう女子がさぁ、主婦になってもアイドルだの韓流スターだのの追っかけで全国飛び回るんだろうな。あー!俺の奥さんとかがそんなんなったらどうしよう。やだなー、そんな思いまでして結婚したくねーよ』

 思わず結婚というものに懐疑的な眼差しを向けてしまう黒瀬謙吾であった。

 思考の飛躍は良く指摘されるところだが、自分では直しようがないと思っている。

「ちょっと、なに妙な目で見てんのよ!言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ!」 思考そのままに呆れた顔をしていたのが気に入らなかったのか、篠原の顔には怒気がまざまざと浮かんだ。
「はぁ……もうなーんも言うこたねぇよ。なんなら女子と男子で別々に出し物やらねぇ?このままじゃ話し合いになんないしさ」
「なっ……!」

 普段はさっぱりした性格で責任感もあると見なされていた黒瀬の発言に、篠原は色々な意味で息を呑んだ。

「何でそう投げやりなわけ?意見合わないからって丸投げって何よ!」

 篠原に同調する、やはり気の強い女子が憤ると…

「意見が合うも何も、そっちが最初から喧嘩腰じゃあ話にもなんないって言ってんだよ」

 今度は黒瀬と仲のいい藤谷修司が言い返す。

「なによ!」
「あぁ?」

 事態が泥沼の様相を呈し始めたその時、教室に響いた声があった。



「黒瀬、篠原さん、みんな……。なぁ、座ろうよ」



 緊迫した状況に頓着する風もないその声は、柔らかく、穏やかに……そしてすずやかな涼感を伴って生徒達の耳孔をくすぐった。

 折良く、さぁ……と吹き込んだ風が教室のカーテンをはためかせ、頭に登っていた血を鎮めてもくれた。

 毒気を抜かれた相貌で生徒達が向けた視線の先には、発言者である一人の男子生徒が居た。

 今時珍しいくらい色を入れていない漆黒の髪が、風に合わせてさらさらと揺れる。まぁ、色も入れていないが、ついでに手も入れていないらしいその髪は、前髪等どう見ても工作鋏で切っているだろう!と突っ込みたくなるくらいのザンバラぶりで、不揃いな長さのそれが、くりっとした大きな瞳の上で踊っている。



 瞳…そう、その瞳……



 彼の瞳は…前からこんな風だったろうか?

 虹彩の、深みのある濃墨色が…柔らかく細められた瞼の間でふわっと水の膜を被ると、見つめる生徒達の心にじんわりとした暖かいものが伝わってくる。



『みんな、落ち着こう?』 



 眼差しだけで…その気持ちが響いてくる。

 彼は……渋谷有利という少年は、こんな生徒だったろうか?



 とすん…と、声もなく椅子に腰を落ち着けた黒瀬は、まじまじと渋谷有利を見つめた。 彼に対しては、どちらかというと目立たないという印象しかない。

 特に春先の頃などはぼうっとしていることが多く、正直こいつは相当なお馬鹿チンなのか?と、いうことは、同じクラスに配分された俺もまた同程度のお馬鹿チンなのか?と疑ったくらいである。

 容姿にしても同様で、ごくごく平凡…強いて言えば、草野球チームのキャプテンをしているという噂が信じられないくらい、同年代の男子としては華奢な体格だということくらいしか印象にない。

 しかし今、黒瀬と篠原に向けられている瞳には、不思議なほど純粋無垢で……それでいて重厚な奥行きを感じさせる…ある種、人格の《凄み》ともいえるようなものが感じられた。

『夏休みの間に悟りでも開いたのか?』

 ちらりと目を向ければ、篠原の方も驚きを隠せないようで、黒瀬に比べればまだ毒気を残しているものの、それでも聞く態度を見せて渋谷の次の言葉を待っている。

 感情が激した彼女としては、非常に珍しい反応と言えた。

 黒瀬・篠原以下、全クラスの視線が集中するのにたじろぐ風もなく、相変わらず落ち着いた声音で渋谷は言葉を継いだ。

「あのさ、いま…教室が暑すぎるせいで、みんな冷静じゃなくなってると思うんだ。だから…俺が今から言うことも、むかついたらそう言ってね?いっぺん時間をおいて、来週になってから話をした方が良いと思うんだ」

