「俺を野球に連れて行って」
突然、つるっと異世界からやってきた護衛兼恋人を前にして、開口一番魔王陛下が口にした言葉は以下のようなものであった。
「コンラッド、野球観に行こうぜ!」
瞳を仔犬のようにきらきらと輝かせてそう言う魔王陛下は大変愛らしく、野球好きという点では共通の嗜好を持つ護衛兼恋人にとって、その提案はそれなりに嬉しくもあったのだが…ちょっぴり物足りないのも事実であった。
『もうちょっとこう…眞魔国ではできない《二人きりでしっぽり》的な雰囲気を期待するのは難しいのでしょうか?』
《難しいだろうな》…と、護衛兼恋人は思いながらにこにこと魔王陛下の提案にうなずいた。
ちなみに、河川氾濫から堤防を守るための指揮中に地球へと運ばれてしまったため、眞魔国では遭難者扱いになっているかもしれないが、そのことは考えないことにした。
* * *
「コンラッド!早く早くっ!」
電車から降りて球場が見えてくると、俄然張り切って有利は早足になってしまう。
遠目に球場へと吸い込まれていく観客達の様子や、売店の賑わいが見えてくる頃になると、その足取りは殆ど駆け足と化していた。
「ユーリ、そんなに駆けては転びますよ?」
「大丈夫だって!」
はしゃぎまくっている有利はご贔屓選手のレプリカユニフォームに身を包み、野球帽を被るという、正しい野球小僧の様態を示している。
それでなくとも幼く見えるその容貌は、上気したまろやかな頬とも相まってあどけないと表していいほどの愛らしさを呈していたが、口にすると確実に怒られるので…コンラートは賢明にも口を噤む。
「それにしても優勝争いの時期に、よくこんな良い席が取れましたね」
内野指定席のチケットに感心していると、有利はちょっと怖いことを言ってくれた。
「うん、それ本当は村田が貰ったんだよ。新聞の拡張員がくれたんだって。んで、俺と一緒に行く約束してたんだけど…コンラッドが急に来たから《一緒に行っても良い?》って聞いたら、《良いよ》って言ってくれたんだー!もー、村田様々だよ!なんか良いお土産買ってやんないとな!」
「ほぅ……」
結果的に、コンラートは村田が有利と二人きりで野球観戦するのを邪魔したわけだ。
お土産くらいで許してくれるのかどうか甚だ心許ないが、せめて少しでも心証を回復させておくことは重要だろう。
お土産選びをするコンラートの眼差しはかなり真剣だった…。
* * *
有利ご贔屓の某獅子マークチームは息詰まる攻防を重ね、好守備にも支えられて3−2としていたが、試合も最終回に入った9回表に、ここままで完投ペースで投げていた先発投手が1アウト満塁というピンチを抱えてしまった。
ワンヒットで一気に逆転…犠牲フライでも同点という場面だ。
「うわ〜…っ!が、頑張れっ!」
《燃えろ、燃えろ》の掛け声に合わせて応援団が中継ぎ投手の名を連呼するが、この場合、《燃えろ》は投手炎上をイメージさせてマズイのではないか…という発想を浮かべたものの、やはりコンラートは口を噤んでいた。
カキーン!
