「赤羽801号の旅人」
車体の正面と側面に掲げられた《赤羽801号》というプレートに、クラスの一部の女子が《ぷっ》と笑いを漏らす。意味の分からない友達に聞かれて、突かれた女子が《お母さんが言ってたんだけどォ》と、くすくす笑いながら教えている。
新幹線から乗り換えたこの列車は有利達を修学旅行先である白滝ゲレンデに連れて行ってくれるのだが、何かが少女達の琴線に引っかかったらしい。他のクラスでも何人かが《ぷっ》と笑いだして、それがさわさわと伝播していく。
なんだろう?何か面白いことがあるのかな?何かとっておきの秘め事みたいに、瞳をカマボコ型にしてにやにやしている女子がちょっと気になって、渋谷有利は不思議そうに小首を傾げた。
「なんで女子笑ってるんだろ?」
「あ、俺知ってる」
《ししし》と笑っているのは、有利と同じグループで行動する龍間海斗だ。姉三人に囲まれて育った末っ子だから、女の子の気持ちがよく分かるらしい。
「いわゆるBLってやつの起源になった言葉だよ」
「BL?」
「ボーイズラブっての。知らねェ?今や無駄に市民権を得ちまって、こっちが照れちゃうくらい堂々と男同士がまぐわってるマンガだの小説だのが本屋に並んでんじゃん」
「ふぅん。それを赤羽っていうんだ」
「ちげーよ。801の方だよ。元々は《ヤマなし、オチなし、イミなし》のもやもやっとした自作マンガのことを自嘲して差してたらしいんだけど、男同士の恋愛とか、特にセックスが絡むような話だと急にヤってるシーンから始まって、突然終わるってんで、801って言えばソッチ系の話だっていうお約束になったらしいぜ?ただ、今じゃその手の話でもちゃんと設定組んで、オチもつけてることが多いから、ボーイスラブ=801というより、また元に意味に戻ってきてるらしいけどな」
《何だよ、龍間知ってんの?》と他の男子まで寄ってきたが、女子達の雰囲気のせいか、男子連中も何故かひそひそと声を潜めて顔を突き合わせている。その様子に、何故か女子の間には更なる笑いの波が起きていた。
説明を聞いて理解した途端、有利は真っ赤になっていると、他の男子がつんつんと頬を突いた。
「渋谷純情〜。お前耐性無さそうだもんな?まだチェリーなんだろ?」
「…悪いかよ!」
「いやいや。悪くない悪くないよ渋谷君。お前はずっとそのままでいて欲しい!」
有利は唇を尖らせて拗ねると、男子達は余計にニヤニヤして突き回してくる。どうも最近周囲の連中の体格が良くなってきたせいか、いつまでも華奢な有利は弄られ要員になっている気がする。
その様子に、わりと人気のある男子である鳴谷宗也まで鼻の下を伸ばしたニヤニヤ顔になって、後からむぎゅっと有利を抱きしめてきた。鳴谷はバスケ部の次期主将に任じられているくらいだからガタイが良い。抱きしめられると有利などすっぽり腕の中に収まってしまう。
「渋谷クソ可愛いなァお前!」
「あー、控えろよ鳴谷。女子無茶苦茶反応してっぞ?」
ホントだ。口元を覆って《きゃーっ!》と黄色い歓声をあげている。目元はますますカマボコ型になっていた。
「わざとだよ。そういうの期待してきゃっきゃ言ってんだろ?」
龍間に肘で突かれても鳴谷は平然としている。女子にモテまくるリア充爆発君だから、少々変な噂が立っても気にしないのかも知れない。
でも、有利の側の事情でするんと腕の中から抜け出した。有利は確かに童貞だけど、ちゃんと恋人はいるのだ。彼がいないところだからといって、他の男にいいようにされたら申し訳ない。
『どうオチがつくのかまでは分からないけどさ、俺の恋はヤマとイミはあるもんっ!』
大事な大事な、優しい恋人コンラート・ウェラー。彼のことを思うだけで、この胸はきゅんとふるえる。
「やめろよ!暑苦しいっ!!」
「俺は気持ちいい。渋谷って子供体温だから暖かいんだもぉ〜ん」
他の男子まで有利の首筋に手を突っ込んで《マジあったけェ》なんて言うものだから、ひんやりとした手を敏感な首筋に押し当てられて悲鳴をあげてしまう。
「やめろってば!冷たいってェ〜っ!!」
じたばたして嫌がっていると、騒がしいのを止める大人の手がある。先生だろうかと思ったが、ふわりと漂う柔らかい匂いに、有利はピクッと反応した。