『いい?』

 そう言って軽く傾げた首筋の…意外なほど細くしなやかなこととか、上目遣いな眼差しに滲むちょっとだけ不安な色が、えらく保護欲を誘うこととか……妙な衝撃が黒瀬の刺激伝導系を揺るがせた。



 危うく、不整脈一歩手前…。



 こくこくと勢い良く頷く友人達の姿に、どうやら奇妙な反応を示したのは自分だけではないと分かって、黒瀬は少し胸を撫で下ろした。

『しかし、なんで…なんで…………』

 つい先程、黒瀬が脳内で展開していた《こんな風におねだりしてくれたら何でも聞いちゃうゾ》的な妄想図に見事なまでに合致しているのだろうか、このクラスメイトは……。



 動悸が、やっぱり嫌に激しい…。



「そう、じゃあ言わせて貰うね」

 渋谷有利の発言は、やや自信なげな態度とは裏腹に、実に的確で承伏しやすいものであった。

 まず、男女決裂したまま出し物を行うのはやめないかという提案がなされ、これは冷静さを取り戻した生徒達が一様に頷くことで承認された。

 続いて、女子の不満が《男子生徒の非協力的な態度》に向けられたものだということ、男子の不満が《男子を最初から雑用扱いしている》という2点にあることを整理し、各問題の解決策を導き出した。

 まず大きな問題は、話し合いの争点が狭い一点に終始していた事だ。

 メイドカフェなのだから確かに衣装は大切である。だが、この話は全員で話し合うべき問題ではない。まず最初に必要な業務を整理し、それぞれについて役割分担をすべきなのだ。

「まずは予算だよね。学校からどれだけ支援して貰えるのか、前払いして貰うのも可能なのか、自腹を切っておいて、後から請求できるのか、完全に自腹なのかの確認。それから場所。食べ物を扱うから、普通に教室でお化け屋敷なんかやったりするのに比べると手続きとかがいるんじゃないかな?なぁ臼井、確かお前んとこのクラス、去年甘味処やってたろ?そん時どうしてた?」

 代議員である臼井晋太郎は不意に自分の役割を思い出したのか、はたまた狭い範囲での行動を指示された安心感からか、急に自信を取り戻したように背筋を伸ばすと、保健所への手続きや場所取りの問題について語りだし、担任に話をつけてくると言って元気に駆けだしていった。あまりに明るい表情であったため、みんな《松もっちゃん(担任教師)は職員会議で当分身体が空かないよ…》と、一言いってやることができなかった。まぁ、5時くらいまで待てば連絡も取れるだろう。

「じゃあ、予算と場所の確認は臼井に頼もうか。そんで、詳しいことが分かってきたら収支計算とかいるんだろうから、そうなったら榎本さん手伝ってくれる?」
「あ、あたし?」

 急に話をふられて素っ頓狂な声を挙げたのは縁なし眼鏡を掛けた大人しめの少女で、衣装の話には特に興味を引かれなかったのか、先程からぼうっとしていた。

「榎本さんって計算が正確だよね。字も綺麗だし、会計とかやってくれると凄い助かる。そういうの出来る人ってなかなかいないじゃん?」
「え?あ、うん!い、いいよ!あたしで良かったら!」