鋭い打撃音と同時に有利をはじめとする観客から一斉に悲鳴が上がり、敵チームからは歓声が上がる。
…が、それが一気に逆転した。
なんと、外野選手が凄まじい加速によって奇跡的に打球へと追いつくと、見事なダイビングキャッチを見せたのである。
芝生に滑り込んで殆どエビぞり状態になりながらも、決して落とすまじと打球を握りしめる選手に、奇声に近い絶叫が響き渡った。
「凄ぇ…凄ぇえええ……っ!うわぁ…うわぁ…っ!惚れちゃうよぉぉっ!!」
身を震わせて叫ぶ有利に、コンラートは大変微妙な笑顔を浮かべた。
もちろん…言葉のあやというか、その場の勢いで言っているのだとは分かっている。
だが、やはり自分以外の男に向かって(女でもそうだが)有利が《惚れる》などと口にすることは、心が狭い恋人にとってはちょっぴり腹立たしいことではあるのだった。
* * *
その後も2アウト満塁でまだピンチは続いているのだが、ピッチャー交代や、敵チームの代打指名によって少し気の抜ける時間が発生した。
先発投手が完投を逃したのは残念だが、守護神たるベテラン投手には信頼感があり、2アウトまでくれば幾ら満塁とはいえ何とかなるのではないかという期待感もふくらむ。
こういう時間には外野では柔軟をしたり、互いにキャッチボールをして肩を慣らす選手が出てくる。
グローブを手にした子供達はかしましく選手の名を呼ばわり、盛んに《投げて〜!》とアピールを示し続けた。時折、気前のよい選手がぽーんとスタンドに公式球を投げ込んでくれることがあるからだ。
選手が直接触れた硬球は野球小僧にとっては垂涎の品で、更にその球へサインを貰えたりすればちょっとした家宝になる。
有利も普段なら一緒になってボールを捕ろうとはしゃぐのだろうが、先ほどのプレイによほど酔いしれてしまったのか、応援に熱がこもって叫びすぎてしまったのか…ペットボトルを手に取ると、かなりぬるくなってしまったそれを飲み始めた。
「あ〜…染み渡る…」
目を閉じてうっとりと、水分が細胞の隅々まで行き渡るような感覚を楽しんでいると…ぱちりとあけた瞳の前にボールがあった。
「…っ!」
油断しきっていた顔面に、サービスのために投げ込まれたボールが直撃しかけたその時…俊敏に伸ばされた手ががっしりと受け止めて見せた。
「大丈夫ですか!?」
「コ…ンラッド…」
突然のことに呆然としてしまう有利とは対照的に、ボールを追いかけてきた子供達はご機嫌斜めだ。
「うわー、良いなぁお兄ちゃん」
「なー、くれよくれよーっ!」
ごねて地団駄踏む子供達と、コンラートから渡されたボールとをしばらく見比べていた有利だったが…申し訳なさそうに会釈すると、手にしたそれを更にしっかりと握りしめてしまった。
「ごめんな…これ、俺のだから」
「ちぇーっ!ケチーっ!!」
ブーブー言いながらも、子ども達はピッチャー交代を受けて歓声を上げる方に夢中になり、ボールのことはすぐに忘れたように応援を始めた。
「折角ですから、投げてくれた選手にサインでも貰いますか?さっきダイビングキャッチした選手ですよ?」
「ん…んー…いいや」
有利はふるる…と首を振ると、じぃ…っと上目遣いにコンラートを見つめた。
「あのさ…このボールに、あとであんたのサイン書いてくれない?」
「俺が…ですか?」
それでは価値が下がってしまうのでは?…と言いかけた先で、有利はにっこりと微笑んで言うのだった。
「だってさ…あんたが俺と野球に行ってくれたのと、俺を護ってくれた記念だもん。大事にするから…お願い」
《うきゅ》…っとはにかみながらおねだりしてくる有利を、拒否できる者などいるだろうか?しかもその瞳にはありありと《惚れ直したゾ》という想いが溢れて、ハートマークが浮かんで見えるのである。
コンラートは顔の下半分をさり気なく覆うことで、にやけてしまいそうな表情を誤魔化すことに成功した。
球場の頂天にはまんまるなお月様が掛かり、地上の喧噪を鷹揚に眺めているようだ。
《わぁぁぁ…っ!》ひときわ盛大な歓声が響き渡ると、7回に上げ損ねたらしいジェット風船と一緒に観客達が高く飛び上がったのだった。
おしまい
あとがき
2008年9月11日に某赤い市民球団の応援に球場へと赴きましたら、8回の表に同じような場面がありまして、ダイビングキャッチした選手がぽーんとボールをスタンドに投げ込んでくれたのですが…よりにもよって運動神経皆無の私と娘の間に飛んできまして、身じろぎできずに硬直していたら旦那さんが捕ってくれました。ただし、コンラッドのように格好良く目の前で捕ってくれたわけではなく、私と娘の間を抜けてベンチに当たって跳ね返ったのをキャッチしてくれたので、危うくどちらかに直撃するところだったのですが…。泥まみれの硬球をゲットできたのはとっても嬉しくて、これからその選手のことは前以上に応援しようと思いましたよ〜★出待ちしてサイン貰えたら更に良いんですけどね!(旦那さんのサインはいりません)
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