「駅で暴れると危ないよ?もしものことがあるといけないから、おふざけはこの辺にしておいた方が良い」
「ーーーーーーーーーーっっ!!」
響きの良いセクシーな低音に有利の背筋が跳ねる。それはあまりにも馴染みのありすぎる声だった。
「コンラッドっ!?」
「やあ、偶然だね。俺もこっち方面の仕事があるんだよ。残念ながら、白滝ゲレンデじゃないけどね」
家庭教師もやってくれているコンラッドには、修学旅行の日程と行き先を教えていた。《暫く会えなくて淋しいな》と囁いていたのは2日前のこと。もしかして、その間に仕事の調整をしてくれたのだろうか?いやでも、時間とかも分からなかったろうし、仕事に私情を挟むヒトじゃない。
『本当に偶然?なんか…なんか、すげェ嬉しい』
女の子達がちょっとしたことで《奇蹟》とか《運命》という言葉を使うのを、《どうだろ?》と疑問視していた自分よさようなら。こんなにもドキドキして心が弾むものなら、これからはそんな話題になったら《だよね〜》と有利も強く同意しよう。
「なになに?この人!渋谷君の知り合い?」
「家庭教師してくれてるんだ」
「あ、だから渋谷君成績上がったんだァ〜。良いなァ〜。家庭教師ネットワークとか入ってらっしゃるんですか?空いてる曜日あります?」
目敏い女子がわらわらと寄って来ると、男子を押しのけてコンラッドの前に集まる。
「ゴメンね。本職じゃないんだ。縁あってユーリの家庭教師だけやらせてもらってるけど、普段はしがないサラリーマンなんだよ」
「どこにお勤めなんです?」
「眞コーポレーションだよ」
「一流企業じゃないですかァ〜っ!」
エグゼクティブな雰囲気漂う美形リーマンに、女子の歓声はますます高まる。
その様子に、普段は一番女の子達にキャーキャー言われている鳴谷が不機嫌そうに眉を寄せた。
「おい。渋谷もお前らも、もう乗らねェとヤバいぞ?幾らココが始発だって言っても、いい加減出ちまうだろ。乗り遅れたら冴えねェよ」
「あ、うん。ゴメン。コンラッド、席どこ?荷物置いたらそこ行くよ」
「おいコラ渋谷!ダメだろ?グループで活動すんだろうが。みだりによその車両に行ってんじゃねェよ」
普段はおちゃらけているくせにどうしたのだろう?今日はえらく手厳しい。きっとコンラッドが自分よりモテるのが腹が立つんだな。まだ迷うようにじっとコンラッドを見詰めていたら、肩を抱えるようにして連れて行かれた。
「コンラッド〜。後でメールするね〜」
「うん。今日はお友達と仲良くね」
にっこりと大人の笑みを浮かべて手を振るコンラッドだったが、生徒達が全員車両に乗り込むのを待ってから赤羽801号に乗り込んだ彼は、チケットを手に有利達と同じ車両で目をぱちくりと開いていた。
「あれ?一緒?」
「えーっ!?ホント!?」
そう言えばコンラッド以外にも、車両の半分ほどは知らない人達が乗り込んでいる。一つの車両に一クラスともう少し分席があるから、ズレズレになっていって最終クラスの7組は一般客と合同になったらしい。今さらのように担任がやってきて、《よその人達も乗り合わせているから、特に静かにね!》なんて言っている。
「コンラッド〜っ!下車するまで一緒だね!おやつ食べる?プリッツのサラダ味あるよ〜」
「ああ、俺も何かおやつ用意しておけば良かったな」
「コンラッドさんっ!私手作りのおやつ作ってますっ!みんなで一緒に食べましょうっ!」
力強くぐいぐい攻めてくる肉食系女子を軽くいなしながら、何だかんだでコンラッドはユーリの隣の席をキープした。
目的地は終点である白滝ゲレンデの3駅前にある個人のお屋敷で、地元にある白滝ゲレンデに絡んだリゾート施設が営業に行き詰まって倒産しかけているから何とか助力願えないかという依頼なのだそうだ。コンラッドはまず直接話して状況を調べ、様々な提案をしていくことになるのだろう。
『2時間は一緒にいられるんだ!』
週末になるとチョイチョイ色んな口実をつけてデートしているのだけど、こうしてイレギュラーな場面で出会うと凄く得した気分になる。
なんだかとっても良い修学旅行になりそうだ。
* * *
『ユーリったら、やっぱり学校でもモテモテじゃないか』