 人に褒められることに慣れていない口調でどもりながら…それでも頬を染めて微笑うと、少女らしい愛らしさが眼鏡っコ榎本の表情を彩った。

「そんで、衣装のことはやっぱり篠原さんだよね。デザインとか得意だって聞いたし」
「まぁね」

 こちらは照れる風もなく、当たり前と言わんばかりに髪を掻き上げて答える。

『だからこいつは…』

 と、黒瀬などは心にばやいていたが、それでも、彼女の眦が何処かはにかむような色に染まっているのに気付くと、ふぅっ…と唇の端をあげた。

「そんで、衣装に使う布地については神田に頼んだら良いんじゃないかな」
「お前…俺んちが手芸問屋だって知ってんの?俺、学校でそういうコト喋ったこと無いような…」

 大店の丁稚のような風貌の少年が、驚いたような声を出した。

「うちのお袋とお前んちの母ちゃんが仲良いからさ、良く聞くんだよ。お前のトコは値段も安くしてくれるし、中途半端な量とか、変わった布地の注文でもちゃんと聞いてくれるから、凄くあてにしてるんだって」

『おおー、誠意ある営業してんなぁ!』

 感嘆とからかいの入り混じった歓声に、神田は照れくさそうに破顔した。

「そういう言い方されちゃ、商売人の息子としちゃ断れねぇな!特別料金でご要望にお応えすべく勉強させて貰いまっせ?」
「ありがとう。でも、家の商売のことだから、本当に無茶な条件だったらちゃんと言ってくれよ?」

 あまりに景気のいい声に逆に不安になったのか、渋谷が少々眉を下げて尋ねると、先程までの照れとは違った意味合いで神田の頬は上気した。

「え、や……良いって良いって。気にすんなよ!さー!篠原っ、話!ぬ、布地の話しよう?」
「本当ありがとうな、神田。じゃあ、次はカフェな訳だから、食べ物だよな」

 こういった具合に、渋谷は次々と鍵となる案件を挙げ、適材をそこに推薦し、実に気持ちの良い頼み方で快諾させていった。 

 ちなみに、黒瀬には看板用のベニア板の調達と塗装が任された。

『こいつ、俺の親父が看板屋だとか、俺が刷毛で文字だの絵だの書くこと好きなの知ってる?……』

 ぎょっとしつつも、得意分野に推薦されたのだから断る理由もなく、承諾の意を示して大きく頷くと、輝くような笑顔で渋谷は笑ったのだった。

「よし、これで決まり!来週から準備、頑張ろうな?」

 ふと時計を見ればまだ5時前で、代議員である臼井晋太郎の帰還を待たずして、5組の対文化祭陣営は綺麗に整理されたのであった。



*  *  *





 学校帰りに、黒瀬謙吾は友人2人を誘ってファーストフード店に入った。両親の帰りが遅い者同士よく集まるこのメンツは、クラスも同じであるため、会話は自然と今日の出来事へと繋がっていった。

「なぁ、渋谷ってああいう奴だって気付いてた?」
「ああいうってどういう?」
「あー、何か言いたいこと分かるわ謙ちゃん。俺もちょっと驚いたもん」

 ちょいと太めで、ついでにおっとりした小渕は小首を傾げていたが、勘のいい藤谷はすぐに反応してくれた。

「俺さ、実は中1の時から渋谷と同じクラスなんだけど、あの頃の印象ってさぁ…よく言えば純朴、悪く言えば単純ってだけで、特に目立つ方じゃなかったんだよな。話題になったって言えば、中3の時に野球部の監督殴って退部になった事くらいかな。それもまぁ、監督の方にも問題があったってんで大事にはならなかったわけだし。少なくとも、そういう力業っぽいエピソードの持ち主にしちゃ、今日の纏めっぷりは意外だったな」

 藤谷の言葉に、黒瀬も頷く。

「俺はこのクラスになってからの付き合いだけど、監督殴るような気概があるようには見えなかったなぁ。なんか《腑抜けた奴》って感じで、とにかく印象薄かったんだよ。だから、殆ど今日初めてあいつのことを意識したようなもんだと思う」
「まぁなぁ…1学期は確かにそんな感じだったな。あれでも、去年の夏前くらいは結構元気にしてたんだよ。自分で草野球チーム作って運営したりしてさ。でも、夏休み明けくらいからかなぁ、暗い表情してることが多くなって、一時はこの世の終わりみたいな顔してたな。」