そつのない笑顔を浮かべながらも、コンラッドは車両内の生徒達がどうユーリに絡んでいるか、くまなく探っていた。《全然モテないよ〜》と言っていたのは女の子相手の話だろうとは踏んでいたが、女の子だって修学旅行という特別なイベントのせいか、ユーリのことを気に掛けているようだし、更に心配していた男子連中に至っては、コンラッドに対してあからさまに敵意剥き出しの奴がちらほら居る。
別にストーカー的に無理矢理用事を作ったわけではないが、偶然同じ日に同方向での仕事があると分かってからは、同じ時間に乗り込んで同じ車両になるようには画策した。《801号はこの日修学旅行生が乗るから賑やかですよ》と一本前後を勧めてきた駅員にも、《寧ろこれが狙いですから》という言葉が喉まで出掛かったくらいだ。
「ユーリは可愛いから、色んな生徒さんから弄られてるみたいだね。愛されてるんだな。俺の教え子が人気者だなんて、家庭教師として鼻が高いよ。ユーリは学校でも素直で一本気なのかな?楽しいエピソードがあったら教えてくれるかい?」
「そりゃあもうネタには尽きませんよ〜」
女の子達はしきりとコンラッドの話題にのってきてくれて、満面に笑みを浮かべている。そしてちょっと内気な女の子達はと言うと、少し遠巻きに眺めながらやけにニヤニヤした顔をして《やおい》という謎の言葉を呟いていた。
「ねえ、さっきから《やおい》って言葉を良く聞くんだけど、どういう意味の言葉なのかな?」
聞いた途端に女子と一部の男子が一斉に《ブーッ!》と勢いよく噴き出し、ユーリは何故か首まで真っ赤になっている。
「え?え?なにか今時の、エッチな言葉だった?高校生に対して聞いたらセクハラになるような?」
ユーリの頬の赤味を照らし込ませたみたいに頬を染めて口元を掌で覆っていると、さっきまでちょっと遠巻きに見ていた女子がおずおずと口を開いた。
「あ、違うんです。元々は、《ヤマ無しオチ無しイミ無し》ってことだから、いやらしいわけじゃあないんです」
「でも、ユーリが赤くなってるよね?ねえ、ユーリ。どういうイミの言葉なの?」
「それは…その……」
口籠もって唇を尖らせているユーリは恐ろしく可愛くて、キュンときたのはコンラートだけではなかったらしく、先程からやけに攻撃的だったナルタニとかいう男子が間に分け入ってきた。
「ボーイズラブの昔の言い方らしいぜ。あんたみてェな美形リーマンと可愛い系男子高校生の、セックス込みの愛っての、俺も姉ちゃんがしこたま買い込んでるエロマンガの表紙とかで見たことあるぜェ〜」
「ふぅん、隠語なんだね。ああ…それがたまたまこの車両の番号と一緒だったから、みんな過敏になってるんだな」
「それだけじゃねェぜ?あんた渋谷に慣れ慣れし過ぎんだよ。忙しいやり手リーマンが本来の仕事でもないのに高校生のカテキョやってて、それが偶然顔を合わしただけでキャっキャはしゃいでるとか、普通じゃねーだろ?あんた、マジで渋谷のなんなわけ?」
返答次第ではどうする気でいるのだろうか?
『見たところ、ユーリにちょっかい出す割りには心の方は定まっていないように見えるけどな』
気も狂わんばかりにユーリを愛していて、どうしようもなく嫉妬しているというわけではないのだろう。だが、高校生なんて揺らぎやすいシーズンだ。ごく普通にストレートな性嗜好を持っていたコンラートでさえ陥落してしまったユーリを前に、今後おかしな気分にならないとも限らない。
ここは一つ、鋭い釘を打っておいても良いか。
「とても大事な子だよ。生涯、ずっと縁を絶やすことなく傍に居て欲しいと願う大好きな子だ」
「…っ!」
ナルタニは息を呑んで眉根を寄せ、女子達は周囲の客が鼻白むほどの勢いで《キャーっ!》と歓声をあげる。ユーリも何を言い出すのかとおろおろしているようだが、一方でちゃんと聞きたいとも思っているのか、強く止めようとはしなかった。
「エロいこと考えてんじゃねーだろうな!?未成年相手に淫行とか、拙いんじゃねェーの?」
うん。
とっても拙いことはしている。
正直、初めて出会った日に車両内で二回射精させ、駅の構内やヨザックの車内で続けざまに何度も中出しし、マンションに連れ込んで一晩中抱いていたのだ。表沙汰になればタダでは済むまい。
しかしコンラートは毛筋ほども《淫行に及んでいた》なんて気配は滲ませず、真摯な眼差しでユーリを見詰めた。
「後ろめたいことなんて、何一つしていないよ。年齢も性別も越えて、一人の人間として素晴らしい子だと思っているから、人生のほんのひとときを擦れ違うだけでは満足できない…傍にいたい理由はそれだけだよ」
凛と張った響きの良い低音を持っていて本当に良かった。
無駄に感動的な演説に、イロモノ好きの女子ですら今度は声を押し殺して聞き入っていた。
「コンラッド…。お、俺もコンラッドのことすげェ人として尊敬してるし、大好きだよっ!」
感動しきった顔をして抱きついてくるユーリに《よしよし》と頭を撫でてやると、真正面から開けっぴろげに振る舞っていたのが後ろめたさを感じさせなかったせいか、囲んでいた生徒達の表情が少し変わった。
「いいなァ〜。そこまで言ってくれる人なんてなかなかいないよ?大事にしなよ、渋谷君」
「羨ましい…。でも、渋谷だったらやっぱりそういうのあるんだなァ。超がつくほど律儀でイイ奴だも〜ん」
ユーリの学校での人望が伺える発言が幾つも溢れて、コンラートの笑みは益々深いものになるのだった。
「みんな、ユーリを大事にしてくれてありがとう。とっても良い子でしょう?」
「うん。凄く良い奴だよ」
《褒め殺しだ〜》とユーリは真っ赤になって俯いてしまったけれど、そんな顔を胸元に抱き寄せて、また《イイコイイコ》と撫でてやる。
ナルタニはというと周囲の雰囲気に毒気を抜かれたのか、唇を尖らせて拗ねながらももう攻撃的な発言はしてこなかった。
「ねえ、ナルタニ君。学校でユーリを護って欲しいな。頼むね」
「何から護るってこともないだろうよ」
「いやあ。それこそ《教員×生徒》とか《上級生×下級生》とか色んな危険が学校にはあるだろ?相思相愛でユーリが本当に愛した相手となら良いけど、強姦とか、ましてや輪姦なんてことになったら危ないだろう?」
終わりの辺りは女子に聞かせられる内容ではないので流石に声を潜めたものの、声音に偲ばせた懸念はじんわりとナルタニに伝わったようだ。
「そういう危険、ない?」
「一回だけ…それっぽい雰囲気の時に資料室こじ開けたことある。扉が閉まってたから、ふざけたふりして戸板ごと外したんだ。こいつは気付いて無かったけど…。あれ、ほっといたら危なかったと思う。《巫山戯たんだ》なんて言い訳してたけど、普通資料室の鍵締めて、生徒にのし掛かる教員なんていねェだろ?」
おおおおおおおおおおおおおおおおお。
もう既に危ない事例発生してるじゃないか!
焦りを顔には出さず、優しく信頼感に満ちた眼差しを演出してナルタニの肩を叩いた。
「ありがとう。これからもユーリをよろしくね」
「あんたに言われなくたって、あいつがイイ奴なのは俺の方が知ってるし!」
「うん。そうだね…君は俺の知らないユーリをたくさん知っているんだね。羨ましいな。俺も同級生だったらな…」
これは本当に羨ましくて《ふう》と溜息をついたら、ナルタニはドヤっとした笑顔を浮かべてコンラートの胸板を叩いた。
「嘆くなよ、オッサン」
「傷付くなあ。俺はもうオッサンかい?」
「そういうのが渋谷の好きなタイプなら、俺こそ羨ましい」
何かを察知しているかのように、ナルタニは他の生徒には気づかれない様な小声でそっと呟くと、どこか共犯者めいた眼差しを送ってニヤリと嗤った。
「修学旅行、しっかり楽しんでね」
「あんたの知らない渋谷を堪能してやるよ」
一言嫌みを寄越して席に戻っていくナルタニは、どうやらコンラートが降りるまではユーリを譲ってくれる気になってらしい。認めてくれたのか、単に同級生としての《有利さ》を笠に着た上から目線なのかは微妙なところだ。
そして今度はそそそ…っとユーリが近寄ってきて、そっと耳打ちしてくれる。
《今度、二人でスキーに行こうね?》
ああ、そうしたらその夜にはしっぽりと学生さん達は知ってはならない君の貌を見せて貰おう。
真摯で清廉なコンラート・ウェラーの瞳に淫欲が滲んだのを、幸い、ナルタニ達は見ていなかった。
おしまい
あとがき
大好きなんだけど、実は続きが書きにくいという点に関しては「青空とナイフ」に近いものがあるこのシリーズ。
多分、どちらもコンラッドがむっつりスケベ(いま、むっちりスケベって打っちゃった)なので、腹黒後ろ向き欲情次男に比べると話が進みにくいんだと思います。 |