 それが、もう一つの夏を終えてみると妙に器の大きげな男になっていた。

「なにかよっぽどショッキングな出来事でもあったのかな?宇宙人にアブダクションされそうになったとか、よその世界に呼ばれて、お姫様に《この世界を救って下さい》とか言われたとか」
「ゲームネタとしてもライトノベルネタとしてもベタ過ぎだろう、そりゃ」 

 意外と事態の本質に触れた予測ではあるのだが、そのニアミスっぷりに本人達が気付くはずもない。

「しかしまぁ、一回こっきりの奇跡ってこともあるしな。大人物になったつもりで、クラス仕切ってる内に化けの皮が剥がれることもあるんじゃない?ゆっくり観察してきゃ面白いかも」

 皮肉げに唇の端を釣り上げて笑うと、藤谷は勢い良くウーロン茶を飲み下した。

 黒瀬もストローを吸引したが、こちらは炭酸飲料であったため軽く噎せた。

「…………」

 喉のいがらっぽさだけではない何かが苦みをもたらし、眉根を顰める。

 藤谷の醒めたような物の見方は、どちらかと言えば直情気味の黒瀬にとって参考になることもしばしばあるのだが、今日に限っては不思議なほど不快感がわき上がってくる。

 黒瀬の《渋谷有利》への興味は、そういう《辛口評論家》としての視点に立ったものではないのだ。

 上手く説明することの出来ないもどかしさに手の中の紙コップをいじっていると、これまで殆ど口を挟まなかった小渕が、穏やかな声音で話し始めた。

「《大人物》とか《化けの皮》とかは分かんないけどさ、俺は…渋谷のお陰で助かったなぁって思ってるよ」
「小渕…」

 いつも通りのおっとりした目元に、何とも言えない優しい色が浮かんでいた。

「今日、凄くみんなの雰囲気悪かったろ?俺、ああいうの駄目なんだよね。渋谷がああやって声かけてくんなかったら、月曜に学校に行くのがなんか嫌だったと思うなぁ…。それに、渋谷って確かに1学期はぼうっとしてること多かったけど、何か優しい奴だってのだけは俺、ずっと感じてたんだ。あいつ、別に今日のことだって…良いとこ見せようとか、そういうこと考えてた訳じゃないような気がするんだ。まぁ、気がするだけなんだけどさ……」

 ぼってりとした大福のような瞼を閉じると、しみじみと感じ入るように小渕は呟く。

「あいつも、クラスのみんなが揉めてるのが嫌だっただけじゃないのかなぁ。俺はさ…そう思うな」
「…そうだな。ああ…俺も、そうなんじゃないかって気がする」 

 黒瀬は友人の純朴な言葉に強く同意した。

 あのいたたまれない空気をからりと切り替えてくれたクラスメイトに対して、何よりもまず感じているのは《感謝》の思いなのだ。

「ん…まぁ、少なくとも、助かったのは確かだな。誰かさんは危うく女子連中からハブにされる1年を過ごすところだったし?黒瀬、誰が感謝しなくても、お前だけは渋谷に感謝しないと不義理ってもんだよ」
「ああそうだよ!だから感謝してんの、俺は!」

 どっと笑い合うと3人の間の空気がほぐれた。斜に構えていた藤谷も、相変わらず皮肉げな笑みを浮かべながらではあったが、渋谷を肯定するような言葉を口にした。

「俺だってあいつが《なんちゃって大人物》であるよりは、《本物さん》であることを祈ってるよ」
「へぇ、マジで?」
「ああ、その方が色々面白くなりそうだろ?2年は行事ごとが多いからな。物事の切り回しが上手い奴が居る方が、ラクして楽しい学校生活を送れるってもんだろ?」
「ラクしてってのは良いねぇ」
「そうだな、それが一番だよなぁ」



 頷き合う彼らの胸に、この時《予感》はあった。

 何か楽しそうなことが起こりそうだ…と。



 だが、《予知》する事は到底不可能であった。



 この先、彼ら……というか、渋谷を中心としたクラスメイト、いや、この高校の人々を待ち受ける、笑いと衝撃に満ちた日々のことなど……。



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